さらば眩しき日々
私は鬼でいい。
すべてが私の敵になってもかまわない。静を守ることができるならそれでいい。
「私も脱藩するぞ!」
俊輔たちのあごが一斉に落ちた。
「私は奴奈川斎姫だ! (略)!」
静が早口で一生懸命に説明している。
「(略)!(略)! 子供の頃から一人だった! だけど、おまえたちと稽古していると、仲間が出来たみたいで嬉しかったんだ!(略)!(略)!(略)!」
「ですが、斎姫さま」
鉄太郎たちは静をなだめるのに必死だ。
「静と呼べーー!」
「静さま」
「さまとか入れるなーー!」
「無茶言わないでください」
「おまえたち、薫を呼ぶのにいちいち『さま』とか入れるのかーー!」
「入れますよっ!」
「当たり前じゃないですかっ!」
「友達だろーー! 仲間だろーー!」
ああ、これはあれだ。鉄太郎たちは思った。
近所のガキんちょだ。一緒に遊んでもらおうと泣きながら必死に追いかけてくるみそっかすだ。
一歩引いて見ていた俊輔も思った。
これはあれだ。隣の屋敷で最近生まれた猫だ。目が合うとどこまでも追いかけてくる。にゃーにゃーと。まっすぐに人を見上げて。
「だめなのか!?」
静はまた足を踏み鳴らした。
そういえば、奴奈川斎姫が突然に現れたことでいっぱいいっぱいで聞きそびれていた。静は黒い軍装をしている。ベルトに差しているのは、噂の木花咲耶姫に石長姫だろう。
「斎姫さま、そのお姿は」
俊輔が言った。
「ああ、薫が買い付けてきた西洋の軍服だ。高子に私用のも用意させた。換えもある。動きやすくてなかなかいいぞ、これ」
また高子ですか。
俊輔は従姉妹に当たる活発そうな少女を思った。あの子も大変だな。
「だ、か、ら!!」
どん!どん!どん!
踏み鳴らす足は止まらない。
「だめなのか!? おまえたちは脱藩して、家を捨てて戦いに行くのに、私は駄目なのか! 私が女だからか!? 仲間が戦いに行くのに、私だけは連れて行ってもらえないのか!?」
静が泣いている。
近所のガキんちょのように。
まっすぐ見つめてくる子猫のように。
鉄太郎たちは貰い泣きしているようだ。これはまずい。おかしな空気になりそうだ。俊輔は手を伸ばした。そして静の頭に手を置いた。
ぽん、ぽん、と。
鳴く子猫をあやすように。
あっ!――と。
俊輔はびくりと手を引いた。
奴奈川斎姫が鬼になっている。じろりと上目遣いで俊輔を睨んでいる。しかし、次の瞬間には斎姫は人になった。目を擦って泣いている少女に戻っている。
(奴奈川――遥!?)
今のは、あの鬼の遥なのか!?
仲間たちへと振り返ると、みなも涙を拭いている。斎姫の今の変化に気づいたのはおれだけか!?
