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「君と子を持つ気はない」白い結婚を七年信じた私、夫は妹に子を産ませていた。だが、妹は托卵していた。二人とも破滅した。

作者: KAZU
掲載日:2026/07/09

「白い結婚でいい。私は君との子を持つつもりはない」


 結婚式を終えたその夜、夫となったオズワルド・レイン伯爵は、寝室の扉の前でそう言った。


 燭台の灯りが、整った顔を照らしている。家柄も資産も外見も申し分ない——そう言われて嫁いできた相手は、最後まで私と目を合わせなかった。


「……分かりました」

「話が早くて助かる。君は東の棟を使うといい。家のことは、すべて任せる」


 それだけ言って、夫は自分の寝室へ消えた。私たちの初夜は、廊下を挟んだ二つの扉の音で終わった。


 傷つかなかった、と言えば嘘になる。

 私は子供が欲しかった。幸せな家庭が作りたかった。

 

 けれど正直に言えば——安堵も、していた。

 この結婚は恋愛を経たわけではなく、家同士の結婚なのだから。

 

 私が最後に恋したのは十二の時だった。

 彼は平民で、私は貴族の娘。最初から選択肢になかった。

 だったらお互い心を差し出さずに済む白い結婚のほうが、いっそ誠実というものだろう。


   *


 十二歳の春を、今でも覚えている。


 実家の勝手口に出入りしていた、商会の丁稚。日に焼けた顔で、いつも荷箱より大きな声で挨拶をする男の子——カイル。


 彼が初めての給金で買ってきたのは、真鍮に硝子玉のついた、安物の髪飾りだった。


「俺、いつかこの国で一番でかい商人になる。それで、迎えに行く。身分差なんか無視できるぐらいでっかくなって……君を!!」

「……期待しないし、待たないわ」

「…………」

「ふふ、冗談よ。期待はしないけど、待ってるわ」

「冗談がわかりづらいよぉ!」


 子供の約束だ。本気にするほうがどうかしている。

 事実期待はしなかった。待つと言っても心の中だけだ。

 それでも私は、嫁入り道具の宝石箱のいちばん底に、その髪飾りを隠して持ってきた。誰にも言わない。一生、言わない。それだけを胸の奥に沈めて、私はレイン伯爵夫人になった。


 そんな気持ちがあったとしても、せめて、誠実な妻であろうと思った。

 愛がないなら、務めで返そうと思った。

 だがそれが七年、白い結婚が私の人生だった。


   *


 レイン伯爵家の朝は、私の帳簿から始まる。


 小麦の売値、使用人の給金、屋敷の修繕、領地の上がりと王都の付き合い。夫は月の半分を「社交」で空け、戻れば執務室の椅子で新聞を広げるだけ。それでも社交界での評判は悪くなかった。「レイン伯爵家は堅実だ」と。


 その堅実の中身を誰が作っているのか、知る人はいない。それでいいと思っていた。妻の務めに、名札は要らない。


 いや——一人だけ、いた。

 先代から仕える老家令のギルバートは、毎朝、私の執務室に茶を運びながら、決まって同じことを言った。

「本日の帳簿も、恐れながら、芸術でございますな」

「大袈裟よ、ギルバート」

「大袈裟ではございません。……ただ、もったいのうございます」

 何が、とは、彼は決して言わなかった。


 夜会に出れば、扇の陰で決まって同じ囁きが聞こえた。


「お子は、まだですって」

「もう七年でしょう? お可哀想に……」

「殿方は外に作るものだけれど、奥様はそうもいかないものねえ」

「帳簿ばかりして、一番の仕事から逃げるなんて旦那様も可哀そうに」


 憐れみは、悪意より重い。私は微笑んで受け流す。白い結婚です、と言えるはずもない。


 夫は夜会で、私の隣に立たない。挨拶の列だけを共にして、あとは別々。それでも「仲睦まじいご夫婦」と評されるのだから、社交界の目なんて、その程度のものだ。


 妹のロザリーは、よくうちに遊びに来た。


「お姉様はいいわねえ。立派なお屋敷で、なんにもしなくていい奥様で」

「……そうね」

「わたしなんて大変よ? 殿方のお誘いが多すぎて、お断りするだけで一日が終わっちゃうの」


 ロザリーは昔から、春の日向みたいに笑う子だった。その笑顔の前では、父も母も、財布の紐と一緒に頬をゆるめた。私はといえば「しっかりしているから」と褒められて、それで終わりだった。しっかり者に、菓子は出ない。


