表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界は彼女のために在り  作者: ヨルイチ
第二章 ぬくもりと、赤い刃
13/17

第8話

第8話

 

熊の魔獣の骸が地に伏す。

赤い刃から滴る血が、土に吸い込まれていくのを、アリアはぼんやりと眺めていた。


 ――勝った。


 その事実が、胸の奥に小さな熱を灯す。

 自分でも気づかないまま、唇の端がわずかに持ち上がっていた。


「……アリア?」


 リーネの声に、はっとする。


「いま、笑ってましたよ。なにか嬉しいことでもあったんですか?」


 覗き込むようなその視線に、アリアは一瞬言葉に詰まった。

 自分がどんな表情をしていたのか、まるで自覚がなかった。


「……気のせいよ」


 取り繕うようにそう言って、アリアは剣を振り払う。

 赤い刀身を鞘に収めると、不思議なほどすんなりと収まった。


 深く息を吸い、気持ちを切り替える。


「行きましょう。ここは長居する場所じゃないわ」


「はいっ」


 リーネは素直に頷き、アリアの隣に並ぶ。


 歩き出しながら、アリアは背に負った剣の重さを意識した。どれだけ意識しても、重さを感じられなかった。


 最初に見つけたときの嫌悪感は、もうほとんど残っていない。不気味で、理解できなくて、触れるのもためらったはずなのに。

 

たった一度振るっただけなのに、この剣は、まるで最初から自分のためにあったかのように手に馴染んでいく。

それをおかしいと思うべきだと、どこかで理解しているはずなのに、手放そうとは思えなかった。


 ――そういえば。


 ふと、思考の端に引っかかるものがある。


 折れた細剣。


 長年使い続けた、相棒。

 毎日欠かさず手入れをし、訓練にも任務にも必ず携え、

 刃の欠け一つでさえ、胸が痛んだあの剣。


 ……あれを。


 熊の魔獣と対峙した場所に、置いてきた。


 気づいたのは、ほんの一瞬。

 それ以上、思い返そうとはしなかった。


 胸が痛むことも、惜しむ気持ちも、なぜか湧いてこない。


 代わりに、背中にある赤い剣の存在だけが、確かだった。


「次はどこへ行くんですか?」


 リーネが楽しそうに問いかける。


「地図を見る限り、この先に川があるはずよ」


「じゃあ、お水が手に入りますね!」


 嬉しそうに笑うリーネ。

 無邪気で、何も変わらないその態度。


 だからアリアは、自分の中で何かが静かに失われていることに、気づけなかった。


 怒りは、まだ燃えている。

 復讐の決意も、揺らいでいない。


 ただ――

 アリアの人間性だけが、少しずつ、剥がれ落ちていく。


 それを、誰も指摘しない。

 指摘できる者など、いなかった。


 ――


 赤い刃を背に負って歩くたび、アリアはわずかな違和感を覚え続けていた。

 不快、というほどではない。だが好意とも呼べない、言葉にしづらい感触。まるで他人の視線を背中に感じているような、そんな落ち着かなさだった。


 それでも、歩みを止めようとは思わなかった。

 剣の重みは相変わらずほとんど感じられない。背負っているという事実だけが、かろうじて存在を主張している。


 休憩を取った際、アリアは無意識のうちにその剣を下ろしていた。

 赤い刀身を布の上に置き、細剣のときと同じ手順で手入れを始める。汚れを落とし、刃を確かめ、柄に異常がないかを確かめる。必要以上に丁寧なその所作に、自分でも少し驚いた。


「大事にしてるんですね」


 リーネが屈託なく言う。

 褒めるような、嬉しそうな声音だった。


「……武器だからね」


 アリアは視線を剣から逸らさずに答えた。


「命を守るための道具だから、ちゃんとしておかないと」


 言葉はもっともだった。正しい。騎士として、冒険者として、当然の理屈だ。

 けれどどこかで、その言葉が自分自身への言い訳のように響いていることを、アリアは薄々感じていた。


 それでも手入れの手は止まらない。

 赤い刃は、磨くたびに不思議と落ち着いた光を帯びていく。初めて目にしたときに覚えた、あの強烈な嫌悪は、もうない。代わりにあるのは、馴染みつつあるという実感だった。


「似合ってますよ」


 リーネは何の疑いもなくそう言って、にこりと笑った。

 その無邪気な肯定に、アリアの胸の奥がわずかに緩む。


「……そうかしら」


 短く返し、剣を鞘に収める。

 背に戻した瞬間、そこにあることが自然だと感じてしまう自分に、気づかないふりをした。


 ――


 旅を再開し、二人は近くの高台を目指した。

 地図と実際の地形を擦り合わせるためだ。崩壊によって変わり果てた世界では、かつての記録がどこまで通用するかわからない。


 高台に立ち、周囲を見渡す。

 荒れ果てた大地。崩れた山肌。歪んだ川筋。

 それでも、慎重に確認していけば、地図と一致する点は確かに存在した。


 作業を終え、ふと遠くを見る。


 そのとき、アリアは気づいた。


 はるか彼方、視界の端。

 空へ細く立ち上る、灰色の筋。


「……煙?」


 焚き火のものに見えた。

 自然発生にしては規則的すぎる。


 生存者。

 その可能性が、胸の奥で小さく、しかし確かに灯る。


 アリアは地図を畳み、進行方向を定めた。


「行きましょう」


 短く告げると、リーネはぱっと表情を明るくする。


「はい!」


 二人は高台を後にし、煙の見えた方角へと歩き出す。

 赤い刃を背負ったまま、迷いなく。


 その剣を、もう“不気味なもの”だとは思わなくなっていることに、アリア自身はまだ気づいていなかった。

読んでくださってありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