ファミレスで
ファミレスで
キッカケは、些細なことだったのだ。どこにでもあること。2~3日経てば、忘れてしまうようなこと。
でも、それを彼らは逃してしまった。そして、3年という重みもあった。いまさら何を言ってもはじまらない。全て終わったことだ。
その日、幸子は、雄介と軽い口論をした。
合コンで知り合って意気投合。その後、2ヶ月ほどして雄介から告白され、付き合いだしたどこにでもいる普通のカップル。ほどほどに幸せで、ほどほどに不幸だった。口論なんて付き合いの中のひとつにしか考えていなかった。二人ともそのときは。
出不精でいつもは、なかなか家の外に出たがらない雄介が、その日は、珍しく幸子を外へのデートに誘った。もちろん、幸子はうれしくないはずはない。デートの数日前から洋服を選び、香水を選び、当日はいつもより気合を入れたメイクをした。全てはひさしぶりの出来事だったから。
だが、楽しい一日になるはずのデートは、朝から失敗の連続だった。まず、雄介が約束の時間に遅れてやってきた。幸子は、待ち合わせ時刻から10分たったところで、雄介に連絡をした。だが、何回かけても留守電になるばかり。それからも3分に一回は、幸子は電話をかけ続けた。きっと携帯がなる音に気づいていないだけなのだろう、と。
雄介が待ち合わせ場所に現れたとき、たっぷりと2時間は、経過していた。何はともあれ、幸子は雄介に遅れた理由を尋ねた。電車が遅れたのか、誰かが急に家に訪ねてきたのか。だが雄介の答えは
「本屋で立ち読みをしていたら夢中になって離れることができなかった」
という、世にも馬鹿馬鹿しいものだった。あきれ果ててそれ以上、追求するのをやめた幸子の態度を見て、雄介は許してもらえたと思ったらしい。どこにでもそういう人間はいるものだ。冗談を褒め言葉に、相手にされないことを幸せに思う人間が。そして、不幸なことに雄介もその一人だった。
待ち合わせは、10時だったのに雄介の遅刻でもう時計の針は、12時をさしている。とりあえずどこかでランチをしようということになり、幸子は以前、雑誌に紹介されていたとあるイタリアンのお店に行きたいと主張した。気合の入った洋服に香水、それにメイク。こんな格好でラーメン屋などには、入りたくない。
雄介も依存は、なかったらしく、二人はイタリアンのお店へと向かった。だが、幸子はマスコミを甘く見ていた。よく晴れた日曜日、そしてハッピーマンデーなどという馬鹿げた連休制度のせいで、明日も会社は休み。そんな人々で店内はもとより、店の外まで行列ができていた。
「俺、別のところに行きたいんだけど。ここまで並んで食う価値があるわけ?」
何事に対しても、よく言えばおおらか、悪く言えば無頓着な雄介が言う。幸子は、その言葉にまるで小さな魚の骨が喉にひっかかったような違和感を感じたものの、現にお腹は空いている。しかたなく、近場のファミリーレストランに昼食の場をうつすことにした。
二人が向かったファミレスは、おいしいとは言えないが、食べられないほどまずくはない。なにより客の回転率がいいので、並んでいてもすぐに食べられる。その理由で過去何度か利用したことがあった。
ハッピーマンデー(何度聞いても嫌な響きだ)の影響でファミレスも人が多かったが、出て行く人間も多い。幸子と雄介は、すぐに席に案内された。当然、禁煙席である。
実は、雄介は以前は、ヘビースモーカーどころか、チェーンスモーカーだった。軽く1日に3箱は、吸っていた。しかも、今はやりのタール1mgなどというものではなく、もっとタールの多いものだ。幸子は、何よりもタバコが嫌いだった。まず、体に悪い、匂いが染み付いたらとれない、そして『自分が』迷惑をこうむる。
幸子はそんな女だった。いくら家族でも恋人でも、一定の距離を置くようにしていた。いつからそうなったのか分からない。別に彼らのことが嫌いではない。むしろ大好きで愛している。だが、距離を置く。巨大ロボットに14歳の少年が乗せられ、その少年の成長過程を描いていくという、社会現象まで巻き込んだアニメに出てくる台詞ではないが、心理学ではこういうのを「ヤマアラシのジレンマ」と言うらしい。
ヤマアラシは、全身を棘に覆われている。だから、寄り添えば寄り添うほど相手を傷つけ、また自分も傷ついてしまう。だから、近寄れない。
そんなまず『自分が』大好きな幸子が告白してきた雄介に提示した、たった一つの約束は「タバコをやめること」だった。
