その名は
最終話です。よろしくお願いします。
棗は毎日のように森へ通い、ケイと同じ時を共にした。光輝く池の畔で他愛の無い話をしたり、森の中を探索したりと一日一日が瞬く間に過ぎていく。
梅雨の時期に入り、雨が降る事が多くなったが、幸い夕方になると雨は上がり難なくケイの元へ訪れる事が出来た。
「日頃の行いだね。」
ケイの言葉に棗は笑った。小さな喜びが大きな喜びとなり、やがて胸一杯に広がっていく。
雨露にホタルの光が映り、棗の頭は灯籠の灯りを連想させた。
「梅雨が終わったら、いよいよ夏ね。」
「棗は夏が好きかい?」
「ええ、好きよ。」
葉についた雨露に触れながら棗は口を開いた。
「私の名前は、夏に芽をだす“棗”からもらったものなの。暑い夏にも負けずに育って欲しいと言う母の願いから付けられたのよ。」
「君にぴったりだね。」
声を出して笑うケイに棗は口を尖らせた。
「そんなに頑丈かしら?」
「芯が強いって言ったんだよ。」
ケイの上手い言い回しに棗の口元は緩み、二人は顔を寄せて笑い合う。
「母を思い出すわ。」
身体が弱かった母は自分の分まで丈夫になって欲しかったのではないか。今となっては本人の口からは聞く事は出来ないが棗は自分の名を聞くと時折そう思う。
「ケイは?夏は好き?」
淡く黒い瞳を覗きながら、棗はケイに聞いた。二人の間に少しの間、静寂が流れ風が通り過ぎていく。
「好きだよ。」
凛とし、優しく、そして何処と無く寂し気に微笑むケイの姿に胸の音が波打つ。
「棗が好きと言うならね。」
何を想い、どのような気持ちで言葉にしたのかその時の棗には分からなかった。只々、いつまでもこの愛しい時間が続けばいいと思っていた。
―音もせで思いに燃ゆる蛍こそ、鳴く虫よりもあわれなりけり―
ケイの紡ぐ旋律に乗るようにふわりふわりと蛍が舞う。
「あと一週間・・・いや、三日かな。」
透き通る自分の掌を眺め、空を仰いだ。厚い雲が覆い小さな稲光が小刻みに走り去っていく。
梅雨は終わりに近づき、生命溢れる夏がすぐそこまで来ている。
「・・・あの子は泣くだろうか。」それとも怒るだろうか。可愛い頬を膨らませながら“何故もっと早く言ってくれなかったの”と。
言えるわけがない。
ケイはふっと笑い、ホタルに手を伸ばした。
「僕の願いを聞いてくれるかい。」
数少なくなったホタル達はケイの周りを優しい光で包んでいった。
『祭りに行こうか』
ケイが突然言い出したのは昨日の事。今の時期、この付近で祭りが催されると言うのは聞いた事がないが、ケイと共に出掛けられる嬉しさに棗の心は踊った。
カラコロと下駄の音が鳴り響く。母の浴衣があったら、と言うことで家の箪笥を引っくり返し探しあて、ケイの所望の品を身に付けた。白地に淡い紫色の花が描かれた浴衣。ケイに見せることに躊躇いと願望が交差する。
ホタルの後を追い、歩みを一歩ずつ進める度に心臓が大きく音をたてていった。ホタルが入り込んだその先は、いつもの光輝く池の場所。しかし棗は少し違和感を抱いた。その違和感の糸を探ろうとした時、棗の耳に声が掛かる。
「棗?どうしたんだい。こっちへおいで。」
池の畔にいつものように腰掛けるケイの姿が一瞬探し当てられなかった。しかし今、彼は此処に居る。小さな棘を感じながらも、棗は頭を振り、彼が座る場所に近付いた。
「うん、綺麗だね。思った通りだ。」
ケイは満足そうに笑う。ほっとすると共にほんのりと化粧をした頬が熱くなるのを感じた。そんな彼女をケイは愛しく見つめ、目を瞑る。
「棗、約束を覚えているかい?」
「ええ、勿論よ。」
何故今その事を聞くのか、首を傾げながら答える棗にケイは柔かに口を開いた。
「一つ」
「・・・此処の事は他の人には秘密にする事」
「二つ」
「ケイやホタルの側を離れない事」
「三つ」
「笑う事」
よく覚えたね、と微笑むケイは棗の前に手を差し出した。触れたくても触れる事の出来ない儚い手。
「これから君に奇跡を贈ろう。」
ケイと棗。二人の周りにホタル達が集まり光を灯していく。その途端、突風が吹き思わず棗は目を閉じた。纏わりつく風を感じながら、直接頭の中に響いてくる祭り囃子の音を見つける。風が止み、棗は少しずつ目を開けた。
「わぁ・・・」
目の前には、幾つもの屋台が連なっており、提灯が淡い光を放ち、夜の闇を優しく照らしていた。活気溢れる多くの人々が祭りを盛り上げている。
