第二章 融解の先
「おかえりなさい」
母の出迎えに対して神楽は激昂した。ショルダーバッグを床に叩きつけて怒鳴りつけた。床にあたったバッグが低い音を立てて再び静かになる。割りと静かな住宅地だ。怒鳴ればかなり響く。
「おかえりなさいじゃねぇんだよ!!」
母、真理恵はびくりと身体を震わせて『どうしたの?』と諭す。神楽はそれには答えず真理恵に怒りをぶつけた。
「なんで、僕があんなこといわれなきゃならないんだ!!」
「あんなこと?」
母が聞き返すが神楽は答えず静かに吐き捨てた。
「思い出したくもねぇよ」
オリエンテーション合宿1日目、食堂をめちゃくちゃにして正座させられた時のこと。
「お前らは何を考えてるんだ!?お前らのおかけでこの施設は出入り禁止なったんだぞ!」
教師の怒声が廊下に反響する。少しびくりとしたが、どうでも、よかったので神楽はずっと下を向いていた。蛍光灯の明滅がよくわかる。神楽が胸ぐらを掴まれた。
「おい、答えろ」
生暖かい吐息が頬に触れイラついた。返事をする来もない。
「俺はお前らの力になりたいんだぞ!」
違う、自分より出来の悪いの人間の上に立って優越感に浸りたいだけだ。力になりたいよりもお礼を言われたいだけだ。
「勉強できないお前らは社会性で勝負するしかないんだよ」
―――何様だ。
心の中で悪態をついた。
「僕はあんなこと言われるために学校に通う気なんかねぇんだよ!」
大声で叫んでると妹の浄羅が玄関に駆けつけてきて。
「お兄ちゃん……」
言わなければいけないことは山ほどあるのだが浄羅も口から言葉がついてきてくれない。
「母さんも浄羅も今更なんなんだよ!!」
神楽は中学時代の家庭事情を思い出していた。神楽の家は共働きだ、妹も剣道部のエースなので家庭に顧みることが少なかった。
「なんで今さら一緒に食事なんかするんだよ!」
真っ暗の食卓に置かれた料理。それを電子レンジで温めるのがどれだけ惨めだったか。わかるわけがない。
「ただいまって言ったって誰も何もいってくれない!悪いことしてもしかってもらえない!僕がどれだけ寂しかったかわからないだろ!?」
一気に言い切って黙る。
「神楽……」
「お兄ちゃん、でもこれからは一緒にいれるからだから―――」
「もう遅ぇよ!!」
妹の発言を遮りに早足で部屋に向かった。ドアを勢いよく閉めるとショルダーバッグを投げ捨てて壁に背を預けながらずるずると崩れ落ちる。
握った拳を床に叩きつけた。鈍痛が走ってすぐやめた。
向こうの方で妹が呼び掛けてるそれを無視するためにCDプレーヤーを大きめの音量でかけた。
声は聞こえなくなってほっとする。いつまで、こんなことが続くのか。考えてもわからなかった。前に進めるのか進めないのか。自分でも子供だと思う。でも子供にだってプライドがあるんだ。それを踏みにじられたら苛立つ決まってる。
苛立ち、だがそれは何かが欠落した苛立ちだった。神楽にしかわからないこと。だが現時点でもわからないことだ。のっぺらぼうのクラスメイトみたいに。
携帯を開いて滋に電話をかけようとしてやめる。かわりに昔のメールを開いて返信する。ぼんやりと光る液晶に文字を打ってゆく。それはゆっくりゆっくり。
送信源、甲斐滋
件名、わるい
―――僕は滋を裏切るかもしれない。
送信した。そのまま暫くボッーとする。返信は返って来なかったため電源を切った。
―――何してるんだ、僕は
裏切るということの真意は二人の絆の強さにある。
勉強のできない神楽に勉強を教えて見事高校入学に導いたのは滋だ。
滋が神楽の将来を思ってしてくれた善意の行為。
その行為を神楽は踏みにじろうとしている。神楽は高校を中退することを考え始めていた。かといってそれから後のことは全く考えてない。バイトでもしながら好きなことをするのも手だが今は親のすねもかじる気分じゃない。だいぶ昔、ノストラダムスの大予言などがあったが、あんな昔じゃなく今だったら少しは気が楽になるのにと思う。
窓を眺めると辺りが暗くなり始めていた。
夕暮れの赤は物凄く希薄になっていき夜空の黒に飲み込まれていく。カラスが夜空をかける。その姿がとても羨ましかった。頭がよくてたくましく生きていける。もし、自分がカラスだったら何もかも乗り越えれるかもしれない。現実と自然界を混同するなんてナンセンスだが。苦笑してると部屋のドアがノックされた。
「お兄ちゃん」
「……」
