誰も知らない物語の始まり
「はーあ。疲れたな」
亜夜歌は思わずハッと周りを見回す。
何気なくつぶやいた言葉だが、思ったより声量が大きくなってしまったようだ。しかし、コンクリートの塀で埋め尽くされた道には誰もいなく、自分の足音だけが響いていることを確認した彼女は、ほっと息を吐いた。
櫻田亜夜歌、高校1年生。
入学して1ヶ月しか経っていないので、今日も学校に行かなくてはならなくて、毎日面倒くさい日々を送っている。
「あーやかっ」
後ろから、彼女の名を呼ぶ声が聞こえた。
振り返ると、亜夜歌の腰あたりまで長く伸ばした髪の毛先が肩に触れる。結ぶと跡がついてしまうのでそのまま垂らしていた。
「よ、おはよー」
「ああ、奈留也くん!おはようございます!」
誰もいないと思った後ろに、黒くて大きい、長い箱のようなものを肩にかけた少年が立っている。
真っ黒な髪がボサボサなのを除いて、スタイルも良く整った顔立ちの彼は初瀬奈留也。亜夜歌と同じ高校1年生で、通学路が同じ方向なので、こうやってたまに一緒に登校する。というか、彼の方から亜夜歌を追いかける。
「浮かない顔してるね、大丈夫?具合、悪い?」
「いえ、大丈夫です」
本当に、大丈夫。学校に行くのが面倒くさいだけ。
亜夜歌はそう言いたかったけど、サボり癖のある奈留也に『じゃあ休めば?』と言われそうで言えない。
「そっか。いきなり高校に入ったからさ、不安なんじゃないかと思って」
奈留也がこういうのには少し訳がある。
学年は同じ高校1年生なのだが、亜夜歌は13歳、奈留也は17歳なのだ。
亜夜歌はとても特別な理由で、日本に再び復活した『飛び級制度』を使って高校へと入学した。
奈留也は、そんな彼女をを心配している。
通学初日、校門で亜夜歌を見た奈留也が、どこでスキップの噂を聞いたのか、いきなり『キミ、本当は中学2年なんでしょ?』と声をかけたのだ。
亜夜歌は、中学に半分も行っていないのに高校に入ってしまったら、それはいじめられるものと思っていた。中学から勉強しなおせ、だとか、これだから中学生は、だとか、たくさん言われることを想像していたのだ。
しかし、奈留也は彼女の不安な気持ちを汲み取ったかのように語りかけた。当時の亜夜歌にはそれが信じられなくって、奈留也が輝いて見えたものだ。実際、彼はそのスタイルと顔立ちから輝いていて、入学5日目でもう、学校一のイケメンなどと言われていた。
実は奈留也も同じような境遇だ、と亜夜歌が知ったのは知り合って何日か経った後。12歳からアメリカ、本場で学んでいた彼は、今年になって日本に帰ってきた。しかし学校には高校2年からは入りづらく、止むを得ず1年生からやり直すことになったのだ。
「おーい!このり!」
今度は奈留也が前方の背の高い少女に声をかける。
「ああ、奈留也と、亜夜歌か」
一瞬びくっとして振り向いた彼女の名は望月このり。オレンジ色がかった茶色の髪を後ろで結わいている。亜夜歌とはショッピングセンターのフードコートで隣の席になったことがきっかけで少し仲良くなった。学校に入る前のこのりはパソコンばかりいじっている引きこもりだった。そのため普段は無口で怖い印象があるが、実際は人見知りなだけで、普通に女子高生がいくような可愛い系のお店で目を輝かせたり、亜夜歌を妹のように可愛がっている。黒い服を着ることが多いせいか、人が怖くてたまにその辺に隠れているせいか、しゃべり方が似ているせいか、くノ一のよう。
「もっちーさん、おはようございます!」
このりのことは、苗字の「望月」から「もっちー」と呼ばせてもらっている。このりがそう呼べ、と言ったのに、自身は呼ばれるとすこし恥ずかしそうにしている。
「今日はデュエル訓練ですよねー。楽しみです!」
このりはすでにイヤホンを装着し、1人の世界に入ってしまっていた。
「あのさあ、デュエル訓練を楽しいっていうのはお前だけだと思うぞ、亜夜歌」
奈留也は呆れたように言った。
「それに、いい加減その敬語はやめようよー。俺ら同学年だし」
亜夜歌はこれまでで毎日言われていることに、いつものように答える。
「だめです!奈留也くんは4歳も年上なんですよ?!男子生徒への「くん」付けは校則なので我慢してますけど、さすがにタメ口までは無理です!」
「頑固だなあ。このりも何か言ってやってくれよ」
別世界に行ってしまったこのりの肩をポンと叩いて奈留也が言う。
このりは、すこし考えた後、静かに言った。
「……まあ、いいんじゃないか?」
ずけーっと前のめりになる。そんな私たちをなんとも思わない様子で、このりは再びさっきいた世界へ戻って行った。
この時はまだ、誰も知らなかった。
壮絶な戦いがこれから起ころうとしていることに。