「でも——」帰り際、妹はふと声を落とした。「お姉様の旦那様って、ちょっとバカよね」

「オズワルド様が?」

「ううん、なんでもない。ふふ、お邪魔しました」


 その言葉の意味を知るのは、ずっと後のことだ。


 帳簿には、ひとつだけ触れられない項目があった。

 四年前から始まった、「出資」と記された定期送金。宛先は王都の代理人止まり。額は、年々増えていく。


 一度だけ、夫に尋ねたことがある。


「知人の事業に出資している。——金のことに口を出すな。君の仕事は、家を回すことだろう」


 それきり、私は口をつぐんだ。

 誠実な妻は、夫を疑わない。

 疑わないと、決めていたのだ。


   *


 綻びは、数字から見えた。


 出資というものには、配当がある。四年間、ただの一度も、それがない。

 そして額の増え方が、おかしかった。最初の年は控えめに。翌年にぐんと跳ね、そのあとは季節ごとに少しずつ、階段のように。


 私は、この形の数字を嫌になるほど知っていた。

 産着と、乳母の相場。歩き始めた子の靴。仕立て直し。やがて、家庭教師。

 使用人の家族の祝いに七年間包み続けてきた金額と——同じ形を、していた。


 まさか。

 まさか、まさか、まさか。


 半月かけて、代理人の先を辿った。行き着いたのは、下町の外れの瀟洒な家。伯爵家の馬車では目立つから、辻馬車で行った。


 生け垣の向こう、庭に人がいた。


 夫だった。

 屋敷では一度も見たことのない顔で笑って、幼い子を高く、高く抱き上げていた。


「あなた、聞いて。この子ったら、もうお歌が歌えるのよ」

「そうか、さすが俺の子だな!」


 そう言って夫の腕に寄り添ったのは——ロザリーだった。


 膝が、震えた。声は出なかった。

 玄関の脇に、外套が掛かっているのが見えた。夫のものではない、若い男物の外套。そのときは、それが何を意味するかなんて、考える余裕もなかった。


 帰りの辻馬車で、私は泣かなかった。

 涙より先に、七年分の帳簿が頭の中でめくれていった。あの囁きも、憐れみも、「金のことに口を出すな」も、ぜんぶ。


 ——「君との子を持つつもりはない」。


 あの言葉は、高潔でも、事情でもなかった。


 ——「お前とは」。


 ただ、それだけの意味だった。

 私の七年は、妹との愛を育むためだけのカモフラージュの七年だったのだ。


   *


 翌朝、私は執務室の机に、一枚の書類を置いた。


「……婚姻破棄の、申立書?」

「はい」

「なぜ急に」

「出資の帳簿と、乳母のお給金の相場について、お話をいたしましょうか」


 夫の顔から、すとんと色が落ちた。それで、十分だった。


「白い結婚でしたから、お手続きは早く済みます。教会の証明も、私のほうで揃えてございます」

「リディア、待て。これは、その」

「七年、務めは果たしました」


 私は頭を下げた。淑女の礼として、完璧な角度で。


「——どうぞ、お幸せに。あの子はモテますから気を付けて」


 荷物は、驚くほど少なかった。ドレスも宝石も、伯爵夫人のものだ。私のものと呼べるのは、嫁入りの日に持ってきた僅かな品だけ。


 玄関で見送ってくれたのは、ギルバートだけだった。

「……奥様。せめて行き先くらいは、この老骨に」

「決めていないの。それがね、少しだけ、清々しいのよ」

「奥様の七年は」老家令は、深く深く、腰を折った。「私どもの、誇りでございました」

 泣くつもりなんて、なかったのに。

 門を出るまでの数十歩だけ、私は俯いて歩いた。


 屋敷を出る朝、私は宝石箱のいちばん底から、真鍮の髪飾りを取り出した。

 七年ぶりに、髪に挿した。


 鏡の中の女は、思っていたよりずっと、ちゃんと生きている顔をしていた。


   ◆


 王都に出て、まず、お金の算段をした。当座の宿代には、母の形見の耳飾りを手放すしかない。


