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妖虎

作者: 小川かいた

3作目のアップです。よろしくお願いします。

『私はこれを、私がもしもの時に後の者の参考となすため、そして私の妻のために書こうと思う。


     ※    ※


 あの日は雨音がぽつりぽつりと聞こえていた。私が書斎で書物を紐解いていると妻が入ってきた。

「あなた。あの、陛下のお使いの方がお見えになっていますが」

 妻がおずおずと話した。顔をみなくても、声だけで不安げな様子がわかる。

「ん・・・通してくれ」

 やって来たのは皇帝陛下の側近の一人であった。私がまだ宮仕えをしていた頃、幾度となく出会っている。

「お久しぶりでございます、王李将軍」

「将軍とはまた! 私はいまや免職にあった身。将軍でもなんでもない」

「いえあなたは将軍にお戻りになられる」

 男は小声でそう言うと、ゆっくりと私に顔を近づけてきた。

「正確に申すならば、もしかすると将軍としてまた宮廷へのぼれるかもしれない、ということなんですが」

 男はそう言って、一通の封書を懐から取り出した。その封書には、確かに帝室の印である昇り龍の封蝋が押してあった。

 私はそれを受け取り封を切り、手紙を取り出した。そこには簡潔な筆跡でこう書かれていた。

「臣民の不安の元凶である妖虎を退治せよ。見事打ち倒したあかつきには、復職を許す」

 妖虎。噂はこの帝都まで広まっている。

 南方の村に最近出没する人を食らう大虎で、口から雷を吐き、その皮はいかなる剣も通さぬと聞く。なにものも太刀打ちできず、結果いくつかの村が消え去ったらしい。

 その噂で帝都の民も安らかではなかった。いかに高い城壁があろうと、兵が強かろうともしかすると防げぬのではないか。

 私はしばしその手紙をみつめた後、おもむろに口を開いた。

「この手紙、確かにお受け取りしました」

「ならば引きうけてくれると?」

 私は無言でうなずいた。

「よかった。これで民も安心できようぞ」

「ただし一つ条件があります。妖虎はなにものの剣をも通さぬと聞きます。しかし陛下秘蔵の剣ならば、いかがでございましょう?」

「な、それは……」

「それをお借りせねば、私は妖虎に食われて終わります」

「……分かりもうした。相談しておきましょう。では私はこれで失礼いたします」

 妻が酒席の用意をしていたが、男は辞退してすごすごと帰っていった。それもそのはず、陛下秘蔵の剣『露紫剣』は門外不出とされており、名工兆良の最後にして最高の剣である。造りの見事さもさることながら、切れ味のほうも岩に触れただけで真っ二つにしてしまうと言われるほどである。その剣なくして妖虎討伐はならないのは事実。しかしそれを私に貸すことが、はたしてできるだろうか。


     ※    ※


 その夜、妻といつもながらの慎ましい夕食をとる。

「あなた、なんのお話でしたの?」

 普段なら妻は私の仕事には口を出さない。だがこのときばかりはただならぬものを感じ取ったのだろう。

「うむ。お前も噂ぐらいは聞いているだろう。妖虎のことだ」

「あの・・・。まさか退治に行かれるのですか?」

「ああ」

 私の返事に、妻の箸が止まった。

「どうした?」

「おやめくださいませんか」

 妻のきっぱりとした物言いに私は少し驚いてしまった。

「相手は人を食らう妖でしょう? 危のうございます」

「それはわかっている。しかし勅命とあらば仕方あるまい」

「しかし陛下は……」

「言うな」

 しばし沈黙が流れた。

「危険は承知の上だし、様々な事情もある。しかし見返りがある」

「命には、代えられませんわ……」

「昔の生活に戻れるのだ」

 私がそう言うと、不意に妻の瞳に涙が溢れた。私は席を立ち、妻の横にかがみこんだ。そしてそっと手を取る。

「お前がそっと大切な宝石を売っているのも知っている。服も、長く綺麗な髪も。私が不甲斐ないばかりに、お前に随分と苦労をかけてきた。今までよく頑張ってきてくれた。だがこのままでは二人とも干上がってしまう」

