なぜ「かの二人」はノーベル賞を受賞できないのか ――文章スタイルから考えるS・キングと村上春樹の「文学性」――
はじめに
毎年ノーベル賞発表の季節になると落ち着かなくなる方々が日本には一定数いらっしゃる。
そう、村上春樹氏のファンの方々である。
国内外に熱心なファンが大勢いらっしゃり、「ノーベル文学賞候補」と呼ばれて久しい氏が、今年こそ受賞するのではないか、いや受賞するに違いないと、皆が発表をドキドキしながら待ちわび……そして発表のたびに心底落胆し、うつむいたまま黙りこんでしまう……。
メディア報道でおなじみの、もはや風物詩といってよい光景である。
ファンからすると、このような反応をするのが当然だと思われるほどに「村上ワールド」は強く読者を惹きつけ、かけがえのない、珠玉の価値を持つものであるように感じさせる。
が……私――筆者は、残念ながら、彼がノーベル文学賞を受賞することはないだろうと踏んでいる。
彼の作品に顕著な文章スタイルが――その文章スタイルこそ、彼の作品がかくも多くの熱心な読者を獲得できている大きな要因となっているのであるが――ノーベル文学賞受賞作品に求められる「文学性」の要素からかけ離れている、と考えているからである。
村上春樹氏のその文章スタイルとはなにか。一体なぜそのスタイルではノーベル賞獲得に至らないのか。
そのことをわかりやすく解説するために、この文章では、現代アメリカを代表する作家であるにもかかわらず、ノーベル賞ととんと縁のない「もう一人の非ノーベル賞的作家」であるスティーブン・キング氏の文章スタイルと比較することで、考察していこうと思う。
1
S・キング氏(以下敬称略)と聞くと、「ああ、あのホラー作家ね」というレッテルで見ていらっしゃる方、今だに大勢いらっしゃるのではないだろうか。
確かに、初期のキングはひたすら怖い作品ばかりを上梓する作家として知られていた。が、中期以降になると、「ホラーの帝王」であり続ける一方、映画化されて大ヒットした『スタンド・バイ・ミー』や『刑務所のリタ・ヘイワース』(映画邦題『ショーシャンクの空に』)などといったハートウォーミングな作品も多く発表するようになった。
さらに、1990年代に大きな事故に遭って生死の境をさまよう経験をした後は、作風にかなりの変化があり、示唆的で暗示的、人生の教訓に富んだ、まさに「文学的」な作品を発表するようになる。
その頃からアメリカ国内での評価も、ひたすらコワいばかりを書く大衆作家、という評価から、心にしみる作品を書く作家、という評価へと変わっていく。「読むべき価値のある本」を推薦するアメリカ・ブッククラブにも何度も選ばれ、近年ではついに、ノーベル賞候補者としてその名が挙がるまでにもなった。
だが、今に至るまで、キングはノーベル文学賞を受賞していない。
現在、日本の誇る「文豪」である村上春樹と同じかそれ以上の「文学的影響力」を誇り、多くの読者から支持を得ている彼が、なにゆえノーベル賞を受賞できないのだろうか。
作品がホラー臭――というか、ホラー的発想、あるいはファンタジー的発想の強いものばかりだからだろうか?
しかし、「ホラー的発想」ということでいえば、1983年のノーベル文学賞受賞者であるウィリアム・ゴールディングの代表作である『蝿の王』はホラー的発想を濃厚に含んでいるし、「ファンタジー的発想」ということでいえば、1982年の受賞者であるガルシア・マルケスや、2017年受賞のカズオ・イシグロの諸作品には、かなりファンタジックな表現が見られる。
そのことから考えると、「ホラー的」「ファンタジー的」であることは、キングがノーベル賞を受賞できない理由にはなりえない。
では、キングが「エンターテイメント作家」「大衆文学作家」であるから、「文学賞」を受賞できないのであろうか。
しかし、「大衆的」「エンターテインメント」という観点でいえば、2016年にノーベル賞を受賞したボブ・ディランなど、まさに「大衆的エンターテインメント」の権化であるロック歌手である。その彼が受賞できているのだから、こと「大衆性」「エンターテインメント性」はキングがノーベル賞を受賞できない理由にならないだろう。
とすると、考えられる理由はただ一つ。
キングの「文学」自体に、ノーベル賞にふさわしくない――というか、ノーベル賞として評価するにはそぐわない――何かがあるのだ。
一体それは、なにか?
