北へ
私は鬼でいい。
すべてが私の敵になってもかまわない。静を守ることができるならそれでいい。
「よし、店を開け。今日もよい出来だ!」
いい香りが朝の横浜外国人居住地に広がっている。
”修道騎士の店”。
今朝もパンを買いに多くの人々が集まっている。
「兄弟、今日も鶏は卵をたくさん産んでくれたぞ」
「兄弟、牛も飼ってチーズも作りたいですね」
「兄弟、ワインも自家製にしたいですな。ぶどうを育てて、いつかは」
聖騎士団、これでいいのか。
時として思わずにはいられないが、この生活にも慣れてきたファンタズマである。
「兄弟、夏見格之進からの報告、解読が済みました」
語学の才があるものに奴奈川静を監視させているサムライからの手紙を翻訳させているのだが、頼りないくせに「無駄に達筆すぎて翻訳というより解読が必要」らしい。
「ヌナガワ・シズカは会津若松に向かっているようです」
「会津に留まることになるとやっかいだな。仙台に出てくれると助かるのだが」
「それと、最後にやはり一言が」
ファンタズマは渋面を浮かべた。
「今度はなんだ」
「踏まれたい」
「おれも白の魔女に踏まれたいと思うことはあります」
修道騎士の一人が言った。
「イタリアは遠いな」
群青の空を見上げ、ファンタズマが言った。
「レディ。笹本助三郎からの手紙の解読終わりました」
こちらは楽団のひとりに同じく語学の才能があるのがいたようだ。
「また終わりになにか付け足してるのでしょう?」
シャルロッテ・ゾフィーが言った。
「罵られたい」
「ああ、黒のシズカも絶妙に毒舌だったぜ。愛想がないから妙に来るんだよな」
「あなたの性癖なんか聞いてないわよ、レオンハルト」
七月。新暦にして九月初旬。
静が新潟を脱出した頃、新政府軍千二百人が新潟の太夫浜に上陸した。正面からの衝突で被害が拡大することを怖れた奥羽越列藩同盟は新潟港を放棄する。新潟を脱出していなければ静の旅もここで終わっていたかもしれない。同時期、長岡城も再落城。軍事総督河井継之助は会津に向かう中、戦傷が悪化して死亡する。
戦線は北へ。
「開門! 開門!」
会津鶴ヶ城の城門の前で叫ぶ少年がいる。
城門は閉ざされている。
新政府軍が予想より早く城下に押し寄せてきて、籠城の準備もままならず、それこそ押っ取り刀で鶴ヶ城へと集まることになったのだ。すでに城下では屋敷に残った多くの婦女が自害する悲劇が始まっている。
「誰だ」
「奴奈川脱藩、内藤隼人! 貴藩に助太刀申す!」
静のその変名はすでに戦場に鳴り響いている。
しかし。
「去られよ、内藤隼人どの。われら会津、城を枕に討ち死にする覚悟」
兵站が足りない。
城に籠城した人々の食料すら何日もつかわからないのだ。他藩の者をいれる余裕はない。
「待て、内藤隼人どの」
別の男の声が聞こえてきた。
「貴殿は、奴奈川脱藩黒姫俊輔をご存じか」
あっと、静は眼を見開いた。
熱いものが体を駆け抜けていく。
「俊輔が」
生きていた。
俊輔はまだ生きていた。
「黒姫俊輔は土方歳三どのに着いて援軍を求め庄内藩に向かっている」
「庄内藩」
「内藤隼人どの」
その声はなおも言った。
「われらは会津武士としての意地をしめす所存。しかしその意地に若い貴殿までつきあう必要はない。どうか御武運を」
静にはどうしようもない。
ただ門に向かって一礼し、背を向けて静は駆け出した。
庄内に俊輔がいる。
私の仲間。
もうたったひとりだけになった、私の仲間。
