最後まで聞きました。何もしませんでした
妻が死んで三日目に、屋敷へ男が来た。
応接間へ通させた。名乗られた名前に覚えがない。
「アルンハイム様」
男はそう言った。
男爵、と言わなかった。
この家に来る者は、まず男爵と言う。商人でも役所の者でも言う。
わたしは椅子を勧めなかった。
勧めれば座る。座れば長くなる。この手の男は、こちらが下手に出ると際限がない。立たせたまま用件を言わせればよいのである。
「奥様からお預かりしていたものがございます」
男は鞄から封をした書面を出した。
「ご遺言でございます」
「……ゾフィーの」
「はい」
「いつのことだ」
「三年前でございます」
三年前。妻はまだ何ともない時分である。咳ひとつしていなかった。
男は封を切って、声に出して読みはじめた。
はじめに救貧院のことが出てくる。街外れの古い建物だ。持ち主が絶えて長く空いていたのを、妻が買い取って住めるように直した。行き場のない者を泊めて食べさせる場所である。
次が金の話。妻の母から譲られたものだという。
テレーゼの名前が出た。十八という数字も出る。
そのあとに長い言い回しが続く。誰のものでもない、というところだけ耳に残った。
読み終えて、男は書面をわたしの方へ向ける。
字が細かい。同じような言い回しが何度も出てくる。
三度見た。
わたしの名前が、一度も出てこない。
「これは、どういうことだ」
「奥様のご意向でございます」
「そうではない」
わたしは紙を押し戻した。
「なぜ、そちらが持っている」
「原本は当方でお預かりいたします。控えもこちらに残ります」
「なぜだ」
「そのようにご依頼を受けております」
二度訊いて、二度とも同じ答えが返ってきた。
答えを変えんというのは、こちらを軽んじているということである。
わたしは口を開いて、閉じた。
訊けば、答えが返る。返った答えが分からなければ、もう一度訊くことになる。三度訊けば、この男はわたしが分かっておらんと思うだろう。
「……もうよい」
男は一礼して、帰っていった。
立たせたままにしておいたが、最後まで顔色を変えない。ああいう商売の者は、そういうものらしい。
応接間を出ると、廊下にテレーゼが立っていた。十三である。喪服の裾が長すぎて、踏みそうになっている。
「お父様」
「なんだ」
「今の方は」
「役所の者だ」
「何のご用でしたか」
「救貧院の話だ」
テレーゼは何か言おうとして、やめた。
やめたのだから、分かったのだろう。
「もう部屋へ戻りなさい」
娘は戻っていった。
あとで知ったことだが、公証人というのは役所の者ではないらしい。紙を預かって、預かったという証を立てる。それを商売にしている者がいるそうだ。
その晩、書斎で考えた。
ゾフィーは救貧院を残したかったのだ。ああいう場所は当主が代われば真っ先に畳まれる。だから他人に預けた。
筋は通っている。
金のほうも読めた。娘が十八になったら渡す、と書いてある。
それまではこの家が預かるということだ。当たり前のことを、わざわざ紙にしたのだろう。
ゾフィーは生家と縁を切ってこの家へ嫁いできた。持参金は一銭も入らなかった。わたしの母は最後まで反対したが、押し切った。
生涯でいちばんの決め事である。持参金の無い女を、家の反対を押して娶った。
そういうことのできる男は、そう多くない。
あれが、三年前にわたしの知らないところで紙を書いていた。
このことは、誰にも言っていない。
言えば、妻に信を置かれておらんかったと取られる。
言わずにしまう紙は、これで一枚目である。
二枚目は、三年後に来た。
その年の秋に、わたしは再婚した。
喪は明けていない。
相手はヘートヴィヒといった。ケラー子爵家の娘である。先夫は騎士爵ブラント家の当主で、二年前に死んだ。家は夫の弟が継ぎ、ヘートヴィヒは娘を連れて実家へ戻っていた。
妹が伯爵家へ嫁いでおる。姉のほうが下へ行った形だが、家の都合というものはある。
街の集まりで二度会って、三度目に話を決めた。
役所で婚姻の届に署名した。写しを一枚もらって、書斎の引き出しへ入れる。
テレーゼには、決まってから話した。
「今度、この家に来る人がある」
「はい」
「エミーリアという娘も一緒だ。お前より二つ下だ」
「はい」
娘はそれだけ言って、部屋へ戻った。