私は――村上春樹と同じく――キングの文章スタイルに理由があるのではないかとにらんでいる。
もっと具体的にいおう。
キングは、作品中に比喩を多用する。
その「比喩表現」こそが、彼をノーベル賞から遠ざけているのではないか、と私は考えているのである。
そのように述べたところで、「比喩なんて、作家なら大体皆使ってるじゃん。なのに、なんでキングだけ、その比喩が問題となるの?」と思われる方がほとんどであろうと思われる。
一体どうして、どういう点で「キングの比喩」は特別なのか、そのことについて、まずは解説していきたい。
2
キングは、デビュー当時よりその文章力には注目されていた。
例えば、彼の初期短編集の一冊である『トウモロコシ畑の子どもたち』(扶桑社ミステリー文庫・1988年刊)では、巻末にSF作家の新井素子が<解説>として「スティーヴン・キングについての、ま、いわばエッセイみたいなもの」という文章を寄せているが、その中で、
「(『クージョ』という作品について述べた後)……一本ちゃんと筋のとおった、とてつもなくしっかりした構成と、それを支えてなお余りある、圧倒的な文章力がなきゃ、できない芸当だと思うんです。」
と激賞している。
この「圧倒的な文章力」を支える一つの支柱となっているのが、私が考えるに、彼の比喩である。
このことについて、米国指折りの推理・SF作家であるジョン・D・マクドナルドが、キングの初期短編集の一冊である『深夜勤務』(サンケイ文庫・昭和61年刊)の巻頭に寄せた『紹介のことば』で、
「文章表現というのは、簡潔で、意表を衝き、しかも物語に魅きつけられている読者の緊張状態を損なわないものでなくてはならない」とした上で、『深夜勤務』中の一作である「トラック」の一節、
「彼はセールスマンで、仕事カバンをぴったり引き寄せている。そのカバンは、まるで眠り込んだペットの犬みたいだ」
を引用し、「実に簡潔ではないか」と評している。
すなわち同業の――それも大先輩である作家の目からしても、「カバン」を「眠り込んだペットの犬」に喩えたこの表現、簡潔にして読者の意表を衝き、緊張状態を損なわない、素晴らしいものである、ということであろう。
さてここで、この「比喩」のどこが「素晴らしい」のか――つまりは「素晴らしい比喩」とはどういうものか――ということを少々考えてみたい。
そもそも比喩とはなにか。
手っ取り早くネット検索に「比喩とは」と打ち込んでみると、AI回答として、
「ある事柄や感情を、似た特徴をもつ別のものにたとえて表現し、意味やイメージをわかりやすく、印象的に伝える技法」
と出てくる。
その後にヒットしたデジタル大辞泉や世界大百科事典の解説を見ても、同様の解説がなされている――世界大百科事典では、その上で「ある言語を他の言語と置き換えることで、新しい創造的な認識を言語化させる」という機能についても言及している――ことからみて、比喩とは大方、先のAI回答の通り、「あるものごとを他のものごとになぞらえることで、意味やイメージをわかりやすく、そして新鮮に伝える方法」として理解すればいいかと思われる。
この線に沿って先のキングの「眠り込んだペットの犬」について考えてみる。
ちなみに、この「トラック」という作品では、「眠り込んだ犬」の表現の直前、物語の冒頭部分に、
「男の名はスノッドグラスといった。なにか無茶なことをやりそうな風貌である。白目を剥いたその大きな目は、いまにも喧嘩をおっぱじめそうな犬みたいだ。」
という、こちらも犬に関する比喩が使われているので、これも考慮に入れ分析してみる。
まずキングは、男の「白目を剥いた大きな目」を「喧嘩をおっぱじめそうな犬」に喩えることで、男が大きく目を見開いているが、(おそらくは)なにやら過剰なマイナス感情の影響により、瞳孔がすぼまっている状態であること、そして、「喧嘩をおっぱじめそうな犬」という表現によって、男の感じているその感情が激烈な恐怖や怒りであること――つまりは、男が追いつめられた精神状態であることを効果的に表現している。
その上で、男の持ち物である「カバン」が「眠り込んだペットの犬」に喩えることで、切羽詰まった男の精神状態とは裏腹に、カバンは「おとなしく、されるがままの素直な」状態――つまりは「日常」的な状態であることを示し、さらに、「眠り込んだ」ということばをつけ加えることで、そのカバンがいかにもくったりとした、使い込んだものである印象を添え、さらに、その使い込んだ仕事カバンを男がぴったり引き寄せていることで、男が「仕事」というものを人生の重大事としてとらえていることと示している。
そして、これらの状況全体から、男が日常に安住するタイプの人間で、今現在、非常な恐怖を感じるような「非日常的な状況」に陥っている中、「日常」や「仕事」を象徴するカバンにすがりつくことにより、かろうじて「非日常」に対峙していることを暗示しているのである。
つまりキングは、冒頭の10行に満たない一段落に比喩を二つ盛り込んだだけで、男の性格、現在の切羽詰まった状況、それに対する感情と、そしてこの先どのような展開が待っているかという予感までも読者に感じさせることに成功しているのである。
まさにマクドナルドの言うとおり「実に簡潔ではないか」。
この分析からご理解いただけるかと思うが、比喩とは簡潔な表現によって「あることがら、状況、感情」といったものを「より正確に」説明し、読者に伝え、さらにそれらのものに「新たなイメージ」をつけ加える、といった働きがある。つまり、AI回答の比喩の説明における「わかりやすく」とは、「より正確に」「ピンポイントに」という意味なのである(ここのところ、非常に大事なところなので、もう一度言っておく。比喩の役割は一般的に「なにかをより正確に、ピンポイントに、的を絞って読者に伝えること」なのである)。
キングは、この「簡潔にして正確な比喩」の名手である。
じっくりと腰をすえて文章を構成する長編にも散見できるが、それよりも長さに制限のある中短編の方が、当然ながらより鋭く的確な比喩が多い。なので、それらを少々挙げてみたい。
短編集『ドランのキャデラック』(文春文庫・2006年刊)中の一編、『争いが終わるとき』には、万能型の天才を表現するにあたり、
「彼らはいわば巨大なコンパスのようなもので、長い間あてもなしに真北を捜して揺れ動き、やがて猛烈な勢いでぴたりと真北を指す。」
という比喩を用いている。
自分がなにをすべきか、本当の目的が分からないうちは有り余る才能をさまざまな方向へと振り向け、それぞれの分野においてそれなりの業績が残すが、やがて自らがなにをなすべきか悟ると同時に、その研究へと没頭し、偉大な業績を残す偉人たちをぴたりと言い当てた表現ということができるだろう。
