第9話
第9話
休憩を挟みながら、一日中歩き続けた。
日が傾き始めた頃、ようやく目印にしていた場所へ辿り着く。
そこには、焚き火の跡だけが残っていた。
すでに火は落ち、灰も冷えている。
人の姿はない。
「……まぁ、そうよね」
アリアは小さく息を吐いた。落胆はあるが、絶望するほどではない。
少なくとも、ここに人がいた痕跡は確かにある。
周囲を警戒しながら、慎重に地面を確認する。
踏み固められた草。土に残った靴跡。乱れてはいるが、まだ新しい。
「足跡、ありますね」
リーネが指差す。
「そうね。……生存者で間違いないわ」
その事実だけで、胸の奥に張りついていた重苦しさが、わずかに和らいだ。
夜に無理をする理由はない。
足跡の主も、夜間は動いていないはずだ。
アリアはここで一夜を明かすことを決めた。
焚き火を起こすため、枯れ枝を集める。
残り少ないマッチを手にしたところで、ふと、昼間の感覚が脳裏をよぎった。
——剣を握った瞬間、体の奥から溢れ出した、あの魔力。
これまで何度も魔法を使ってきたが、あれは明らかに違っていた。
魔力を「引き出す」のではなく、体そのものが魔力で満たされていく感覚。
アリアは一瞬迷い、それから小さく息を吸った。
もしかして。
マッチを置き、掌を焚き木へ向ける。
意識を集中させ、魔力を巡らせる。
——灯れ。
短い詠唱とともに、指先に熱が集まる。
次の瞬間、焚き木に小さな火が灯った。
問題なく、魔法が使えた。
「……」
アリアは自分の手を見つめる。
これまで、魔王復活後の世界では魔法の感覚が噛み合わず、発動すらできなかった。
それが今は、崩壊前と変わらない——いや、それ以上に滑らかだ。
この剣を手にしたことで、
自分の体が、この歪んだ世界の理に順応した。
そんな考えが浮かび、アリアは首を振る。
考えすぎだ、と自分に言い聞かせる。
「すごいですね、アリア」
リーネは素直に目を輝かせている。
「……命を守るための力よ。使えるなら、使わない理由はないわ」
もっともらしい言葉を口にして、火に視線を戻す。
それが、剣を手放さないための言い訳だとは、自分でも気づかなかった。
簡単な食事を済ませ、装備を確認し、剣を手の届く位置に置く。
明日の朝、少し早めに出発して、ペースを上げて追えばいい。
そうすれば、追いつける可能性は十分にある。
横になると、すぐにリーネがアリアの腕にしがみついてくる。
いつものことだ。
だが今夜は、なぜかそれだけでは足りない気がした。
アリアは無意識のうちに身体を寄せ、腕だけでなく、全身でリーネを包み込むようにした。
外界から隔てるように、守るように。
「……えへ」
リーネは嬉しそうに声を漏らし、より深く身を委ねてくる。
その体温は高く、柔らかい。
胸に伝わる呼吸のリズムが、妙に落ち着く。
アリアは目を閉じる。
心地よさに身を任せると、意識はすぐに沈んでいった。
悪夢は、もうしばらく見ていない。
――
まだ空が薄く青みを帯びている頃、アリアは目を覚ました。
腕の中で、リーネが小さく身じろぎをする。
眠そうに目を擦り、名残惜しそうにアリアの服を掴んだ。
「……もう出発ですか」
「ええ。少し早いけど、追いつきたいからね」
リーネは小さく頷き、あくびを噛み殺す。
その様子がどこか微笑ましくて、アリアは思わず口元を緩めた。
簡単な朝食を済ませ、焚き火の痕を消す。
足跡を辿り、二人は静かに歩き出した。
日が昇るにつれ、足跡ははっきりとしていく。
迷いなく進んでいる様子から、相手がこの土地に不慣れではないことがわかる。
正午近く。
風向きが変わった瞬間、アリアの鼻孔を刺激する匂いがあった。
煙の匂い。
それに混じって、魚が焼ける香ばしい匂い。
「……いた」
アリアは低く呟き、足を止める。
リーネをそっと背後に庇い、物陰へ身を寄せた。
慎重に覗くと、少し開けた場所に一人の少女がいた。
焚き火の前に腰を下ろし、手慣れた動きで食事の準備をしている。
服は薄汚れている。
だが、よく見ればそれは元々、かなり上等なものだったはずだとわかる。
装飾の名残。
仕立ての良さ。
そして何より、それらに負けない洗練された所作。
(……ただの旅人じゃない)
アリアは剣の柄に手を添えた。
敵対的とは限らない。だが、油断できる相手でもない。
息を殺し、様子を伺う。
——そのとき。
「隠れていないで、出てきたらどうです?」
静かな声だった。
しかし、はっきりとこちらに向けられていた。
アリアの背筋に、冷たいものが走る。
(気づかれている……?)