なぜ再婚するのかは話していない。喪の明けないうちにする理由も話していない。
言わなくても分かる。屋敷には女手が要る。娘には母親が要る。
ゾフィーが死んで半年でそれをやったのだから、手を打つのは早いほうである。
エミーリアは十二だった。明るい子で、来た日から使用人に名前を訊いて回っている。三日で六人全員の名を覚えた。
テレーゼは十四で、その秋から街外れへ通いはじめた。救貧院である。
わたしは止めなかった。
あの遺言のとおりになったからだ。ゾフィーはあの場所を娘に継がせたかった。娘が継いだ。紙に書いてあったことが、そのまま起きている。
あるとき、古い女中がこう言った。
「お嬢様は、奥様がおいでのころからお供しておいででした」
わたしは頷いた。
そうだったかもしれん。屋敷のことを、当主がいちいち見ておるものではない。
夕食に間に合わない日が増えても、何も言わずにおいた。
救貧院までは歩いて二十分だと聞いた。
わたしは一度も行っていない。
当主が出向く場所ではない。
その冬、街の集まりに何度か出た。
人に会えば、妻のことを訊かれる。前の妻のことも、いまの妻のことも訊かれる。
みな、よく気にかけてくれる。
ゾフィーが何も遺さなかったとは言えん。言えば、遺すものの無い家だと取られる。
だからこう言った。妻は娘に遺した、と。
額も言った。訊かれたからではない。訊かれる前に言うておくものである。
その場にいた者が、なるほどという顔をした。
娘に遺すというのは、しっかりした奥方であったということだ。そういう奥方に選ばれた男だ、ということでもある。
よい言い方をしたと思った。
三年前の二月に、フェルディン伯爵家の家令が屋敷へ来た。
縁談である。伯爵令息ラインハルトと、テレーゼ。向こうは十九、こちらは十四。
貴族の縁組は早い。生まれた年に決まる家もある。十四なら遅いほうだ。
わたしは二日で決めた。
迷う当主は、迷っているうちに縁を逃す。アルンハイム家は男爵家だ。領地は小さく、屋敷は古く、使用人は六人しかいない。その家から伯爵夫人が出る。
話はすぐに広まった。
行く先々で、同じことを言われる。
伯爵家がわざわざ男爵家に。なんと寛大な。なんと立派な。
わたしは頷いていた。
こちらにも見どころがあるということだ。領地は小さいが、家は古い。古い家というのは、見る者が見れば分かる。
フェルディン家は、それを見たのだろう。
春に、家令がもう一度来た。
勧める前に腰を下ろした男である。
伯爵家の家令であれば、男爵家の当主より自分のほうが上だと思っておるのだろう。わたしは何も言わなかった。言えば、器が小さいと取られる。
家令は婚約の書状を出した。
わたしは署名して、日付を入れる。家令が写しを鞄にしまった。
それで終わりだと思った。
男は鞄からもう一枚出す。
「もう一枚、お願いがございます」
「これは」
「保証でございます。フェルディン家のお借入に、連帯でご署名を頂きたく」
わたしは紙を見た。
字が細かい。あの遺言と同じような言い回しが並んでいる。
下のほうに額があった。桁を数えかけて、やめる。
「……これは、額が大きいな」
「形のものでございます」
家令は言った。
「両家が一つになるのでございますから。当家も同じことをいたします」
なるほど、と思った。
この紙が何を言うておるのかは分からん。だが向こうも書くというのなら、こちらが書かんわけにはいかん。断れば失礼にあたる。
わたしはペンを取った。
家令は写しを鞄にしまわず、二部あるうちの一部を机の上に置いていった。
男が帰ってから、それを引き出しへ入れた。
保証のことは、ヘートヴィヒにも言っていない。テレーゼにも言っていない。
家のことは当主が決める。決めたことをいちいち女に話す家は、そのうち女が決めるようになる。父もそう言っていた。
春に妻が死んだ。秋に再婚した。冬に縁談が来て、春に署名した。
一年である。
手を打つのが早いと、自分でも思う。
その晩、夕食の席でヘートヴィヒが婚約の話をした。エミーリアが手を叩く。テレーゼは頷いて、皿に向かった。
娘は喜んでいる。
喜んでいるときに、あの子は静かになる。小さいころからそうだった。
それから三年が過ぎた。
婚約というのは、そういうものである。整えてしまえば、あとは日が来るのを待てばよい。