しかし、土方と俊輔は庄内藩にいない。新政府軍への降伏を決めていた米沢藩が土方の通行を認めなかったのだ。土方と俊輔は仙台へと向かっている。
静はそれも知らない。
寂れた漁村にとんでもない大男の姿が見られるようになってかなり経つ。
満身創痍の彼が砂浜に打ち上げられたのは七月のことだった。
「この子も、最後は畳の上で死にたかろう。最後は人に良くしてもらったと思って死にたかろう」
放置するわけにもいかないしで海に戻す相談をしていた漁師たちにツルばあさんが言った。
ツルばあさんは時化で夫と息子と孫を失った。
ほそぼそと畑を耕して、ひとりで暮らしている。
「おねがいだよ、うちまで運んでくれないか」
同じ漁師仲間としてツルばあさんの境遇に同情しないものはいない。漁師たちはその大男をゴザにのせて数人がかりでばあさんの家まで運んだ。
すぐに墓穴も掘ることになるんだろうな。
ま、しょうがないさ。あの男もツルばあさんのようないい人に巡り会えてよかったな。おれも船がひっくり返ったら、ツルばあさんのような人にあったかくしてもらって死にてえ。
ああ、そうだな、死んだあとだったとしてもな。
ツルばあさんは、その男の身体の傷をひとつひとつきれいにしてやった。いつ死んでもいいように。
しかし男は死なない。
なんて頑丈な男だろう。ツルばあさんが感心したころ男が目を開けた。
「なにか食べるかい?」
片耳が痛い。聞こえない。でも数年日本にいてバエルは日本語が理解できる。バエルはうなずいた。
ツルばあさんはしばらくして暖かい雑炊をもってきてくれた。
バエルに強烈な飢餓感が甦ってきた。
バエルは一口でその雑炊を口に注ぎ込んだ。
「あらあら、熱くはないかい。あわてなくてもいいんだよ。まだあるからね」
ツルばあさんに孫ができた。
バエルが歩けるようになるのに、三日もかからなかった。
それからは急速に快復し、ツルばあさんの畑仕事を手伝う大男の姿が見られるようになった。聞こえなかった片耳が聞こえるようになるころには、ふらっと山の中に消えて獲物を背負って帰ってくるようになった。
「あたしは年でね、そういうものはもう食べられないんだよ。おまえがひとりでお食べ。おまえが獲ってきたのだから、おまえが自分のためにお食べ」
バエルが器用に調理した獣肉に、ツルばあさんは手をつけなかった。
バエルは悲しそうな顔をした。
「その大きな体なのだもの、ほんとうはあたしにわける分なんてないだろう。優しい子だ。なんて優しい子だ」
微笑むツルばあさんに、バエルはますます悲しい顔をするのだった。
夏が過ぎ、秋が過ぎ、やがて冬が来た。
バエルは日本語もうまくなり、通りかかった侍や旅人から情報を聞き出すこともできるようになった。
会津はひと月の籠城の末に降服。
最後まで孤軍奮闘した庄内藩も降服。奥羽越列藩同盟は瓦解した。旧幕府軍は蝦夷地に渡り、そこで決戦の腹づもりらしい。
そこに。
と、バエルは思った。
そこにキングがいるのだ。
「ツルばあさん。おれは」
ある日、囲炉裏での夕食でバエルが口を開いた。
「行くのかい」
ツルばあさんが言った。
弾かれたようにバエルが顔をあげた。
「いいんだよ。おまえにはするべきことがあるのだね。わかっているよ。おまえは余所からきたのだから、また余所にいくだけだ。若いのだから。おまえはまだ若いのだから」
バエルの目から涙があふれて落ちた。
「いやだねえ、大きな図体をして泣き虫だねえ」
ツルばあさんも泣いた。
バエルの涙はなかなか止まらなかった。
村を離れる日が来た。