 どうせ手放すなら、一番高く買うところがいい。そう決めて向かったのは、大通りに本店を構える、国一番と噂の商会だった。旗印は銀の帆船。大陸中に支店があるという。


 買い取り台で、老番頭が耳飾りを検めて唸った。


「これは良い品です。……ですがこの額となると、主の決裁が要ります。少々お待ちを」


 しばらくして、奥の階段を下りてくる足音がした。


「番頭さん、決裁って、どの品——」


 声が、止まった。


 上等な外套を着て、それでも日に焼けた顔つきだけは昔のままの男が、そこに立っていた。


 彼は、台の上の耳飾りを見なかった。

 私の髪だけを、見ていた。真鍮に、硝子玉の。


「……まだ、持っていて、くれたのか」

「…………カイル?」

「ひっ、久しぶりだな! いや、ひさ……お、お久しぶりです、お嬢しゃま」


 国一番の商会の主が、盛大に噛んだ。

 老番頭が「旦那様が……しゃべりを、噛んだ……」と呟いたきり、硬直しているのが見えた。


   *


 事情は、隠さず話した。白い結婚のことも、婚姻無効のことも。妹のことだけは——このときはまだ、全部は言えなかった。


 聞き終えたカイルは腕を組み、深々と頷いた。


「よし、分かった。結婚しよう」

「冗談はよしてください。これでも傷心しているのです」

「…………私の……いや、俺の気持ちはあの日から何も変わっていない」

「今日たまたまあっただけですのに?」

「計画ではあと二年だった。国一番の商人になって堂々と迎えに行くまで……」

「二年? い、一体どんな計画だったんですか……」

「なに、ちょっと法に触れる程度だ。だが、グレーな商談は得意だ。君との商談に比べれば」

「私との結婚を商談って言いました? 今」

「い、いや、それは言葉の綾というもので」

「私は売り物ではございません」

「す、すまない……」

「ふふ、冗談ですよ」


 ……おかしい。七年ぶりの再会だというのに、十二歳の頃とまったく同じ調子で話せている。

 まるであの日に戻ったように。


「ですが、お受けできません。昨日まで、人の妻だった身です。それに——」


 私は背筋を伸ばした。ここだけは、譲らないと決めていた。


「施しで生きるつもりも、ありません。カイル、私を雇ってください。帳簿なら、七年回してきました」


 彼はしばらく黙って、それから、負けたように笑った。


「……うちの経理は厳しいぞ。番頭さんは鬼だ。私も何度も泣かされている」

「望むところです」


 鬼のはずの老番頭は、十日で音を上げた。良い意味で。


「旦那様! リディア様が入られてから、月締め作業が三日も早くなりました!」

「ふっ……だろうな」

「なんで旦那様が得意げなんですか」

「さすが俺の嫁だ」

「断られたはずでは?」

「一度断られたぐらいで、商人が欲しい商品を諦めるものか」

「私のことを、商品と呼びましたか? カイル」

「あ、い、いたのか……すみません」

「ふふ」


 仕事に慣れてきて最初の給金の日、机の上に、見覚えのある小箱が置かれていた。

 母の形見の耳飾り——買い取られたはずの。


「商会はな、良い品は最良の時まで寝かせる主義なんだ。つまりこれは在庫で、君の机は倉庫で」

「お代は今後のお給金から引いてください。引かないなら受け取りません」

「わ、分かったよ!! 相変わらず……頑固だな」


 朝、私の机には毎日、花が一輪置かれるようになった。


「これは経費ですか」

「私費だ!! 惚れた女に花を経費で送るバカがどこにいる」

「カイルならやりかねないかなと……」

「………………」

「……冗談ですよ?」

「お前の冗談はわかりづらいよぉ!」


 そんな日々。

 カイルの十四年を、私は少しずつ、番頭さんから聞いた。


「最初は、天秤棒一本の行商でございました。北の鉱山町で三年、東の港で四年。……旦那様は儲けるたびに言うのです。まだ足りない、まだ一番じゃない。はやくしないと、と」

