黒の魔女
仏に逢えば仏を殺せという。
祖に逢えば祖を殺せという。
私はなにに逢い、なにを殺すのだろう。この煌びやかなガス灯の街で。
「連合王国がヴァンパイア狩りにヴァンパイアを雇ったのかなって思ってさ。ないわけじゃないからね。そもそもぼくたちの聖騎士団がそうだしね」
コーヒーを飲もうとして、ブラックストン神父はカップが空なのに気づいた。
「それにしても日本にはヌナガワって苗字は多いのかな。シズカって名前もだけど。記録によると――あれ、チャールズくんは?」
いつの間にかフラットのリビングには自分一人だ。
ブラックストン神父は立ち上がり、自分でポットからコーヒーを注いだ。
「ヌナガワ・シズカ」
ブラックストン神父が言った。
「この名前、君たちには興味深い名前だと思うのだけどな。もしかして、チャールズくんは黒の魔女を知らないのかな」
要塞都市カステル・サントカヴァリエーレ。
アドリア海に浮かぶこの孤島は、かつてカステル・ガンドルフォと並ぶローマ教皇の離宮のひとつだった。いまは聖下が訪れることはない。聖ゲオルギウス十字軍、そして聖騎士団の本部である。
聖騎士団。
ヴァンパイアで構成された使徒座の対ヴァンパイア組織である。
かつて人類と彼らの力の差が圧倒的であったころ、聖騎士団は使徒座における唯一の対ヴァンパイア実働部隊だった。聖ゲオルギウス十字軍も補助と監視をする部隊にすぎなかった。神の御心に背き、ヴァンパイアになった者たち。そう蔑みながら、彼らは聖騎士団の力を必要とした。
彼らは言う。
信仰を棄てきれなかった彼らに救いの手を差し伸べ、神の門へと導くのだと。
「詭弁だ」
騎士団長アンナマリア・ディ・フォンターナは思う。
「ぬけぬけと、よくも言う」
白の魔女。
イタリアの名門貴族の家に生まれ、しかしその白い髪、白い眉、白い肌。瞳ばかりが冷え冷えと青い。幼少の頃から門のうちに閉じ込められ、友達になってくれたのは姿の見えないウェパル、ソロモンの七二柱ウェパルと名乗る影だけだった。
私は間違ったのか。
死ぬと塵となって消えるのが、神への反逆だというのか。
私は今でも修道女だ。神への信仰に生きているのだ。その私を、ただヴァンパイアだからと否定するのか。良きサマリヤ人に私たちはなれないというのか。
使徒座の聖騎士団への扱いは過酷だ。
かつては使徒座の近くに番犬として侍らしていたのに、聖ゲオルギウス十字軍が近代銃器によって表舞台に立つとこうして孤島に遠ざけられた。皮肉なのは、その聖ゲオルギウス十字軍の騎士たちも半ヴァンパイアとして彼らに蔑まれていることだ。
それでも。
と、白の魔女――ウェパルのアンナマリアは思う。
見下ろせば、回廊に囲まれた中庭で模擬剣を合わせている我が騎士たち。
彼らは不満を言わない。
後悔はあろうと運命を呪わない。
彼らはひたすら修道騎士として清貧に生きている。神の槍となるための研鑽を怠らない。私は彼らの騎士団長であることを誇りに思う。
「ファンタズマ、ラプラスの魔」
アンナマリアの呼びかけに、二人の騎士が顔をあげた。
疾風迅雷のファンタズマ。
先の先を知るラプラスの魔。
ソロモンの七二柱に数えられてはいないが、彼らもアポクリファである。聖騎士団の双璧だ。
「騎士団長公務室へ」
アンナマリアが言った。
カステル・サントカヴァリエーレの騎士団長公務室は殺風景だ。白の魔女は団員に清貧を強いるだけでなく、自分もまた清貧を好んでいる。ほんの少し、ただ紅茶にうるさいだけだ。
「ソロモンの七二柱フルカスが散った」