同時期の短編集――というか、そもそも米国では一冊で出された短編集を日本で文庫するに当たり、分冊化したものなのであるが――である『メイプル・ストリートの家』(文春文庫・2006年刊)に収録されている「かわいい子馬」には、死期の近づいた老人が自らの心臓の異常を感じ取った際の状況を、
「心臓が、羽根の間にトランプのひっかかった扇風機のようになったように感じられた」と表現した一節がある。
扇風機の羽根が不規則に当たり、ばたばたと大きな音を不規則に立てて暴れ回る様子が、発作により不規則で性急な鼓動を弱った心臓の様子を的確に表しているといっていいだろう。
他にも恨めしげな目つきで自分を見つめる夫を評して、
「夫はどちらかと言えば面長だから、羊と同居しているみたいな気になった。」(『夕暮れを過ぎて』(文春文庫・2009年刊)所収「ジンジャーブレッド・ガール」)としてみたり、
「離婚して、子どもが大きくなってからは――ああ、これも違う意味での離婚みたいなもので、同じようにしんどいものですよ。」(『夜が始まるとき』(文春文庫・2010年刊)所収「N」)と、初老を迎えての孤独のつらさを表現してみたり。
さらに、これは映画の中でも効果的な台詞として用いられていたから、ご存じの方もいらっしゃるかもしれないが、縦にも横にも大きいトラックドライバーの男をみて、主人公の女性作家がもらす、
「なんとなく、トラックに乗ってるというよりトラックを着てるみたいだなと思って」(『ビック・ドライバー(文春文庫・2013年刊)所収表題作)
という秀逸な形容など、枚挙にいとまがない。
これはおそらく、キングが物書きとしてのキャリアのごく初期、スポーツ記事を書いていたことに関係があると思われる。
スポーツ記事は雑誌や新聞記事の中でもかなり特殊なものであり、その試合をテレビやラジオ、実地観戦等できなかった読者にも、試合の流れや見せ場について分かりやすく、簡潔に、しかも――前述した条件と矛盾するようだが――既に試合を観戦した読者にも、その時の興奮や期待の気持ちがありありと思い出せるように書いていく必要がある。
まさに、「簡潔で、意表を衝き、しかも物語に魅きつけられている読者の緊張状態を損なわないものでなくてはならない」わけだ。
修業時代にこういった文章を書いていたことで、キングの文章力――特に、比喩を中心とした描写力に磨きをかけることができたのではないだろうか。
3
さて、キングの比喩について一通り述べたところで、今度は村上春樹のほうに目を移してみたい。
彼も、作品中にさまざまな比喩を用いることが一つの特徴となっている作家である。
で、彼の比喩のおもしろいところは、「ハルキスト」と呼ばれる熱狂的なファンの皆さんからすると、「暗示的で味わい深い、非情に趣のある」ように思われる比喩表現が、一方の「アンチ村上」派の人々からすると、「特殊で、しかも比喩として機能していない迷比喩」とまで酷評されてしまうところである。
例えば、そのハルキストの一人(であると思われる)ナカムラクニオの著作で、『村上春樹にならう「おいしい文章」のための47のルール』という本がある(ちくま文庫・2019年刊)。これは、タイトルそのまま、村上春樹の文章を分析した上で、その味のある文章を自ら文章を書くためのヒントとして読者に示したものなのだが、その中で、村上春樹の作品内で使用されている「味わい深い」比喩が数十挙げられている。
が、これらの比喩、アンチ村上派の書き手にかかると、比喩として成立していない「迷比喩」だと酷評されてしまうのである。
投稿サイト「カクヨム」等に投稿されているカイ壬という著者による『三百枚書けるようになるお得な「小説の書き方」コラム』という作品の連載1053回「対決篇:村上春樹氏の迷比喩」では、このナカムラクニオの『村上春樹にならう「おいしい文章」のための47のルール』で挙げられている比喩、
「店の中には煙草とウィスキーとフライド・ポテトと腋の下と下水の匂いが、バウムクーヘンのようにきちんと重なり合って淀んでいる。」(『風の歌を聴け』第10章)
について、
「比喩だとしても助詞「と」を使いすぎです。臭いものに「バウムクーヘンのように」と食べ物を用いるのはイメージが飛躍しすぎて、比喩になっていません。そもそも匂いの層が視覚化されているのでしょうか。そうだとしたら腋の下と下水が隣り合っていることになりますよね。このあたりも比喩として機能していません。」
とかなり辛らつに批評し、あるいはまた、
「まるで誰かが巨大なロースト・ビーフをのっぺりとした壁に思いきり投げつけたときの音のようだった。」(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』第23章)
についても、
「これも意味がよくわからない比喩です。音を選ぶときに物を投げつけるのは比喩としてよくあります。これを細かく「巨大なロースト・ビーフ」を「のっぺりとした壁に」というのは発想が飛躍しすぎで、読み手がついてこれません。」
とこき下ろしている(他にもいくつかの比喩が挙げられているが、全てこの調子の、手厳しい批判ばかりである)。
確かに先に挙げたキングの比喩に比べ、村上春樹の比喩はカイ壬の指摘するとおり、ぼんやりとしてなにが言いたいのかはっきりしないものが多い。まさに「迷比喩」、読者にきちんとしたイメージが伝えられていないことになる。
しかし、だとすると謎が残る。
村上春樹は、「ここぞ」というところ――読者を文章に引き込んだり、感動させたりする「勘所」で、これらの「迷比喩」を持ってくることが多い。もし、これが単なる「迷比喩」であるとするなら、その時点で「なんだよ、このわけの分からないたとえは!」と読者は一瞬で冷めてしまい、結果、物語を楽しめなくなってしまうはずだ(おそらく「アンチ村上」のほとんどの方は、実際にそのような体験をしているがゆえに「アンチ村上」なのであろうと思われる)。
だがその一方で、これらの「迷比喩」にもめげず――というより、それらを味わい深いものとして楽しみ、深く「村上ワールド」と呼ばれる作品世界にのめり込んでいるいく読者も、一定数――というより、かなり大勢――存在する。
こういったハルキストたちを、「物語を読むのに慣れていない、つまらない作品にのめり込む読者である」と切り捨ててしまうのはたやすい。
だが、かくも大勢の読者を惹きつけることに成功している以上――たとえそれが、「文学的玄人」からすると、子供だましにしか思えないようなものであっても――そこにはなんらかの魅力があるからに違いない。
それどころか――実のところ、私はこの「迷比喩」こそが、村上春樹の作品群の文学的魅力を支える、非常に巧妙な表現技法ではないかと考えているのである。
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そのような視点から、改めて先ほど酷評されていた比喩、