「……そう」

「私どもはずっと、旦那様は商売の鬼なのだと思っておりました。ですが先日、ようやく合点がいきましてな」

 老番頭は、私の髪の、真鍮の髪飾りを見て笑った。

「一番でなければ届かない場所が、おありだったのでございますなあ」


 夜更けまで帳簿を繰っていた日、机の端に、湯気の立つカップが置かれた。

「……今日はもう上がれ。無理した残業の蝋燭代は経費で落ちないぞ」

「落としてください。落ちないなら自費で結構です」

「〜〜っ、と、とにかく休め!! 君に倒れられたら、私は……」


 ……素直じゃないのは、お互い様かもしれなかった。


 妹のことを全部話せたのは、店に入ってふた月が過ぎた、静かな夜だった。

 聞き終えたカイルは長いこと黙って、それから、一言だけ言った。

「……頑張ったな」

 責めるでも、憐れむでもなく。

 私の七年に「頑張った」をくれたのは、この人が最初だった。……泣いてしまったのは、不覚だった。

「わーっ!? な、泣くな!? いや泣いていい! 泣いていいが、俺はどうしたらいい!?」

「……ハンカチを」

「そうか、ハンカチだな!! ……どこだ、ハンカチ。と、とりあえず……おれの胸で泣くか?」

「……セクハラです」

「…………」

「ふふ、冗談ですよ」

「じょ、冗談か……相変わらずわかりづらい……」

「だから……失礼します」

「――!?」


 狼狽ぶりがあんまりおかしくて、涙は途中から、笑いに変わった。

 こんな私の一挙手一投足に右往左往するこの人が、今はたまらなく愛おしい。

 彼はあれきり、結婚の話をしない。ただ毎日を共に過ごしている。

 仕事の指示は的確で、私の意見には必ず理由を聞き、必ず礼を言う。


 ——君は、どう思う?


 七年間、一度も聞かれたことのなかった言葉を、この店では一日に何度も聞かれる。そのたびに、胸の奥の凍っていた場所が、少しずつ、みしみしと音を立てて融けていく。


 夜、寮の鏡の前で髪飾りを外すとき、これを「幸せ」と呼ぶことに、私はまだ少しだけ、臆病だった。


   ◆


 ——同じ頃。オズワルド・レイン伯爵は、下町の瀟洒な家の門前にいた。


 妻は消えた。醜聞にならぬよう、婚姻無効は静かに処理した。持参金の返還は痛かったが、構うものか。これでようやく、堂々とロザリーを迎えられる。時期を見て、あの子を、あの子たちを——。


「離縁したの? ふうん」


 ロザリーは庭先で花に水をやりながら、振り向きもしなかった。


「それで? お金は、今まで通り出るのよね?」

「……ロザリー?」

「だぁって、あの子にお金がかかるんだもの。仕方ないでしょう?」


 その日から、何かが狂い始めた。


 妻のいない屋敷は、坂を転げるように荒れた。帳簿は誰にも読めず、支払いは滞り、使用人は次々に暇を取った。


 社交界も、潮が引くように冷えた。婚姻無効は静かに処理したはずだった。だが人の口に戸は立てられない。「レイン伯爵家の堅実」が誰の手のものだったか——夫人のいなくなった屋敷の体たらくが、何よりも雄弁に語ってしまった。招待状は月ごとに薄くなり、やがて、来なくなった。


