脱藩
私は鬼でいい。
すべてが私の敵になってもかまわない。静を守ることができるならそれでいい。
「ねえ遥」
朝食を食べながら静が言った。
「夜中に眠っていると、たまに妙に通るおっさんの声で高笑いが聞こえてくるんだけど。頭の中に」
「私じゃない」
遙が言った。
「あとで〆ておく。クソ生意気で感情がない女の声もする?」
「あなたのこと?」
「わからないならいい」
「そう」と、静はお味噌汁をすすった。
戊辰戦争。
一年半に及ぶ日本最大の内戦は明治元年一月、鳥羽伏見の戦いに始まる。
ここで数に勝っていた旧幕府軍がまさかの潰走。
大坂城に戻り捲土重来を目指す中、徳川慶喜が驚くべき行動に出る。会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬とともに軍艦開陽に乗り江戸に戻ってしまったのだ。
旧幕府軍は瓦解した。
徳川慶喜は謹慎し恭順を示す。
しかし、これで内戦は終わらない。火種を残したままではいつ燃え上がるかわからない。二月、徳川慶喜征討令が下る。新政府軍は、東海道、東山道、北陸道の三方から東を目指し進軍をはじめた。
北陸道。
そう、この奴奈川藩にも新政府軍は迫っている。
新政府軍から奴奈川藩への要求は、二〇〇名の兵の派遣だ。
これは一万石としては重い。
更に軍資金の供出。
足元を見られている。若殿薫は苦々しく思わずにはいられない。早くから恭順を表明し流れを作った報いはなしか。
しかし薫は黙々と教練を続けている。
全員に最新スナイドル銃を与え、西洋式の部隊を作っている。
軍服まで西洋式であることに反発する者もいる。鉄砲は足軽の武器で、武士の武器ではない。そう考える者もいる。
「覚悟せよ」
と、薫が言った。
「やって来たものたちが」
薫はこのとき、官軍とは言わなかった。
新政府軍の現地司令官は抜擢された者も多く、問題を起こしているらしい。それは薫にも、そして藩士たちの耳にも入ってきている。
「もしこの町を蹂躙しようとする輩どもならば、その時にはおれたちが命を捨てて奴奈川のお社と町を守るのだぞ!」
おおっと二〇〇名の士気が上がった。
「忠義は都にあり、恩義は江戸にあり」。そう書き残し、藩士西村格之介が腹を斬った。事実としては西村が若殿を襲ったのだと誰でも知っている。しかし若殿は西村の家で頭を下げたというのだ。「過酷な選択をさせたおれを許しくれ」と。
若年なれど若殿は聡明さと胆力を併せ持つ。
軍をまとめ上げ、不穏な空気はすでにない。
この町の春は風が強い。
薫は風に乱れた前髪を払った。
春の例大祭は開かれるらしい。ここが戦場にならないかぎり神事を止めるわけにもいくまい。静は忙しくしているだろう。
すっかり疎遠になってしまった俊輔たち学友五人。彼らはまだ少年のために兵として数えられていないが、彼らはなにを思うのだろう。
「やはり、会って話しておくべきか」
薫は思った。
風が強い。
桜は近いが、海はまだ荒れる冬のままだ。特に夜は波の音がすごい。
「おれだ」
黒姫俊輔はその小屋の戸を叩いた。
戸がスッと開き、俊輔が入るとまたつっかえ棒がはめられた。
中は暗い。
ろうそくもつけられていない。
もっとも、窓や屋根や壁に開いた穴から差し込む月明かりでここにいる者には充分だ。鷹沢勇一郎、米山鉄太郎、小林静馬、三浦勝之進。そして黒姫俊輔。彼らはヴァンパイアなのだから。
このところ、毎夜集まっている。
藩論は決し、そしていつの間にか不満分子も消えたようだ。剣術道場でも脱藩の言葉は聞かれなくなった。
どうやら、おれたちだけになった。
「もう、ぐずぐずしてはいられない」
鉄太郎が言った。
「官軍が迫っている」
勇一郎も言った。
「……」
俊輔は黙っている。
脱藩して、旧幕府軍とともに戦う。
複雑怪奇だ。