「まるで誰かが巨大なロースト・ビーフをのっぺりとした壁に思いきり投げつけたときの音のようだった。」
について考えてみよう。
これは「ある物音」を、「巨大なロースト・ビーフをのっぺりとした壁に思いきり投げつけたときの音」に喩えた比喩である。
一見さらりと読み流してしまいそうな表現だが、よくよく検証してみると、かなりの問題点を含んでいる。
まず、「巨大なローストビーフ」だが、これは一体どの程度の大きさなのか、全く分からない。通常のローストビーフはせいぜい小学生の手のひらと同じか、それよりやや小さいぐらいのサイズだから、それと比較してかなり大きいもの――大人の手のひらサイズであったり、フライパンサイズであったり、あるいはもっと大きく、座布団とか掛け布団サイズであったりする可能性もある。それらの大きさがどれくらいなのかは、読者の想像に全て委ねられる。
同様のことは、「のっぺりとした壁」にも、「思い切り投げつける」にも当てはまる。
「のっぺりとした」というのは「平板な」「凹凸のない」という意味であろうが、材質がなんなのか判然としない。コンクリートなのか、プラスチックなのか、金属なのか、土壁なのか、それとも、こんにゃくのようなぷるぷるしたものでできているのか。
「思い切り」も、力一杯振りかぶって投げるのか、両手で横に振り回して投げるのか、助走をつけて投げるのか、それともなにか違う投げ方をするのか、全くわからない。
少々注意して読んでみると分かるが、村上春樹の比喩はこの種のものが大変多い。
「巨大な」「小さい」「ゆっくりとした」「思い切り」「じっくりと」「冷たい」「温かい」「ぼんやりとした」などといった形容詞を使ってみたり、「ある~のような」という、映画や文学作品、建築物などになぞらえるたとえである。
そもそも形容詞とは、ある状態をざっくり表現する言葉であり、ものごとを正確に描写するのには不向きな言葉だ。だから、そもそも「なにかをより正確に、ピンポイントに、的を絞って読者に伝えること」をその役割とする比喩には、本来不向きな言葉なのである(比喩のもう一つの効果である「ある物事に他のイメージをつけ加えることで、新鮮な言語イメージを与えることには成功しているように思われるが)。
作家本人が、あるいは登場人物が感じているであろう「ものごとのある特別な印象」を現そうとして比喩を使っているはずなのに、それらに形容詞や作品名をぶち込むことによって、逆にそのイメージをぼんやりとした、読者に伝わりにくいものにしてしまっている……老練な読者である「アンチ村上」の方々は、そのようにこれらの比喩を解釈しているからこそ「迷比喩」「比喩として成立していない」などと評しているのであろう。
だが、これらの比喩が、「ものごとの特別な印象」を「よりピンポイントに」読者に伝える、ということ以外の役割を担っている、と考えると、話は違ってくる。
それを理解するために、一般的な読者が村上作品を読み、このような比喩表現に突き当たるとどのような反応をするか、考えてみよう。
ストーリー進行の最中、それも、かなりの「勘所」と思われる箇所で、突然放り込まれる、
「まるで誰かが巨大なロースト・ビーフをのっぺりとした壁に思いきり投げつけたときの音のようだった。」
というような表現。
読者は当然、意識的、あるいは無意識のうちに、その音がどのような音であったか、比喩を手がかりに「正確な」理解をしようと試みる。
だが、村上春樹の比喩は、それを許さない。
「巨大な」「のっぺりした」「思い切り」などといった「焦点をぼやかす」表現が、そして、誰もがそうそう手に持ったことなどないゆえに想像するのが難しいローストビーフの質感が、またあるいは、材質や、立っている角度、大きさ、固さなどが一切指定されない「のっぺりした壁」や、対象にどれほどの速度や衝撃力を与えるのかはっきりしない「思い切り」という表現が、読者が脳内に正確なイメージを構築しようとするのを阻むのである。
もし、自分の文章読解力に自信をもっており、物語に没入するかたわら批判的な眼を常に作品に向けている、数少ない「老練な読者」であれば、この比喩を読んだ時点で、「なんだ、このなまくらな比喩は。場面のイメージがちっともはっきりしないじゃないか。へったくそなたとえだな」と切り捨てることができる。
だが、そこまで読解力を鍛え上げていない、一般的な読者はどうか。
比喩とは「ものごとを簡潔で正確に描写する」ためのものであるはずである。そして、この「ローストビーフを壁に投げつける」という比喩表現は、詠み手の意表を衝いた、いかにも意味ありげなものだ。ということは、これはこの場面に必須の「なにか正確な情景」を表しているに違いない。それが読み取れないのは――実際にはそうではないのだが――自分の読解力が未熟なせいだと思うに違いない。
そこで読者は、無意識のうちに自らの記憶を探りはじめる。
「巨大なローストビーフ」は、きっと「こんにゃくぐらいの大きさ・固さ」ぐらいのものに違いない。「のっぺりとした壁」はコンクリートの分厚い壁で、そこに思い切り投げた時の音は、べしゃっというしめった音に違いない、などと想像を巡らした上で、
「そうだ、この「ローストビーフが壁に当たった音」とは、私がいじめられていたとき、友達から投げつけられたぞうきんが壁に当たった時の、あの印象深い音によく似た音に違いない!」
などと解釈するのである。
あるいは、自らの記憶を探った上で、
「巨大なローストビーフ」は、座布団のような重さ、厚さ、固さで、それが鉄板でできたうすい壁にぶつかり、ずうんと下腹に響くような音を立てたに違いない、などと想像を巡らし、
「そうか、この「ローストビーフ」が壁に当たった音」とは、自分が大好きなあのバンドのバラード曲のオープニングにベースが響かせる重低音によく似た音なんだ」
などと解釈するかもしれない。
なにしろこの「ローストビーフを壁にぶつけた」という比喩、使われている表現がなんとも曖昧である。そのため、読者はその「音」をさまざまに――かなり広い範囲で解釈し、一人一人オリジナルな「音」として解釈することが可能なのである。
そして、こういう「意味ありげな」表現である以上、その時イメージする「音」も、読者それぞれの記憶の中で「最も印象深い」と思っている――インパクトの大きかったものごとに紐付けられている――ものとなりがちである。
この一連の心理的作用の結果、読者は村上春樹に対して、こう感じるようになる。
「ああ、この作家は、僕/私と同じような経験をし、同じように印象深いと思っている「音」について、こう表現したに違いない。彼はきっと自分とよく似た感性を持った人物で、その彼が私の内面を代弁するかのようにこの物語を書いてくれたのだ。この物語は、自分のために書かれた物語なのだ!」
5
おわかりだろうか。