 私はじっと妻の目を見て、ゆっくりと話した。妻はそっと涙を拭いた。

「武人の妻が涙をみせるなんて……。分かりました。もう止めはいたしません。その代わり約束してください。必ず帰っていらして。それまでこの家は守ってまいります」

「そうか……。ありがとう」

 私はそっと妻を抱きしめた。


     ※    ※


 翌日、私は久々に宮廷にのぼった。朝早くに使いの者が来て、例の剣を貸してもらえるというのだ。どんなに生活に困っても売らなかった鎧を着け出かける。妻は私が見えなくなるまで、じっと私を見送ってくれた。

「王李様、御入場!」

 呼子が高らかに私の名を呼び、私は拝謁の間に入った。巨大なその部屋の中央には赤い敷物が敷かれ、その両側に文武百官が粛然と整列している。懐かしいその光景は私の胸に否応なく熱いものをこみあげさせてくる。

 中央を悠然と進み、金銀で豪奢に飾り立てられた玉座の前で立ち止まる。

「皇帝陛下、御入場!」

 その声と同時に、広間に集まったもの全員がひざまずく。私もゆっくりと膝を折ってうつむく。

「皆の物、顔を上げい」

 細いが相変わらずよく通る陛下の声。その声でみなが一斉に動く。その衣擦れの音がやんで、私はおもむろに口を開いた。

「王李、参上つかまつりましてございます」

「懐かしいな。朕の願いを聞いてくれて嬉しく思うぞ。さて、妖虎討伐にあたってのそちの願い、聞き届いておるぞ」

 陛下はそう言って手を二回叩いた。横合いから昨日の男が現れた。やはり飾り立てた台座に、一振りの剣が置かれている。

「朕の秘蔵の剣、存分に振るうがよい」

 陛下がその剣を手に取り、直々に私に手渡す。

 私は剣を受け取ると、立ちあがってその剣を掲げる。見事な造りの鞘だった。金銀で飾られ、二匹の龍が立ち昇る精妙な彫り物が施されている。そしてさっとその鞘を払った。

 広間からどよめきの声が上がった。剣は束元から切っ先まで研ぎ澄まされ、微かな紫色を秘めていた。周りの明かりを集めて反射し、淡く霞みがかっているように輝いている。名の由来だ。

 私はゆっくりと剣を鞘に収め、陛下の前にもう一度ひざまずく。

「確かに『露紫剣』受け取りましてございます。必ずや、陛下のご期待に答えます」

「常勝将軍の言葉は値千金だ。これで民も安んじ暮らせるだろう。見事妖虎討伐がなったあかつきには、褒賞は望みのままつかわす。よい知らせを待っておるぞ王李」

「はっ!」


     ※    ※


 その日のうちに私は旅に出た。馬を南に走らせて幾日、鶴稜山を抜ける山道を通り、最初に妖虎の被害にあったといわれる村に着く。

「これは・・・」

 広大な畑はことごとく焼き払われていた。そこにいくつもの足跡が残っている。しかし虎のものというより、人や馬の足跡のようだ。

 村もひどい有様だった。壊れた人家の間々には人がむごたらしい姿で倒れていた。すでに腐敗が進んでおり、ひどい悪臭を漂わせている。中には首のない死体もあった。食いちぎられたのだろうか。しかしそれにしては切り口が鋭利すぎる。別の死体には、明らかに刀傷が残っていた。

 一体これはどういうことだろうか。道々に聞いた話では、確かにこの村は妖虎に襲われたらしい。だが実際は、死体に刀傷。獣に食い荒らされたというようではないらしい。一体、この村は何者によって失われたのだろうか。

