レオンハルト走る
私は鬼でいい。
すべてが私の敵になってもかまわない。静を守ることができるならそれでいい。
ごおおお!
うおおお!
バエルが吠えている。
「信じられないな」
薫が言った。
「官軍の総攻撃が始まったので、バエルの水筒に一族に伝わる眠り薬を入れておいたんだ。飲みすぎると肝臓をやられるのでむしろ毒として使うほどのものなんだが、それを三人分たっぷりとだ。眠ったのを確認してから、まだあまり経っていないぞ」
「二つ疑問があるんだが」
レオンハルトが言った。
「ひとつは、なんでそんなものを持ってきた。もうひとつは君はバエルの仲間ではないのか」
「薬は静に使うために持ってきた。遥がいれば気を使う必要もない。バエルとは義兄弟の契りを結んだ友人だが、静を巡っては敵対することになるのは互いにわかっていたことだ」
どうする。
レオンハルトは考えている。
やっかいなのはバエル。そしてもし聖騎士団が敵にまわってしまうとしたら、その人数だ。ヌナガワ・シズカは白の魔女の手首を斬り落とし、騎士を両断してしまった。それですぐにヌナガワ・シズカ処すべしとはならないだろうが、友好的とは言えなくなったよな。
想定外ではない。
準備はしてきた。
しかし両方を相手にするのはさすがに荷が重い。これなら素直に戦場に出てくれて、横からかっ攫う方が楽だったかもしれない。この変態兄貴が言ったように。
「いや、それもどうかな」
レオンハルトは鍔の広い中折れ帽をぐしゃぐしゃと抑えつけた。
ヌナガワ・シズカは白の魔女を退けたんだ。
ヘタしたらこっちが散ってしまう。
「うおおおお!」
バエルは激怒している。丸太のような腕を振り回している。
「おおおおお!」
「どうやら、おれに怒っているようだな」
他人事のように言う薫だ。
「聡明なバエルが無差別に暴れている。さすがにわが一族の秘薬だ、まだ酩酊状態なのだろう。まあ、これはこれで好都合じゃないか。潰しあってくれればいい」
さっきは義兄弟とか言ってたよな、こいつ。
そしてレオンハルトは思う。
たしかにバエルといえどもこの人数は楽ではないだろう。聖騎士団にとってもバエルは楽な相手ではない。漁夫の利を得ることができるならそれに越したことはない。しかしいつだって、おれが絡むことが簡単に済むことはないんだ。
ほらな。
見ろよ――。
騎士たちはバエルの拳を避けるのでせいいっぱいだ。避けられるだけでもすごいことだ。新潟港ではレオンハルトがまともに食らって散りかけているのだから。
「銃士隊!」
ファンタズマが声をあげた。
「たったひとりを相手に銃を使うのか! 私の騎士団はいつからそんな卑怯者の集団になった!」
アンナマリアが声をあげた。
卑怯でもなんでも倒さねばならんでしょう、あんたは下がって自分の傷口の止血をやっていてくれ。構わずライフルによる反撃の用意をさせるファンタズマだが、その破裂音に振り返った。
ビシィッ!
アンナマリアが左手でムチを扱っている。ムチはうなりを上げてバエルの腕へと飛んだ。
ビシ!
ビシ!ビシ!ビシ!
ムチが絡みつく。
バエルの皮膚が裂けたが、バエルは気にしていない。
「ムチを手放すんです、アンナマリア! 体重差をお考えなさい!
