決別
さよと春川の過去が明らかになっていく。
いつもは透と登下校していたけれど、その日透はまた休んでいた。そもそも彼は少し病弱だったから、さよとしては帰りにお見舞いにいこうと考えながら歩いてた時に、失敗してしまった。
廊下ですれ違いざまに三年の男子とぶつかってしまい、その生徒の持っていたペットボトルのお茶が、見事にその生徒にかかってしまった。
「おいっ! なにすんだよっ!」
即座に謝ろうとしたさよよりもずっと早くその男子が怒鳴って、さよはその恐怖で足が震え、口も開けなくなった。
「ふざけんなっ! なめてんのかっ!」
男子生徒の大声と怒りの形相にさよは声がでなくなり、ただその場に立ちすくむ形になった。怖いと思った、逃げなきゃと感じたのに、彼女は何もできなかった。
「なんか言えよっ!」
男子生徒がさよに掴みかかろうと手を伸ばしてきて、恐怖のあまり目を閉じた。しかし何も起きない。恐る恐る目を開けると、目の前に誰かの背中があった。
「一年生の女の子を怖がらせて、恥ずかしくないの」
その声で彼女と男子生徒の間に立ってくれているのが春川だとわかった。
「すぐにこの子に謝りなさい」
「どけよ春川。邪魔だ。てか、なんで俺が謝るんだよ、ざけんな」
「どかないし、ふざけてもいないわ。謝る理由が分からないの、相変わらず鈍いのね」
彼女の声はこの間の優しいものとは違っていた。どこか冷たさがあり、言葉には刺があった。
「はあ? この真面目野郎が。お前のそういうところ、本当にうぜえ。女だからって手ぇ出さないとか思ってんだろ? 調子のんな」
「調子に乗ってるのはどっちかしら。廊下で大声をだして、みっともない」
春川はそこでまた声音を変えた。さっきの冷たさが、さらに冷たくなる。
「もう一度言うわ。謝りなさい」
「嫌だって言ってんだろがっ」
「わかった。じゃあ、ちょっと耳を貸しなさい」
春川は男子生徒に寄って行くと、そばにいるさよにさえ聞こえない声で彼の耳元で何かささやいた。その瞬間、彼の顔色が変わる。さっきまでの怒りが瞬時に消えて青くなる。信じられないという表情で春川を見ていた。
とうの春川は笑顔になっていた。そしてもう一度繰り返す。
「謝りなさい。じゃないと……わかるわよね?」
男子生徒はどういうわけか、悔しそうな表情で春川を睨みつけていた。ただそれに彼女が怯むことはなく、まっすぐと彼を睨み返していた。そして「……悪かったよ」と、日頃のさよとあまり変わりない声量で謝った。
「声が小さいけど、いいわ。忠告しておくけど、二度とこの子に近付かないで。わかったわね?」
男子生徒は一回だけ頷き、そして足早にその場から離れていった。まるで彼女から逃げるように。
「まったく、世話のやける」
一度そうため息をつき、彼女はくるりと振り向いた。
「大丈夫? さよ」
「……あっ、えっ、は……はぃ」
さきほどの威圧的な冷たさはどこかに消えて、春川はいつも見かける彼女に戻っていた。その一瞬での変化に戸惑いながらもなんとか返事をする。
「気をつけてね。ああいう子、多いから。血の気が多いというか、単純とかいうか。とにかく思いやりが足りないわね。けど、あなたもダメよ。前見て歩いてなかったでしょ」
どうやら見られていたらしく、注意されてしまった。
「あなた、いつもうつむいて歩いてるわ。危なかっしいくて、ドキドキしちゃう」
「そ、それは……」
言い訳になるはずもない、人と目を合わすのが怖いなんて。
「透くんに聞いてるわよ、あなたの人見知りのこと」
どうやら春川は透とも知り合いのようだった。
「天性のものなのよね、あなたの場合。なにかきっかけがある子なら協力してあげられるのだけど、そうなると難しいわ。天性ってそういうものだし。なんというか、治すとか治せないとかじゃないのよ。あるかないかだからね」
それは春川に言われるまでもなく、さよが自覚して、絶望していた事実だった。みんな口をそろえて「いつか大丈夫になる」なんて言うけど、そうならないことは今もなんとなくわかっている。もちろん諦めたくないから、抵抗はするけれど。
ここまではっきりと言ってくれたのは春川が初めてだった。
「受け入れて、生きるしかなないのよ。だからね、さよ、まだ会ってそんな経ってないくせに偉そうなこと言うけどね――」
彼女はそこでさよの顔を掴んだ。決して痛くはしないように、持ち上げるように。強制的に春川と目を合わすことになった。いつもなら逸らすのだけど、できない。それは掴まれているからとかではなく、彼女の目線から直感的に逃げられないと感じたからだ。
「――生きていく覚悟しなさい」
それは当たり前だけど、さよがどこかで逃げていた言葉だった。
「治せないのなら、それを持って生きていくしかないわ。そこから逃げてはダメよ。あなたは逃げてる。受け入れようとしてない。いい、いつも透くんや私がいるわけではないわ。きついことを言うけどね、甘えてちゃダメよ」