 とにかく死体をこのまま晒しておくのも忍びなく、私は簡単な簡単に埋葬していった。

 村の広場まできた。その中央で烏が一斉に飛び立った。

「うっ……」

 井戸の周りに20人ほどの死体が折り重なっていた。その地面は赤黒く染まっている。が、不思議なことにその死体、村人らしからぬ出で立ちである。どうも野盗のたぐいのようだ。

 よく調べてみると、死体には噛み傷や切り傷が多く、また四肢を食いちぎられたり、丸焼けになっている者もいる。

「村がこうなったのはこいつらの仕業か……。しかし仲間割れ……ではないな。ヤツの仕業か」

 ある種の確信を抱き、私はさらに道を急いだ。


     ※    ※


 次の村に着くまで、人一人も見なかった。みな妖虎を恐れて逃げてしまっているのだろう。

 妖虎に襲われたという村はことごとく破壊され、全ての者が食われてしまったと聞く。おそらく次の村もひどい有様なのだろう。そう覚悟して村に着き、私は大変に裏切られてしまった。

 襲われたという村は、見たところなんの被害も受けていない。炊煙が細々と上がり、人が生活しているのがわかる。回りの畑もよく手入れされている。

「どういうことだ? 助かった者がいるというのか?」

 私は腰に剣があることを確認し、馬を進める。村に入ってちょうど一人の男が通りかかった。

「そこの男、少し話が聞きたい」

 男は私を一目見るなりいきなりひれ伏してしまった。

「ひぃ! なんでも差し上げますから命ばかりはお助けを!」

「何? どういうことだ?」

 男は少し顔を上げ、きょとんとしたまなざしで私を見た。

「私は王李と申す。帝より勅命を賜り、妖虎討伐にやってきた」

「そうでございましたか! へへぇ……」

 男はますますひれ伏してしまった。

 男の話によると、最近この辺りには馬賊が出没するらしい。私を見てそれと勘違いしたらしい。

 彼はその夜、私を招いてくれた。私も甘んじてそれを受ける。彼の妻が夕飯を馳走してくれた。質素だが心ある食事であった。その食事の後、男から妖虎について聞いてみた。

「確かに虎は出ますが、襲われたという人はおりゃしません」

「それは本当か?」

「ええ。村の周りをぐるぐると歩き回ったり、時には鶏を取られるぐらいのことはありますが、襲われた話はとんと聞きません」

 近隣の村人たちは確かに恐怖を感じてはいるそうだが、こちらが手出ししなけれど、別段なにも被害があるわけではないらしい。

「その虎はどちらから来るのか?」

「へぇ、白仙山の方から。森深い山なんで、今日は泊まっていくとよろしいでしょう。ごらんの通り狭い家ですが、どうぞどうぞ。明日ご案内いたします」

「かたじけない」


 次の日の朝早く、家の夫婦に別れを告げて白仙山に向かった。馬を彼らに預けていく。

 半日ほどかけて山を登るが、それらしい獣はいなかった。周囲で小鳥の囀る音が響き、川のせせらぎがどこからともなく聞こえてくる。木々の葉が擦れる音とあいまって、美しい音楽となっていた。

 いたって平和そうな森である。私は清らかな小川をみつけ、そこで小休止を取る事にした。冷たい水をすすり、塩漬けの肉を食う。しばらく休憩した後、また頂上を目指した。

 と、なにげなく小川の上流の方に目を向ける。遠くになにかきらりと光ったような気がした。川が太陽に反射したのではない。黄金色のきらめき。よく目を凝らしてみてみると、その光の正体は一匹の獣であった。

 ヤツか!?