その紅茶を騎士団長手ずからカップに注ぎ、アンナマリアが言った。
「それに関して、ロンドン司教区から使徒座に興味深い情報が届けられた。フルカスはロンドンで散った。そして、その報告には彼を斃した者の名前が書かれている。真実の眼が確認したという。ヴァンパイアではない。ただの人間だ」
「ヌナガワ・シズカ」と、アンナマリアが言った。
ファンタズマは手にしたカップをテーブルに戻し、そして、ビリッと全身を震わせた。激しい。ラプラスの魔はファンタズマの反応に息を呑んだ。
「オオオオオオ!」
ファンタズマが咆哮した。
両眼が黄金に輝いている。あの冷静沈着なファンタズマが昂ぶっている。
「そうだ、ファンタズマ!」
白の魔女の酷薄な青い両眼もまた、黄金に輝いている。
「あの女が再び現れたぞ! 忌々しい名をつけた忌々しいあの女が、我々の前に現れたぞ!」
「ウオオオオオオオオオオ!」
騎士団長不在のカステル・サントカヴァリエーレを任され、参加することができなかった世界の東の果ての戦い。ラプラスの魔はその戦いの凄惨さを親友の咆哮に見るのだった。
「ヌナガワ・シズカ」
下院議員秘書、クリス・ランバートはその情報につぶやいた。
「なにかの間違いではないのか」
異形の仮面をつけた顔はどこを見ているのかわからない。なにを考えているのかもわからない。
「ヌナガワ・シズカ、黒の魔女は死んだ。聖騎士団最強の修道騎士として、最大の敵と差し違えて散ったのだ」
そして考え込んだ。
これは軍特務機関六課から漏れた情報ではない。あの海軍少佐、そしてMは魔法でも使っているかのようにガードが堅い。これは使徒座経由の情報なのだ。遺憾ながら、こうして手に入れやすいということは、その価値に問題があるのかもしれない。だが、しかし。
ソロモンの七二柱フルカスを斃したのは、ヌナガワ・シズカ。
日本から海を渡ってきたヴァンパイア狩りなのだという。
真実の眼が彼女は人間だと確認したのだという。
それでいて、彼女は狙撃によってフルカスを斃したのではない。近接格闘によって斃したというのだ!
「……」
クリス・ランバートは手紙を暖炉に放り入れた。
たちまち手紙は燃え上がり、灰となって舞い飛んだ。
われらの始祖、カノン――キングも散った。古来、カノンが散った例はないという。なのに散った。そのアポクリファである私たちがどうなるのかもわからない。この先、なにが起きるのか誰にもわからない。
「もうひとりのヌナガワ・シズカが、ただの人としてこの喜劇の舞台に再登場してきたとして、それがなんだというのだ」
文明の発展の早さを見よ。
追いやられ、居場所を失う闇を見よ。
一九世紀は終わり、やがて二〇世紀が来る。科学の世紀は我々をさらに虚しいものにするのか。それとも。
窓の外には、まぶしく輝くガス灯だ。
「おまえの名前がヴァチカンに報告された」
ロジャー・アルフォード海軍少佐が言った。
二頭立ての箱馬車。今日、静の向かいに座るのは少佐ひとりだけだ。
「有名人になった気分はどうだ。もっとも、ヌナガワ・シズカの名前はとうにこの界隈では有名だがな」
「黒のシズカ?」
「黒の魔女ともいう。もちろんおれは彼女を知らないが、最強の剣士だったという。そして彼女は――」
「ヴァンパイアだった」
「――そうだ」
「レディやロジャーがときどき私の眼のことを気にしているのは、私がヴァンパイアじゃないかと疑っているってことだよね?」
