五月十一日(前編)
私は鬼でいい。
すべてが私の敵になってもかまわない。静を守ることができるならそれでいい。
「副長、こいつですがね」
箱館政府陸軍奉行並の部屋の戸を開けた島田魁は顔を上げて固まってしまった。
「島田さん、おれはもう副長じゃないよ。ケジメってのがあるんだぜ」
「はあ」
土方の部屋で事務仕事をしているのはふたり。
まえは元新選組市村鉄之助少年と奴奈川脱藩黒姫俊輔少年だった。しかし市川少年が旅立った今は。
「なんでしょう」
じろりと静は島田魁を睨んだ。
島田の視線が自分の胸元に向けられているのに敏感に反応している。五稜郭に来てから、静は顔に泥を塗るのをやめた。そうなると美少年というよりやはり美少女になってしまうのだ。
「そいつは奴奈川脱藩内藤隼人だ。顔を合わせたのははじめてだったか?」
にやにや笑いながら土方が言った。
俊輔も苦笑するしかない。
「いえ、何度か。それに戦場での高名もかねがね……ええと」
「それでなんの用だい、島田さん」
「ああ、ほら、住民から山のほうに熊のような大男が現れたって話がありましたでしょう。どうやら入会地で勝手に猟やら炭造りをしているようでしてね……」
俊輔は筆を走らせる静の横顔を見た。
泥を塗らなくなった理由はわかっている。
いつ死んでもいいように。
自分が死にたがりであるのをよそに置き、やはり俊輔は考え込んでしまう。
「おっしゃっていることが理解できませんな」
榎本釜次郎が言った。
榎本釜次郎、のちの榎本武揚。この箱館政府の総裁である。
「奴奈川静。もしくは奴奈川遙を名乗っているかもしれない。彼女を引き渡していただきたい。私はシンプルなことしか言っていない」
白の魔女、ウェパルのアンナマリアが言った。
五稜郭の応接間。
通訳はいない。榎本はオランダ語がわかるので、彼らはオランダ語で会談をしている。
「彼女をどうにかしたいといっているのではない。われわれは彼女に聞きたいことがある。そしてわれわれは、カトリックを統べるヴァチカンの正式な使者として貴国にこれを要求している」
「奴奈川静という名は知っている。日向守殿の娘で奴奈川大社の斎姫を名乗る巫女のはずだ。用があるならそちらに行ってほしい。私どもでは対応しかねる」
「奴奈川静がこちらに合流している確かな情報がある」
「知らない」
「もしくは内藤隼人の名で」
「知らない」
「調べていただきたい」
「断る」
アンナマリアはすうっとあごを上げ、眼を細めた。
「われわれはヴァチカン正式の――」
「われわれとしても貴国と友好関係を築きたいと思っている。是非もない。しかし貴国では、他国から自国民の引き渡しを求められたら言われるままに国民を差し出すのか。どのような国際公法をもって貴国はそれを要求するのか」
榎本とアンナマリアは睨みあった。
「後悔しましょうぞ」
アンナマリアが言った。
「国民を守ることに後悔があってはならない」
榎本が言った。
アンナマリアは席を立った。
「決裂だ」
部屋の外で控えていたファンタズマには目もくれず、アンナマリアが言った。真っ白な制服に欧州人の集団にアンナマリアの白髪は目立つ。五稜郭の外に出て、アンナマリアが言った。
「なぜ私の騎士団に不細工なモノを持ち込む者がいるのか」
ライフル銃のことだ。
ファンタズマは思った。
新潟港での戦いで必要を感じ、先遣隊五人全員にスナイドル銃を持たせている。しかしアンナマリアもとうに目にしているはずだ。これはただの八つ当たりなのだ。
「バエルはまだ散っておりません。そして彼だけが奴奈川静がキングだと見抜いた。残念ながらバエル相手に剣だけでは戦えません」
「聖騎士団の質は落ちた!」
アンナマリアが言った。