本来物語としてよりピンポイントな「具体性」を示すべき箇所において、あえてその印象をぼやけさせ、曖昧にする――「迷比喩」を使用する――ことにより、読者の中の「印象深いものごと」を想起させ、ストーリーのその場面になぞらえさせることによって、物語そのものに対する読者の親和性をより高め、ストーリーに没入させていく……村上春樹の比喩は、そういった役割を果たしているのである。
これは、彼がもともとジャズ喫茶/ジャズバーを経営していたという経歴が関係しているのではないかと思われる。
飲食店――それも「食」ではなく「飲」をメインとする喫茶店やバーという類いの店では、「居心地の良さ」がなにより大事となる。お客が「ここはくつろげる場所だ」「ここにいると落ち着く」などと思い、足繁く通うことで、収入が安定するからである。
それには、内装や机、椅子といったインテリアから醸し出される雰囲気がいいのはもちろん、初めてのお客であっても退屈したり、居心地の悪い思いをしたりすることのないよう、心を配らなければならない。
その時に必要となるのが話術だ。
初めての来店で雰囲気に飲まれ、緊張しているお客がいたら、さりげなく声をかけたりして、少しでもリラックスしてもらえるよう、心をくだく。
常連になりかけの一人客が悩み事を打ち明けてきたり、相談事を持ちかけたりしたときには、黙って話を聞き、時にはお節介にならない程度にアドバイスをし、気持ちが安らぐようにしてやる。間違っても「つまらない悩み事だね」とか「そんな愚痴につきあっているヒマはないよ」などと切り捨ててはいけない。あくまでお客に寄り添う形で、しかも踏み込みすぎることなく、相手の気の済むような形で話し相手を務める。
それが「居心地の良さ」につながっていく。
村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』と、それに続く『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』――この三作品を合わせて「鼠三部作」と呼ぶらしい――には、「ジェイ」というバーテンダーが登場する。
彼は中国人だが、日本人である主人公よりうまい日本語を話し、寡黙で、自分からはめったに客に話しかけたりはしない。しかしながら、常に客に気を配っていて、話しかけられれば気の利いた答えを返し、主人公を感心させる。
常連客である「僕」と「鼠」にはことに気をかけていて、なにかと二人を心配し、相談に乗ったりもする。いわば、「理想的なバーテンダー」とでもいうべき存在である。
その彼が、妙に能弁になるのが『1973年のピンボール』である。
人生に、将来に戸惑い、どこへも進めぬまま悩む「鼠」が閉店後のバーを訪ねると、そこで座って煙草を吸っていたしたジェイが機嫌良さそうに招き入れてくれる場面。
「ジェイはおそろしく静かな男だった。自分のことは何ひとつしゃべらなかったし、誰かが質問しても注意深く引き出しを開けるようにいつもさしさわりのない答を出してくるだけだった。」
と描写しておきながら、ジェイはその後すぐ、自宅で飼っている猫について、饒舌に語りはじめる。その猫がある日、片手をぐしゃぐしゃにして帰ってきた、誰かが悪戯したのかもしれない、といった後で、
「そうさ、猫の手を潰す必要なんて何処にもない。とてもおとなしい猫だし、悪いことなんてなにもしやしないんだ。それに猫の手を潰したからって誰が得するわけでもない。無意味だし、ひどすぎる。でもね、世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ。あたしにも理解できない、あんたにも理解できない。でもそれは確かに存在しているんだ。取り囲まれてるって言ったっていいかもしれないね」
と長い言葉を吐き出す。
注目してほしいのは、この後半部分である。
「世の中には理由もない悪意が山とある」「それは確かに存在している」「取り囲まれていると言ったっていいかもしれない」
鼠がなにごとか悩んでいることに対し、それに対し寄り添いながら、直接その事についてのアドバイスをするのではなく、実に曖昧な「悪意」について言及することで、「生きにくいのはよく分かる」とジェイは暗にほのめかしているのである。
そして当然この部分は、読者へのメッセージにもなっている。
「あなたが誠実に生きようとしているのにうまく生きられないのはあなたのせいではなくて、あなたが取り囲まれている「理由もない悪意」のせいなのだ」
と曖昧きわまりない表現を使い語りかけることで、不特定多数の読者に、
「そうか、自分の人生が辛いのは、両親の/兄弟の/クラスメートの/友達の/彼氏の/彼女の/周囲の大人の/子どもの/上司の/職場の人間の/顧客の/その他諸々のせいだったんだ!」
と思わせ、このバーテンダーは、そして作者は、そういった「つらさ」に悩んでいる自分をよく理解し、その自分を救済するためにこの物語を書いてくれたんだ、と思わせる構造になっている。
さらに、同作品で再び閉店後、「鼠」が訪れる場面では、
「「問題は、」とジェイが言った。「あんた自身が変ろうとしていることだ。そうだね?」」
「人間てのはね、驚くほど不器用にできてる。あんたが考えてるよりずっとね。」
「ねえ、誰かが言ったよ。ゆっくり歩け、そしてたっぷり水を飲めってね。」
と、「鼠」の――読者の悩みを(曖昧に)言い当てた上で、「あなたに限らず人は皆不器用だ。あなたも自分で思っている以上に不器用なんだから、急いで変わる必要はない。ゆっくり歩いて、たっぷり水を飲めばいい」
と、悩みを抱えるお客――読者に寄り添い、誰にでも当てはまる上、一体なにを象徴しているのかよく分からない――それ故、誰にでも思い当たる節がある――アドバイスを披露するのである。
村上春樹の「比喩」とは、まさにこの「理想のバーテンダー」ジェイが客に向かって話すサービストークそのものなのである。
また、村上春樹は「小説を書く」ということ――自らの創作姿勢について、次のように述べている。
「部屋をこしらえて、そこに人を呼び、座り心地のいい椅子に座らせ、おいしい飲み物を出し、その場所を相手にすっかり気に入らせてしまう。そこがまるで自分だけのために用意された場所であるように、相手に感じさせてしまう。それが、優れた正しい物語のあり方だと考えます。」(『雑文集』2011年刊・「遠くまで旅する部屋」)
この文章から、彼は自分の作品を誰か――不特定多数の人間にとって「自分だけのために用意された場所」であるかのように感じさせることを目標として、創作を行っていることが読み取れる。
つまり、彼は意図的に作品を読んだ読者が「これは私のために書かれた本だ」と思い込むよう意識しながら作品を創作している、ということになる。
彼の比喩は、そのために彼が用意した小道具――つまり、彼が読者へと差し出す「おいしい飲み物」なのである。