テレーゼは相変わらず街外れへ通った。エミーリアは背が伸びて、屋敷の中がにぎやかになる。ヘートヴィヒは月に一度、伯爵家へ挨拶の文を出していたらしい。
ラインハルトは、三年のあいだ屋敷へほとんど来なかった。
伯爵家の跡取りは忙しいものである。
二月の末に、ヘートヴィヒが書斎へ来た。
珍しいことである。妻がこの部屋へ来るのは、年に何度もない。
「あなた。少しよろしいかしら」
「なんだ」
「エミーリアのことなの」
妻は扉を閉めてから、椅子に座った。
「エミーリアを、あちらへ差し上げてはどうかしら」
わたしは書類を置いた。
「……なに」
「妹のところで、何度かお引き合わせしたのよ。ラインハルト様、あの子をずいぶん気に入っておられて。向こうのお家も、あの子のほうがよいとお考えのようですわ」
「テレーゼはどうする」
「テレーゼには、あの救貧院がありますでしょう」
妻は続けた。
「あの場所を置いて伯爵家へ行けとおっしゃるのは、かえって気の毒ですわ」
なるほど、と思った。
テレーゼはあの場所から離れん。三年見てきた。伯爵夫人になれば、あんなふうには通えなくなる。
「先方は、それでよいと言うておるのか」
「よいとおっしゃっているのよ」
妻は身を乗り出した。
「ですけど、あなた。血の繋がらない子を伯爵家へお出しになるのですもの。並のお方には、できませんわ」
わたしは何も言わなかった。
妻の言うとおりである。
実の娘を降ろして、他人の子を伯爵夫人にする。そういうことのできる男は、そう多くない。よその家なら、まず揉める。実の娘のほうを押し込もうとして、縁ごと壊す。
わたしは壊さん。
「……よかろう」
妻は礼を言って、出ていった。
テレーゼには話しておらん。
話す筋のことではない。決めるのは当主で、聞くのは娘である。
器の話である。
小さい家ほど、器の小さい当主を持っておるものだ。
三月十三日の夜だった。
夕食の席で、エミーリアが皿から顔を上げる。
「お姉様。わたし、ラインハルト様と結婚いたします」
ヘートヴィヒが身を乗り出した。
「まあ、エミーリア。本当なの」
「本当です」
「伯爵家よ。あなたが伯爵家の奥様になるのよ」
妻の声が震えている。
わたしは皿を見ていた。
二月の末に決めたことである。この子は自分から言い出したような顔をしておるが、決めたのはわたしだ。
ただ、訊いておくものである。
「テレーゼ。お前は」
「わたくしは構いません」
「……そうか」
わたしは皿に向き直った。
姉が妹に譲る。よくできた娘である。
構わないと言ったのだから、構わないのだろう。
翌朝、書斎にテレーゼが来た。
三月十四日である。
「お父様。三つ、お伝えしたいことがございます」
わたしは書類を見ていた。北の村の作付けの控えだ。
「言いなさい」
「一つめ。フェルディン家には、お金がありません」
顔は上げずにおいた。
「うちの救貧院に、去年から七人が泊まっております。もとはフェルディン家で働いていた人たちです。庭師のヴィム、料理番のハンス、洗い場のイルマ。辞めた理由は七人とも同じです。給金が半年出ませんでした」
娘は名前を並べた。
うちの娘が、よその屋敷の下働きの名をそらんじておる。
どこでそんなものを覚えるのか。
「二つめ。ラインハルト様には、お子様がいらっしゃいます。二歳の男の子です。母親はマルタといって、もとはあの家の下働きです。身重になって追い出されて、去年うちに来ました」
わたしは書類を裏返した。
そういうことは、あるものだ。
伯爵家の跡取りに子の一人もないほうが、かえって心配というものである。
「三つめ。フェルディン家の小切手を、もうどこの銀行も受け取りません。口座に金がないからではありません。あの家の名前そのものが、金を貸す者たちのあいだで通らなくなっております」
銀行の話になった。
わたしは銀行を使わん。この家は代々、麦を売った金をそのまま蔵へ入れる。
娘はそこで止まった。
わたしは最後まで聞いた。
三つとも聞いた。途中で口は挟まん。娘が話し終えるまで、書類に手をかけたまま待っておった。
聞き終えて、考えたのはこういうことである。
姉が妹の嫁ぎ先をけなしておる。金がない。子がいる。名前が通らない。三つとも、あの家の悪口である。