若殿薫が言った。
俊輔も思う。複雑怪奇だ。
おれたちが人を捨て鬼になったのは、尊皇攘夷のためだった。神州日本を外国勢から守るためだった。それが今、おれたちは開国を企てた旧幕府のために戦うのだという。
そもそも、朝廷が今では開国派だ。
この戦が終わっても、幕府が外国と結んだ約束は守るという。
頭が追いつかない。
しかし、皮肉なことに感情ではよくわかっている。
許せないのだ。
おれたちは、ただ、そこに正義がないことが許せないのだ。
守るべき主義主張はすでにない。掲げるべき未来もない。
トリスタン・グリフィスに明日を作りたいのだとうそぶきながら、おれたちはただ、正しいと思っていた昨日を守りたいだけだ。
「俊輔は臆したのか!」
鉄太郎が言った。
どかっと朽ちた漁具に座り、腕を組み、俊輔はじろりと鉄太郎を睨んだ。
「すまないと思っている」
俊輔が言った。
「おれ一人で鬼になればよかった。みなを巻き込んだのはおれだ。許してくれ」
「おまえ一人だけで鬼になったなら、それをおれは許さない」
「鉄太郎」
「こうして大人に混じって戦う力を得たのだ。鬼にならなければ無理だった」
「おれたちは鬼だ。そのおれたちがこの戦をやりすごし生き延びてなんになる」
勝之進も言った。
「その先はおまえが言え。そうだ、おれたちを巻き込んだのはおまえだ。だからおまえが言え、俊輔」
「……」
俊輔は唇を噛んだ。
子供だ。
子供だった。
トリスタン・グリフィスに会った頃、もう少し大人だったらな。しかしすでに事はなった。たとえ子供でもその決断への責任を持とうじゃないか。
「おれたちには死ぬ道しかない」
俊輔が言った。
おう!と皆が応えた。
「おれたちは鬼を選んだ。なら、おれたちの道はひとつだ。この戦で散ろう」
「応!」
「応!」
「応!」
どうせ未練はない。
美しい人はもとより正四位。手が届かない。
ただ、若殿に化けたつもりで剣術道場に通ってきてくれた。男女の会話はできなかったが、親しく会話することができた。
これは未練じゃない。
死ぬときに優しく思い出すことができる記憶だ。
小屋の戸ががたついた。
はっと全員が刀の鞘を掴んだ。
外の人物は戸を開けようともがいているが、つっかえ棒がかけてある。無理だ。でもあきらめない。
「……」
「……」
「……」
頑固な人かな。
それとも、少し残念な人かな。俊輔たちは緊張しながらも戸惑っている。
がん!
がん!
人物は戸を蹴破ることにしたようだ。
がんッ!
戸が吹き飛んだ。馬鹿力だ。吹き飛んだ戸を顔面に受けて鉄太郎がぶっ倒れた。
俊輔たちは仰天してしまった。
そこにいたのは若殿奴奈川薫なのだ。いや――。
「話は聞かせてもらったッ!」
響き渡ったのは、これからも声変わりしない声だ。
「ああもう、もっとかっこよく登場したかったのに! すぱん!と戸を開けはなって『話は聞かせてもらった!』のつもりだったのに! くやしい!」
顔を真っ赤にさせて足を踏みならしている若殿――いや、静だ。誰がどう見ても奴奈川静、奴奈川斎姫の静だ。そのすちゃらかなる登場に毒気を抜かれていた俊輔たちだが、正気もすぐに戻ってくる。
「あの……」
ごくりとツバを呑み、俊輔が口を開いた。
「話を聞――」
「なあ、なんで灯りをつけてないんだ。真っ暗じゃないか。これじゃ、誰が誰かわからないだろう?」
「――」
「おれは薫だ」
静が言った。
「いや、違う。私は薫じゃない。静だ」
反応できない。
「この暗がりじゃわからないかな。本当なら昼間に告白するべきだね。でも本当なんだ。私は薫じゃない。私は薫の姉の静なんだ。ずうっと道場に通ってたのは私なんだ」
知ってます。
知ってます。
知ってます。
みんなはじめから知ってます。
あとぼくら鬼なので見えてます。さっき足を踏みならしてたときに真っ赤だったのも。