20歳になる前から、いや、それどころではない。中学生のときからタバコを吸っている雄介にとって、タバコと自分の生活は、切っても切り離せない。まるで空気を吸うようになくては、ならないものだ。だが、好きな人間とタバコどっちを取るか、二者択一を迫られた雄介は、幸子を選んだ。幸子は、素直に喜んだ。今度こそ、「ヤマアラシのジレンマ」から逃れられるかもしれない、と。
禁煙席でそれぞれメニューを選び、幸子が先にサラダバーに立つ。雄介は、その間、テーブルの前で荷物を盗られないか見張っている。これもいつものことだった。雄介から告白した、というのもあり、雄介は、大抵のことは幸子に譲って自分は、後からするようになっていた。
やがて幸子が皿いっぱいのサラダを手に戻ってくると、幸子は雄介が戻ってくるのを待つこともなく、さっさと食べ始める。これも毎度のこと。雄介もいちいち気にしたりは、しない。幸子は、食べたいから食べる。それのどこがおかしい? そう思う。
そうこうして幸子がサラダの3分の1ほどを食べたところで雄介がテーブルに戻ってきた。
「いやー、もうサラダが残り少なくなってて焦ったよ。俺、コーンがすきなのにそればっかりなくなっててさ・・・」
そう言ってふと目をやると幸子のさらには、山盛りのコーンが乗せられている。雄介がコーンが大好きなのを知っているはずなのに・・・。だが、雄介は何も言わない。
気まずい雰囲気を打破しようと(少なくとも雄介は、そう思っている)二人は黙々とサラダを食べ続けた。
だが、ずっと無言でいるのもだんだん限界が近づいてくる。雄介は、意を決して
「なぁ、あそこにいる女の子かわいいな」
幸子がその方向に目をやると、両親と一緒に来ているであろう、3歳くらいの男の子がこっちを向いていた。
一重で決して大きくない目、低い鼻、そしてえらの張った顎、典型的なモンゴロイドの顔だ。そっと両親を伺うとあいにく、父親の顔しか見えないが、父親もその子供と全く同じ顔立ちをしている。なるほど、ルーツが分かるというものだ。
「ふーん。あれのどこが?」
幸子は吐き捨てるように言うと、再びサラダに熱中しはじめた。
雄介は内心、しまった、と思ったが後のまつりだ。幸子は、なにより子供が嫌いなのだ。煩く、わずらわしいだけの存在と言う。だから、絶対に子供は、生まないとも。
幸子は、パッと見たところ、やさしげな顔に150cmと小柄で中肉中背。いかにも子供好きに見える。そのため、本人曰く
「よく子供好きに見られる」
そうだが、本人は、反吐が出るほど子供が嫌いだと言っていた。そのことをうっかり雄介は、失念していたのだ。三度サラダを突付きだした幸子にもう、雄介は、言葉をかける勇気を失っていた。そうこうするうちに皿の上のサラダもだんだんなくなってきている。
食事が運ばれてくるまでサラダが持てばいいが・・・、雄介は、内心冷や汗をかきつついつもよりゆっくりとサラダを食べる。
いくら鈍感な雄介とは言え、今の雰囲気が決してよくないものでは、ないくらい理解しているつもりだ。
そこへ、天からの声のように店員のマニュアル言葉が降ってきた。が、次の瞬間、彼はまた凍りついた。
「こちらサーロインステーキセットになっております」
そう言うと店員は、何も聞かずにそのセットを雄介の目の前に置き、立ち去っていったのだ。
二人が注文したのは、煮込みハンバーグセットとサーロインステーキセット。普通なら女が煮込みハンバーグを食べると店員は、考えたのだろう。だが、サーロインを注文したのは、実際は幸子であった。
見た目、幸子は少食、雄介は大食いなのだが事実は逆だった。そして、このような「取り違え」が度々を起こり、そのたびに彼女は不機嫌になる。
「女が大食いじゃいけないの?」
と。
決して店員に非は、ない。常識的に考えてそう思えるからそうしただけだ。だが、幸子にとってそれは納得がいかない。
しかも、今日は、雄介が遅刻したこと、イタリアンを食べ損ねたこと、子供がいること、それをかわいいと思わせようと雄介が言ったこと、全ては、ささいなことだlたが塵も積もれば山となる。雄介の目の前からまるでひったくるようにサーロインステーキの皿とライスとスープを奪い、彼女は貪るように食べ始めた。まるで料理に怒りをぶつけるように。
雄介は、もう内心祈るしかない。幸子がこうなったら誰にも止めることができないのだ。普段は、温厚な幸子だけに怒りが爆発したときの衝撃は、大きい。せめてこの料理を食べることによって怒りが収まりますように・・・と願う雄介の想いをあざ笑うように、時計の針は、時限爆弾へのカウントダウンをはじめいた。
