風邪
さよの自宅に誰かが尋ねてくる。
6
胡桃沢さよは布団の中にいた。時刻は午後の一時を回っていたけど、そんなの関係なく彼女は布団から出られなかった。頭が痛いし、体が熱い。全身にだるさがある。朝起きた段階で「あ、やってしまった」と自覚できるほど立派な風邪だった。
大学は休むことにした。友人に「休みます」とメールで連絡すると「帰りにお見舞い行くねー(^^)v」と返信が来たのが、今日さよが笑えた唯一の出来事。
一昨日、蓮見レイと関わってからさよの日常は激変した。翌日、大学に行けば急にたくさんの知らない人たちから声をかけられるようになった。
「レイと知り合いなんだって? 仲良くしてね」
みんな口をそろえてそう言ってきた。どうも蓮見が学部の友人たちにさよをよろしくと世話をやいてくれたらしい。人見知りの彼女からすれば驚きと戸惑いばかりだったが、そのことも伝えられていたらしく、誰ひとりそれを責めることもなかった。
結果としてさよは数名の友人を学部内にもつことになった。彼女は大学に入学した時、友達を作っている自分なんて想像できなかった。高校までは透という幼馴染がいたからなんとかなっていただけ。大学では無理だと諦めていた。それがこんなことになるなんて。
「……本当に、すごいなぁ」
さよは思わずつぶやく。蓮見は春川とは何か違う雰囲気を持っていたけど、信頼のされ方では負けていなかった。
ごろんと寝返りをうつ。体はだるいし、動きたくない。だけど午前中ずっと眠っていて、もう眠気はなかった。お腹が空いたけど、今は何か作る気にもなれない。空腹は空腹だけど、なんか食欲がないという病気特有の矛盾が体を支配していた。
額に張った冷却シートがぬるくなっていることに気づいたので、とりあえずこれだけ替えようと布団から出た時、インターホンが鳴った。
大学の授業はまだ終わっていないので友人じゃないのは確か。さよは少しクラクラする頭を抱えながら、パジャマの上に一枚上着をはおり、はいと返事をしながら扉をあけた。
「やあ」
そこにいたのは蓮見レイだった。驚きのあまり、扉をあけた姿勢のまま固まってしまう。
「君が風邪だときいてとんできたよ。どうだい、体の調子は?」
「ぁ。えっと、だ、……大丈夫、です」
「うん、大丈夫じゃなさそうだ。お邪魔するよ」
蓮見はさよに制止する間も与えず、家の中に入っていった。さよは慌てて扉を閉めてから、家の中に戻る。
「は、蓮見先輩、風邪、風邪うつっちゃいますよ」
「大丈夫だと思うよ、私、病気に強いし風邪って感染力はそこまでだし。キスでもすれば別だろうけど、する?」
蓮見が笑いながらそんなことを訊いてくるので、さよは顔を真赤にした後、首を左右にふる。そのリアクションが面白かったのか、蓮見はクスッと笑った。
「いいリアクションだよ。最近私のこういう冗談にみんな慣れすぎて面白くなかったんだ。春川なんて怒るし」
春川にもこんなことを言っているのかと、さよからすれば衝撃的なことをさらっと口にした蓮見の手にはビニール袋があった。この近所のスーパーのものだ。
「さよちゃん、君、お昼はなにか食べた?」
さよはまた首を左右に振る。その返答に蓮見は口をへの字に曲げた。
「だめだよ、ちゃんと食べて栄養を摂らないと風邪だって治ってくれやしないよ」
「ご、ごめんなさい……」
「ま、いいよ。動くのが辛いんだろう。だからこそ私が来たわけだし」
彼女はそういうと持っていたビニール袋をさよにみせつけるように持ち上げた。
「こう見えて、私というやつは家庭的でね。おかゆをつくってあげるから、君は布団で待ってるといいよ」
「そっ、そんなの悪いですっ。私も」
手伝いますと続けようとしたのに、その口を蓮見に塞がれた。
「病人はじっとしてなさい」
ちょっと厳しくそんなことを言われてしまい、結局さよは指示通り布団に戻って、蓮見の料理をじっと待つことになった。
