第1話
第1話
世界は、音を立てて壊れた。
いや、正確には――
音すら、もう覚えていない。
アリアの視界に広がるのは、瓦礫と灰と、焼け焦げた大地だけだった。
かつて建物が並び、人が行き交い、笑い声が響いていたはずの場所は、
今では形を失い、原型すら留めていない。
立ち上る煙が、空を覆っている。
太陽はどこかに消え、昼か夜かも分からない。
「……ぁ……」
声にならない音が、喉から漏れた。
剣を握る手が、震えている。
疲労ではない。恐怖でもない。
――現実だと、理解してしまったからだ。
足元に転がるそれが、誰だったのか。
少し前まで、どんな言葉を交わしていたのか。
もう、思い出せない。
いや、思い出すことを、脳が拒絶していた。
アリアは膝をついた。
瓦礫に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。
守ろうとした。
必死だった。
叫び、走り、剣を振るい、
自分の身を投げ出してでも――
それでも、間に合わなかった。
「……なんで……」
唇が震える。
守れなかった。
誰も。
何一つ。
これまで、手の届く範囲なら守れていた。
小さな争いも、些細な不安も、
自分が立っていれば、どうにかなった。
そう信じていた。
だが、世界そのものが壊れる前では、
アリアはあまりにも無力だった。
剣は、意味を成さなかった。
叫びも、祈りも、何の価値もなかった。
「……ふざ、け……」
歯を食いしばる。
視界が滲む。
怒りが、遅れて湧き上がってきた。
――誰が、やった。
――何が、こんなことを。
理由も、理屈も、どうでもよかった。
必要なのは、ただ一つ。
向ける先だ。
アリアは、ゆっくりと立ち上がる。
震えは消えない。それでも、足は前を向いた。
この世界を、こうしたもの。
この惨状を生み出した存在。
それが神だろうと、魔王だろうと、
運命だろうと、必然だろうと――
関係ない。
「……殺す」
声は、ひどく静かだった。
怒号でも、叫びでもない。
ただ、確定した事実のような響き。
「必ず、見つけ出して……」
灰に覆われた空を、睨みつける。
「……殺してやる」
それが誰に向けた言葉なのか、
アリア自身にも分からなかった。
ただ一つ確かなのは、
この瞬間、彼女の中で何かが決定的に壊れたということだけだった。
そして――
この誓いが、
誰かにとっては、ひどく愉快なものだったことを。
アリアは、まだ知らない。
――――
朝の光は、いつもと同じ角度でアリアの部屋に差し込んだ。
木枠の窓から入り込む柔らかな陽射しが、白いカーテンを揺らす。
「アリア、起きてる?」
母の声が、扉越しに聞こえる。
「起きてるよ」
そう返すと、すぐに扉が開き、湯気の立つスープの匂いが流れ込んできた。
朝食の支度はもうできているらしい。
食卓には、父と母が並んで座っていた。
父は新聞を畳み、アリアを見ると少しだけ目尻を下げる。
「今日も訓練か?」
「うん。午後は巡回」
「無理はするなよ」
それは、何度も聞いた言葉だった。
それでも言われるたび、アリアの胸の奥がじんと温かくなる。
母はアリアの前に皿を置きながら言う。
「帰りにパン屋さん寄ってきて。いつものパン、もうなくなっちゃった」
「はーい」
そんな、どうでもいい会話。
でも、アリアにとってはかけがえのない時間だった。
街へ出ると、あちこちから声をかけられる。
「おはよう、アリア!」
「今日も頼むよ、騎士様」
「この前はありがとうね」
その一つ一つに、アリアは笑顔で応えた。
信頼されているという実感が、背筋を自然と伸ばしてくれる。
騎士団の詰所では、同期たちがすでに集まっていた。
「遅いぞ、アリア」
「待ってたわよ」
「ごめんごめん」
剣を抜き、向かい合う。
互いの癖も、得意も、弱点も知り尽くしている相手だ。
剣がぶつかる乾いた音が、朝の空気に響く。
「今の、いい踏み込みだったな」
「そっちこそ」
勝ち負けよりも、成長を確かめ合う時間。
競い合いながら、同じ方向を向いている仲間がいる。
それが、誇らしかった。
昼は親友と並んで腰を下ろし、簡単な食事を取る。
「今日の訓練、きつかったね」