まず、幸子は、大食いの上に早食いなのだ。だから、運ばれてきたサーロインステーキセットもさっさと食べ終えてしまった。それなのにまだ雄介の注文した、ハンバーグ煮込み定食がやってこない。幸子が口には出さないものに「煮込みなんて時間のかかるものを注文するから」と幸子の目が言っている。
雄介は、まさに蛇に睨まれた蛙である。まるでがまのように脂汗と冷や汗を流していると、やっとのことで煮込みハンバーグが運ばれてきた。そして、同時に幸子の食べ終えた皿も下げられた。ますますまずい。幸子の目は、まるで自分を脅すように見える。早く自分の料理を食べ終えて、さっさと外に出たい雄介だが、なにしろ「煮込み」ハンバーグだ。熱くて早く食べることができない。しかも、雄介は、猫舌ときている。雄介は、料理を注文したときの自分を呪いつつ、ハンバーグと決死の思いで格闘した。
するとまたまた雄介にとって災難が起こった。食事が来る前に雄介が「かわいい」と評した、ガキ・・・もとい、子供が泣き喚きだしたのだ。店内には、大勢の客がいる。なのに親は、宥める気配は、全く無い。
幸子は、子供嫌いだが、子供の躾をしない親も大嫌いときている。幸子の心の中でマグマがどんどん吹き上げてくるのが、手にとるように分かる。「頼むから泣き止んでくれ・・・」祈るが子供にも、それどころか親にも雄介のテレパシーは、きかない。
幸子は、まず子供を、次にその両親、そして最後に雄介をにらみすえた。こうなったらもう全てはおしまいだ。
今、雄介にできることは、ハンバーグを口中やけどしても、食べ終えて、幸子を気分転換にどこかに連れて行くまでだ。
食べても食べても減らないハンバーグ格闘すること約10分。やっとの思いで雄介は食べ終え、食後の余韻にひたる間も与えず、幸子は、さっさと席を立つ。あわてて雄介も彼女を追う。
レジでお金を払うときに彼女は、すでに店外に出ていた。それなのにレジ係の店員は、律儀にマニュアルどおりに
「ご一緒でよろしかったでしょうか?」
と聞いてくる。うなずいてズボンのポケットから財布を出しつつ、雄介は幸子が外に出てくれていることにホッとしていた。
日本文学を専攻している彼女は、こと日本語に厳しい。今も彼女がいれば
『なにが「よかったでしょうか」なのよ。過去形じゃない!』
と怒っているに違いない。誰だかわからないが、とにかく何かの神様、あるいは得体のしれないものに感謝して、雄介は、支払いをすませて外に出た。
もう、10月も終わりだ。真夏のような暑さは残っていないものの、日中はそれでも暑い。そんな中、幸子は日陰で雄介をまだ蛇の目をして待っていた。幸子にとっては、熱い屋外のほうが、うるさい店内よりよっぽどよかったのだろう。
雄介が出てくるのを見ると、またもや幸子はさっさと歩き出した。もう、今日は幸子に主導権を任すしかない。下手に手を出すと、それこそ藪蛇だ。幸子の後ろ1mくらいを歩きつつ、どうしたら幸子が少しでも機嫌を直してくれるか雄介は考えていた。すると手が自然とシャツの左のポケットに伸びていた。
幸子と付き合う条件として、彼女は禁煙をあげた。雄介は、それにしたがい、この半年間、一本もタバコを吸っていない。最初こそ苦しかったものの、今では大分慣れてきた。そんな彼の禁煙方法とは、「いつでもタバコを吸える状況にしておく」ことである。
タバコを自分の周囲から完全に無くしてしまうとかえって禁煙は、成功しない。いつでも吸えると思ったら吸わないものだ、という説を以前、どこかで聞いたのだ。そのときは、チェーンスモーカーだったから、気にも留めなかったが、今になってみるとよく分かる。
タバコを吸わない人間だって、たとえば自宅近くにある名所には、なかなか行かない。「いつでも行ける」と思うからだ。禁煙だってそれと同じだ。
だが、その日の雄介のタバコは、禁煙するためでなく、「喫煙」するためにあった。幸子の怒りをどうにか静めないと・・・と思っていたら、いつの間にか半年間のブランクを越えて、ついタバコを吸ってしまっていたのだ。まずい! こんな姿を幸子に見られたら、どう言い訳をしたらいいのか分からない。とにかくゴミ箱に捨てないと・・と思ってあたりを見渡すが、こういうときに限ってゴミ箱がない。
どうしよう。最悪の場合、手でタバコをもみ消し、ポケットに放り込もうかとも考えたが、それは正気の沙汰ではない。では、道路に捨てるかと思っても、雄介には元喫煙者で中学時代はともかく、高校のときから守っているルールがある。それは