 私は剣の束を握り締め、なるべく静かに上流へと登っていった。心臓が否応無しに高鳴る。静かに、一歩一歩確実に足を繰り出す。近づくにつれてだんだんはっきりと、その獣の姿を捕らえることができた。

 黄金色の毛並みを持つ、巨大な虎であった。その大きさ、見事さには畏怖すら覚える。見て取れるほど隆々と筋肉がついており、鉤爪にどのような破壊力があるのか想像もつかない。水を飲む舌の間から鋭い牙も見える。一体あの牙で、何人の人間を食いちぎってきたのだろうか。

 私は剣をすらりと抜き、より慎重に歩きだす。しかし一陣の風が私を吹き越していった。私の匂いを嗅ぎつけたのか、妖虎が顔をさっと上げた。視線が合う。

 鋭い眼光が私を釘付けにした。私は不覚にも少しも動くことができなくなってしまった。その間に妖虎はぱっと身を翻し、木々の中へと姿を眩ませてしまった。

「くっ!」

 私はすぐさま後を追った。だが鬱蒼と茂る木々の間を、ヤツはしなやかにすり抜けていく。離されるばかりであった。だが地面を見ると、力強い足で抉り取られた足跡が残っている。迷うことはない。慎重でいい。急いで事を仕損じてはならないのだ。私はもう一度剣を握りなおし、足跡を追って歩いた。

 森の中は急に静まり返っていた。小鳥の囀りも小動物のいななきも聞こえない。みな妖虎に怯えて逃げてしまったのだろう。

 風は先ほどから私の背中から吹きつけてくる。私の匂いはヤツの元まで運ばれているのだろう。しかしそれを気にしていても仕方ないし、第一私が後を追っていることは、ヤツも承知の上だろう。

 足跡は山を周回するように続いていた。十分に周囲を警戒しながら進む。もう日も落ちかけていた。暗くなっては分が悪い。明るいうちに仕留めなければ。私はそう思い、余計な荷物をすべて捨てていった。水も食料も全て。鎧と剣だけの姿となり、私はまた足を動かした。

 やがて森が開けた。小さな草原のようになっていた。なだらかな斜面に紅いレンゲや若々しい緑色の草などが生えていた。そしてその向こう、夕日を背にしてヤツがすっくと立っていた。

 妖虎は私を待っていたかのように、じっと私を見据えて立っている。その堂々たる姿に感動と畏怖を少なからず感じた。だがヤツは妖。人を食らい、害なすもの。

 私はゆっくりと剣を構えた。

「我が名は王李! お前を成敗するために参った!」

「私には親から授かった名などない。だがあえて名乗るなら、剛雷」

 野太い声で返答が来る。

「だがお前とは戦いとうないし、今ここで斬り殺されるわけにもいかぬ。どうしても、引いてはくれぬか」

「そうはいかぬ。おとなしく観念するのだな」

 草が騒ぎはじめた。その音が私の耳には斬れ、斬れと聞こえてくる。そして一瞬、その声がぴたりとやんだ。

 私と妖虎はほぼ同時に飛び出した。お互い一撃を繰り出し交差する。剣と爪がぶつかり、激しい火花が散った。妖虎の力はやはり想像を絶するものがあり、あやうく体勢を崩すところであった。だが剣が手から弾け飛んでしまった。