黒のシズカはもういないんだぜ。ファンタズマは思った。
「俊輔。時間をとれるか」
「はい、大丈夫です」
「ついて来い。内藤隼人、おれは少し外す。誰か来たら土方はすぐに戻ると待たせておけ」
「はい」
静の横を通る時、土方は立ち止まり静を見下ろした。
「なんでしょう」
「おまえさ、その内藤隼人という名前をどこで聞いた?」
「おれの名前です」
「ふうん、そうかい」
土方は笑い、歩きはじめた。
「おれもその名前を使ったことがあるからさ」
うっと静が固まった。
マジで!とはさすがに口にしなかったが、当惑しているようだ。俊輔に視線を飛ばしてきたが、俊輔は「大丈夫です」と苦笑いを浮かべ土方の後を追った。
あ、と俊輔は思った。
しまった、内藤隼人は偽名だと土方に言ってしまったな、前に。女の子だとは言ってないはずだけど。
土方は五稜郭本陣の外に用があるようだ。
ずんずんと歩いていく。
「奴奈川大社の奴奈川斎姫はおれも聞いたことがある」
土方が言った。
ああ、どうやらすべて見透かされているようだ。
「今度の斎姫さんは本物だそうだな。傷を負っても治してしまう。でも姿を消したらしい」
「はい」
「大名のお姫さまで奴奈川斎姫で、そして剣の達人か。戯作にしても無理がないか、そりゃ」
「はい……」
くるっと土方が振り返った。
なんだろうと戸惑っていると、土方が言った。
「鎌かけたんだ。ほんとかよ」
やられた。
土方は一本松に近づいていく。
誰もいないと思ったのに、いつの間にか人影がある。
「!」
トリスタン・グリフィスだ。
「興味があるだろう」
土方が言った。
「だからおまえも連れてきた」
トリスタンはいつも通りの薄笑いを浮かべている。
俊輔はぞくりと震え上がった。先生は、先生はどう答えるつもりなのだ。
「君が黒姫俊輔を連れてきたということは」
トリスタンが言った。
「どうやら私は断られてしまうのだな、土方歳三」
「そうだ」
土方が言った。
俊輔はぐっと拳を握り締めた。
なぜおれが。それでも俊輔はうれしい。土方歳三は、ここでなくても人のまま死ぬのだ。よかった。そして、はやまってしまった自分を思う。
「理由を聞かせてもらえるだろうか」
「おれはもうガキじゃないってことだ」
土方が言った。
「俊輔を知らなければ受け入れていたかもしれないな。だがこうして知っている。そもそもおれが俊輔の年だったら喜んで受け入れたろう。新選組だったころでも受け入れただろう。でも、おれはもう大人なんだよ」
「……」
「おれはもうガキじゃない。おれには背負うものができてしまった。負けていくこの戦場で、おれだけがあばよと去って行けるわけがない」
「生き延びさえすれば、また戦えるぞ。ここで負けても、いつかどこかで勝てるかもしれない」
「おれは喧嘩で勝ちたいんじゃないんだ。戦争で勝ちたいんだ。そいつはな、いつかなんかにはない。今ここにしかないんだよ」
それ以上、トリスタンはなにも言わなかった。
だから土方は背を向けた。
俊輔も背を向けた。なぜだろう、俊輔はトリスタンが悲しんでいるように感じた。変わらない張り付いたような笑顔で、ひどくさみしそうだと思った。
「土方歳三」
と、トリスタンが言った。
「これは皮肉ではない。捨て台詞でもない。どうか御武運を」
振り返った土方はにっこりと笑った。
「ありがとうよ」
土方と一緒に振り返った俊輔は体を元に戻し、そしてその気配にまた振り返った。
トリスタンの姿がない。
もともと居なかったかのように松の陰から消えている。
「俊輔」
と、土方が言った。
「はい」
「時間はないぞ」
「はい」
「お姫さまを安全なところまで避難させる。おまえがそう決心するならおれがそれを命じてやる。あのきれいな姫さまを死なせていいのか。おまえんとこの姫さまだろう。死にたがりもたいがいにしておけ」
