おとぎの人魚は恋を謳う
「やあ、カレン。今日のオススメを頂けるかな」
仕事途中であるらしき男が、街中の食堂に入るとウェイトレスにそう声をかけた。呼びつけられた若い女性が、元気いっぱいに声を返す。
「はい、いらっしゃいませ! 今日のオススメは白身魚のムニエルですよ」
「良いね、美味しそうだ」
客の男が豪快に笑った。何の悪気がなくても気の小さな女性であればそれだけで僅かに萎縮してしまいそうな磊落な様子であったが、カレンには動じた様子がない。
にこにこと男を席に案内して、奥の調理スペースに声をかけた。
「おかみさーん、ムニエルひとつー」
「はいよー」
下町で人気なこの食堂は、オーナー兼料理人である女性と数人の従業員で回されている。新しい客である男の前にお冷やの入ったグラスを置いて、カレンはすぐに次の仕事に移った。
幾つかの島で構成される海に守られた王国は、海からの恵みと観光客たちの落とすお金で豊かに繁栄している。平和なこの王国では平民たちも穏やかなものが多く、街中が安全であるので働きに出る女性も多い。
同じように働く女性であり、カレンと親しい常連客が、カレンに声をかけた。
「カレン、顔色が悪いわよ。寝られてないの?」
「うーん……」
一瞬だけ客足が途切れたのを確認してから、カレンは雑談に応じた。
「ヒューと連絡が取れなくて……」
ヒューというのは、カレンの恋人である男だった。
カレンとヒューはもう六年の付き合いになる。結婚の約束もしていたというのに、三か月ほど前からいきなりヒューと連絡がつかなくなってしまったのである。
「家には行ったの?」
「それが、引っ越しているらしくて。知らないひとが出てしまったの」
若いカレンに対して、常連客の女性は酸いも甘いも噛み分けた年配の女性だった。だから眉を顰めて、ごく当たり前の心配を口にした。
「騙されたんじゃないかい? 若い女を弄ぶだけ弄んで捨てる男なんてのは、残念だけど珍しくないよ」
「まさか! ヒューは親切なひとだわ」
無邪気なカレンは、ヒューのことを一つも疑っていなかった。
「長い付き合いだし、結婚の約束もしていたのよ。だから、ヒューが事故や何かに遭ったのではないかって、そちらのほうが心配だわ」
ごく素直な様子でそういうカレンに女性客は複雑な顔をして、カレンに言い聞かせた。
「おかみさんがいつでもカレンの味方になってくれるだろうけれど、わたしだってカレンの味方だからね。何かあったら言うんだよ」
懇々と言いつのる女性客に、カレンは頷いた。
二人の様子を伺っていたらしいおかみさんが、区切りがついたと判断したのか仕事のためにカレンを呼んだ。おかみさんも同じように、カレンを心配しているのである。
「カレン、このスープを運んでおいて!」
「はーい、いま行きます!」
鮮やかなピンクの髪を翻してくるくると働き回る愛らしいカレンは、食堂の看板娘でもあった。だからそれとなく食堂の従業員や常連客の人びとは、カレンの様子を案じていたのである。
さて、王国の王太子の結婚が発表されたのは、そんな日々の中でのことだった。
警護のことを考えてか、王太子の肖像画は知られていても写真が出回ることは今までなかった。国民たちの前に出るときも遠目であったので、国民たちは王太子の顔をあまり知らないのである。
だから結婚パレードは、事実上国民たちへの王太子のお披露目の場でもあった。見目麗しいと噂される王太子のことを一目見ようと人びとが集ったので、道中はお祭り騒ぎになっていた。
カレンも、そんなお祭りに参加した一人だった。
食堂の従業員たちに誘われたのだ。どうせパレード中はろくに客も来ないだろうからと、今日の営業はお休みなのである。
出店で売られている割高の食べ物たちを山ほど買い込んで、カレンやその仲間たちは物見高く見物の姿勢を取った。島国であるベックフォード王国では、出店も魚に関係したものが多い。
「王太子殿下って、それはもう鮮やかな金髪らしいわよ」
周りの噂話をふんふんと聞き取りながら、女性ウェイトレスの一人が言った。あまり大声で騒いでいて警邏に叱られたくないので、それなりに小声である。
事前に配られた新聞を読んでいた男性ウェイトレスが、ふと顔を上げた。
「眼は紫色らしい。金髪は珍しくないけれど、紫眼はちょっと珍しいね」
