第2話
第2話
夜と呼んでいいのかも、もう分からなかった。
空は暗く、星はまばらで、雲があるのかどうかすら判別できない。
風が吹くたび、崩れた石と瓦礫が擦れ合い、ひどく乾いた音を立てた。その音だけが、この世界がまだ完全に止まっていない証のようだった。
アリアは瓦礫の山の端に座り込んでいた。
背後には、かつて展望台だった場所の名残がある。石段は途中で途切れ、手すりは折れ、見晴らしの良さだけが虚しく残っていた。
あたりには、もう死体はない。
正確には、見つからないのだ。
崩壊は一瞬だった。だから多くのものは、形を留める前に押し潰され、飲み込まれ、地形そのものと混ざり合ってしまった。
探せば見つかる、という段階すらとうに過ぎている。
それでもアリアは、何度も瓦礫をどけた。
指の皮が剥け、血が滲んでも、やめなかった。
――誰か、生きていないか。
そんな願いが、もう意味を持たないことは分かっていた。
それでも、やめられなかった。
やめてしまえば、
本当に「終わり」になってしまう気がしたから。
やがて、アリアは立ち上がる。
探すのをやめたからではない。
ただ、これ以上ここにいても、何も変わらないと理解しただけだ。
アリアは自分の持ち物を確かめた。
腰には、使い慣れた剣。
刃こぼれはないが、鞘にはひびが入っている。
それでも、手に取ると不思議と落ち着いた。
肩にかけた小さな袋の中には、水筒と、乾いた保存食が少し。
それから、割れた金属片が一つ。
騎士章だったものだ。
アリアの故郷、レインフォールの騎士であることを示す、小さな紋章。
今は歪み、半分が欠けている。それでも捨てられなかった。
アリアはそれを指でなぞり、袋の奥にしまい直した。
――持っていくものは、これだけ。
新しいものは、何一つない。
希望も、目的も、未来の約束も。
あるのは、壊れた世界と、自分がまだ生きているという事実だけだ。
アリアは歩き出す。
どこへ向かうか、決めてはいなかった。
魔王を探す、と明確に言葉にできるほど、頭は整理されていない。
ただ、ここに留まることだけはできなかった。
立ち止まれば、思い出してしまう。
名前を呼んでくれた人たちの声を。
笑顔を。
当たり前だった日常を。
それらを一つ一つ思い出してしまえば、
きっと、もう二度と立ち上がれなくなる。
だから歩く。
前でも後ろでもなく、ただ足が向く方へ。
瓦礫を踏み越え、ひび割れた地面を進み、
かつて街へと続いていた道の名残を辿る。
世界は広いはずだった。
剣と魔法があり、国があり、人が生きていた。
けれど今、アリアの目に映るのは、
どこまでも荒れ果てた大地だけだ。
それでも、歩みは止まらなかった。
アリアはまだ、生きている。
それが呪いなのか、意味のあることなのかは分からない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
――私は、奪われた。
何を。
誰を。
どれだけ。
その答えを、アリアはまだ言葉にできない。
けれど胸の奥で、確かに何かが燃えている。
それは怒りであり、無力感であり、
そして――逃げ場のない衝動だった。
アリアは歩き続ける。
この先に何があるのかを知らないまま。
ただ、歩くことをやめなかった。
アリアは、どれほど歩いたのか分からなくなるまで進んでいた。
かつては街道だった場所は、もはや道と呼べる形をしていない。
地面はひび割れ、隆起し、ところどころが不自然に沈み込んでいる。地図など、何の役にも立たなかった。
それでも、歩いているうちに確信が深まっていく。
――生きている人間が、いない。
かなり歩いたのに、一人の人間ともすれ違わなかった。
声がない。
足音がない。
焚き火の煙もなければ足跡すらない。何ひとつとして人間の痕跡を感じられない。
その代わりに。
遠くで、低く唸るような音が響いた。
「……っ」
アリアは足を止め、耳を澄ます。
それは風の音ではない。雷でも、崩落でもない。
――魔獣の遠吠えだ。
一つではない。
重なり合い、呼応するように、あちこちから聞こえてくる。
人間の痕跡は消えているのに、
魔獣の気配だけが、異様なほど濃い。
アリアの背筋に、冷たいものが走った。
(……おかしい)
魔獣は、こんなにも活発だっただろうか。
確かに危険な存在ではあったが、縄張りを持ち、遭遇することは少なかったはずだ。
それなのに今は、まるで――
世界そのものが、魔獣のために開かれているかのようだ。
不安を振り払うように、アリアは手をかざした。
「……灯れ」
小さな火球を生み出す、初級の火魔法。
何度も使ってきた、身体に染みついた感覚。
――だが。
火は生まれなかった。
空気が、応えない。
魔力は流れているのに、形にならず、霧散する。
「……っ、どうして……!」
もう一度、集中する。
呼吸を整え、魔力の流れを意識し、今度は詠唱を省略せずに力を束ねる。
だが結果は同じだった。
発動しない。
正確には、魔力の流れは感じられるのに、それを魔法として出力できない。
アリアは、はっとする。
脳裏に浮かんだのは、街にもお伽話として伝わっていた古い話。
――魔王が誕生したとき、世界の理は歪んだ。
――魔は溢れ、獣は狂い、術の在り様が変わった。
――勇敢なる者が魔王を討ったが、世界は戻らなかった。
「……そんな……」
否定したかった。
あれは昔話で、お伽話で、自分とは縁遠いものだったはず。
けれど。
この世界。
魔法の不調。
魔獣の異常な活性。
すべてが、その伝承と一致している。
アリアは、唇を噛みしめた。
(……もう、間違いない。魔王が……復活した)
その瞬間だった。
草むらが、大きく揺れた。
反射的に身構えたアリアの前に、
黒く、歪な影が躍り出る。
狼型の魔獣。
だが通常よりも一回り以上大きく、目は不自然な赤に染まっている。
――全部で、四体。
包囲されている。
「……っ」
剣を抜く音が、やけに大きく響いた。
魔法が使えない。
この状況で、それは致命的だ。
魔獣が地を蹴る。
考える暇はなかった。
アリアは踏み込み、剣を振る。
狙いは正確だった。喉元を裂き、一体を即座に沈める。
だが残りは怯まない。
吠え、襲いかかってくる。
剣を振るう。
かわし、斬り、押し返す。
それでも、明らかに危険だった。
動きが速い。
力が強い。
そして――数が多い。
「……くっ!」
肩を掠める衝撃。
鎧越しでも、鈍い痛みが走る。
どうにか最後の一体を斬り伏せたとき、
アリアは荒い息をついて、その場に膝をついた。
剣先から、黒い血が滴る。
生きている。
だが、それは偶然に近い。
アリアは理解した。
この世界では、
今までのやり方では、生き残れない。
魔王が復活し、世界の理が変わり、自分はまだ、その変化に追いつけていない。
それでも。
剣を、手放すことはできなかった。
アリアは立ち上がる。
恐怖はある。
無力感もある。
だが、それ以上に。
――奪われたままでは、終われない。
その思いだけが、彼女を前へと動かしていた。
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