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さて、ここまで、スティーブン・キングと村上春樹という卓越した作家両名の作品に見受けられる特徴を「比喩」に着目することで分析してきた。
これらの分析を元に、いよいよなぜ彼らがノーベル文学賞を獲得できないのか、考えてみよう。
ある文学作品を――そのエンターテイメント性ではなく――「文学性」「芸術性」という観点から評価するにあたり、その基準となるものは、おそらく「感動」であろう(この場合の「感動」とは、「うわあ、なんていい話だ!」というような「感激」を意味する「狭い意味での感動」ではなく、その作品を読むことで、どのような方向性であろうとも、とにかく心揺さぶられること、といった「広い意味での感動」を指していると思っていただきたい)。
それまで誰も注意を払わなかったような出来事や「心の動き」に着目したり、あるいは、誰もが書くのをためらうようなものごとについてに正面から見据えたりする。そして、それらをクローズアップして読者に意識させることによって「心を揺さぶる」。その揺れ幅が大きいほど、そして、「心の揺れた」人間の数が多ければ多いほど、その作品は「名作」となる……「文学作品の文学賞的な価値」とは、そういう基準で決まるではないだろうか。
すなわち、ある作品の文学的価値とは、「どれだけ多くの人間を揺さぶったか(感動した人間の数)」と「どれほど大きく人の心を揺さぶったか(感動の量)」を掛け合わせた総量によって決まる、ということになる。
ざっくりいって、タテの長さを感動量、ヨコの長さを感動した人数として、その両者をかけあわせた長方形の面積が、の作品の文学的価値だと思ってもらえればよいかと思う。
ただし、ここで注意してほしいのは、いくら「多くの人間を揺さぶった」からといって、その「感動量」がほんの少しであったりする作品や、その逆に、特定個人をものすごく大きく揺さぶる作品であったとしても、ごくわずかな人数にしかその影響を及ぼさない作品は、文学作品として評価が低い、という点である。
「感動した人数」と「感動量」の総量が同じである場合、その人数と量のバランスが極端であるものよりも、バランスよく揃った――極端に縦や横に扁平な長方形ではなく、なるべく正方形に近い形を取る文学作品こそが、芸術性の高いものだと見なされやすい、ということである。
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ここまでを前提として、では、キングとハルキの二人の作品について、この「文学賞的な価値」という面から、それぞれ考えてみよう。
まず、S・キングの作品群。
さすが「キングオブホラー」と呼ばれるだけあって、彼の作品は元来「ホラー的発想」によって構成されているものが多い。
その構成とは、「ありふれた町――それも大体は田舎町――に住む、ありふれた主人公(生活水準低めから、せいぜい上の中ぐらい、仕事を持って働き、家族か恋人がいて、友達もそれなりにいる)がありふれた生活を送っている。そこへ、なんらかの前兆から通常ではあり得ない出来事が起こり、そこから「日常」が急速に崩壊していく……」といったものである。
で、この「ありふれた町におけるありふれた生活」を描写する際によく用いられるのが、彼の「簡潔にして正確な比喩」である。
ある状況や感情などをぴしりと限定する比喩を用いることで、登場人物――主人公の正確や生活水準、性癖などといったことどもを正確に読者に伝えることで、その人物が「どこをとっても「そこらにいる」人間の枠をはみ出ることのない――あるいは、はみ出ているとしてもそれをうまく隠している――ありふれた平凡な人物であること」を示し、それらを積み重ねていくことで、「ありふれた町のありふれた生活」を読者に印象づけていくのである。
キングの文章といえば、車の車種名に始まって、チェーンソーやスーパーマーケット、コインランドリーの商店名、制酸剤や安定剤の名前や、果ては洗濯洗剤やたわしなどのブランド名に至るまで、ありとあらゆる生活用品の名前を克明に挙げていくことでも知られているが、これも、もちろんその「ありふれた町のありふれた生活」を読者に印象づけるための描写である(これらの描写を克明に行いすぎることが原因で、彼自ら「文学的象皮病」と自嘲する、作品がどんどん長くなってしまう状態に陥りがちなのであろう)。
たとえて言えばそれは、緻密に書かれた『ありふれた生活』の設計図のようなものだ。
精密に計算された細かい部品――平凡だが癖のある登場人物、町の様子や人物の性格を現す簡潔にして正確な比喩、ありふれた生活用品、登場人物の関係をそのまま体現している会話など――により、一ミリの狂いもなく構成された精緻な構造物の中に、たった一箇所、おかしな部品が紛れ込む。
精緻な設計は、そのおかしな部品一つによってゆがみ、バランスを崩し、腐食し、傾いて、ついには全てが無残に崩壊する……キングの文学とは、本質的にそういった構造を持っているのと思われる。
読者は、その精緻な設計に安心して心を委ね、読み進むうち、そこに紛れ込んだ「悪意の部品」によって崩壊する生活を目の当たりにすることになる。それはとりもなおさず、安定して壊れることのない、「平凡でありふれた」自らの生活が、いつ何時、ちょっとしたことでもろくも崩壊するか分からない、と思い知らされることである。
だからこそ、キングの作品は「怖い」のだ。
だが、この構造には致命的な欠陥がある。
読者の心を「崩壊」により揺さぶるためには、その前の「ありふれた生活」をできうる限り精緻に組み上げていく必要がある。
その部分が精緻であればあるほど、「崩壊」のインパクトは大きく、みてて辛い――心揺さぶるものとなるからだ。
だからキングは、偏執狂的ともいえるしつこさで、これでもか、これでもかとディテールを書き込んでいく。
そうやって書き込めば書き込むほど、「ありふれた生活」はリアルで精緻になるのだが、その一方で、「イメージについていける」人間をどんどんふり落としていくことになってしまうのだ。
例えば、「ブリロ」と言われて、それが何か分かるだろうか?
これは、あらかじめ合成洗剤が含まれたスチールウール製たわしのことで、アメリカのショッピングセンターではメジャーに売られているものであり、鍋の焦げ付きや錆落としによく使われる商品であるらしい。
だが、アメリカの地方都市で平均的な生活を送っているアメリカ人以外で、その商品名を読んで「ああ!」と思う人間が、一体どれだけいるだろうか。
あるいは「リップル」はどうだろうか?(1960年代~70年代にアメリカで人気だった、低価格の甘口ワインらしい。)
あるいは「シュリッツ・ライト」「キルバーサ・ソーセージ」「テレビ・ディナー」などはどうだろうか?
