チャールズ
仏に逢えば仏を殺せという。
祖に逢えば祖を殺せという。
私はなにに逢い、なにを殺すのだろう。この煌びやかなガス灯の街で。
「珍しいものを見ることができた」
その青年はつぶやいた。
「兄の不始末の尻拭いをしてやろうと思えば、先回りされてしまうとはね」
あの異国のドレスの少女。
ヴァイオレット・アンダーソンがヴァンパイアであることを見抜き、しかもそれを剣で斬り捨ててしまった。そしてあれはM――レディ・マンスフィールドではないのか。年もわきまえない派手な帽子のあの女性は。
「……」
その青年は、その場をそっと離れていった。
私は誰よりも優れている。
朝。目を覚ましたチャールズ・リッジウッドは鏡を見る。そこに映っているのは二〇代の美しい若者の姿だ。
ローズウォーター伯爵の家に生まれた。
次男だから爵位は継げないし、いずれ独立する必要もある。しかしチャールズはそれを奇貨とした。オックスフォードを出て父子爵の銀行に入行したが、それは銀の匙を咥えて生まれてきたからではない。その象徴として、チャールズはカトリックに改宗した。自分を閣下と呼ぶのも許さない。
伯爵と貴族院の椅子は父と出来の悪いリッジウッドが継げばよい。
私は実力で頭取の座を掴む。
リッジウッド家からの経営独立を実現し、英国有数の銀行にする。
私は誰よりも優れている。
もし私が誰かに劣っているとしたら、それは私が怠けているということなのだ。
そして彼はもうひとつ確認する。
大丈夫だ。
おれはまだおれだ。
そして彼は一日を始める。
「旦那さま、ブラックストン神父さまがお見えです」
チャールズはとうにリッジウッド家の屋敷を出て、フラットで暮らしている。同居人は従僕のノーマンだけだ。朝食を終え新聞を読みながらコーヒーを飲んでいると、ノーマンが来客を告げた。
「……」
紳士の嗜みとして、チャールズは感情を表情に出さない。パブリックスクールの頃から自分にそう言い聞かせている。そのチャールズの表情が一瞬歪んだのはなぜだろう。
「ブラックストン神父。呼んでくだされば、私から出向きましたのに」
にこやかに迎えたチャールズに目もくれない。
ブラックストン神父はずかずかと部屋に入り込み、勧められてもいない椅子にどかっと座った。
「うん、気になることがあったのでね」
ノーマンが素早くコーヒーを置いたが、ひとことのお礼もない。それでいて早速カップを手にしている。
「朝イチに君の報告を読んでね」
「はい」
「彼女の名前はヌナガワ・シズカという」
「なんでしょう?」
「メアリ・マンスフィールドがいたというのも当たっている。彼らは軍特務機関六課、アルフォード班。『掃除屋』というのが通称だ」
「――そうですか。では探偵社に出した調査依頼は取り消さないといけませんね」
この部屋に入ってはじめて、ブラックストン神父はチャールズの顔を見た。
「なんだい、それは」
「自分で調べるよりプロに頼んだ方が、相手にも気づかれにくいだろうと考えました」
「君は素人かい。なんでそんな勝手なことをするのかな」
「リッジウッド家の息がかかった探偵社です。有能ですし信用もできます」
「断るんだ。関係する書類も全部提出させるんだ。そして暖炉で燃やすんだ」
「――では、ノーマンも席を外させましょうか」
えっと神父は顔を上げ、ノーマンを見た。
「あ、うん。いたんだ。そうね、君も外して」
チャールズはノーマンへとうなずいた。
「ノーマン、君は探偵社に行って、今のブラックストン神父の指示を遂行してきてくれ。オフィスにはまだ誰もいないかもしれないが、その場合はカフェで時間を潰してくれて構わない」
ノーマンはフラットを出ていった。
チャールズも軽く深呼吸をした。慣れているつもりでもブラックストン神父の傍若無人にはカッときてしまう。
「それで」
と、チャールズが言った。
「あのサムライガールの名はヌナガワ・シズカ」
「そう。ああ、シズカがファーストネーム、ヌナガワがファミリーネームだからね」
「軍特務機関六課、アルフォード班。掃除屋。後ろには、あのレディ・マンスフィールドがいる」
「そう」
「彼らが、つまり」
「ヴァンパイア狩りは、君たちだけじゃないってことさ」
ブラックストン神父が言った。
いつ始まったかもわからない人類とヴァンパイアの闘争の中で、西ヨーロッパで当時唯一の宗教権威である使徒座がなにもしてこなかったことがあるはずもない。英邁で知られた教皇ジルベスター二世が秘密裏に諸侯に呼びかけ結成されたのが、聖ゲオルギウス十字軍。
人類による対ヴァンパイア組織だ。
年代的におかしいともいわれるし、実際その通りなのだが、使徒座や聖ゲオルギウス十字軍内部ではそうだとされている。
現在、イングランドにおける聖ゲオルギウス十字軍の騎士は、イングランドが非カトリック国であることもあってただのひとり。
チャールズ・リッジウッドである。
「そこでだ、十字軍の騎士さん。報告書を読む限り、君はヌナガワ・シズカを見たのだね?」
「見ました」
「君たちにはわかるのだろう。彼女は人だったのかい?」
そう。
聖ゲオルギウス十字軍の騎士は、人間と同化したヴァンパイアを見分けることができる。「真実の眼」もしくは「神の眼」と呼ばれるものだ。それが、彼らが対ヴァンパイアの十字軍である証であり武器なのだ。