「ポイ捨てをしない」ことだ。
チェーンスモーカーの自分が言うのもおかしいが、と思うがせめてもの雄介なりのポリシーである。
そうこうするうちに時間は、どんどんすぎてゆく。いつ幸子は、振り返るか分からない。それまでにどうにかゴミ箱を・・・、そう思った刹那、幸子が振り向いた。
「ごめんね。なんか私、今日ちょっとイライラし・・・」
そこで幸子の言葉は、動きは止まった。
彼女の目は、雄介の一点、つまりタバコを挟んだ指に注がれている。
もう終わりだ・・・。雄介はそれでも
「いや、あの、これには・・・」
などと抵抗を試みるが、爆発した彼女を抑えることなどできやしない。
「なによ! タバコやめたんじゃなかったの!!」
そう詰め寄られ雄介は
「いや、ほんとにやめてるよ」
「じゃあ、なによ! その手にあるのは!!」
「いや、だから、ちょっと気分転換に・・・」
「なにが気分転換よ!! こっちこそ気分転換したいんだからね!! 朝から2時間も待たされて!!」
それを言われると雄介はつらい。いや、はっきり言ってファミレスでのことで頭がいっぱいになり、自分が立ち読みで遅刻したことなど忘れていた。
「あんたが2時間も遅刻するからイタリアン食べれなかったんだからね! どうしてくれるのよ!!」
またもや、痛いところを突いてくる。しかも、当たっているだけに反論できない。
どうするべきか・・・。雄介は、頭をフル稼働させる。でた結果は「逆ギレ」だった。
「仕方ないだろ。俺だって好きで遅刻したんじゃないんだから」
「なによ。その態度! 自分が遅刻したんだから、きちんと謝りなさいよ! しかも、あんたの遅刻のせいでファミレスなんかに行くハメになったんだからね!! 私があそこでどれだけ嫌な思いしたと思ってるのよ!!」
「いいじゃ、ねーか。ちゃんとメシ食えたんだしさ。お前だってサーロインうまそうに食ってたじゃねぇか」
「そういう問題じゃないの! あんたが遅刻して、イタリアンに行けてたら全てうまくいってたって言いたいのよ!! あんたっていっつもそうなのよね。向上心がないのよ!!」
その言葉にさすがの雄介も本気でカチンと来た。もともと雄介は、工業高校出身でそのままブルーカラーの職場につき、相反して幸子は、お嬢様学校と名高い短大で日本文学を専攻後、地元では勝ち組といわれている銀行に勤めている。普段から、口にこそ出さないが、密かに彼なりにひけめを感じていたのだ。
「なんだよ! 向上心って。俺だってきちんと自活してるじゃねーか。それをたかだかメシのことでとやかく言われたくねえよ」
「それが向上心がないって言ってるの! 向上心がある人はね、ちゃんと私のいうことを聞いて、イタリアンだって待ってくれてたはずよ! それをあんたは、行列を見ただけでファミレスなんかに変更したじゃない!!」
「お前だってファミレスでいいか?って聞いたら、うん、って言ったじゃねぇか。全部の責任を俺に押し付けるなよな!!」
「じゃ、なに!? 私が悪いって言ってるわけ?」
「誰もそんなこと言ってねぇだろ。俺は、お前が腹が減ってるだろうと思ってファミレスに誘ったんじゃねぇか!! ファミレスが嫌なら嫌ってちゃんと言えよ!!」
「仕方ないでしょ! 雄介がファミレスがいいって言ったんだから!!」
・・・こんな不毛な言い争いが軽く見積もっても3時間は、かかった。要は、お互いに言いたいことがあったが、別れるのが友達の手前嫌で、うわべだけの付き合いをしていたということだ。
本当のカップルならここで新密度が上がるのだろう。だが、幸子と雄介は、本当のカップルではなかった。
幸子が水なら雄介は油。幸子が白なら雄介が黒。それだけのこと、所詮は生き方が違う二人が、合コンという一種、強迫観念さえ漂う場所で、お互いに暖かさを求めて「付き合っているフリ」をしていたのにすぎなかったのだ。
結局、その日をおいて二人は、別れた。
それから3ヵ月後、別の男と一緒に例のファミレスに幸子の姿があった。雄介の前では見せたことがないような、飛びきりの笑顔で。
幸子は話し始める。
「あのね、真吾と付き合う前にもここに来たことあるんだ」
「へー、誰と来たの? まさか、男?」
「うん。そう。でもね、真吾とは、全く正反対のダメダメなやつだったの」
そう言って幸子は、笑う。雄介とあの日、座ったのと同じ椅子の上で。
「サラダバー行ってくるね。荷物見てて」
「うん。いってらっしゃい。早く戻ってきてね」
「はーい」
そして、残されたテーブルには、一人頬杖をつく、幸子の姿があった。