甘えてる。……わかってた。周囲に、透に、自分に甘えている。
自然と涙が出てきた。声をあげることもなく、彼女の瞳から一滴ずつ涙がこぼれだし、それが頬に伝っていく。弱いなと自分でもわかってた。けど、今日はそれを思い知らされた。一人で帰ることもできないなんて、脆弱にもほどがあった。
春川はさよのなみだを拭き取り、彼女と目線を合わせるように膝を折った。
「泣かせるつもりはなかったんだけど……ごめんね。私が悪かったから、責任を取らせて」
思わぬ言葉にさよは泣きながら首を左右に振るが彼女はそれを無視した。
「あしたから図書室に来るといいわ。あそこは、あなたと私の砦にしましょう。なにか力になってあげる」
春川はその後も泣き続け、しまいには嗚咽まであげはじめたさよを慰め続けた。
結果としてさよはそれから春川になついた。彼女の誘い通り、毎日足蹴なく図書室に通った。そこでは春川と話したり、図書委員の手伝いをしたりした。決して、人見知りが治ったというわけではない。ただ、以前ほど人に恐怖を感じなくなった。
透は「春川先輩にさよをとられた」と何かよくわかないけど、そう嘆いた。そして時々部活をさぼってまでしてさよに同行しては、部活の先輩に連れ戻された。春川はその様子を「彼も大変ね」と笑いながら見ていて、さよが部活をどうしてサボるんだろと疑問を口にすると、絶句した。
「あぁ……これは大変ね、透くんに同情するわ」
結局、それ以上のことは言ってくれなかった。
そんな感じでさよはほぼ毎日を春川と過ごした。しかし当たり前だけども、月日は経ち、春川は卒業した。卒業式の日、彼女はあの日以上に泣いた。一緒にいた透が必死になだめてくれたけど、それでも泣いた。
「さよ、また会えるわ。そうでしょう?」
涙を流しながら、鼻もたらしながら、目を真っ赤にしてハンカチに顔を埋める彼女に春川はいつもどおりの優しい態度でそう問いかけた。必死に何度も、もう何度も頷いた。
春川が卒業してからさよはまた普通の生活に戻った。ただ違うところといえば、やはり一年前より人を怖くなくなったこと。
そしてさよは春川を追いかける形で彼女と同じ高校へ進学した。春川もそれに素直に、嬉しいと言ってくれたし、入学してからも中学のときのように世話をやいてくれた。それはさよにとっては至福と時だった。
一緒に進学した透は「なんだか、春川先輩に勝てる気がしない……」とこれまたよくわからないことを言っていた。
しかし、その時間は長く続かなかった。
一学期の終わりが近づいてきた頃、学校に不穏な噂が流れたからだ。春川は中学の時と変わらず、高校でもみんなに頼りにされていて、有名人だった。先生に意見を言えたりもしたから、中には彼女のこと「女王陛下」なんて呼ぶ子もいたくらいだ。
その春川が急に態度を変えたというのだった。みんなに冷たくなった、と。
丁度のその時、透が入院していた。彼はもともと病弱で、入院することも珍しくなかった。そしてさよは彼のお見舞いなどで春川に会う時間がなかったから、しばらく顔をあわせなくなっていた。噂が彼女の耳に届いたのはそんな時だった。
そんなことあるはずないじゃないと、珍しく物事に対して馬鹿馬鹿しいという感想を持ったさよだったけど怖くなって、春川に会いに行った。
「もう近寄らないで」
開口一番、そう冷たく言われた。今までの会ったことのない春川だったけど、それは確かに春川で、さよにはそれが何より信じられなかった。どうしてですかと問う間さえ、彼女は与えてくれなかった。
「私もう疲れたのよ。誰も彼も私任せ。いい加減にして欲しいの。だから、もう誰も相手をしないことにしたの。みんなも、透くんも……もちろん、あなたもよ」
立ちすくむさよに春川は心底うんざりしたような声で続けた。
「世話がやけたわ、あなたは……。もういいでしょ? いい加減にして。随分前に言ったわよね、甘えないでって。これでおわかれよ。さよなら、二度と会いたくないわ」
春川は言いたいことだけいうと、さよの返答など聞きもしないでその場から立ち去った。たちすくむさよを、まるで目に入らないという態度で無視して、戻ってくることはなかった。
さよはしばらくそこに立ったままだった。現実を受け入れられず、独り言みたいに「うそ、うそ」とだけ壊れた機械のように繰り返し呟いた後、涙を流し、静かに嗚咽し、次第にその声を大きくしていき、最後には号泣していた。
いつかの時のように、誰もその涙をふかず、慰めもしてくれなかった。
結局、それが春川との別れになった。
春川の高校時代のエピソードは以前紹介した『女王の剣』でわかります。
この作品に直接関与はしませんが、なぜ彼女が変わったか興味がある方はそちらを確認お願いします。
この作品よりずっと短いです。