「考えています」
土方は俊輔の顔を見上げた。
「ただの死にたがりかと思えば……」
「まとまれば、相談してもよろしいでしょうか」
「おう、だが急げよ。時間がない」
「はい」
「なんだ?」
「どうした?」
箱館山を守る箱館政府軍の兵士は山頂から崖を見下ろした。
まだ夜明け前だ。なにも見えない。
牛が寝そべる姿に似ているので臥牛山とも呼ぶ。山頂部は広いが、裏側は崖だ。その崖を人が登ってくる気配がする。数人という気配ではない。何百という気配だ。
「まさか!」
「報せろ!」
「応っ!」
兵は灯りを手に走り出した。
明治二年、五月十一日未明、午前三時。
準備を終えた新政府軍の箱館総攻撃が始まった。
■登場人物紹介
奴奈川 静 (ぬながわ しずか)
奴奈川斎姫。正四位下。
人を越える治癒能力をもち、そして守りに徹するなら最強の剣士となる。
奴奈川 遙 (ぬながわ はるか)
生まれなかった静の妹。
奴奈川 薫 (ぬながわ かおる)
静の双子の弟。奴奈川藩次期藩主。背格好も顔も静にそっくり。
ちなみにこの三きょうだい、気づいている人もいるかもしれないが、たがいを妹、弟扱いする。
黒姫 俊輔 (くろひめ しゅんすけ)
薫の学友。奴奈川家筆頭連枝黒姫家の嫡男。
鷹沢 勇一郎 (たかざわ ゆういちろう)
米山 鉄太郎 (よねやま てつたろう)
小林 静馬 (こばやし しずま)
三浦 勝之進 (みうら かつのしん)
黒姫俊輔を筆頭とする薫の学友。
黒姫 高子 (くろひめ たかこ)
巫女長。静のレディスメイド。斎姫代でもある。俊輔の従姉妹。
奴奈川日向守 (ぬながわ ひゅうがのかみ)
静と薫、そして遙の父親。奴奈川一万石領主。
奥方
日向守の正妻。静たちの母。
かつて奴奈川斎姫代をつとめていた。実は不思議ちゃんである。
レオンハルト・フォン・アウエルシュタット
グラキア・ラボラスのヴァンパイア。黒のシズカの盟友。
シャルロッテ・ゾフィー・フォン・シュタウフェンベルク
アムドゥスキアスのヴァンパイア。
美人だが目立つことに執念を燃やす変人。レオンハルトを日本に誘う。
バエル
人間名不明。ソロモンの七二柱序列一位のヴァンパイア。
ゴリラ。
トリスタン・グリフィス
ダンタリオンのヴァンパイア。
詩人で旅行者。まだ身体をもたないヴァンパイアのセーレを連れている。
ファンタズマ
聖騎士団最高幹部。ヴァンパイア。名前の意味は「幻」「幽霊」。
笹本助三郎
夏見格之進
シャルロッテ・ゾフィーとファンタズマが静の監視のためにつけたスードエピグラファ。のん気コンビ。うっかり八兵衛とお銀はいない。
黒のシズカ
かつて聖騎士団に所属した修道騎士。ヴァンパイア。
ヴァンパイアとしては特に名前を持たない。自身がカノンだから。太郎丸次郎丸の両刀を操る二刀流。黒の魔女とも。
※木花咲耶姫:コノハナサクヤヒメ。静の愛刀。朱鞘。栗原筑前守信秀。
※石長姫:イワナガヒメ。静の愛刀。黒鞘。栗原筑前守信秀。
※木花知流姫:コノハナチルヒメ。薫の愛刀。栗原筑前守信秀。
※カノン:正典。そのヴァンパイアグループの始祖。ソロモンの七二柱のカノンは「キング」と呼ばれる。
※アポクリファ:外典。カノンが直接生んだヴァンパイアのグループ。
※スードエピグラファ:偽典。アポクリファが生んだヴァンパイアのグループ。
※使徒座:聖座とも。使徒ペテロの後継者たる教皇、ローマ教皇庁、そして広くはカトリックの権威全般を指す。ちなみに、司教座もそうだが、そのものはまんま椅子である。
※聖騎士団:使徒座の対ヴァンパイア騎士団。全員がヴァンパイア。カステル・サントカヴァリエーレ(聖騎士城)に本部がある。