こういった商品名だけでなく、例えば「薬局にペーパーバックや雑誌類が売って」いたり、「裏庭でのバーベキューを背景にしたビールのコマーシャルでしかお目にかかれないような、ペイズリー織の帯のついたサマーハット」(以上、『骸骨乗組員』(サンケイ文庫・昭和61年刊収録の「霧」より)という描写があったりする。
ある程度アメリカ文化に詳しいか、あるいはアメリカで生活をしたことのある読者であれば「ああ!」と思うのかもしれないが、そうでない読者には、全くもってぼんやりとしたイメージしかできないか、あるいは全くイメージできないものばかりである。
おわかりだろうか。
つまり、「ありふれた生活」のリアリティを追求すればするほど、それは「(世界的な)一般性」をなくし、「アメリカ文化の中で育った平均的アメリカ人」でなければ理解できないものとなっていってしまうのである。
「怖い――人の心を揺るがす――作品」を書こうとして「ありふれた生活」のリアリティを精緻に描写すればするほど、その対象となり得る読者は制限され、逆に、多くの読者を怖がらせようと、「生活のリアリティ」を削ると、怖さそのものが薄れてしまう。「ホラー小説」あるいは「ホラー的発想を念頭に置いて書かれた小説」には、そのような欠陥が常につきまとう宿命があるのだ。
これはおそらく「恐怖」や「嫌悪」といったマイナス感情というものが、我々の思っている以上に国や地域などの文化によって縛られている、ということに原因があるのだろうと思われる。
敬虔なイスラム教徒が「豚肉を食べる」ことに対する「嫌悪感・恐怖感」を、日本人は(おそらく)想像することすらできないし、その逆に、我々日本人がサメに対してもっている恐怖感を、砂漠に住む民方々が理解できるとは思えない。さらに言えば、同じ日本人同士であっても、ヘビは怖いがクモは平気、という人がいるかと思えば、クモは平気だけどヘビはダメ、という人がいたり、ヘビもクモも平気だけどゴキブリだけはダメという人がいたりする。かにかくに、「恐怖」という感情は国により、文化により、生育歴により、個人の性向により、千差万別なのである。
「そうはいっても、死に対する恐怖感は全人類に共通するんじゃないのか?」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれない。確かに「死に対する漠然とした恐怖」は、人類の大多数が共通して持つ感情なのかもしれない。しかし、より具体的に「死をありありと感じる状況」として考えるとどうだろうか。キリスト教文化の国々は、土葬が基本であり、しかも、安らかな死を邪魔するのは悪魔的な操作によるものだ、という意識があるため、「ゾンビ」はかなり怖いオバケであるらしいが、我々日本人にとってはそこまで怖いものではなく、他に山ほどいるオバケの一種に過ぎないという認識が一般的であるように思われるのだが、どうだろうか。
もちろん、ノーベル賞を受賞した作家の作品にも「怖さ」を感じさせるものはある。
先に挙げたウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』は、その最たるものだろう。
だが、この作品が描くのはあくまで「無気味さ」であって、「恐怖」ではない。
無人島に漂着した少年たちが不安を紛らわすためにおかしな「神」を祀り、その儀式に熱中していくうち、その儀式に加わらないとある少年を敵視しはじめ、ついにはその少年を殺してしまうのだが、その最中に「なぜ少年たちはそのようにおかしくなってしまったのか」を明確に説明する描写はなく、また、殺される少年も幻視のような「無気味な」光景を見るものの、ただそれだけで、ある意味おとなしく殺されてしまう(いや、それでも十分に「無気味」で、読み応えのある作品なのだが)。
つまり、明確な「恐怖」の形を取る以前の、恐怖の予感として現れる「無気味さ」「不安」などは、文化を問わずかなりの人間に共通して理解できるが、それがよりリアルな「恐怖」という形を取り始めるには、文化的差異がかなり大きく影響する、ということなのかもしれない。
ノーベル文学賞の選考者たちがそこまで恐怖について考えいるかどうか疑問だし、もし考えていたとしても、ことキングがリアルな「恐怖」を追及する姿勢を改めない限り、その作品がによって「心揺さぶられる」読者は、かなり限定される。アメリカとは煮ているようでかなり違った生活文化を持っている欧米の人間――それも、「読書に長けた」ノーベル賞選定委員のような人間がその作品で「心揺さぶられる」可能性は、かなり低いといわざるを得ないのではないか。
以上が、私が「キングはノーベル文学賞を受賞できない」と考える理由である。
8
さて、では村上春樹の方はどうだろうか。
彼の作品群――ファンの間からは「村上ワールド」と呼ばれている――は、ざっくりいって、次のようなプロットとなっている。
自ら定めたルールを遵守し、真面目に生きている(けれども、それほど幸福そうには感じられない)主人公がいる。その主人公の元へ、ある日突然、なんの理由もなく「親しい人がいなくなる」「大事な物がなくなる」などといった不幸が襲いかかる。その状況をなんとかしようと、主人公は曖昧な情報源からもたらされる曖昧な手がかりの下、どこかへ行ったり、誰かを訪ねたりといった行動を起こす。その行動先で主人公は何やら意味ありげな曖昧な情報を手に入れたり、何の意味があるのかよく分からないことに巻き込まれたりするが、それまでに身につけたライフスタイルを武器に、ひたすら真面目にそれらに対処しているうち、出来事はいつの間にか終息する(「解決する」のではないことに注意)。そうこうしているうち、主人公が探し求めていたものは永遠に失われることとなり、主人公は傷心のまま元の生活に戻る……。
大体こんな感じである。
言わずもがなかもしれないが、ここので主人公は「読者の象徴」である。
真面目に誠実に、自分を律して生きているのに、なぜかうまく世間に溶け込んで生きていけない不器用な人間であると自認している――今風の言葉で言えばメンヘラ風味の――読者は、同じような性格設定をされた主人公に共感し、自らを仮託して物語を読み始める。