バエルはなんどもなんども振り返り、その度に頭を深々と下げ歩いていった。ツルばあさんが縫った着物を着てはいるが、あの大きな姿では目立つだろう。
「さみしくなるな、ばあさん」
付き添いとしてついてきた漁師が声をかけた。
「もちろんさ。あんなでかいのが明日からいないのだから」
それでもと、ツルばあさんは笑った。
「夢を見ることができた。夫も子も孫も失ったあたしが、あんなおっきな夢を見ることができたんだ。嬉しかったよ。まいにち嬉しかったよ」
漁師は鼻をこすり、「さ、帰ろうか」と言った。
皇太子即位により元号が改められ、慶應から明治へ。
この年、江戸も東京と改称される。
新しい時代への流れは、あらがえない怒濤のごとく。
■登場人物紹介
奴奈川 静 (ぬながわ しずか)
奴奈川斎姫。正四位下。
人を越える治癒能力をもち、そして守りに徹するなら最強の剣士となる。
奴奈川 遙 (ぬながわ はるか)
生まれなかった静の妹。
奴奈川 薫 (ぬながわ かおる)
静の双子の弟。奴奈川藩次期藩主。背格好も顔も静にそっくり。
ちなみにこの三きょうだい、気づいている人もいるかもしれないが、たがいを妹、弟扱いする。
黒姫 俊輔 (くろひめ しゅんすけ)
薫の学友。奴奈川家筆頭連枝黒姫家の嫡男。
鷹沢 勇一郎 (たかざわ ゆういちろう)
米山 鉄太郎 (よねやま てつたろう)
小林 静馬 (こばやし しずま)
三浦 勝之進 (みうら かつのしん)
黒姫俊輔を筆頭とする薫の学友。
黒姫 高子 (くろひめ たかこ)
巫女長。静のレディスメイド。斎姫代でもある。俊輔の従姉妹。
奴奈川日向守 (ぬながわ ひゅうがのかみ)
静と薫、そして遙の父親。奴奈川一万石領主。
奥方
日向守の正妻。静たちの母。
かつて奴奈川斎姫代をつとめていた。実は不思議ちゃんである。
レオンハルト・フォン・アウエルシュタット
グラキア・ラボラスのヴァンパイア。黒のシズカの盟友。
シャルロッテ・ゾフィー・フォン・シュタウフェンベルク
アムドゥスキアスのヴァンパイア。
美人だが目立つことに執念を燃やす変人。レオンハルトを日本に誘う。
バエル
人間名不明。ソロモンの七二柱序列一位のヴァンパイア。
ゴリラ。
トリスタン・グリフィス
ダンタリオンのヴァンパイア。
詩人で旅行者。まだ身体をもたないヴァンパイアのセーレを連れている。
ファンタズマ
聖騎士団最高幹部。ヴァンパイア。名前の意味は「幻」「幽霊」。
黒のシズカ
かつて聖騎士団に所属した修道騎士。ヴァンパイア。
ヴァンパイアとしては特に名前を持たない。自身がカノンだから。太郎丸次郎丸の両刀を操る二刀流。黒の魔女とも。
※木花咲耶姫:コノハナサクヤヒメ。静の愛刀。朱鞘。栗原筑前守信秀。
※石長姫:イワナガヒメ。静の愛刀。黒鞘。栗原筑前守信秀。
※木花知流姫:コノハナチルヒメ。薫の愛刀。栗原筑前守信秀。
※カノン:正典。そのヴァンパイアグループの始祖。ソロモンの七二柱のカノンは「キング」と呼ばれる。
※アポクリファ:外典。カノンが直接生んだヴァンパイアのグループ。
※スードエピグラファ:偽典。アポクリファが生んだヴァンパイアのグループ。
※使徒座:聖座とも。使徒ペテロの後継者たる教皇、ローマ教皇庁、そして広くはカトリックの権威全般を指す。ちなみに、司教座もそうだが、そのものはまんま椅子である。
※聖騎士団:使徒座の対ヴァンパイア騎士団。全員がヴァンパイア。カステル・サントカヴァリエーレ(聖騎士城)に本部がある。