 返した持参金は思いのほか重く、あの家への送金を減らすと、ロザリーの声はあからさまに冷えた。


「今月、少なくない?」

「……屋敷が、その、立て直しに」

「ふぅん。じゃあ、今日はもう帰って」


 会える日が減った。子供を抱かせてもらえる日は、もっと減った。


 そして、あの夜——約束なく訪ねた夜が、すべてを終わらせた。


 窓に灯りが点いていた。ロザリーがいて、子供がいて——見知らぬ男がいた。若い、伊達男だった。子供が男の膝によじ登り、笑い声を上げる。


「とうさま、おうた、うたって」


 ——とうさま。


 オズワルドは、自分がどうやって扉を破ったのか覚えていない。気づけば居間の真ん中にいて、手には卓上の果物ナイフを握っていた。


「どういう、ことだ」

「やだ。……こわぁい」

「あの子は! 私の子だろう!!」


 ロザリーは——笑った。

 春の日向のような、いつもの顔で。


「あら。あの子の父親があなただなんて、わたし、一度でも言った?」

「な……」

「あなたが勝手に抱き上げて、勝手に喜んで、勝手に財布になってくれたのよ。ねえ、感謝はしてるの。ジェロームったら稼ぎがないんだもの。あなたのお金で、あの子、あーんなに大きくなったわ」

「ロザリー……私は、私は、お前を愛して」

「うん私もまぁまぁ好きよ」


 妹は、水差しを置いて、小首を傾げた。


「あなたのこと——家柄も、顔も、財布も、ぜぇんぶ“まあまあ好きよ”。いちばん好きなのは財布だったけど。それも最近は、ねえ?」


 目の前が、赤く濁った。


 悲鳴。倒れる椅子。伊達男がオズワルドの腕をねじり上げ、ロザリーが窓を開けて叫んだ。


「誰かーー!! 誰か来て!! 義兄さんが——わたし、ずっと脅されてたの!! 今日こそ殺されるって、わたし、わたしぃ……!!」


 ……脅されて、いた?


 駆けつけた自警団は、迷わなかった。彼らは知っていたのだ。この家の可憐な婦人が、以前から「怖い義理の兄が来る」と近所じゅうに泣きついていたことを。文箱から出てきた、脅し文句の並ぶ手紙の束のことを。

 ロザリーは、金払いの悪くなったオズワルドをいつ切るかをずっと考えていたのだ。


 刃物を持って押し入った男。泣き崩れる美しい婦人。

 揃いすぎた舞台の上で、オズワルド・レイン伯爵は縄を打たれた。

 本来ならば伯爵だ。

 だが、落ちぶれた伯爵家では殺人未遂の罪は償い切れなかった。

 家は取り壊しになった。

 牢の藁の上で、彼は嗤った。もう、嗤うしかなかった。


 金で愛を繋いだつもりが、財布として飼われていた。


 ……ああ、これは。

 これは私が七年、あの人にしてきたことと——同じ形をしているじゃないか。


   ◆


 その報せは、商会の昼下がりに届いた。


「レイン伯爵が、刃傷沙汰で投獄……?」


 新聞よりも早く、商人の耳は事件を運んでくる。伯爵は取り調べで、金だ、托卵だ、騙されたのだと喚き続けているという。


 数日後、王都の捜査官が商会を訪ねてきた。伯爵家からの例の送金は代理人を挟み、この商会の為替網を通っていたのだ。


「記録の照会を願いたい」

「どうぞ」


 カイルは即答して、書庫の鍵を番頭に投げた。


「商人は、帳簿で嘘をつきません」


 私も、求められて出頭した。元伯爵夫人として、七年分の帳簿の写しを提出した。かつての家令のギルバートも、屋敷の内情を淡々と証言したと聞く。


 私は、何も仕掛けていない。カイルも、何も企んでいない。

 ただ、全員が記録を出しただけだった。

 ——記録は、嘘をつかない。


 瓦解は、早かった。


 「脅迫の手紙」は筆跡の検めで偽造と判じられた。偽証が崩れると、あの瀟洒な家に捜索が入り、ロザリーがジェロームに宛てた手紙の束が出てきた。


 『伯爵は今月もたっぷり出したわ。うちの人はほんとうに、世界一かわいい財布ね』


 夫の子と偽って引き出し続けた金は、詐取と断じられた。家も家具も装飾品も、すべて差し押さえ。実家は醜聞に蒼白になり、その日のうちにロザリーを勘当した。あの春の日向の笑顔に頬をゆるめ続けた、父と母がだ。