「・・・すごいね。」
圧倒されたような、懐かしむような声をあげた子どものようなケイに可愛さを感じ笑いを含む。そして、ごく自然に繋いだ手に驚きを覚えた。
棗の手よりもしっかりとした大きさの温かい手。
声が出ない棗に気付き、ケイは悪戯をした時のように口の端を上げる。
「さぁ、行こうか。」
ぐいっと棗の手を引き、ケイは明かりが灯る世界へと導いた。
『綿あめ』『ヨーヨー』『ソース煎餅』『型抜き』
『ガラス細工』『今川焼』『金魚すくい』『リンゴ飴』
賑やかな笑い声、人々の活き活きとした顔、そして出来ることならいつまでも繋いでいたい温かな手。
胸の中に咲いた花が、今も尚、身体中に広がっていく。締め付けられる程の緊張と幸福を棗は哀しい程感じていた。
―夢はいつか醒める―
「ケイ、早く!花火が上がってしまうわ。」
「君は元気だねぇ。」
散々歩き回った二人は、花火が上がる方へと足を進めていた。
「第一、花火は遠くからの方がよく見えるんじゃないかい?」
流石に疲れた足取りをしているケイの手を引きながら棗は更に歩みを早める。
「人が多いけど、真下でみるのも絶景よ。」
行き着いた先には多くの人が空を見上げていた。雲一つない澄み渡る星空。まだか、まだかと皆が期待に満ちた表情を上空へと向けている。
棗はこっそりとケイを見た。清々しい空気を纏うケイに少しほっとする棗。もうすぐ花火が打ち上がる為か、祭り囃子の音はいつの間にか聴こえなくなっていた。
ケイの手を握る力が自然と強くなる。
「棗?」
ケイが身を屈め、棗の顔を覗き込もうとした瞬間、閃光が上空へと舞い上がり、轟音と共に花火が大空に放たれた。
一斉に空へと目を向ける人々。賑やかな会話は止み、一心に空を見つめ花火を愛でる。
打ち上げられた花火は、暗い闇に光を灯し、一瞬にして姿を消していく。
「本当だ。近くで見る花火もいいね。」
ケイも棗の手を先程よりも強く優しく握り返す。
「まるで大きな花に包まれているようだ。」
いつものように柔らかく笑みを向けるケイ。その時、棗の瞳から涙が零れ落ちた。
「何故泣くんだい?」
「・・・わからないわ」
ケイは優しい表情のまま、涙を伝う棗の頬に唇を落とし、そっと抱き寄せた。
「・・・行ってしまうの?」
「うん」
短いが、沢山の想いが込められた返答に棗の涙が溢れていく。瞳が揺れ、世界が揺れていく。すると、少し離れた場所に二つの見慣れた人影を見つけた。棗と同じ白地に淡い紫色の花が描かれた浴衣を着た若い女性が男性と仲睦まじそうに寄り添い笑い合っている。
「見つけたかい」
その姿はまるで蜃気楼のようにゆっくりと消えていってしまった。
「父と母が居たわ。」
ケイの胸に顔を埋め、身体を預ける。幸せそうに父の隣に立つ母の顔。自分も先程、そうであったのかと考えると、少しだけ恥ずかしくなった。
「此処は棗の着ている浴衣の記憶の中だよ。最後に会わせてあげたくてね。ホタルの力を借りたんだ。」
“最後”という言葉がひどく重く感じたが、棗を想うケイの心が嬉しかった。
「ありがとう。」
「会えるかどうか分からなかったけどね。」
ケイは棗の髪を手で梳き、愛しく棗を抱きながら優しく、優しく雫を落とした。
「好きだよ。」
その雫は棗の身体に広がり痛い程、胸を締め付ける。温かなケイの体温を感じ、顔を埋めながら棗は口を開いた。
「・・・私も、好き・・・」
ふっと笑うケイは棗の顔をそっと上げた。
「顔を見て言って欲しいな。」
意地悪い表情を浮かべるケイに自然と笑みが溢れた。
「ケイが、好き。」
「僕もだよ。」
唇を重ねた後、もう一度優しく包み込むように抱き締めるケイの身体は光を帯び、透き通っていく。
―君の笑った顔が一番好きだよ―
最後にそう聴こえた気がする。温かな体温と心地良い鼓動を残し、棗は池のある森へと戻って来た。只、ホタルは、ケイはもう此処にはいない。
愛しく幸せな日々を思い出し、棗は再び涙を落とした。
翌日から雨が降り続き、大きな雷が唸り声をあげ、長き梅雨が明けた。
暑い夏がやって来る。母の付けてくれた名と大切なあの人の想いを胸に、棗は息を吸い背筋を伸ばした。
『私は棗。あなたは?』
『・・・僕の名は、螢。』
『蛍の光』つたない文章でしたが、最後まで読んでくださり、ありがとうございました!!!