「でもさ、楽しいでしょ」
笑いながら、他愛もない話をする。
次の祭りのこと。
新しくできた店のこと。
どうでもいいけれど、どうでもよくない話。
「アリアの親友になれて嬉しい」
不意にそう言われ、アリアは少しだけ照れた。
「……うん、私も」
でも、胸の奥がじんわりと熱くなる。
夕方、巡回を終えて街を歩く。
石畳に伸びる影が、ゆっくりと長くなる。
パン屋では、いつものように声をかけられた。
「アリアちゃん運がいいね。さっき最後のぶんを焼いたばかりだったんだ」
「ほんと!?ありがとう!」
紙袋を受け取ると、温かさが手に伝わる。
それだけで、今日一日が報われた気がした。
家に帰れば、灯りが点いている。
「おかえり」
「ただいま」
夕食を囲み、今日の出来事を話す。
父が少し大げさに相槌を打ち、母が笑う。
その光景を見ながら、アリアは思う。
――守りたい。
この街を。
この人たちを。
この、当たり前の日常を。
剣を握る理由は、いつだってそれだった。
夜、ベッドに横になり、目を閉じる。
明日も、同じ朝が来る。
同じ街で、同じ人たちと、同じように笑う。
疑いもしなかった。
それが、永遠に続くと。
世界が、こんなにも脆いものだなんて――
アリアは、まだ知らない。
翌朝も、世界は何事もなかったかのように始まった。
差し込む朝日、食卓の湯気、父の微笑み、母の手料理。
昨日となにも違わない朝だった。
「行ってきます」
そう言って家を出たとき、アリアは疑いもしなかった。
これが、最後の「いつも」だなんて。
昼時、アリアは親友と街の広場で並んで腰を下ろしていた。
木陰は涼しく、人の往来も穏やかで、パンの香ばしい匂いが漂っている。
「最近さ、考えるんだよね」
親友が、少し照れたように言った。
「将来のこと」
「将来?」
「うん。ほら、あたしたち、騎士として順調だし……この街だって、きっともっと良くなるでしょ。このまますべて上手くいくといいのにって」
アリアは笑った。
「なにそれ、近所のおじいちゃんみたいなこと言ってる」
「そんな遠くまで考えてないって。すぐ先の話」
空を仰ぐ。
雲はゆっくり流れ、青はどこまでも澄んでいる。
「ていうか、収穫祭もうすぐだね」
「今年は去年よりも屋台増えるんだって。楽しみだよね」
「今年も一緒に回ろうね!」
その言葉は、弾むようで、未来そのものだった。
アリアが頷こうとした――その瞬間。
違和感が、世界を撫でた。
音が、消えた。
ざわめきも、風の音も、遠くの笑い声も、すべてが一瞬で途切れる。
まるで世界が、息を止めたようだった。
「……え?」
親友も違和感に気づいたのか、キョロキョロと辺りを見渡している。
空の色が、歪んだ。
青が、ひび割れる。
見えない亀裂が、天と地を走る。
次の瞬間。
世界が、壊れた。
地面が裂け、建物が紙細工のように崩れ落ちる。
悲鳴が上がるより先に、人が死ぬ。
炎でも、嵐でもない。
ただ、存在が否定されていく。
「――っ!」
アリアは立ち上がり、親友の腕を掴もうとした。
指先が、届かない。
すぐそばにいた。
確かに、そこにいた。
なのに――
親友の身体が、裂ける大地に呑まれていく。
「アリア!逃げて!!」
その声が、最後だった。
「待って……!」
叫んでも、世界は応えない。
街が、壊れる。
人が、死ぬ。
思い出が、日常が、未来が、意味を失っていく。
アリアは走った。
意味がないと知りながら剣を抜いた。
誰かを、何かを……日常を、守ろうとした。
でも――何もできない。
守れる距離にいた。
腕を伸ばせば届くはずだった。
それでも、間に合わなかった。
自宅も、例外なく崩れていた。
もはや判別することもできないほどにひしゃげた二つの死体。しかし見覚えのある髪の色。
両親であることは、間違いなかった。
膝をつき、瓦礫の中で、アリアは呆然と立ち尽くす。
視界の端で、塔が崩れ落ちる。
遠くで、街が沈んでいく。
その光景を見た瞬間、脳裏に浮かんだのは――
魔王誕生の伝承。
かつて、魔王が生まれたとき。
文明は一度、滅んだ。
世界は終わり、だが勇敢なる者が立ち上がり、魔王を討った。
そうして、人は再び世界を築いた。
――まさか。
――復活……?
