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リンネとエンマ、ローレンだけでも、何とかなるかもしれない。けれど、男がリンネ達にその能力を貸してくれたなら、マークの生命を繋ぎ留める確率はぐんと上がるだろう。
男は、リンネが知る中で最も腕の良い薬師だ。昔は、王宮専属の薬師で、数々の大戦で功績を上げている。それなのに、唐突に仕事を辞して、村の片隅のアバラ屋で生活を始めた変り者だ。
幾らお金を積まれたとしても、その人に必要ない薬は売らない。その癖に、貧しい子どもの為に高価な薬を惜しげもなく使ったりもする。
そうなのだ。先生は、興味のない対象にはとことん冷たい。顔色一つ変えずに、切り捨てることの出来る人だ。情がない訳ではない。それでも、時折ぞっとする程冷酷に、人を見捨てる。そうしなければ、生きては来られなかったから。だから、彼の何分の一かしか生きていないリンネが、兎や角言えるような事柄でないのは重々承知している。
だから、リンネは彼がマークに興味を持ってくれるようにと、言葉を探しては積み重ねていくしかない。
「彼が死んだら、白い結婚だったと言われて、私は王宮へ返される。そして、まだ誰かに嫁がされるのよ」
私に、まともな結婚相手を充てがわれると思う?
一生飼い殺されて、居ないものとして扱われたとしても、私を守ってくれる者はいない。
国内の貴族に嫁いでも、国外の王族に嫁いでも、結果は同じ。私は、あくまでも色物の王女だからと、生まれを侮蔑される。
そこに、自由などありはしない。それは、リンネにとって何よりも屈辱だった。
この部屋には、リンネと男以外に事情を知らない人間が存在している。事の当事者でない侍女と騎士はあくまでも傍観しながら、リンネに危害が及ばないように男に注意を向けたままだ。エンマは床の上で崩れるように、意識を手放したままだ。男の薬の効果もあり、睡魔が襲ったのだろう。顔色が良いとは決していえないが、呼吸は安定している。
これ以上、この場所でリンネが自分の立場を語ることは出来なかった。
リンネの生まれをよく知った男は、彼女の心情を察したのだろう。気まずげに頭をガシガシと無造作に掻くと、寝台へと視線を流した。
「魔獣と生命を引き換えに出来たなら、僥倖だろう。これ以上治療を続けても、彼の苦しみを長引かせるだけだ。彼の功績は、彼の親族にでも与えてやれば良い」
それは、男の薬師としての答えだ。リンネがいくら言葉を重ねても、男の考えは覆らない。ただ焦りだけが蓄積し、身体的な疲労が思考の邪魔をする。
抗いきれない程の睡魔に襲われていたリンネは、男が続けた言葉に冷水を浴びせられたように固まった。
「それに、ローレンだったか?お前にも、その権利があるだろう。お前にリンネが嫁げば良い」
男は、ローレンの方へと視線を送っているため、リンネの土気色の顔色に気付いてはいない。急に、とんでもない話を振られたローレンも、初めは戸惑っていたが、悪びれない男の様子にふつふつと怒りが沸いていく。
「どれだけ私を侮辱するの!私は、ただ……ただ、普通の人間として扱われることを、望んだだけです」
リンネの剣幕は始めのうちだけで、段々と声が小さく萎んでいく。肩を震わせて、頬を怒りで真っ赤に染まらせて憤るリンネを見返して、男はただ一つの溜息だけで答えた。
この茶番がいつ終わるのだろうかと。