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静寂に包まれる廊下。本来ならそれなりに人気があるはずの城は、何処を見ても誰かがいる気配は無かった。一通り見て回り、最後にこの城主の部屋へ向かう。
なるべく音を立て無い様に注意して扉を開ければ、数年前と変わらずある紫を基調とした洋室。静かな吐息が聞こえ、音の発信源を探す。室内を見渡すと寝台に幼き子供が横たわっていた。寝台の下には掛布と思われるものが落ちている。もしかすると、横たわっている子供が落してしまったのかもしれない。子供の他に人影はなく、部屋の主は不在であると判断できる。
子供以外にこの部屋に目ぼしい変化はなく、恐らくこの子供が部屋の主の行方を知る唯一の手がかりとなるのだろう。一歩、また一歩と近づく。子供はまだ、その瞳の色を見せない。慎重に歩く。
彼がこの部屋に来たのは理由がある。この城の主に呼ばれていたから、というのもあるが、それ以上に城下での混乱の原因を探らなければならないという使命感が働いたからだ。
彼は強い。恐らく現存するどの同族よりも。しかし、だからといって彼は統べるものには向いていなかった。それ故この城の主は彼女になったのだ。彼は存外、彼女を気に入っていた。友人として今日ここに駆けつけたのも、彼女に対して何の後ろめたさも抱いていないからだ。そして彼女が彼を招いたのもまた、彼に対して何の罪悪感も抱いていないからである。
ぴたり。寝台の横に立つ。足元をよく見てみると、寝台の掛布が落ちたものだと思っていた薄紅の布は、洋服のようだった。右手で持ち上げる。形は十年前と変わらない。そう、いつも彼女が着ていた服だった。
「――少年。君は、一体……」
◆◇◆◇
『オーホッホッホッホ!! 愚図で愚鈍な人間ども! よくもあたくしを封印などと小癪な事をしてくれましたわねっ!』
不愉快な女の声が聞こえたと思ったら、さっきまで快晴だった空が曇り、灰色を背景に約十年前に見たきりだった女の姿が浮かび上がった。遠距離の投影魔法。それに拡声魔法も。相変わらずスキルは人一倍らしい。
『あたくしは残念ですわ。ここまで人間が愚かであったとは思いませんでしたもの。でも、統べるものとして今回の事は見過ごすわけにも参りませんのよ。……と、いうわけで』
そこで女は一度言葉を切り、身を屈めて何かを持ち上げるようなしぐさをした。持ち上げられたものは子供。……うそだろ。
『勇者! 聖女! その他諸々!! あたくし、神殿とやらを壊してきましたわ! ついでにあたくし好みの若ーい血をもつ子供も攫わせていただきましたのっ。お前達があたくしのもとに辿り着くころには骨も残っていないでしょうが……あたくしが憎ければ倒しにいらっしゃい! あたくしは何時でも歓迎でしてよ!!』
あの女が持ち上げたのは、
『それでは、魔王城でまた会いましょう?』
まだまだ幼い子供だ。でも見間違えるはずがない。俺と彼女の、息子だから。
「貴方…」
「……大丈夫だ。あいつはまだ復活したばかりだから、手下も少ないはず。今からあいつらを集めて魔界に行けば、人界は守られるはずだ」
妻が青ざめながらこちらを見てきた。震える手が俺の袖を掴む。彼女の心配事の一つに対して、俺は安心させるために微笑みかけて説明した。そんな俺の顔を見て彼女は一度は顔を緩めたが、すぐにまた難しい顔になった。
「ええ。ええ……でも」
彼女の懸念は寧ろ、こちらの方が大きいのだろう。当たり前だ。彼女は国に対して責任を持つ立場ではあるが…今は、ただの母親でもあるのだから。息子を心配するのも無理はない。
「分かってる。覚悟を決めよう」
「貴方…ごめんなさい。私が、あの時に封印だけじゃなくて、倒すことができてればよかったのに……」
「いや、俺が悪いんだ。…お前は気にするな」
あの時にあの女を倒せなかったのは、俺が原因だといってもいい。彼女は唯、俺の願いを叶えてくれただけだから。
「 」
呟いた息子の名前は、まわりの喧騒にかき消された。無理もない。いきなりの魔王復活宣言。混乱しないわけがないのだから。民を宥めるためにこれから忙しくなるに違いない。
彼女も、そしてあいつらも…果たすべき使命を抱えて、生きることを決めていた。俺だけがその運命から逃れようとしていたが、この様子ではおそらく逃げられないだろう。覚悟を決める。
「しょうがない。迎えに行ってやるか」
俺のいつもの軽口に対して、妻はそっと微笑むだけだった。
◆◇◆◇
やっと、やっとのことだったのだ。
ずるり、ずるり。