さらに言うと、主人公が「旅」「徘徊」の途中体験する、どういうことなのか今ひとつはっきりしない曖昧な出来事や、主人公の体験や感情を表現する際に使われる、これまた曖昧な比喩などは、先に書いたように、それらが全て曖昧であるがゆえに、読者自身がこれまでの人生で体験した出来事や、その時に抱いた感情などをそっくりそのまま表現しているかのような思いを抱かせる。
これにより、読者をより深く作品世界の中へと誘い込んでいくのである。
そして最後に、さまざまなことどもに、身につけた誠実な真面目な態度で対応していたにもかかわらず、追い求めていた大切なものは永久に失われ、主人公は傷心の生活のまま元の生活へと戻っていくが、これももちろん、読者の生活を象徴するものとなっている。つまり、社会という「曖昧でよく分からないもの」の中で、できる限り真面目に誠実に生きているにもかかわらず、自分が大切に思っているものは全て手に入らない、入ったと思ってもすぐに手をすり抜けていってしまい、いつまでたっても幸福になれない読者自身を、そのまま表しているのだ。
読者は、主人公の運命に共感し、哀感を覚える一方で、「きちんと真面目にがんばって生きていこうとしてもうまくいかないのは自分だけじゃないんだ」という思いを抱き、満たされない自分に、あたかも作品が、作者自身が寄り添ってくれているかのような思いを抱くのである。
簡単に言えば、「村上ワールド」にはまる読者は、
「君が真面目に誠実に生きていることはよく分かっているよ。にもかかわらず、社会は君に対して冷たくて、君に突然、無理難題ばかり押しつけてくる。いくら必死でがんばってもそれをうまく処理できない無力感も、よく分かるよ。でもね、安心していい、社会とはそういうものなんだ。僕もうまくいかないことばかりで、挫折ばかり味わっているよ。いつまでたっても幸福なんて手に入らない。辛いよね。僕も辛いよ。僕ら、仲間だね。一緒にがんばって生きていこうよ」
という「錯覚による慰め」を作品に見いだしているのである。
読者に無意識にこのような「錯覚」を抱かせ、作品世界に深くのめり込ませる技法を開発した、という意味で、村上春樹は端倪すべからざる作家である。
だが、その「ハルキ的神通力」の通用する相手とは、作品内の曖昧さを全て自分に引きつけて解釈してくれる読者に限られている。
キングの作品が「精緻な設計図」であったように、村上春樹の作品を何か他の文章形態に喩えるならば――あえて誤解を怖れずに言うと――雑誌や新聞の日曜版、朝の情報番組などにつきものの「占い欄」である。
「今日の運勢最下位は、ごめんなさい、牡牛座生まれのあなたです!今日は仕事でポカをしてへこみがちな一日となりそう。でも大丈夫、ラッキーアイテムはピンク色のケーキ!それを食べれば運勢は前向きになるはず!では今日もがんばっていきましょう!」
という感じのあれである。
この「運勢最下位のあなた」を主人公に、「今日で会うはずの不運」を「主人公が突然邂逅する(不幸な)できごと」に、「ラッキーアイテムのピンク色のケーキ」を「主人公を導く暗示的な人物・物事」に読み替え、「前向きになるはずの運勢」を「好転するどころか、結局あまりいい結果にならなかったが、それでも最悪にはならなかっただけましな結末」を迎えたとし、後はそれぞれの間を博士やら羊男やら鼠やらいわしやらいるかやらといった、癖のある暗示的な人物と象徴的な会話、曖昧な比喩で埋め尽くしていけば、「村上ワールド」はできあがる。
読者は「ちょっとした運命の好転」を求めて曖昧きわまりない「ご託宣」に従って走り回る主人公と共に「理解できないことばかりが突然降りかかる社会」をさまよい歩き、大事なものの喪失を経験しはしたものの、最悪の結末にはならなかったことに安堵し、そこから自分の人生に対する慰めを得るわけである。
このような構造を持つ必要上、「村上ワールド」は必ずその世界に曖昧さを過分に含む必要がある(そうでなければ、その世界に読者が感情移入できない)。
が、「文学的価値」という点から見てみると、これは諸刃の剣となる。
書かれている内容が曖昧であればあるほど、訓練された読者からすると、「持って回った言い回しばかりで、何が言いたいのか伝わってこない」と評価されがちになってしまうのである。
「いや、そうではなくて、この曖昧さこそが村上春樹文学の真骨頂であり、この曖昧さがあるから読者は好きに「自分の物語」を投影して作品にのめり込み、楽しむことができるのだ!」
と強弁することもできるだろうが、もしそのような説に納得したとしても、『○木数子の○星人の運命』と構造上似たり寄ったりな作品に、世界最高峰の文学作品であるというお墨付きを与える覚悟を、選考委員は持つことができるだろうか?
こういった理由から、村上春樹もノーベル賞を受賞できないのではないかと、私は考えているのである。
おわりに
よい作家は、すべからく誠実であると私は思っている。
その誠実さが「読者に対する正直さ」という方向に向かった作家は、純文学的傾向が強い作品を多く産み出し、「読者に対する献身」という方向に向かった作家は、娯楽作品と見なされる作品を多く創作する。
スティーブン・キングと村上春樹は、どちらもとことんまで読者に尽くし、楽しましませようと心をくだく作家だ。だからこそ、彼らの作品は、どれほど「純文学」的な、「芸術性」の高そうな体裁を取り繕ったとしても、最終的なところで「エンタメ性」が顔を覗かせてしまう。
それは決して、両者が「ダメな作家」であることを意味しない。むしろ、そうではなくて、キングもハルキも、とことん読者のためを思って創作しているからこそ、芸術性が犠牲になってしまっているのだ。
だから、二人はノーベル文学賞を取れない(この先、もしも受賞することがあれば、「なんと先見性のないやつ」と思う存分、私を笑ってほしい)。
だが、だからこそ、二人の作品はおもしろいし、どっぷりとハマることができる。
この先もどうか二人が、ノーベル賞の選考委員のような人たちから評価される作品を書いたりすることのない、「読者に献身的な」作家であり続けてくれるよう、切に願いつつ、この小論の筆を置くことにする。