譲ると言った翌朝に、これを言いに来た。
女というのは、こういうことをするものだ。
「女同士のことだ」
「お父様。これはお金の話です」
わたしは書類から目を上げた。
娘が、わたしにこれが何の話かを教えようとしておる。
屋敷の当主に向かって、である。十七の娘が。
「テレーゼ」
わたしは書類に目を落とした。
「もう行きなさい」
娘は出ていった。
北の村の作付けは、去年より少し多い。よい年である。
四月に、フェルディン家から手紙が来た。
一通である。
テレーゼとの婚約を解消する話とエミーリアとの婚約を結ぶ話が、同じ紙に書いてあった。
ヘートヴィヒは泣いて喜んだ。エミーリアが声を上げる。テレーゼは何も言わなかった。
わたしも何も言わなかった。
一通で済ませてきたのは、あちらが手間を惜しんでおるのではない。二つに分けるほどの話ではないということだ。先方はこれを一つの縁として見ている。
よい書きようである。
支度が始まった。
ドレスが三着仕立てられた。首飾りが二つ。耳飾りが一つ。靴が四足。仕立て屋が来て、宝石商が来る。
請求はすべて屋敷に回ってきた。
わたしは書斎で紙を並べた。足し算を始めて、途中でやめる。
今年の上がりでは足りん。だが北の村の作付けが終われば入る。それまで待たせればよい。
値は一度も訊かなかった。
当主が仕立ての値を訊く家は、そのうち仕立て屋に足元を見られる。渋る家は笑われる。支度に金がかかるのは当たり前のことだ。
廊下でヘートヴィヒに訊いた。
「あちらからは、何も来んのか」
「当たり前でしょう」
妻は嬉しそうである。
「向こうは伯爵家なのよ。こちらが尽くすものなの。伯爵家に嫁がせていただくのだから」
「そうだな」
わたしは頷いた。
妻の言うとおりである。格の違う家に嫁がせるのだから、こちらが持つ。それを惜しんで嫁がせそこなった家を、わたしは二つ知っている。
六月に、また手紙が来た。
式の支度を早めたいので持参金を先に頂きたい、という内容である。
ヘートヴィヒはその場で返事を書いた。用意いたします、と書いた。
わたしは止めなかった。
あちらが急いでおるのは、めでたい話である。
その日の午後、テレーゼが書斎へ来た。
「お父様。持参金は、どこから出るのですか」
書類から目は上げずにおいた。
「お前の母の遺したものからだ」
「いくらですか」
「全部だ」
娘は黙った。
「あれはわたくしのものです」
「まだ嫁いでおらん。家のものだ」
持参金は一銭も入らなかった。入らぬまま娶ったのだから、出ていくものも家のものである。
「違います」
テレーゼが一歩前に出る。
「母の遺言書には、わたくしが十八になった日にわたくし個人へ渡ると書いてあります。九月です。あと三ヶ月です。それまでは誰のものでもありません。家のものでもありません。法でそうなっています」
娘は法の話をした。
十七の娘が、である。
法というのは役所の者や、紙を預かって商売にしている者が扱うものだ。貴族の娘が訳知り顔で持ち出すものではない。
どこで覚えたのかは訊かなかった。
「……口を慎め」
「お父様」
「もう行きなさい」
娘は出ていった。
六月のうちに、ヘートヴィヒは用意すると書いた返事を取り消した。
金が出てこなかったからである。
わたしは蔵の勘定を見た。麦を売った分はある。だが妻が言うには、そちらでは足りんのだという。あの遺した金でなければならんそうだ。
その金がどこにあるのか、わたしは知らなかった。
勘定はヘートヴィヒに見せなかった。当主の勘定である。
「あの子、街の何とかいう人のところへ行ったのよ。紙を預かる人ですって」
妻は書斎へ来て、そう言った。
「そうか」
「あなた、何とかおっしゃって」
わたしは何も言わなかった。
紙を預かる者に会うたくらいで娘を叱るのは、器が小さい。当主が女の動きをいちいち咎める家は、そのうち女に見くびられる。
言わずにおいた。
あれは母親に似たのだ。
ゾフィーもそうである。生家と縁を切るときも、こちらに何も相談せずに決めてから言いに来た。
似るものである。
七月の初めに、フェルディン伯爵家へ差し押さえが入ったと聞いた。
聞いたのは街の商人からである。屋敷に麦を買いに来た男が、ついでのように話した。
借りたのは向こうだ。取られるのも向こうである。