蓮見さんも今日大学のはずなのにと思ったけど、そういえば学部の先輩たちが「ハスミンは大学にいる日が少ないから」といっていたのを思い出した。いないのにこんなに知り合いがいっぱいいるんだと驚いたものだ。
しばらくしてから、台所から蓮見が現れた。小さな鍋を自慢げに持っている。
「簡易的なおかゆだよ。病気の時はこれが一番さ」
テーブルをだし、そこに鍋をおいて蓋をあけると、おいしそうな卵粥ができあがっていて、思わずよだれが零れそうになる。
「おかゆを作るの久しぶりだったから、ちょっと不安だね。うちの家族、私含めて病気と縁遠くてね」
「ぃ、いぇ、おいしそぅです」
「そうかい。ほら、遠慮せず食べておくれ」
蓮見のすすめもあり、さよはおかゆを食べることにした。お世辞ぬきで、本当においしい。口に含んだ瞬間は熱かったがそれを忘れるくらいのさっぱりとした味が、口いっぱいに広がって、自然と箸が進んだ。
「ずっごく、おいしいです。料理が趣味なんですか」
「いいや。ただ家事は私の仕事でね。母上が家をあけていることが多いから。趣味ではないけど、得意ではある。一人暮らしなんだから君もうまいだろ?」
さよは小さく首を左右にふる。
「全然です。最近は毎日、インスタントとかコンビニとか、大学の食堂です」
「あのね君、そりゃあ体も壊すよ。これは先輩としての助言だけど、これから四年間、君は一人暮らしをするわけだから、ちょっとはそういう能力もつけないと。まあ、今はまだ大学になれるので精一杯か」
ちょっと怒られてしまった。蓮見さんでもこういうことを言うんだと、知り合って間もないのにそんな失礼な感想を持ってしまった。
「体が治ったら、私が教えてあげよう。ちょっとは力になれると思うよ」
「いっ、いえっ、そんなの大丈夫です」
「大丈夫じゃないから君はこうして風邪をひいているわけだけどね」
そう言われてしまうと後が続かなかった。教えてもらうのが嫌とか、面倒だとかそんなのではなく、単純にさよはこういう誘いを自然と断ってしまうという性格なだけ。
「君、まだ春川に自分のこと言ってないんだろ?」
「……はぃ」
「言わなくて正解だったかもね。彼女なら今の私くらいじゃすまないよ、ここに泊まりこむかもしれない。料理だって君がいくら断っても徹底的に教えこむよ、鬼のように」
さよは約三年前、春川と別れたあのシーンが思い出す。信じられないほど冷たい雰囲気を出した彼女から、告げられた決別の言葉。そこにはあの優しさは、ぬくもりはなかった。しばらくして春川は変わってしまったんだと受け入れた。いや、受け入れるしかなかった。
けど結局未だに未練があるのでここにいる。大学での春川を見ている限り、あれは以前の彼女だった。だからもし自分が風邪と知ったら、蓮見のいったようにしたかもしれない。
たださよは疑わしかった。本当にそうしてくれるのか。さよの中には未だにあの冷たい春川がいて、またあんな態度をとられるんじゃないかと怯えている。
「とにかく、教えてあげるよ。私の場合は優しいから安心するといい。授業料もとらないし。ああ、ただエプロンをつけるのが絶対条件だ。私はもう、それだけでいい」
蓮見が怪しげな笑みを浮かべて、さよはそれでまた風邪とは違う寒気を覚えた。なんだか遠慮とかではなく、単純に身の危険を感じるので断ったほうがいいんじゃないとかさよが思案したとき、蓮見が「うん?」と声をだした。
彼女はベッドの近くにある写真立てをみていた。そこにはさよが大切にしている一枚の写真が収められている。
「あれは君と春川と……」
「透くんっていう、私の幼馴染です」
「ああ、君のお話しに出てきた男の子か」
その写真は高校の入学式の写真だった。春川のあとをおって入学したさよと、まるでさよの付き人のように一緒に入学した透。そしてその二人に挟まれる形で、先輩の春川がいる。三人とも笑顔で、すごくいい写真だからさよはずっと大切にしている。