「そうでもない。おまえを見たヴァンパイアの反応はいつも同じだ。おまえをただの人だと認識している。そもそも、おまえの名前が書かれたヴァチカンの秘密文書にも、おまえは人間だと書かれている。ただな、おまえは奇妙なんだ」
「今日のロジャーは素直だね」
「黒の魔女はおまえのご先祖でいいのか?」
「私は奴奈川斎姫。一族の始祖神奴奈川姫の生まれ変わり。日本の中央政府にもそう認定されている。奴奈川斎姫はいつもいたわけじゃない。私の前の斎姫は三〇〇年も昔だ」
「それが黒の魔女?」
「そういうことなんだろうね。うちの記録でも彼女は姿を消したことになっている。まさか欧州にまで渡っていたとは知らなかったけど」
静が馬車の窓から外を覗き込んだ。
目的地のホテルが見えてきたのだ。そのホテルの最上階、グランドスイートルームにレディ・マンスフィールドが住む。
「それは例の、セツゲツカか」
「そうだよ、雪月花。私の一張羅さ。見たことあるだろ?」
今日の静の振り袖はいつにも増して豪華だ。
そして脇に置かれたチェロケースにはいつもの日本刀じゃない。練習用のチェロでもない。レディからプレゼントされたビンテージチェロだ。
今日はレディからの合奏のお招きなのだ。とりあえずいつものように子犬か子猫のように体中をなで回されてしまうのだろうけど、レディのピアノはプロ級だ。わくわくのほうが勝つ。
ホテルに横付けされた馬車からひらりと静が降りた。
チェロケースを持つのは少佐だ。
まるで従僕を従えるお姫さまだ。
もっとも奴奈川家は今は日本で子爵家である。歴としたお姫さまなのだ。しかも静は、奴奈川斎姫として父親より高い正四位下の位階をもつ。静は姫として扱われることに慣れている。
ロンドンを代表するホテルの従業員も恭しく静を迎えている。
実はこの時代、ドレスコードとして和服はまだ格式のある場所では認められていない。民族衣装のカテゴリだ。このホテルではレディの意向が行き届いているだけだ。しかし当の静は気にもしない。
「それでね、ロジャー」
前を歩く静が軽やかに言った。
「キングに言われたんだ。私は黒のシズカによく似ているそうだよ」
表情には出さなかった。
少佐は情報部のエージェントだ。しかしかなりの衝撃がある。
シズカはキング――カノン。
始祖のヴァンパイアに会っているのか!
この少女には驚かされる。未だにだ。ロジャー・アルフォード海軍少佐は思った。
※使徒座:聖座とも。使徒ペテロの後継者たる教皇、ローマ教皇庁、そして広くはカトリックの権威全般を指す。ちなみに、司教座もそうだが、そのものはまんま椅子である。
※カノン:正典。
※アポクリファ:外典。
■登場人物紹介
奴奈川 静 (ぬながわ しずか)
戊辰戦争の生き残り。新たなる戦地を与えられ、魔都ロンドンに渡る。クールを気取っているが、実はすちゃらか乙女。愛刀は木花咲耶姫と石長姫。
奴奈川大社の斎姫であり、正四位の階位を持つ。
ロジャー・アルフォード
英国軍特務機関六課、アルフォード班(掃除屋)のトップ。海軍少佐。極めて長身で、強面。
ヘンリー・ローレンス
アルフォード海軍少佐の副官。童顔だが、階級は海尉補(中尉)。
メアリ・マンスフィールド
侯爵。六課の庇護者。別名をM、もしくは鉄のメアリ。年齢不詳。
英国海軍の名門であるマンスフィールド家の現当主。爵位はやがて弟に継がせることになっている。本当は名前はもっと長ったらしいのだが、そちらは出さない。
レベッカ・セイヤーズ
静の音楽院の友人。下宿も同じ。実は実力者。Aオケの次席ヴァイオリン。
ハウスマザー
静が暮らす下宿、学生アパートの管理人。実は軍特務機関のエージェント。