ファンタズマが叫んだ。
「見えないか、バエル!」
アンナマリアが叫んだ。
「おまえの乱入のせいで、キングが逃げるぞ!」
バエルが双眸を見開いた。
ファンタズマもそちらを見た。
乱戦に背を向けて歩き出していた静が振り返った。
バエル、そして聖騎士団が目を丸めて自分を見ている。
「あばよ」
鼻を鳴らし、静が言った。
「おまえたちはおまえたちで戦っていればいい。私には関係がない。私は箱館に行く。私は箱館政府の兵士なのだからな」
静は駈け始めた。
バエルも走り出した。
聖騎士団の騎士たちも走り出した。
薫は舌を鳴らした。
「せめて、もう少し潰しあってくれれば良かったんだがな。なあ、レオンハルト・フォン・アウエルシュタット」
「なんだ、変態兄貴」
「遥に静を死なせるなと依頼されたんだろう? あんたはヴァンパイアなのだろう?」
「そうだ」
薫は不敵に笑っている。
しかし、流れ落ちるのは冷たい汗だ。
「おれにバエルを止めるのは無理だ。頼む。あんたにやって欲しい」
「……」
「正直に言うとおれの頭の中は真っ白だ。この人数、しかも静を逃がせばいいだけじゃない、あいつこそおれからあいつを奪おうとしているんだ。どうすればいい。だがバエルだけはだめだ。どう考えても、おれではあいつに一撃で殺されてしまう」
レオンハルトは中折れ帽をぐしゃりと抑えつけた。
「妥当だな。ただ、おれもひとつ言っておく」
「なんだ」
「おまえの妹の中にはおれが惚れた女がいる。だからおまえはおまえの妹を守れ。絶対に死なせるな。おれはまだ黒のシズカと再会の乾杯をしていない」
レオンハルトは歩き出し、すぐに全力疾走になった。
「静、静、もういないんだ、黒姫俊輔はもう散ったんだぞ!」
遥が叫んでいる。
「もう何もかも終わったんだ! 戻ろう、私と戻ろう!」
「どこに戻るというんだ」
「私と静で閑かに暮らすことができるところに。誰からも干渉されない世界に!」
「遥、おまえはなにもわかっていない。私は俊輔の死を喜んでいるんだ。祝福しているんだ。私もそこに行くんだ」
「静――!」
静は木々の中から飛び出してきた男を見た。
見覚えがある。
ああ、あいつ。私の唇を。さっと静は頬を染め、そして木花咲耶姫の鞘に手をかけた。しかし男は通り過ぎていく。ただ、ちらと視線を寄こしニヤリと笑って。
「うおおおおおおおおおおおお!」
レオンハルトが吠えた。
レオンハルトはそのまま聖騎士団の中も突っ切り、そしてバエルの懐に突っ込んだ。しかしレオンハルトの渾身のぶちかましにバエルはびくともしない。
「くそったれが――ッ!」
レオンハルトはスミス&ウェッソンモデル2を両手に持ち、バエルの足元を撃った。
ガン!ガン!
ガン!ガン!ガン!ガン!
撃ちきるとスミス&ウェッソンを捨て、ふたたびバエルに組み付く。
「グラキア・ラボラス!」
「なんだ、バエル!」
「そんな銃でおれの足が潰せるか! おれの骨が砕けるか!」
「ああそうだな!」
レオンハルトはさらに力を入れる。
「それでも痛むだろう、おまえの足は真っ赤だぜ!」
バエルが揺らいだ。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
レオンハルトの押しにバエルは後退した。踏ん張る足は血だらけだ。バエルの表情が歪んだ。
「おおおお!」
「うおおお!」
バエルの巨体が崩れ、二人は山道から転がり落ちていった。
「……」
「……」
「……」
ヘビー級のふたり、それも片方は反則に近い巨体の激突を呆然と見ていた騎士たちは我に返って静に顔を向けた。静も我に返り、背を向けた。その静の足が止まった。
「……」
薫が立っている。
自分が斬り殺したはずの弟が立っている。
「やあ、静」
薫が言った。
「おおおお!」
「うおおお!」
二人はもつれたまま落ちていく。
どおん!