蓮見は写真を手に取ると、それをまじまじと見つめだした。
「君と透くんはとっても仲が良いんだよね?」
「ぇ、あ、はい。ずっと一緒でしたから」
「ふうん」
蓮見はさよが声を掛けづらくなるほど真剣だった。おまけにさよに聞こえない程度の小声で何かぶつぶつと呟きだしたのでどうしていいかわからない。
この写真に何かおかしいところがあるのかなと疑問を持ったが、そんなのがあるはずもなかった。さよにとって特別な思い出というだけで、それはどこにでもある一枚。
蓮見は急に写真を手にしたまま立ち上がった。その動作にさよはびくっと驚いてしまう。
「さよちゃん、これ、少し借りていいかな?」
「え、え、ええ、大丈夫です」
デジカメで撮ったものだからデータが手元にあったし、そもそもさよはこの写真をスマホの壁紙にしているので特に問題はなかった。
「そうかい、ありがとう。必ず返すよ」
「はい、お願いします。で、でも、どうかしたんですか?」
さよが質問すると蓮見は少しバツが悪そうな表情をした後、すぐにそれを取り消すかのように笑顔になった。
「いや高校時代の春川というのもいいなと思ってね。それに君も可愛いし」
「は、はぁ」
イマイチ納得のできない返答だったが、なにか聞き返しづらい。
「おっと。さよちゃん、申し訳ないけど私はこのへんで失礼させてもらうよ」
「あ、はい。今日はありがとうございました」
「いいよ。おかゆ、台所に作り置きをしてるから晩御飯もそれにしたらいいよ。見送りとかはいいから薬を飲んで休んでね」
蓮見はさっきまでそんな素振りは見せなかったのに急ぎだした。荷物をまとめるとさよに手を振って、部屋から出ていこうとしたが扉の前で急に止まって、振り向いて最後の質問をしてくる。
「よければ透くんの苗字を教えてくれないかな」
「透くんのですか? 上杉、ですけど」
「上杉透くんね。わかった、ありがとう」
蓮見が出て行くと家の中は一気に静かになった。さよからすれば謎だらけだ。蓮見はあの写真を見て何を思ったんだろう、透について何か気になっているようだったが。
しかしあまり深く考えられなかった。やっぱり頭が少し痛い。おかゆを片付けて、薬を飲んで布団に戻るとさよは微睡みに戻った。
7
その人物は一人でそこに立って、目の前の風景を見つめていた。そこには海があり潮の匂いがする風がその人物の全身をなでる。その人物はそれを受け止めてながら考える。
引き返せないところにきてしまったと、少し後悔している。こんなことになるはずじゃなかったと言い訳はできるが、それはしょせん言い訳で、それ以上のものにならない。
ため息をつき、どこで自分の計画が狂っただろうかと思い返すと思わず笑ってしまった。狂ったというのなら、それはもう最初、計画の第一段階だ。全く予期しないことが起きた。
今更そんなことを反省しても仕方ない。もうここまできてしまったのだから。
ポケットからある物を取り出す。折りたたみ式のナイフ。自らが犯行に利用したもの。今の今まで残していたのが間違いだった。ただ凶器を捨てるというのもリスクが伴う、それを回避していただけだ。
それを右手で強く握ると、助走をつけて、力いっぱい海に向かって投げた。しばらく宙に舞ったナイフが、ぽちゃんっとあっけない音をたて、波紋を作って海に沈んだ。
これでいい。まさか警察もあんな事件で海に潜ったりするわけもない。一つ、証拠が消えた。安心していいとは言えないが、不安材料が一つ減ったことは間違いない。
あとはもう何もできない。犯行が露見するにしても、しないにしても、あとはもう時に任せるしかなかった。神のみぞ知るといったところだった。
あとの不安材料は……言うまでもない。一人の女性、彼女だけだ。
くるりと海に背を向けて歩き出す。一筋の潮風が背中を押した。
久々にさよが登場。
そしてこれにて4章終了。