「ちっ!」

「人と私とでは力の差がある。命は取らぬからどうか引き下がってはくれぬか」

「まだ言うか。妖ごときの情けを受けては、我が一族末代までの恥よ!」

 私はさっと身を回転させて落ちた剣を拾い上げ、ゆっくりと構えをとる。

「何度やろうと同じことだ」

「来い妖虎!」

 妖虎は咆哮を上げてその巨体を宙に躍らせた。私は咄嗟に身を翻して一撃をかわす。妖虎の爪は今まで私のいた地面に穴を開け、大量の土ぼこりを舞い上がらせた。

 めくらで剣を突き入れるが、妖虎はあっさりとかわしてしまったようだ。と、横殴りの衝撃が私を襲った。私は完全に不意をつかれ、吹っ飛ばされてしまった。

「うっ……」

 地面に転がり、衝撃のあった所を見ると、鎧が完全に砕かれていた。脇腹がずきずきと痛む。

 ゆっくりと妖虎が近づいてきた。

「再度頼む。引いてはくれぬか」

「引かん!」

「なにゆえそこまで死を急ぐ」

「貴様には関係ない!」

 さっと剣を一振りし、妖虎が飛びのいた隙に立ちあがる。そしてそのまま勢いで飛び掛り、幾度となく剣を繰り出す。

 しかし剣は爪で止められるかよけられるか、一撃たりとも傷を負わせることができなかった。

 力、機敏さ、戦いの勘。どれをとっても私を凌駕するものだった。やはり人では妖は倒せないのか。

 しかし引き下がるわけにはいかない。都で妻が待っているのだ。生きて将軍として復職し、妻に思う存分贅沢な暮らしを……!

 私は攻撃を加えながら、なお後退せざるをえなかった。じりじりと押される。背後には谷がある。切り立った崖は随分と高い。落ちたら無事では済まないだろう。私の踵が、崖の端から飛び出して、宙に浮いている。

「これ以上下がれば、崖に落ちるぞ」

「引く気はない!」

 言葉の勢いで、私は突きを入れようとした。しかしその時運悪く、足元が崩れてしまった。

「あっ!」

 私は本能的に身を翻し、なんとか崖にしがみつこうとした。しかしすでに私の体は宙に放り出されていた。

 私は思わず両手で顔をかばい、強く目を閉じてしまった。その時、肩口に鋭い痛みが走った。そして勢いよく引っ張られ、奇妙な浮遊感を感じた。ぱっと目を開けると、すぐ肩口のところに妖虎の顔があった。

「妖虎!」

 私は咄嗟に剣を繰り出す。確かな手応えがうでに伝わった。しかし凄まじい勢いで放り投げだされる。私はもんどりうちながら、地面へと転がり落ちた。

 なんとか立ちあがって剣を構え直すと、剣には赤い血がベットリとついていた。一瞬剣を凝視し、ついで妖虎を見たとき、妖虎はかっと口を大きく開け、咆哮一つ上げた。その瞬間青白い雷が放たれ、私のすぐ目の前に落ちた。

「うっ!」

 閃光と土ぼこりで目が見えなくなる。次第に視界が開けてきたときには、妖虎の姿はなかった。辺りを見まわしてもいない。目が眩んでいる隙に逃げ出したのか……。

 そうしてようやく、私は肩の痛みを覚えた。激しい痛みと熱さ。触ると血が出ていた。とりあえず着ている服を破いて傷口を縛る。壊れた鎧も脱ぎ捨てた。

 そうしてからようやく、私は妖虎が最後にいた場所に来た。妖虎がいた草地に小さな血だまりができていた。そして崖が少し崩れている。ここが崩れて、私は崖に放り出された。だが私は・・・。

 血だまりから点々と血が道を作っている。さらに山奥へと進んでいるようだった。


     ※    ※


 思い返してみると、あの瞬間確かに手応えがあった。突き出した剣が妖虎を貫いたのは確かだろう。だが自分が助かったのはなぜか? 崖の下に落ちたはずの私が・・・。

 頭の中に悪い考えがよぎる。妖虎が、私を助けたのだ。

 私は頭を振りつつ、その考えを払拭した。まさか人を食らう妖が人を助けるなど。

 私は点々と続く血の跡を辿っていった。妖虎は手負いである。今が絶好の機会。私自身も満足な体ではなかったが、暗くなる前には決着がつけられよう。あと少し、もう少しなのだ。

 だが行けども行けどもいっこうに追いつく気配がない。なんという生命力の高さだ。血の跡を見る限り、かなりの深手を負わせたはずなのに。

 私は焦りを感じながら必死になって足を進めた。するとまた森が開け、私の眼前に巨大な建造物が現れた。それは寺院の廃墟であった。元々は荘厳な造りであったのだろうが、今は見るも無残な姿であった。血は点々と続いている。私も寺院へと足を踏み入れた。