女は笑う。計画では、今頃椅子の上で寛いでいたはずだった。
ずるり、ずるり。
ところがどうだ。この有様は! 腕は半分溶けているし、喉は焼けた鉄を飲んだかのように熱い。汗が止まらず噴き出る。
ずるり、ずるり。
こんなはずではなかった。昔からあの椅子に座ることだけを考えてきたのに。やっと座れるようになったと思えば、強制的に眠らされて。
ずるり、ずるり。
起きたと思えばまた眠らされる。何度か繰り返したと思ったら今度はこれだ。全く…ついて無いにも程がある。
ずるり、ずるり。
女は笑う。
ずるり、ずるり。
歩みは止まる。
…ずるり。
音の消えた廊下では、唯々朝日が差し込むだけだった。
◆◇◆◇
少年の耳が音を拾う。感覚が段々と敏感になり、自身の左半身が柔らかな布の上に横たわっていることを認識できた。目蓋が震える。零れる紫は部屋に差し込む明かり故か、怪しく光っている。暫く何処ともいえない虚空を眺めていた双玉は、自らの正面に立つ男に定まった。少年の記憶にない顔をしている男。彼の正体に心当たりのない少年は首を傾げた。
男は赤い衣を身にまとい、少年の横に立っていた。手に薄紅の布を持っている。眉間にしわを寄せ、少年を唯見下ろす男をどうするべきかなど、少年は知らない。困惑した少年の様子を見て、男は再度声をあげた。
「少年。君は一体、どうしてここにいるんだい?」
――こうして少年と男は出会い、旅立つ。世界を変えるために。
……なんて、かっこつけてみたけどさ。俺、こいつどうすればいいの?
神殿に行ったと思ったら一人でベットに寝ていた俺は、その後現実逃避という名の二度寝を決め込んだ。何を言っているか分からないとは言わせない。何故なら俺も分からないから説明なんぞ出来んのだ! …うっす。威張ることじゃねえっす。
んまあ、で、よくある回想シーンなんて挟みながら状況が改善されるのを待っていたわけだが……なんだこれ。なんでむっちゃマッチョの男が俺見下ろしてんの? 意味わからん。
「お、おじちゃ……」
おじちゃん誰? と言おうとして固まる。だってもしこいつがおじちゃんと言われるほどの年齢でなければ、こいつを不快にさせてしまうことになり、制裁を受けてしまう可能性がある。なんせマッチョだからな。こういうやつは脳筋ヤローだと相場が決まっている。まずい。誤魔化そう。
俺のハイスペック天才脳よ! 今こそうまい誤魔化し方を発案せよ!!
「お、おじ茶っておいしいよね……」
おじ茶って何だよーー!!! バカ! 俺のバカッ!!! 誤魔化すの下手にも程がある!
「…少年。君は一体、どうしてここにいるんだい?」
神か。今の俺のボケ、丸々スルーしてくれるわけだなおっちゃん! 脳筋なんて言ってごめん! おまえは素敵筋肉君だ! 略して「すてきんに君」! うーん、ダサい。
「わからないんだ…気づいたらここに、一人でいて……」
せっかくなので彼の好意に甘えて会話を続ける。きょろきょろと周りを見渡すけど、一度目に目が覚めた時と状況は変わってない。いや、筋肉さんいるけど。それ以外でってことね。
「女を見てないか?」
「女の人…? うーん…」
女の人といえば、神殿でいやーに古臭い笑い方の女の声を聴いたような…。
「見てはいないけど、気をうしなう前に、こえ、きいたよ」
「…そうか。わかった。ありがとう」
そう言って筋肉さんは俺の頭をなでた。痛くないし、俺くらいの子供をなでるのには丁度いいくらいの力加減だ。俺は嬉しくなってニカッと笑って見せる。紫でけばけばしい部屋の空気が少し穏やかになったように感じた。
「ここ、どこなの? あなたは、だれ?」
空気が軽くなったので軽い調子で聞いた俺に、筋肉さんは目尻を下げながら答えてくれた。
「ああ。私はレオーノヴィル。そしてここは魔王城だ」
へー。レオーノヴィルソシテココハマオウジョウダさんかー。名前長いなー…。
………うん?
「君は大方魔王に連れてこられた食料だろう。安心しろ。私は君を殺さない」
ショクリョウ? ……え? え??
まおうって……魔王なんだろうか。え? でもそれ、父さんたちが倒したんじゃないの?? え? うん???
「魔王を探しに来たわけだが…どうやらもう倒されてしまったらしいな」
そりゃ、俺が生まれる前にだろ? 今更じゃね??
思いっきり訳が分からないという顔をしながら筋肉さん――レオーノヴィルさんを見上げる。しかし、彼はどうやら自己完結してしまったらしくうんうん頷きながら話し続ける。俺はもう置いてけぼりだ。
――そして、彼が続ける一言に、俺はさらに混乱することになる。
「君に」
…………………えっ?