第8話
第8話
熊の魔獣の骸が地に伏す。
赤い刃から滴る血が、土に吸い込まれていくのを、アリアはぼんやりと眺めていた。
――勝った。
その事実が、胸の奥に小さな熱を灯す。
自分でも気づかないまま、唇の端がわずかに持ち上がっていた。
「……アリア?」
リーネの声に、はっとする。
「いま、笑ってましたよ。なにか嬉しいことでもあったんですか?」
覗き込むようなその視線に、アリアは一瞬言葉に詰まった。
自分がどんな表情をしていたのか、まるで自覚がなかった。
「……気のせいよ」
取り繕うようにそう言って、アリアは剣を振り払う。
赤い刀身を鞘に収めると、不思議なほどすんなりと収まった。
深く息を吸い、気持ちを切り替える。
「行きましょう。ここは長居する場所じゃないわ」
「はいっ」
リーネは素直に頷き、アリアの隣に並ぶ。
歩き出しながら、アリアは背に負った剣の重さを意識した。どれだけ意識しても、重さを感じられなかった。
最初に見つけたときの嫌悪感は、もうほとんど残っていない。不気味で、理解できなくて、触れるのもためらったはずなのに。
たった一度振るっただけなのに、この剣は、まるで最初から自分のためにあったかのように手に馴染んでいく。
それをおかしいと思うべきだと、どこかで理解しているはずなのに、手放そうとは思えなかった。
――そういえば。
ふと、思考の端に引っかかるものがある。
折れた細剣。
長年使い続けた、相棒。
毎日欠かさず手入れをし、訓練にも任務にも必ず携え、
刃の欠け一つでさえ、胸が痛んだあの剣。
……あれを。
熊の魔獣と対峙した場所に、置いてきた。
気づいたのは、ほんの一瞬。
それ以上、思い返そうとはしなかった。
胸が痛むことも、惜しむ気持ちも、なぜか湧いてこない。
代わりに、背中にある赤い剣の存在だけが、確かだった。
「次はどこへ行くんですか?」
リーネが楽しそうに問いかける。
「地図を見る限り、この先に川があるはずよ」
「じゃあ、お水が手に入りますね!」
嬉しそうに笑うリーネ。
無邪気で、何も変わらないその態度。
だからアリアは、自分の中で何かが静かに失われていることに、気づけなかった。
怒りは、まだ燃えている。
復讐の決意も、揺らいでいない。
ただ――
アリアの人間性だけが、少しずつ、剥がれ落ちていく。
それを、誰も指摘しない。
指摘できる者など、いなかった。
――
赤い刃を背に負って歩くたび、アリアはわずかな違和感を覚え続けていた。
不快、というほどではない。だが好意とも呼べない、言葉にしづらい感触。まるで他人の視線を背中に感じているような、そんな落ち着かなさだった。
それでも、歩みを止めようとは思わなかった。
剣の重みは相変わらずほとんど感じられない。背負っているという事実だけが、かろうじて存在を主張している。
休憩を取った際、アリアは無意識のうちにその剣を下ろしていた。
赤い刀身を布の上に置き、細剣のときと同じ手順で手入れを始める。汚れを落とし、刃を確かめ、柄に異常がないかを確かめる。必要以上に丁寧なその所作に、自分でも少し驚いた。
「大事にしてるんですね」
リーネが屈託なく言う。
褒めるような、嬉しそうな声音だった。
「……武器だからね」
アリアは視線を剣から逸らさずに答えた。
「命を守るための道具だから、ちゃんとしておかないと」
言葉はもっともだった。正しい。騎士として、冒険者として、当然の理屈だ。
けれどどこかで、その言葉が自分自身への言い訳のように響いていることを、アリアは薄々感じていた。
それでも手入れの手は止まらない。
赤い刃は、磨くたびに不思議と落ち着いた光を帯びていく。初めて目にしたときに覚えた、あの強烈な嫌悪は、もうない。代わりにあるのは、馴染みつつあるという実感だった。
「似合ってますよ」
リーネは何の疑いもなくそう言って、にこりと笑った。
その無邪気な肯定に、アリアの胸の奥がわずかに緩む。
「……そうかしら」
短く返し、剣を鞘に収める。
背に戻した瞬間、そこにあることが自然だと感じてしまう自分に、気づかないふりをした。
――
旅を再開し、二人は近くの高台を目指した。
地図と実際の地形を擦り合わせるためだ。崩壊によって変わり果てた世界では、かつての記録がどこまで通用するかわからない。
高台に立ち、周囲を見渡す。
荒れ果てた大地。崩れた山肌。歪んだ川筋。
それでも、慎重に確認していけば、地図と一致する点は確かに存在した。
作業を終え、ふと遠くを見る。
そのとき、アリアは気づいた。
はるか彼方、視界の端。
空へ細く立ち上る、灰色の筋。
「……煙?」
焚き火のものに見えた。
自然発生にしては規則的すぎる。
生存者。
その可能性が、胸の奥で小さく、しかし確かに灯る。
アリアは地図を畳み、進行方向を定めた。
「行きましょう」
短く告げると、リーネはぱっと表情を明るくする。
「はい!」
二人は高台を後にし、煙の見えた方角へと歩き出す。
赤い刃を背負ったまま、迷いなく。
その剣を、もう“不気味なもの”だとは思わなくなっていることに、アリア自身はまだ気づいていなかった。
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