それに、伯爵家である。あれほどの家が本当に潰れれば、王家が黙っておらん。どこからか手が回るものだ。
わたしは書斎に戻って、引き出しを開けた。
三年前の紙が入っている。
出して、下のほうを見る。額が書いてあった。前に見たときと同じ数字である。
あの家令は、形のものだと言った。
形のものであるなら、こちらへは来ない。
わたしは紙をしまった。
その日、わたしは何もしなかった。
次の日も、その次の日も、何もしていない。
することを思いつかなかった、というのではない。動くには早いということだ。婚約はまだ生きている。生きているうちに騒げば、あちらの顔を潰す。
こういうときは待つ。父もそうしていた。
七月の半ばである。
その日は暑かった。書斎の窓を開けて、村ごとの上がりの控えを見ていた。
玄関の方で声がする。使用人の声と、知らない男の声だ。二人いる。
しばらくして、使用人が来た。
「旦那様。お客様がお二人でございます」
「名は」
「フォルクマー商会の使いと申しております」
聞かん名だ。
通せ、と言った。
こちらから玄関へ出ていくものではない。当主が玄関へ走る家は、それだけで見透かされる。
入ってきた二人は、外套を脱がなかった。勧める前に座りもしない。立ったまま鞄を開けて、紙を出した。
「アルンハイム男爵様。この書付に見覚えはありますか」
三年前の紙だった。わたしの署名がある。日付がある。
「……ある」
「フェルディン伯爵家への貸付です。今月の初めに、あちらに差し押さえが入りました」
「聞いておる」
「あちらから返る見込みが立ちません。それでこちらへ参りました」
わたしは男の顔を見た。
「……こちらへ、とは」
「連帯でご署名をいただいています」
男は紙をわたしの方へ回した。
「借りた者が払えないときは、署名した方が払います。額も同じです」
わたしは紙を見た。
下のほうに額がある。三年前に、桁を数えかけてやめた数字だ。
「……形のものだと聞いておる」
「どなたからでしょう」
「先方の家令だ」
男は答えなかった。もう一人が鞄を閉じた。
「本日は確かめに参っただけです。書付の写しは置いていきます」
二人は一礼して、書斎を出ていった。
玄関のほうで、まだ声がしておる。使用人が外套を出しておるのだろう。
わたしは紙を持って座っていた。
払う。
この家が、フェルディン家の借りたものを払う。
三年前のあの日、家令はこう言った。両家が一つになるのでございますから。当家も同じことをいたします。
当家も同じことをいたします。
今にして思えば、あの言葉が何を指しておったのか分からん。
こちらは金を借りておらん。借りておらんものに、向こうが何を書くというのだ。
外はもう暗い。ランプに手を伸ばして、そのままにしておいた。
扉が開いた。
「お父様」
テレーゼである。
わたしは顔を上げなかった。
「それは、何ですか」
長い間があった。
「……保証だ」
「何の」
「フェルディン家の借入の」
娘が机に寄る。
「これは、婚約が整った日ですね」
「そうだ」
「同じ日に、これへ署名なさったのですか」
「先方に頼まれた」
わたしは紙を置いた。
「伯爵家に頼まれて、男爵家が断れると思うか」
娘は答えなかった。
答えられまい。伯爵家と男爵家である。順というものがある。
「お義母様は、ご存じでしたか」
「知らん」
「エミーリアは」
「誰も知らん」
わたしはそこで顔を上げた。
「お前も、知らなかっただろう」
「はい」
娘はそう答えて、部屋を出ていった。
黙って出ていったのだから、分かったのだろう。
誰も知らなかったのである。ヘートヴィヒも知らん。エミーリアも知らん。この子も知らなかった。
誰も知らんことについて、一人だけが責めを負うという話はない。
わたしはランプに火を入れた。
九月に、テレーゼは十八になった。
その日、あの遺した金は娘のものになった。紙にそう書いてあったのだから、そのとおりになったのだろう。
わたしは夕方に、娘の部屋へ行った。
自分から行くのは四年ぶりである。
「テレーゼ」
「はい」
「……家が潰れる」
「存じています」
わたしは立ったままだった。
「あの金があれば」
「足りません」
娘は机の上の紙を、わたしの方へ向ける。