「静……さま」
俊輔が声をかけた。
みなが俊輔を見た。
「静さまは藩士ではありません。脱藩できません」
「そんなことを言っているわけじゃない!」
「静さまは奴奈川斎姫なのです。正四位。位階も持っておいでです」
「それがなんだ!」
「おれたちがなぜ脱藩するかおわかりですか。そしてなにをしようとしているかおわかりですか。おれたちは官軍に逆らい、将軍家のために戦いに行くのです」
「朝敵に」と、俊輔が言った。
「おれたちは朝敵になるのです」
それを口にして、自身の背中にも冷たいものが走ったのを俊輔は否定できない。鉄太郎たちも今さらながら息を呑んでいる。
「違う、逆賊はやつらだ! 天子は騙されているんだ! おれたちは――」
鉄太郎が言った。
「構わない」
静が言った。
「なりたくてなったんじゃない。わかっている。そんなことを言い出すのもわがままだ。なりたくてなったわけでなくても私は奴奈川斎姫だ。私には奴奈川大社を守る責任と義務がある。だけどだめなんだ。走り出した気持ちを止められないんだ!」
「おまえたちだって、そうだろう!」
と、静は迫る。
「脱藩してまで戦いに行くのは、そのためだろう!」
俊輔たちには答えられない。
その通りです。おれたちはもう止まらない。
そして、それ以上に、おれたちには死にに行かなければならない理由がある。それを言ってもいいのだろうか。話は聞いたと彼女は言った。しかし――。
「静さま」
俊輔が言った。
「送ります。今夜はもうお帰りなさい。おれたちは夜四ツ(夜10時頃)、ここに集まります。毎日集まります。また明日話合いましょう」
静の顔が輝いた。
わあっと少年たちは頬を染めた。
「仲間に入れてくれるんだな、私を!」
静が言った。
後に強面の軍特務機関のエージェントや年の近い少女たちをも撃ち抜く静の笑顔だ。思春期の少年たちではひとたまりもない。
「死のう、いっしょに死のう! この戦で死のう!」
そんな輝く笑顔で言われましても。
まいったな、と俊輔は思う。
おれのたったひとつの未練が目の前にいる。こんな無邪気に。
「さあ、参りましょう」
ここに残って待っていてくれ。
そう仲間に目配せして、俊輔は静を連れて小屋の外に出た。
どういうことなのだろう。
三つ子のひとりの遙。存在しない遥。しかしたしかにヴァンパイア――鬼である遥。彼女は奴奈川静のもうひとつの顔なのか。
上目遣いでおれを睨んできた遥。
さっきのあれは、おれへの警告か?
静は先ほどの自身の変化には気づいていないふうで、先行する俊輔の後をとぼとぼと歩いて着いてくる。
「あの、静さま――」
「なんだ」
「あの、いえ、ごめんなさい。なんでもありません……」
あのとき、奴奈川遥は言った。「私のことは誰にも言うな。薫や静にもだ」と。
奴奈川遙。
あなたに警告されるまでもない。
おれはあなたの静さまを連れて行く気などない。当たり前だろう。
静は確かに人のようだ。俊輔にはなんでもない夜道が静にはまったく見えていないらしい。ときどき躓いている。深く考えたわけでもなく、俊輔は手を差し出した。
「斎姫さま、お手を」
口にしてから、あっと思った。
差し出した俊輔の手に、静が自分の手を載せた。
暖かい。
俊輔は思いきって静の手を握った。
奴奈川遙がまた出てきて睨まれるかと思った。でも彼女は姿を見せなかった。静が人でよかった。もし鬼なら、真っ赤になっている顔を見られてしまうところだった。
海鳴りが遠ざかる。
大社の大鳥居が見えてきた。
「黒姫俊輔」
と、静が言った。
「ほんとうなら、あなたが私の夫になるはずだったそうですね」
この姫は、こんなときにとんでもない話題を持ち出してくる。
「そのようです」
「このまま太平が続いて、私が奴奈川斎姫でなかったなら、私たちには今とは違う日々があったのですね」
静が手を強く握ってきた。
それは気のせいだったのかもしれない。むしろ自分が先に強く握ったのかもしれない。それに驚かず応えてくれただけかもしれない。
「ご無礼!」
俊輔は静を抱きしめた。
ありがとう、奴奈川遙。
あなたの警告があったから、おれはここまででおれを抑えることができる。
「明日、夜九ツ(深夜0時)、あの小屋に」
俊輔が言った。
「そんな遅く」
「あなたをおいていくつもりだった。旅の支度をして来なさい。つらい旅になります」
俊輔は静を抱きしめていた手を離し、身をひるがえして駆けていった。