そう考えた瞬間、理解する。
今、この瞬間は……伝承と、同じだ。
やがて、音も、光も、命も消えたあと。
アリアは一人、崩壊した世界に立っていた。
守れなかった。
何一つ。
剣を握る意味も、誇りも、日常も、すべて失った。
胸の奥が、空洞になる。
怒りも、悲しみも、もはや言葉にすらならない。
ただ、深く沈んでいく。
やがて、アリアは歩き出した。
崩れた街の中を、瓦礫を踏み越え、倒れた柱の影を覗き込みながら。
自分の呼吸音だけが、やけに大きく耳に残る。
――生きている人が、いるかもしれない。
根拠なんてなかった。
ただ、自分が生き残ったのなら、同じように生き延びた誰かがいるかもしれない。
それだけが、アリアを立たせていた。
「……誰か……」
声に出してみる。
すぐに後悔するほど、その声は虚空に吸い込まれ、何の反応も返さなかった。
倒壊した家屋。
潰れた路地。
昨日まで人の営みがあったはずの場所は、無残な残骸に成り果てている。
瓦礫の下を覗き込み、必死に手を伸ばす。
だが掴めるのは、冷え切った石と、砕けた木片だけ。
呼びかけても、叩いても、返事はない。
時間が経つにつれ、胸の奥で何かが静かに削れていくのを、アリアは感じていた。
それでも歩くのをやめなかった。
やがて、街を一望できる展望台へと続いていた、崩れた階段に辿り着く。
――もしかしたら。
この街だけが、たまたま被害を受けたのかもしれない。
遠くには、無事な街や村が残っているかもしれない。
その可能性に縋りつくように、崩れた階段をどうにか上る。
息が切れ、足が震えても、止まらなかった。
そして――見てしまった。
かつて街を見渡せたはずの場所から見えるのは、荒れ果てた世界そのものだった。
建物の影はなく、道の形も失われ、大地は裂け、黒く焦げ、ねじ曲がっている。
遠くまで、同じ光景が続いていた。
煙すら上がらない。
動くものは、何ひとつない。
「……そんな……」
膝から力が抜け、アリアは瓦礫の中に崩れ落ちた。
ここだけじゃない。
どこにも、無事な場所なんてない。
生き残ったのは――
自分だけだ。
胸の奥で、何かが完全に折れる音がした。
同時に、再びアリアの脳裏をよぎる古い伝承。
――魔王が誕生したとき、文明は一度滅んだ。
――世界は終わり、英雄によって魔王は討たれた。
今、目の前に広がる光景は、それと寸分違わない。
「……魔王……」
誰が。
なぜ。
答えは、どこにもない。
瓦礫の冷たさを感じながら、アリアはゆっくりと立ち上がる。
震える手を、強く握り締める。
守りたかった。
守れると思っていた。
けれど、何もできなかった。
何一つ、間に合わなかった。
その事実が、心を焼く。
だから――
「……必ず」
声は掠れていたが、確かだった。
「必ず、見つけ出す」
この世界を壊した存在を。
すべてを奪った元凶を。
たとえ、世界の果てでも。
たとえ、自分が壊れても。
「……殺してやる」
その言葉とともに、アリアの中で何かが確かに燃え上がった。
それが、
後に世界を震わせる復讐の始まりだと、彼女自身はまだ知らない。
『世界は彼女のために在り』
読んでくださってありがとうございます。
基本的には毎日投稿を心がけていきます。
応援よろしくお願いします。