「まぁ、ヒューと同じ色ね!」
何の含みもないカレンの言葉に、周りの仲間たちがふと微妙な顔をした。
当たり前だが、髪や眼の色は遺伝の影響が大きい。つまりカレンの恋人であるヒューが、王太子に連なるような高貴な人間である可能性に気づいたのである。
「……まさか、偶然でしょ。紫眼だって、平民にもいないわけじゃないし」
何となく自分に言い聞かせるように言い合う仲間たちにカレンが首を傾げたところで、わっと人びとが歓声を上げた。王太子夫妻のパレードが近づいてきたのだ。
わくわくと顔を上げたカレンの眼に、信じられない光景が飛び込んでくる。
王太子として人びとに手を振っている、青年。カレンが何年も一途に愛した、ヒューそのものだったのである。
「ハーヴェイ・ベックフォード、王太子……?」
カレンの恋人であるヒューの顔を、食堂の仲間たちも知っている。呆然と呟くカレンを、事態に気づいた仲間たちが人垣から引き剥がそうとした。
「カレン、帰ろう。おかみさんにシチューでも作って貰おう」
男性ウェイトレスのそんな言葉は、すでにカレンの耳には入らなかった。
「――って……」
掠れた声で、カレンが呟く。
瞬間、カレンは飛び出した。信じられない身体能力で、人垣をあっさりと跳び越える。
「わたしを愛しているって、言ったじゃない!」
王太子夫妻の乗る馬車に飛びかかる寸前で、カレンは護衛たちにあっさりと取り押さえられた。食堂の仲間たちが慌てて飛び出してくる。
「何か勘違いしたようです、申し訳ありません!」
仲間たちは躊躇いなく頭を下げた。彼らにだって思うところはあったけれど、相手が悪すぎることに気づいたのだ。
カレンを通じて、王太子と食堂の従業員たちには面識があった。だから知らない人間であるはずがないのだけれど、王太子は頭を下げる従業員たちを、価値がないものを見る眼で眺めた。
いかにも懐深い王族めいて、鷹揚に笑いかける。
「体調が悪いようだね、休ませてあげなさい」
そんなやり取りでカレンは、あっさりと放り出されたのである。
カレンの命が奪われなかったのは幸いなことだった。錯乱するカレンをどうにか引きずって、仲間たちは逃げ出したのだ。
しかしその後、すぐにカレンは命を落とすことになる。
茫然自失の体で近くの海にふらふらと入っていくカレンを、食堂の常連客が目撃していた。慌てて助けようとしたが間に合わなかったと、常連客は悔恨した。
そうして食堂の看板娘だったカレンの命は、あっさりと喪われたのであった。
ところで王太子妃となった女性は、元は公爵家の令嬢であった。
彼女は実のところ、王太子の迂闊な行動をよくよく把握していた。だから王太子に、こう言ったのである。
「あの食堂の娘を側妃として召し上げるつもりであれば、それでも構いませんわよ」
行動を知られていたと知れて、王太子は気まずげな顔をした。けれどそれを誤魔化すように、王太子はことさら大袈裟に片眉を上げたのだ。
「俺が? 何の価値もない、あんな薄汚い小娘を?」
その薄汚い小娘に、六年も入れあげていたのは王太子である。王太子妃のそういう視線に反発するように、王太子はカレンを貶めた。
「あの女は人魚だぞ。次期国王の俺が、そんな化け物を本気で愛するわけがないだろうが」
「人魚……?」
初めて知る事実に、王太子妃は思わず立ち上がった。人魚が恋に生き、恋に死ぬ生き物であることを、王太子妃はよくよく知っているのだ。
たとえそれが街中の食堂の看板娘であろうとも、人魚を恋人に選んだ時点で、王太子は公爵令嬢との婚約を解消して、カレン一人と婚約するべきであった。人魚とはつまり、そういう生き物なのだ。
「人魚たちとの関係が悪化したらどうするおつもりですか? この王国は島国なのですよ!」
王太子妃の不安を、王太子は笑い飛ばした。
「あの化け物は俺に恋をしていたからな。恋を失った人魚なぞ、すぐに死んで終わりだ。何の問題にもならないさ」
それはひととして最低な物言いであったが、王太子は自分でそのことに気づけなかった。王太子妃の機嫌を取るように甘くすり寄る。
「あんな顔しか取り柄のない化け物よりも、お前の方がずっと美しいさ。愛しているよ」
