第4話
第4話
アリアは、しばらく相手の様子を見つめてから、ゆっくりと剣を下ろした。
白い髪を揺らしながら、少女は怯えたままこちらを見ている。敵意はない。少なくとも、今この瞬間に人を害そうとする気配は感じられなかった。
「……大丈夫。敵意はない」
その一言で、少女の肩から力が抜ける。ほっとしたように息を吐き、数歩だけ距離を詰めてきた。
焚き火はすでに弱まり、赤い熾火だけが残っている。アリアは警戒を解き切らないまま、薪を足して火を起こし直した。闇に飲まれかけていた空間に、再び橙色の光が広がる。
「私はアリア。……人間よ」
簡潔な自己紹介だった。
名乗ることに、今ではほとんど意味を感じていない。それでも、言葉にしなければ会話は始まらない。
少女は一瞬きょとんとしたあと、慌てて頷いた。
「えっと……リーネ、です。ごめんない、まだ子供で……」
自分指さしながら、申し訳なさそうに言う。
アリアは小さく首を振った。
「気にしない。生きている人と会えただけで何よりの収穫よ」
その言葉に、リーネは少しだけ笑った。
焚き火を挟んで向かい合い、ぎこちなく会話が始まる。
どこから来たのか。
ひとりなのか。
ここで何をしていたのか。
だが、話せば話すほど、アリアは違和感を覚え始めた。
「……この辺り、前は村があった。畑も、水路も……」
そう言った瞬間、リーネは首を傾げた。
「むら……? ああ、瓦礫がたくさんある場所ですよね。危ないけど、ご飯が拾えます」
「……違う。そこは、人が住んでた」
「人……? アリア以外の……?」
本当に分からない、という顔だった。
演技ではない。知識としてすら存在していない反応。
アリアの胸に、嫌な感触が広がる。
「崩壊する前は――」
そう切り出したところで、リーネが困ったように眉を下げた。
「ごめんなさい。……その、“前”っていうのが、よく分からなくて」
「……どういう意味?」
「世界って、ずっと“こう”ですよね?」
焚き火が、ぱちりと音を立てた。
アリアの思考が、一瞬止まる。
「……ずっと?」
「はい。私が生まれた時から、空は濁ってて、地面は割れてて……魔獣がうろついてますよ。それが普通じゃないんですか?」
アリアは、言葉を失った。
記憶喪失だ。
最初はそう思った。あまりにも多くを失えば、心を守るために脳が過去を閉ざすこともある。
「……何か、思い出せないことは?」
「え?」
「昔のこと。家族とか、村とか……」
リーネは、しばらく考え込んでから、静かに首を横に振った。
「ない、です。全部思い出せます。私は、生まれたばかりです」
その言葉は、あまりにも自然だった。
嘘をつく者の躊躇も、隠す者の迷いもない。
アリアの背筋を、冷たいものが走る。
――ありえない。
どう見ても、リーネは十代半ばだ。
崩壊から、まだそれほど時間は経っていない。生まれてからずっとこの世界しか知らないなど、計算が合わない。
「……そんなはず、ない」
アリアは無意識に呟いていた。
「え?」
「……ごめん、独り言」
まさか、何者かの企み?
それとも、世界が変わったように命の在り方すら変わった?
そんな考えが、一瞬だけ脳裏をよぎる。
――馬鹿馬鹿しい。
アリアは、すぐにその可能性を切り捨てた。
あまりにも荒唐無稽で、現実味がなさすぎる。単なる記憶喪失だ。考えすぎても仕方がない。
そう、思い込もうとした。
焚き火の向こうで、リーネが不安そうにこちらを見ている。
「……変、でしたか?」
「……いや」
アリアは視線を逸らし、短く答えた。
「今日は休もう。今から出発しても、すぐ夜になるから」
「……はい」
素直に頷くその姿を見て、アリアの胸に、言いようのないざらつきが残る。
きっと、すぐに思い出す。
本当は――
リーネは本当に生まれたばかりなのでは?という疑問が心の中に残っている。
ただ、理解が追いつかないことに無理やり納得できる理由をつけて、アリアはその疑問に無意識に蓋をしてしまった。
それからアリアは、リーネを連れて歩き続けた。
結果から言えば――リーネは、驚くほど役に立たなかった。
魔獣の気配を感じ取ることもできず、遠吠えが聞こえただけで顔を青くしてアリアの背に隠れる。焚き火を起こそうとすればマッチを落とし、簡単な保存食を作らせれば手順を間違えて焦げつかせる。夜になれば一人では眠れず、気づけばアリアの腕や背中にしがみついていた。
「……本当に、どうやって生きてきたの?」
思わず漏れたアリアの呟きに、リーネはしゅんと肩を落とす。
「ご、ごめんなさい……」
「責めてないからね」
即座に否定して、アリアは小さく息を吐いた。
疑問は残る。これほど何もできず、警戒心も薄い少女が、この終末世界で生き延びてこられたとは到底思えない。
――記憶喪失、か。
アリアはそう結論づけた。
世界が崩壊した衝撃で、身につけていたことも、学んだことも、すべて抜け落ちてしまったのだろう。そう考えれば、まだ納得できる。
それ以上、深く考えることはしなかった。
不思議なことに、アリアはリーネを遠ざけたいとは思えなかった。
どれだけ足手まといでも、どれだけ危なっかしくても。
ようやく出会えた、生存者。
それだけでも理由としては十分なはずだった。
けれど、それ以上に――リーネの存在は、乾ききったアリアの心を確かに潤していた。
魔獣を倒せば、真っ先に駆け寄ってくる。
「すごい……! アリア、本当に強いんですね!」
剣についた血を拭いながら、気まずそうに視線を逸らすと、リーネは嬉しそうに何度も頷いた。
食事を作れば、粗末な煮込みであっても。
「おいしい……! こんなの初めてです!」
そう言って、目を輝かせる。
たとえ味のしない保存食でも、リーネは文句ひとつ言わず、むしろ幸せそうに食べた。
笑う。驚く。怯える。安心して眠る。
感情が、そのまま表情に出る。
その一つひとつが、アリアには眩しかった。
気づけば、魔獣の気配がない場所を選び、歩幅をリーネに合わせ、夜は背中を預けられる位置に腰を下ろしていた。
「……くっつきすぎよ」
そう言いながらも、引き剥がすことはしない。
「だ、だって……アリアが近くにいないと、怖くて……」
小さく震える声に、アリアは何も言えなくなる。
守るものなど、もう残っていないと思っていた。
守れなかった過去ばかりが、胸を満たしていた。
それなのに。
今は、この小さな温もりが、確かにそこにある。
アリアはそれを、失いたくないと思ってしまった。
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