背を木に激突させてしまったのはバエルだ。
「はっ、おれにしちゃ珍しくついている」
レオンハルトは立ち上がり、コートを脱いだ。
のそり、とバエルが立ち上がった。
「なぜおれの邪魔をする、グラキア・ラボラス」
にっとレオンハルトが笑った。
「依頼されたからさ」
「おまえたちはわかっていないッ!」
バエルが吠えた。
「ベルゼビュートが復活した! やつの十二宮もだ! やつらは危険だ! なのにキングは現れない。いつものように雲隠れだ。前回には黒のシズカという槍があった。だから退けることができた。キングは今回も人任せにするつもりなのか。七二柱を統べる王が! おれがキングになる。おれがキングになって成すべきことを成す!」
「黒のシズカに関しては思うところもあるけどな」
レオンハルトはコートを木にかけた。
「でも今のおれはしがない探偵でね。依頼されたらそいつを遂行する。じゃないと次の依頼が来ない」
木にかけたコートからレオンハルトが抜いたのは巨剣ツヴァイヘンダーだ。
「新潟港での銃は使わないのか? 今日は忘れてきたか?」
「あるよ。でもそいつは聖騎士団用に残しておかないとな」
バエルは鼻を鳴らした。
「今を生き延びなければそのあとはない。それなのに武器を惜しむ愚か者よ」
「おれは生き延びる。そして黒のシズカと再会を祝うんだ。そのためにはおまえに掛けている時間はない」
レオンハルトは両手でツヴァイヘンダーを構えた。
「さっさと済ませてやる」
■登場人物紹介
奴奈川 静 (ぬながわ しずか)
奴奈川斎姫。正四位下。
人を越える治癒能力をもち、そして守りに徹するなら最強の剣士となる。
奴奈川 遙 (ぬながわ はるか)
生まれなかった静の妹。
奴奈川 薫 (ぬながわ かおる)
静の双子の弟。奴奈川藩次期藩主。背格好も顔も静にそっくり。
ちなみにこの三きょうだい、気づいている人もいるかもしれないが、たがいを妹、弟扱いする。
黒姫 俊輔 (くろひめ しゅんすけ)
薫の学友。奴奈川家筆頭連枝黒姫家の嫡男。
鷹沢 勇一郎 (たかざわ ゆういちろう)
米山 鉄太郎 (よねやま てつたろう)
小林 静馬 (こばやし しずま)
三浦 勝之進 (みうら かつのしん)
黒姫俊輔を筆頭とする薫の学友。
黒姫 高子 (くろひめ たかこ)
巫女長。静のレディスメイド。斎姫代でもある。俊輔の従姉妹。
奴奈川日向守 (ぬながわ ひゅうがのかみ)
静と薫、そして遙の父親。奴奈川一万石領主。
奥方
日向守の正妻。静たちの母。
かつて奴奈川斎姫代をつとめていた。実は不思議ちゃんである。
レオンハルト・フォン・アウエルシュタット
グラキア・ラボラスのヴァンパイア。黒のシズカの盟友。
シャルロッテ・ゾフィー・フォン・シュタウフェンベルク
アムドゥスキアスのヴァンパイア。
美人だが目立つことに執念を燃やす変人。レオンハルトを日本に誘う。
バエル
人間名不明。ソロモンの七二柱序列一位のヴァンパイア。
ゴリラ。
トリスタン・グリフィス
ダンタリオンのヴァンパイア。
詩人で旅行者。まだ身体をもたないヴァンパイアのセーレを連れている。
ファンタズマ
聖騎士団最高幹部。ヴァンパイア。名前の意味は「幻」「幽霊」。
笹本助三郎
夏見格之進
シャルロッテ・ゾフィーとファンタズマが静の監視のためにつけたスードエピグラファ。のん気コンビ。うっかり八兵衛とお銀はいない。
黒のシズカ
かつて聖騎士団に所属した修道騎士。ヴァンパイア。
ヴァンパイアとしては特に名前を持たない。自身がカノンだから。太郎丸次郎丸の両刀を操る二刀流。黒の魔女とも。
※木花咲耶姫:コノハナサクヤヒメ。静の愛刀。朱鞘。栗原筑前守信秀。
※石長姫:イワナガヒメ。静の愛刀。黒鞘。栗原筑前守信秀。
※木花知流姫:コノハナチルヒメ。薫の愛刀。栗原筑前守信秀。
※カノン:正典。そのヴァンパイアグループの始祖。ソロモンの七二柱のカノンは「キング」と呼ばれる。
※アポクリファ:外典。カノンが直接生んだヴァンパイアのグループ。
※スードエピグラファ:偽典。アポクリファが生んだヴァンパイアのグループ。
※使徒座:聖座とも。使徒ペテロの後継者たる教皇、ローマ教皇庁、そして広くはカトリックの権威全般を指す。ちなみに、司教座もそうだが、そのものはまんま椅子である。
※聖騎士団:使徒座の対ヴァンパイア騎士団。全員がヴァンパイア。カステル・サントカヴァリエーレ(聖騎士城)に本部がある。