「お父様が保証しておられる額は、母の遺産の三倍です。全部お渡ししても、この家は潰れます。一年遅くなるだけです」
「この家の一年の上がりでは、利息にも足りません。北の村と東の林と屋敷を全部合わせて、ようやく届きます」
わたしは紙を見た。
数字が縦に並んでいる。上から順に、保証の額。遺産の額。引いた残り。売れるものと、その見込みの値。
字が細かい。
わたしは読むのをやめた。顔は上げずにおいた。
近ごろは灯りの下でないと、この手の細字は追えん。
「三倍か」
「三倍です」
娘は言い直さなかった。一度言ったことを、そのまま繰り返す。
合っているのだろう。この子は、合っておらんことを二度言わない。
「では、どうしろというのだ」
言ってから、思いついたことがあった。
「エミーリアの話を、白紙にすればよいのではないか」
娘はわたしを見た。
「逆でございます」
「なぜだ」
「いま向こうが待っておりますのは、この家から持参金が入る見込みがあるからです。婚約が続いておりますあいだは、待ちます」
「……」
「婚約が消えれば、その見込みも消えます。消えた日に、あの方たちはこの家へ来ます」
わたしは黙った。
三年前に署名したときも、こういう説明は誰もしなかった。
「では、どうしろというのだ」
「領地を切ってください」
娘は別の紙を出した。
「北の三つの村を先に手放してください。次が東の林です。屋敷は最後です。この順で切れば、男爵家は残ります。北の村は今年の作付けが終わっているので、今なら買い手がつきます。東の林は来年から伐採できるので、来年になると値が上がります。屋敷を先に売ると家名が消えますから、最後です」
わたしは紙を受け取った。
書いてあることが、順に並んでいる。何を先に売るか。なぜその順か。いつなら値がつくか。
こちらは数字ではない。言葉で書いてある。
これは読めた。
「……これを、いつ作った」
「七月です」
七月。
あの月、わたしは待っておった。婚約が生きているうちは騒がぬものである。
娘は書いていた。
わたしは紙を持ったまま、しばらく立っていた。
「テレーゼ」
「はい」
「三月に、お前が言ったことだが」
娘は待った。
言おうとしたことは決まっている。
三月にお前が言った一つめは、そのとおりになった。
ひとことである。
だが、ひとことでは済まん。
いま手に持っておるこの紙は、この子が書いたものだ。北の村も、東の林も、屋敷を最後に残す順も、全部この子が決めておる。
わたしはこれから、そのとおりに動く。
動いたうえで、三月も正しかったと言う。
男爵家の当主が、十八の娘に二度教わることになる。
一度でも多い。
「……もういい」
わたしはそう言って、部屋を出た。
十月に、エミーリアが嫁いだ。
式は小さかった。招いた客の半分が来ない。
日が悪かったのだと思う。十月は収穫の終わりで、どこの家も人手が要る。
フェルディン家からは、当日まで何も届かなかった。
馬車が支度されて、荷が積まれる。ヘートヴィヒは泣いていた。
わたしは玄関に立っていた。
エミーリアが馬車の前で止まって、こちらを向く。
「お父様」
「なんだ」
「あちらのお家は、大丈夫なのですよね」
わたしは娘を見た。
答えることはできる。
金がない。子がいる。名前が通らない。三月にテレーゼが並べた三つを、そのまま言えばよい。
七月に、三つとも本当だったことは分かっている。
言えば、この子は馬車に乗らない。
だが式は終わった。客は帰った。荷はもう積んである。今から止めれば、この家は二度笑われる。
「……行きなさい」
エミーリアは笑って、馬車に乗った。
窓から手を振る。わたしは頷いた。
娘が二人いて、一人は伯爵家へ行き、一人は屋敷に残った。三年前に思っていたのと、順序が入れ替わっただけである。
その月のうちに、わたしは北の三つの村を売りに出した。
娘の紙に書いてあったとおりである。作付けが終わっていたので、買い手は三人ついた。
東の林には手をつけなかった。来年になると値が上がる、と書いてあったからだ。
これで一つ片づいたと思った。
村の代金が入るより先に、あの二人がまた来た。
「本日は、お支払いのお願いに参りました」
「北の村を売った。金は月内に入る」
「足りません」
男は帳面を開いた。
「その額だと、ひと月ぶんの利息にしかなりません。元は減りません」