口先ばかりの愛の言葉を、王太子妃は凍るような気持ちで聞き流した。それから、胸の奥から湧き上がる不安に手を握りしめたのだった。
***
さて、結論から言えば、このあと王国は大きな問題に見舞われることになる。
なぜならただの街娘だと思われていたカレンが、実のところ島国である王国の周りの海を治める人魚国の第四王女だったからだ。
第四王女は他の兄姉たちから随分と遅れて生まれたのに加えて、指先ほどに小さく、体も弱く生まれついたので、それはもう周りから愛され、過保護に育てられた。
けれど本人の気質は好奇心旺盛であったので、過保護のあまり色々な制限がかかる人魚の王宮を息苦しがって陸に上がったのである。それをカレンの両親や兄姉たちは、ひどくハラハラとした気持ちで見守っていたのだ。
けれどカレンは、恋を失った。他のことであればどうとでもなっただろうが、よりによって人魚が、恋を失ったのである。
これによってカレンは、海に溶け込むように、命を落としたのだ。
人びとの間では、人魚は魂を持たないという説がある。実のところそれは間違いで、人魚というのは恋を失うと、魂に大きな傷がついてしまって、魂の形を保っていられなくなって、魂を失うのである。
命を喪い形を失ったカレンの魂は、他の恋を失った人魚たちの魂がそうであるように、海に溶け込み海底に溶け込み世界に溶け込んだ。そうして恋を失った人魚たちの魂は、新たな恋を求めるように新たな命を芽吹かせるのである。
カレンは人魚の王女であって、孕む魔力は強大なものだった。そのカレンが恋を失って彼女の魂が一帯の海に溶け込んだので、海はカレンに共鳴した。
つまり、王国周りの一帯の海が、カレンの哀しみに共鳴して凪いでしまったのだ。
愛する末娘を失った人魚王の嘆きも、この流れに呼応した。
元より人魚王は、無邪気な末娘が陸に上がったのを心配していたのだ。
それが番を見付けて安心していたところを裏切られたので、人魚王の怒りは王国に向いた。ここでは、カレンを騙したのが王太子であったのも良くなかった。
人間というのは近くの海に勝手に入って自分のもののように振る舞うけれども、本質的には海は海のものである。
霊的に言うのであれば、海というのは何もかも、その海域を治める知恵ある大海魔や人魚王のものだった。そして王国周りの海域は、カレンの父である人魚王が治めていたのだ。
その人魚王が人間たちに寄り添うのを辞めたので、必然的に海の中にいる全てのものたちが人間から遠ざかることになった。魚や他の生き物だけではない、珊瑚や海藻や、そういった全てのものたちが人間から遠のいたのである。
詰まり王国では、一切の海産物が獲れなくなったのだった。海に囲まれた島国で、これは致命的なことだった。
それだけではなく、砂や岩ばかりが広がる海底になってしまったので、美しい珊瑚礁を目当てにしていた観光客も激減した。波もないのに、船が残らず沈むようになった。
海水を掬ったところで、塩すら得ることができなくなったのだった。
事態に気づいた王国が慌てて関係の修復を図ったけれども、人魚王は沈黙した。何をされたところで、喪われたカレンは戻って来ないからだ。
人間国と人魚国の緊張状態は、四百年後、とある人魚の娘と人間の王族が偶然にも結ばれるまで続くことになる。
一帯に広がったカレンの魂の欠片は、二人を祝福して人間国と人魚国に実りを齎した。結ばれなかった自分たちの恋の続きを、祝福しているかのようだった。
人魚は魂を持たないというお話がありますが、伽藍はどちらかというと『全てのものが魂を持つ』と考えるタイプなので、なんとかすり合わせができないかな、、と思ってこねこねしたのがこちらでございます。どうにかそれっぽく形になった気がしますが、いかがでしょうか。今まで書いてきた人魚の設定とは若干違うかも
考えてみれば、安珍・清姫伝説も人魚姫も、枝葉を払えば似たようなお話なのよね。理由はどうあれ特定の男と結ばれようとした女が自滅して、最後は神や仏に救われるお話ですからね
食堂周りの人びとを普通に善良に書いてしまったので、巻き込まれちゃうな何かごめんね、、という気持ちです。このあと王国はきっと荒れるでしょうから
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