「人でした」
チャールズが言った。
「そうかい? 彼女の話は別の筋からも来ていてね。彼女の身体能力は人のお嬢さんとは思えないものだったそうなんだけどな。そうだ、十字軍の騎士さんはこれもわかるのかな。そのとき彼女が斃したのは、彼らが自称するソロモンの七二柱、フルカスらしいんだ」
「――にわかには」
「わかるの、わからないの?」
「なにがでしょう」
「フルカスという大物が散ったの、君はわかったのかい?」
「私たちは人ですよ、神父」
そろそろまた深呼吸が必要だ。
「彼らの間では仲間が消えればわかるそうですが、私たちはヴァンパイアじゃない」
「ふうん、ただ見分けるだけなの。十字軍の騎士さんも中途半端なのだね。あれ、チャールズくん、なぜ君はさっきから深呼吸をしているのだい?」
「私の報告書で」
チャールズは微笑んだ。
パブリックスクールからの自己研鑽は伊達じゃない。
「気になったというのは、サムライガールがヴァンパイアかどうかを確かめたかったということでしょうか」
「そう。連合王国政府がヴァンパイア狩りにヴァンパイアを雇ったのかなって思ってさ。ないわけじゃないからね。そもそもぼくたちの聖騎士団がそうだしね。それにしても日本にはヌナガワって苗字は多いのかな。シズカって名前もだけどさ――記録によると――」
「それはお役にたてて幸いでした。それでは私は、出勤前の調べ物がありますので書斎に下がらせていただきます。コーヒーはポットにあるものをお好きなだけどうぞ、ブラックストン神父」
「ちくしょう……」
夜のロンドン港。
大男が大の字に倒れている。腕が怖ろしく太い。しかし鼻が潰れ、顔は血まみれだ。
「ちくしょう、あいつ、弱っちかったのに。体もちっちゃくて、弱っちかったのに。なんでこんなことに。なんでこんなことに……」
血に涙が混じる男の脇を、この場にそぐわない身なりのよい紳士が通り過ぎていった。足音がしない。ゴム底の靴だ。紳士が追うのは、樽のような腕の男を数発で殴り倒した小柄な男。
「へへ……」
小柄な男はウイスキーの瓶を手にご機嫌だ。
「たかがケンカに強くなりたいがために」
紳士が声をかけた。
小柄な男が振り返った。金色に光る眼で。
「おまえは、人を捨てたのだな。神の愛に背いたのだな」
ガス灯の灯りの下に現れたのは、チャールズ・リッジウッドだ。
「なんだ、てめえ。殺すぞ」
「やってみろ」
小柄な男は酒瓶を捨てチャールズに殴りかかった。その顔面にステッキの突きが叩きこまれ、男は建物の壁まで吹っ飛んだ。チャールズは間を置かず男に迫り、首に横蹴りを叩きこんだ。壁と足刀に挟まれ首が折れた。
人間ならば死んでいる。
だが人間ではない。
「な、なにじやがる……」
もちろんチャールズも承知だ。コートからウィンチェスターのカービン銃を取り出し、片手で構えた。
両手では構えない。
なぜなら彼は、もう片手にステッキを手にしているのだから。
「な、なんなんだよ、でめえはっ!」
「エイメン」
チャールズは引き金を引いた。
そして片手のまま、銃をくるりと回転させレバーアクションでリロードし、また引き金を引いた。
「エイメン」
祈りのごとに、カービン銃が火を噴いた。
「エイメン」
「エイメン」
男は塵となって散った。
あのサムライガールがソロモンのフルカスを倒しただと?
疑うまい。
希望的観測は愚か者のすることだ。そして人間性に問題があっても、ブラックストン神父の情報はいつも正確だ。
おれよりも優れた戦士がいる。このロンドンに。
ならば、おれはあのサムライガールを越えるだけだ。
そうだ、チャールズ・リッジウッド。もしおれが誰かに劣っているとしたら、それはおれが怠けているからなのだ。
※父子爵:英国では伯爵位を継ぐ総領息子は家名+子爵を名乗る。
※使徒座:聖座とも。使徒ペテロの後継者たる教皇、ローマ教皇庁、そして広くはカトリックの権威全般を指す。ちなみに、司教座もそうだが、そのものはまんま椅子である。
※聖ゲオルギウス:英語で聖ジョージ、ドイツ語で聖ゲオルク、フランス語で聖ジョルジュ。イングランドの赤色十字、ジョージアと日本名を変えたグルジア、本の記念日サンジョルジュの日、すべてこの竜殺しの聖人ゲオルギウスに由来する。
■登場人物紹介
奴奈川 静 (ぬながわ しずか)
戊辰戦争の生き残り。新たなる戦地を与えられ、魔都ロンドンに渡る。クールを気取っているが、実はすちゃらか乙女。愛刀は木花咲耶姫と石長姫。
奴奈川大社の斎姫であり、正四位の階位を持つ。
ロジャー・アルフォード
英国軍特務機関六課、アルフォード班(掃除屋)のトップ。海軍少佐。極めて長身で、強面。
ヘンリー・ローレンス
アルフォード海軍少佐の副官。童顔だが、階級は海尉補(中尉)。
メアリ・マンスフィールド
侯爵。六課の庇護者。別名をM、もしくは鉄のメアリ。年齢不詳。
英国海軍の名門であるマンスフィールド家の現当主。爵位はやがて弟に継がせることになっている。本当は名前はもっと長ったらしいのだが、そちらは出さない。
レベッカ・セイヤーズ
静の音楽院の友人。下宿も同じ。実は実力者。Aオケの次席ヴァイオリン。
ハウスマザー
静が暮らす下宿、学生アパートの管理人。実は軍特務機関のエージェント。