反射的に剣を握り、物陰から姿を現す。いつでも剣を抜ける距離感を保ったまま。
焚き火の前にいた少女は、ゆっくりと顔を上げた。
その視線が、まずアリアに。
次に、リーネへと移る。
ほんの一瞬、わずかに眉が顰められた。
敵意とも、警戒とも違う。
もっと別の——理解できない何かを見たときの反応。
「……二人、ですか。三人かと」
少女はそう呟き、再びアリアを見据えた。
その視線の鋭さに、アリアは確信する。
この少女は、ただの生存者ではない。
焚き火の向こうにいる少女は、ゆっくりと立ち上がった。
淡い青色の髪が、光を受けて柔らかく揺れる。
切れ長の瞳は涼やかで、幼さを残した顔立ちに不釣り合いなほど、静かな理性を宿していた。
年の頃は——アリアより、少し下だろう。
だが、仕草は落ち着き払い、場慣れしている。
アリアは距離を詰めない。
剣に手をかけたまま、低い声で問いかけた。
「……生存者……よね?」
「ええ。今のところは」
少女は淡々と答える。
その口調もまた、年齢に似合わない。
「あなたたちも?」
「ええ」
短く答え、アリアは視線を逸らさない。
相手も同じだ。互いに警戒を解く様子はない。
その張り詰めた空気の中で、場違いなほど柔らかい声が割り込んだ。
「こんにちは!」
リーネだった。
にこにこと笑い、ぺこりと頭を下げる。
「私、リーネって言います。この人はアリアです」
少女の視線が、ぴたりとリーネに向く。
——一瞬、空気が変わった。
敵意ではない。
だが、はっきりとした警戒。
アリアはその変化を見逃さなかった。
(……私より、リーネを見てる?)
少女はリーネをじっと見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「……変ですね」
「なんのこと?」
即座に返すアリア。
少女は焚き火から少し離れ、周囲を見渡した。
まるで、そこにいない“何か”を探すように。
「気配です。最初は……三人いると思っていました」
アリアの眉がわずかに動く。
「三人?」
「ええ。でも、いるのはあなたと……」
視線がリーネに向き、少しだけ言葉に詰まる。
「……この子だけ」
リーネは首を傾げ、きょとんとした顔をする。
「? 最初から二人ですよ?」
少女は答えなかった。
代わりに、アリアへと視線を戻す。
そして——
その視線が、アリアの背へと落ちた。
真紅の刀身を持つ剣。
鞘に収まっていても、異様な存在感を放つそれ。
少女の顔色が、はっきりと変わった。
血の気が引く。
喉が、わずかに鳴る。
(……なんだ、あれは)
少女は本能的に理解した。
あれは武器ではない。
“持っていいもの”ではない。
——触れてはいけない。
——見てはいけない。
——本来、この世界にあってはならない。
背筋を、冷たいものが這い上がる。
「……その剣」
声が、わずかに震えていた。
アリアは相手の動揺を見て、初めて剣を意識する。
「これが、なに?」
少女は一歩、無意識に下がっていた。
そして、確信する。
この二人は、生存者ではあるが——
同時に、この崩壊した世界に選ばれた存在であると。
特に、アリア。
そして、隣に立つ少女はそれ以上に得体の知れない“何か”だ。
(……近づいてはいけない)
そう思いながらも、少女の足は止まっていた。
恐怖と同時に、
抗えない“関心”が芽生えてしまったことを、自覚してしまったから。
重苦しい沈黙を、アリアが静かに破った。
「……話す前に、ちゃんと整理しておきましょう」
剣から手は離さないが、声は抑えられている。
「私たちに敵意はないわ。だから、あなたの名前を聞かせてほしい」
少女は一瞬だけ視線を泳がせ、それから小さく息を吐いた。