 門から本堂まで続く長い道は石畳になっており、両側は大きな庭園であった。だが今は石畳もぼろぼろに崩れ、庭園の池は干上がり、草が自由に生え茂っていた。

 異様なほど静まり返った廃墟の中を、血は点々と進んでいる。廃墟には多数の建物が風雨に晒されていたが、血はまっすぐ大本堂らしき所に向かっている。大本堂の入り口は壊れて開け放たれたままだ。

 薄暗いそこに入る。崩れたところからわずかに西日が入ってきているが、それでも広い堂内を明かりで満たすには至っていない。その薄い光の中、本堂は凄惨な光景を晒していた。

 大小様々の骨が散らばっているのだ。この骨の主はおそらくこの寺院の人々なのだろう。ぼろぼろになった袈裟をつけた者がいる。しかし一揃いそろっているものはない。妖虎が食ってしまったのだろうか? この寺院もヤツが潰してしまったのだろうか?

 私が本堂をいろいろと見まわしていると、奥の方から声が聞こえた。赤子の鳴き声だ。どうしてこんなところに、という疑問よりも先に足が動いていた。

 奥に部屋があった。そこから蝋燭の明かりが漏れている。私は近づき、そっとその部屋を覗いた……


     ※    ※


「よしよしいい子だよ」

 その時、私の子はなかなか泣き止んでくれませんでした。なんとかなだめようとしている時にあの方はやってきたのです。

「一体どうしたのですか?」

 その声に驚いて私の子なんかは一層泣き始めるし、私も随分驚きました。

「な、何者でございましょう?」

「心配いたすな。私はある者を追って帝都から来た者です。あなたはこんな所でなにをしているのですか」

 私は十分警戒しながら答えました。

「ええ、ここでしばらく休もうと……」

「おや? あなた、目が不自由なのでは?」

「ええ・・・。蛇の毒にやられてしまいまして・・・」

「そうですか。ここは危険ですから、よければ私が家まで送りいたしますが」

 しかし私には家などありません。ですので私は今までの経緯をあの方にお話しました。

 私のこの山の麓にある南羅村におったのですが、突然馬賊に襲われ家も畑も焼き払われ、多くの人が殺されたのです。私の夫も私と子供を逃がすために一人残り、殺されました。

 私は無我夢中で逃げましたが、途中で蛇に噛まれてしまいました。その毒のせいでしょう。目が見えなくなってしまったのです。

 もう駄目かと思っていた時、ここのお坊様に助けてもらったのです。

「坊主?」

 あの方は不思議がりました。私には何故だかわかりません。

 しかし現に私はここのお坊様に助けてもらったし、毎日食事も頂いているのです。

「名は? その者名はなんと申した?」

「名乗ってはくれません。しかし大変慈悲深い方です」

「そうか・・・。だがここは危険だ。近くの村にでも送りましょう」

「いえしかし、こちらのお坊様が・・・」

 そういう問答をしていました。私にはなにがなんだかさっぱりと分かりませんでした。

 と、床がギシとなりました。私は咄嗟に、お坊様が帰ってきたのだと分かりました。いつもギシと鳴らして帰ってきますもので。

「少し・・・待っていてください」

 あの方はそう言って、お部屋を出ていかれました。出ていかれる間際、あの方は私に一冊の書物を渡されました。

「これを受け取ってください。もしもここから無事に出ることができたなら、帝都の張麗華という者にその本を渡していただきたい。とにかくあなたは、ここを出たほうがいい」

 それからどうなったのかは、盲いた私の目では分かりません。大きな音がしたのを覚えてますし、虎の鳴き声を聞いたので、私はあの方の忠告通りお寺を出ました。親切にしていただいたお坊様に挨拶できなかったのは残念ですが・・・。

 とにかく私はこの本が途中だということで、出来る限り書き足させていただきました。

 確かに、張麗華さんにお渡しいたします。



   おわり


 お読みいただいてありがとうございます。

 一度にアップする量として、このくらいの長さであれば問題ないでしょうか?

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