 風の噂に、父の言葉を聞いた。「上の子は昔から、しっかりしていたから」——だから大丈夫だと思っていた、と。

 ……違う。あなたたちが、そう思いたかっただけ。

 しっかり者に菓子は出ない家で、日向の椅子は、いつも一つしかなかった。それだけの話だ。


 そしてジェロームは——捜索の前夜に、姿を消していた。置き手紙が、一枚。


 『愛してるよ。でも僕は、醜聞とは結婚できない』


 妹は、路上に立っていた。

 全員を選べるはずだった人が、誰にも選ばれずに。


   *


 獄中の元夫から手紙が届いたのは、その頃だ。


 『今さらだと、分かっている。だが、この七年で誠実だったのは君だけだった。虫のいい話だと承知で頼む。一度だけ、面会に来てはくれないか。詫びねばならないことが——』


 私は最後まで読んで、便箋をきちんと畳んだ。


「返事は?」


 カイルが聞いた。私はインク壺の蓋を、そっと閉めた。


「書きません。——今さら、ですので」


   *


 その女が商会に現れたのは、雨の日だった。


「お姉様!!」


 泥の跳ねた裾。艶を失った巻き毛。それでもロザリーはまっすぐ私の前まで来て、両手を差し出した。


「聞いて、お姉様。ひどいのよ。宿の女将ったら、お金を払えって——わたしに向かって、よ? 教会の炊き出しは並べって言うし。この、わたしが! お父様もお母様も、二度と家の名前を名乗るなって! 私悪くないのに!!」

「……」

「だからね、お姉様。お金をちょうだい? ね、家族でしょう?」

「……ロザリー」

「わたしのことは、いいの。でも、あの子がいるのよ? このままじゃ、あの子は宿なしになるの。ねえ、お姉様——あの子が、どうなってもいいの!?」


 子供を、盾にした。

 この期に及んで、この人はまだ、人を道具に使おうとしている。


 私が口を開くより早く、カイルが一歩、間に出た。


「勝手なことを言うな」


 商談のときの声だった。低く、静かで、値切る余地のない声。


「子供は、お前の交渉材料じゃない。子供が育てられないというのなら、うちの商会が引き取り、責任を持って育てて商人にしてやる。乳母も、学びも、こちらで整える」

「な……そ、そんなのおかしいわ!」

「なら自分で育てることだ。お前に渡す金は、一文の値打ちの相談にもならない。お帰りはあちらだ」


 ロザリーの膝が、落ちた。

 雨の吹き込む戸口で、妹は初めて、春の日向ではない顔で泣いた。


「どうして……どうしてよぉ……全部、全部うまくいってたのに……!!」


 その日から彼女の名前を聞かなくなった。

 しばらくして、彼女の子供は教会に預けられた。

 これでも血が繋がっているので、たまに様子を見に行くのだが、元気に育っているようだ。

 ただの自己満足だが、教会に少しの寄付をした。

 聞くところによると、妹はその時まるで浮浪者のようだったらしいが、二度と教会に来ることはなかったらしい。


   ◆


 数年後の春、私は二度目の結婚をした。

 今度の指輪は、平民の細い銀だ。私がこれがいいと言った。

 教会からの帰り道、鬼の老番頭が誰よりも盛大に泣いた。


 それから、季節がひとつ回ったある朝。私は執務室の扉を叩いた。


「あなた。商談です。大事な大事な商談です」

「ん? どこの商会だ?」

「約八ヶ月後に納品予定の、とても大きなお取引が、一件」

「八ヶ月……?」


 書類の上のペンが、止まった。

 国一番の商人は、算盤より速いはずの頭でたっぷり十を数え——立ち上がった拍子に、椅子を蹴倒した。


「ほ、ほんとか!?」

「昨日、お医者様が」

「よし、店を閉める!! 今日は祝いだ! 全店閉めるぞ!!」

「閉めすぎです。国一番の商会が締めたら一体どれだけみんなに迷惑がかかると思っているんですか」

「……確かに」


 白い結婚の初夜、扉の音だけを聞いていたあの日の私に、教えてあげたい。

 あなたの人生の帳簿は、ここから黒字になるのだと。

 

「さて、じゃあまずは商品名を決めようか」

「私たちの子を商品と言いましたか? 怒りますよ?」

「え、いやそれは言葉の綾というか、そもそも納品って言ったのは…………はい、すみません」

「ふふ、冗談ですよ」

「わかりづらいよぉ!」

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