利息という言葉は知っておる。借りれば増える。それくらいは分かる。
分からんのは、増える速さのほうだった。
「東の林も売る」
「いつでしょう」
「来年だ。来年になれば値が上がる」
「それまで利息が付きます」
男は帳面を閉じた。
「屋敷と領地をまとめてお出しになるのが早いです」
わたしは断った。
断ったが、次の月も同じ二人が来た。
十一月に、あの紙を預かる者から書面が届いた。
救貧院が法人になったという知らせだった。理事が三人いると書いてある。テレーゼと、ヨナスという職員と、街の司祭。
分からんのは理事会である。三人のうち二人が首を振れば、娘にも動かせんと書いてある。
二度読んだ。三度読んでも同じである。
分かったのは一つだけだ。あの金は、もうこの家に来ない。
書面は引き出しへ入れず、書斎の棚に置いた。
同じころ、街の商人が麦を買いに来る。
「お嬢様が、組合に呼ばれたそうで」
「組合」
「商業組合でございます。フェルディン様のことでお呼びになったとか」
わたしは頷いた。
何のことか分からんので、それ以上は訊かずにおいた。
訊けば、この男はわたしが娘のことを知らんと思う。
男は麦を積んで帰っていった。
わたしは娘に文を出さなかった。
娘のほうからも来ない。
月の終わりに、屋敷と領地を手放した。
娘の紙には、屋敷は最後だと書いてあった。その順で切れば男爵家は残るとも書いてあった。
守るだけの時間がなかった。
十二月に、街外れの小さな家へ移った。部屋は三つある。使用人は置かん。
領地のない男爵である。爵位だけが残った。
屋敷が人手に渡ったので、テレーゼは救貧院へ移った。
荷は少なかった。手帳の入った箱が一つと、着替えだけである。
わたしは見送らなかった。
同じ月に、ヘートヴィヒが救貧院へ出かけた。
四年のあいだ、一度も足を向けなかった場所である。
帰りは早い。土間で外套も脱がずに、しばらく立っていた。
「テレーゼのところへ行ったのよ」
「そうか」
「断られたわ」
妻は椅子に座って、それから急に喋りだした。
「あの子、何でも紙にしてしまうのよ。書いて、よそへ預けてしまうの。理事会がどうとか、控えがどうとか。こちらには何も残らないの」
それ以上は訊かなかった。
訊けば、娘に何を言われたかを知りたがっていることになる。
それから、妻はよく喋るようになった。
「あの家に何もないなんて、誰も教えてくれなかったわ」
「そうだな」
「仕立て屋にも宝石商にも、うちが払ったのよ。あちらからは支度金が来るものでしょう。金貨一枚も寄越さなかった」
「そうだな」
ある晩、妻はこう言った。
「テレーゼが遺産を出していれば、こんなことにはならなかったのに」
「そうだな」
わたしはそう答えた。
テレーゼは足りないと言った。三倍だとも言った。
言われたときは、そうかと思ったものである。
いま思い返せば、三倍というのはあの子が読んだ数字である。わたしは読んでおらん。
救貧院までは、いま住んでおる家からでも歩いて三十分だ。
わたしは一度も行っていない。
その月のうちに、わたしは寝ついた。
医者は疲れだと言った。起きられん日が続いて、そのうち起きる用がなくなった。
妻は台所と寝間を行き来しておる。喋る相手がおらんので、わたしに喋る。
持ってきたものは少ない。
書斎はない。引き出しもない。
紙が一枚、枕元の箱に入っている。三年前の保証だ。
日付がある。わたしの名前がある。
もう払う相手のない紙である。屋敷も領地も渡したので、これで済んだことになっておる。
あの子も、この春に紙を書いておった。
妻がそう言うておった。何でも紙にして、よそへ預けてしまうと。
三月のあの日のことも、書いたに違いない。
何が書いてあるかは知らん。
あの日、この子は三つ話した。わたしは最後まで聞いた。聞いてから、女同士のことだと言った。
そのとおりに書いてあるのだろう。
見せてくれと言えば、見せるだろう。
言わん。
わたしは箱の蓋を閉めた。
娘は書いて、他人に預けた。わたしは書いて、引き出しに入れた。
同じように署名して、同じように日付を入れた紙だ。
違うのは、預けたかしまったかだけだった。
わたしは最後まで聞いた。
聞いて、何もしなかった。
することが、何もなかったからだ。