「……セレイス、と言います」
淡い青の髪が、焚き火の光を受けて揺れる。
「神殿に仕える巫女でした。……もう、神殿はありませんが」
その言葉に、失われたものの大きさが滲んでいた。
アリアは頷く。
「私はアリア。こっちはリーネ。……もう知ってるわよね」
「はい」
セレイスは短く答えたが、その視線はどこか慎重なままだった。
特に、無邪気に微笑むリーネへ向けられる視線は、わずかに硬い。
アリアはそれに気づきつつ、本題に入る。
「私たちは旅をしているの。目的は……魔王」
言葉を選びながら、はっきりと告げる。
「復讐よ。世界を壊した存在への」
セレイスの瞳が、わずかに揺れた。
アリアは続ける。
「リーネとは、この旅の途中で出会ったわ。崩壊後のことしか覚えてなくて……自分がどこから来たのかも、よくわからないみたい」
「えへへ……」
リーネは照れたように笑う。
「でも、アリアがいてくれたので大丈夫です!」
その言葉に、セレイスは何も返さなかった。警戒を解いた様子もない。
アリアは気にせず話を進める。
「王都――王都跡の王立図書館で、できる限りの資料を調べたわ」
過去の記録。
文明崩壊の範囲。
異変が広がった順序。
「断片的な情報ばかりだけど……地図に書き込んで整理した結果、魔王の復活地点は大陸中央部、旧聖域圏だと予想してる」
セレイスは真剣に聞き入り、何度か小さく頷いた。
「……そこまで調べているとは思いませんでした」
「当てもなく彷徨うよりは、いいと思っただけよ」
アリアは淡々と答える。
「合ってるかはわからない。でも、何もせずに歩き回るよりは、意味がある」
そして、セレイスを見た。
「あなたは?」
セレイスは焚き火に視線を落とし、しばらく沈黙してから口を開く。
「……私も、魔王を目指しています」
リーネがぱっと顔を上げる。
「同じですね!」
「理由は違います」
セレイスははっきりと言った。
「私は復讐のためじゃない。この世界を……元に戻す方法を探すためです」
アリアは一瞬だけ目を伏せる。
「……戻す、ね」
「神殿の記録によると、世界の理が歪むのは二度目……。そして、歪んだ理のまま、世界は今日まで続いてきたとされています」
セレイスは拳を握りしめる。
「こんな世界のまま続くなんて、私は納得できません。魔王が原因なら、魔王に辿り着けば、何か手がかりがあるはずだと……私は、そう信じています」
アリアは小さく息を吐いた。
「……甘い考えだとは思う」
でも、否定しきることはしなかった。
「……ええ。わかっています」
セレイスは目を逸らさずに言う。
「それでも、壊れた世界をそのまま受け入れる気にはなれない」
リーネが、少しだけ不安そうにアリアを見る。
アリアはその視線を受け止め、静かに結論を出した。
「目的地は同じね」
「……はい」
「なら、一緒に行かない?生存者同士、助け合えれば互いのメリットになると思うの」
アリアの声は冷静であり、セレイスを気遣うような色も含んでいた。
セレイスは少し考え、それから深く頭を下げる。
「……よろしくお願い致します」
だが、その視線はすぐにアリアの背へと向かう。
――赤い刃。
あまりにも異質で、あまりにも不吉な存在。
(……三人だと思った気配は、間違いじゃなかった)
剣を見た瞬間、セレイスの背筋に冷たいものが走った。その感覚は間違いではないと断言できた。
(この人は……何を背負っているの?)
世界を救おうとする者。
復讐に身を委ねつつある者。
そして、何も知らずに笑う少女。
セレイスは直感的に悟った。
この旅は、ただ魔王へ向かうだけのものではないかもしれない。
——もっと、取り返しのつかない何かへ向かっている。
読んでくださってありがとうございます。