大鳥居の下、静は座り込んだ。
はじめて人に抱きしめられた。父母にも抱かれたことはなかった。胸の高鳴りはなかなかおさまってくれない。
「脱藩するぞ」
小屋に戻るなり俊輔が言った。
「明日だ」
仲間たちは色めき立った。
「来たか!」
「いきなりだが、かまわん。やろう!」
「やろう!」
「やろう!」
「明日、夜四ツ(夜10時頃)。普済寺はわかるな。そこで落ち合おう。それまでに脱藩状を書いておけ」
「斎姫さまは」
鉄太郎が言った。
俊輔は鉄太郎に目を向けた。
「彼女は明日、この小屋で待ちぼうけだ」
「ああ――ああ、そうか。いや、そうだな、それがいい。でも、いっしょに死のうって言ってくれたんだよな。姫さまがそう言ってくれたんだよな」
万が一を考え、時間までずらした。
彼女は明日、この小屋でいつごろ置いてけぼりを食らったと気づくだろう。
泣くだろうか。
ひょいと小石を投げて、気を逸らしたうちに姿を隠したおれを悲鳴のような鳴き声で探していた子猫のように。
泣いて。
泣いて。
馬鹿にされたと傷ついて。
でも、しょうがないじゃないか。
仲間と別れ、屋敷の塀に沿って歩いている今でも遠く海鳴りが聞こえてくる。
俊輔は江戸に生まれ江戸で育った。この町が故郷なわけではない。だけどいま、聞こえてくる海鳴りが無性に懐かしい。無性に愛おしい。
俊輔は涙を落としていた。
この町で青春を過ごした。奴奈川斎姫に会った。日本の行方を語り合った。
さようなら、奴奈川斎姫。
さようなら、奴奈川の町。
さようなら、眩しい日々。
さようなら、もう帰らない。
■登場人物紹介
奴奈川 静 (ぬながわ しずか)
奴奈川斎姫。正四位下。
人を越える治癒能力をもち、そして守りに徹するなら最強の剣士となる。
奴奈川 遙 (ぬながわ はるか)
生まれなかった静の妹。
奴奈川 薫 (ぬながわ かおる)
静の双子の弟。奴奈川藩次期藩主。背格好も顔も静にそっくり。
ちなみにこの三きょうだい、気づいている人もいるかもしれないが、たがいを妹、弟扱いする。
黒姫 俊輔 (くろひめ しゅんすけ)
薫の学友。奴奈川家筆頭連枝黒姫家の嫡男。
鷹沢 勇一郎 (たかざわ ゆういちろう)
米山 鉄太郎 (よねやま てつたろう)
小林 静馬 (こばやし しずま)
三浦 勝之進 (みうら かつのしん)
黒姫俊輔を筆頭とする薫の学友。
黒姫 高子 (くろひめ たかこ)
巫女長。静のレディスメイド。斎姫代でもある。俊輔の従姉妹。
奴奈川日向守 (ぬながわ ひゅうがのかみ)
静と薫、そして遙の父親。奴奈川一万石領主。
奥方
日向守の正妻。静たちの母。
かつて奴奈川斎姫代をつとめていた。実は不思議ちゃんである。
レオンハルト・フォン・アウエルシュタット
グラキア・ラボラスのヴァンパイア。黒のシズカの盟友。
シャルロッテ・ゾフィー・フォン・シュタウフェンベルク
アムドゥスキアスのヴァンパイア。
美人だが目立つことに執念を燃やす変人。レオンハルトを日本に誘う。
バエル
人間名不明。ソロモンの七二柱序列一位のヴァンパイア。
ゴリラ。
トリスタン・グリフィス
ダンタリオンのヴァンパイア。
詩人で旅行者。まだ身体をもたないヴァンパイアのセーレを連れている。
ファンタズマ
聖騎士団最高幹部。ヴァンパイア。名前の意味は「幻」「幽霊」。
黒のシズカ
かつて聖騎士団に所属した修道騎士。ヴァンパイア。
ヴァンパイアとしては特に名前を持たない。自身がカノンだから。太郎丸次郎丸の両刀を操る二刀流。黒の魔女とも。
※木花咲耶姫:コノハナサクヤヒメ。静の愛刀。朱鞘。栗原筑前守信秀。
※石長姫:イワナガヒメ。静の愛刀。黒鞘。栗原筑前守信秀。
※木花知流姫:コノハナチルヒメ。薫の愛刀。栗原筑前守信秀。
※カノン:正典。そのヴァンパイアグループの始祖。ソロモンの七二柱のカノンは「キング」と呼ばれる。
※アポクリファ:外典。カノンが直接生んだヴァンパイアのグループ。
※スードエピグラファ:偽典。アポクリファが生んだヴァンパイアのグループ。
※使徒座:聖座とも。使徒ペテロの後継者たる教皇、ローマ教皇庁、そして広くはカトリックの権威全般を指す。ちなみに、司教座もそうだが、そのものはまんま椅子である。
※聖騎士団:使徒座の対ヴァンパイア騎士団。全員がヴァンパイア。カステル・サントカヴァリエーレ(聖騎士城)に本部がある。