聞こえたが答えなかった。どうせ夕飯を一緒に食べようとか言うんだ。でももう遅い。僕は夕飯を食べたいのではなく食べたかったのだ。今ではなく過去に食べたかったのだ。
ドアを開ける。
「外で食ってくる」
「えっ?でも」
「もう、いいから」
もう、何も戻らないことを悟っていた。夏の暑い日に麦茶に氷を入れて飲んだりする。氷をがりがり噛む人もいるが噛まないと氷は溶ける。それと同じだ。氷が水になったと言うが例え原子レベルで一緒でも氷と水は違うんだ。僕の世界、僕の心は溶けたんだ。それをもどすことなんて出来ない。
家を出た。
最初に向かったのは繁華街だった。店がたくさんあるためかなりの時間が潰せる。オレンジのライトを基調した繁華街は意外と心のもやもやを払拭できた。しかし動くほどリスクを伴うことを神楽は知らない。
勢いで出たもののお腹が空いてなかった。時間潰しの場所として思い付いたのが本屋だ。最近の本屋の傾向としては雑誌は紐で縛ってあるが他は立ち読み出来る。専門書などは特に時間を潰しやすいので少し立ち寄ることにした。
……。
……。
「千代君?」
立ち読みして30分ほどした頃だ。不意に横から自分の苗字を呼ばれてびくりとする。
横を見ると小百合女子の制服を来た子が立っていた。
ショートの髪に白い肌。両手ををスカートの前で添えてこちらを見ている。かわいい子だとは思ったが全然知らない子だ。
頭の中で考えた。どう対処すべきか。
「あの、どこかで会いましたっけ?」
少女の顔が儚く曇った。まるで親に『あんたなんか私の子供じゃないよ』
と言われ見捨てられた子供みたいに悲痛な表情だった。
「どうして?」
声が涙声になったので神楽が慌ててフォローする。
「出来れば、もう一回自己紹介してほしいんだけど。会いましたっけ?」
「千代君の馬鹿」
悲痛な声。そのまま小走りで本屋を出ていってしまった。
―――変な子だな。
などと思っていると。声が聞こえた。
―――おはよう
―――誕生日おめでとう
―――バレンタインね
暫く、その幻聴に浸っていたとき突如すべてのものが繋がった。光の速度の如く学校の校舎の壁に衝突しまくって。倒れた。一つ思い出した。僕を気に入ってくれてた女の子のこと。そして僕が傷つけた女の子のこと。
―――二条さんだ。
考える前に足が動き駆け出していた。本屋の自動ドアに肩をぶつけても神楽は走るのをやめない。しかし、この繁華街は迷路のように別れ道がある。どうやって見つければいいんだ、と思う。走る、走る、走る。
それが30分続いた。運動不足が祟ってもうこれ以上は走れなかった。しかも見つけることが出来なかった。
―――どうして傷つけちまうんだよ!
自分に猛烈な怒りをぶつけて神楽はアスファルトに座り込む。大きな影に気付いて顔を見上げると運命の悪戯か、そこに滋がいた。
「よう」
安定感のある少し低めの声。声の調子はあくまで穏やかで怒ってる感じではない。
「メール見たぜ」
「うん」
正直、送ってから『しまった』と思っていた。心臓の音が高鳴る。滋は器の大きいやつだが縁を切られたらどうしようという不安が込み上げる。
「まあ、よくわかんねぇけどさ。裏切るかもしれないやつが事前に予告するとも思えねぇな」
「でも、裏切るかもよ」
「何でだよ」
ちょっと不満そうに滋が言った。でも、それ以上は言わず一分近くの時間があっという間に過ぎた。
「滋がせっかく高校に入れてくれたのに僕やめるかもしれないんだよ」
「んなことか」
滋はあっさり言って。
「やめる、やめないなんてお前の自由だ。もし、そのことで俺の存在が足枷になるならそれこそ俺は悲しいよ。これは、お前の人生だ。俺に束縛する権利はない」
滋がそう言ったが納得出来なかった。
「でも、僕。女の子を傷つけるような人間だぜ。さっきだって……」
そう、さっきだって女の子を一人傷つけたのだ。最低だと思う。しかし、滋はそれを裏打ちした。
「傷つけない人生なんてあるか?」
それは問いかけだった。滋自身への問い掛け。そして神楽への問い掛け。
きっとこれからも苦しいことがたくさんある。運命は理不尽できっと思い通りにいかない。精一杯でいろんなことに気付くことも出来ない。
でも、滋の声が少しだけほんの少しだけ、『歩け』といってくれてる気がした。そうそれは錯覚なんかじゃない。
「飯、おごってやる」
「うん」
滋に手を引かれて僕はゆっくり立ち上がった。