「薫が剣術道場には行かないらしいと聞いて、髪を切って薫の振りをして通ってたんだ。ずうっとだ。怒る? ふざけるなと腹が立つ?」
こちらこそ、ごめんなさい。
話が見えません。
それより、ぼくらの話を聞いてたんですよね、脱藩して旧幕府軍に合流する話を……。
「楽しかったんだ」
静が微笑んだ。
それも少年たちにはよく見えている。
とてつもなく――かわいい。
「はじめはただ木花咲耶姫にふさわしい剣士になりたくて、道場で教えてもらおうと薫の振りをした。でも楽しかったんだ。おまえたちと竹刀を合わせることが。おまえたちと競えることが。だから、ごめん、やめられなかったんだ」
……まあ。
全員鬼であるぼくらより、あっという間に強くなりましたよね。
正直に言うと、ぼくらも楽しかったです。ぼくらが本気出しても大丈夫な相手なんてあなただけでしたから。
それに。
女の子、それもあこがれの雲の上の静さまと話すことができましたから……。
「そんでもって!」
静が言った。
「話は聞かせてもらった!」
あっと、微妙に緩んでいた俊輔たちに再び緊張が走った。
「私も脱藩するぞ!」
俊輔たちのあごが一斉に落ちた。
■登場人物紹介
奴奈川 静 (ぬながわ しずか)
奴奈川斎姫。正四位下。
人を越える治癒能力をもち、そして守りに徹するなら最強の剣士となる。
奴奈川 遙 (ぬながわ はるか)
生まれなかった静の妹。
奴奈川 薫 (ぬながわ かおる)
静の双子の弟。奴奈川藩次期藩主。背格好も顔も静にそっくり。
ちなみにこの三きょうだい、気づいている人もいるかもしれないが、たがいを妹、弟扱いする。
黒姫 俊輔 (くろひめ しゅんすけ)
薫の学友。奴奈川家筆頭連枝黒姫家の嫡男。
鷹沢 勇一郎 (たかざわ ゆういちろう)
米山 鉄太郎 (よねやま てつたろう)
小林 静馬 (こばやし しずま)
三浦 勝之進 (みうら かつのしん)
黒姫俊輔を筆頭とする薫の学友。
黒姫 高子 (くろひめ たかこ)
巫女長。静のレディスメイド。斎姫代でもある。俊輔の従姉妹。
奴奈川日向守 (ぬながわ ひゅうがのかみ)
静と薫、そして遙の父親。奴奈川一万石領主。
奥方
日向守の正妻。静たちの母。
かつて奴奈川斎姫代をつとめていた。実は不思議ちゃんである。
レオンハルト・フォン・アウエルシュタット
グラキア・ラボラスのヴァンパイア。黒のシズカの盟友。
シャルロッテ・ゾフィー・フォン・シュタウフェンベルク
アムドゥスキアスのヴァンパイア。
美人だが目立つことに執念を燃やす変人。レオンハルトを日本に誘う。
バエル
人間名不明。ソロモンの七二柱序列一位のヴァンパイア。
ゴリラ。
トリスタン・グリフィス
ダンタリオンのヴァンパイア。
詩人で旅行者。まだ身体をもたないヴァンパイアのセーレを連れている。
ファンタズマ
聖騎士団最高幹部。ヴァンパイア。名前の意味は「幻」「幽霊」。
黒のシズカ
かつて聖騎士団に所属した修道騎士。ヴァンパイア。
ヴァンパイアとしては特に名前を持たない。自身がカノンだから。太郎丸次郎丸の両刀を操る二刀流。黒の魔女とも。
※木花咲耶姫:コノハナサクヤヒメ。静の愛刀。朱鞘。栗原筑前守信秀。
※石長姫:イワナガヒメ。静の愛刀。黒鞘。栗原筑前守信秀。
※木花知流姫:コノハナチルヒメ。薫の愛刀。栗原筑前守信秀。
※カノン:正典。そのヴァンパイアグループの始祖。ソロモンの七二柱のカノンは「キング」と呼ばれる。
※アポクリファ:外典。カノンが直接生んだヴァンパイアのグループ。
※スードエピグラファ:偽典。アポクリファが生んだヴァンパイアのグループ。
※使徒座:聖座とも。使徒ペテロの後継者たる教皇、ローマ教皇庁、そして広くはカトリックの権威全般を指す。ちなみに、司教座もそうだが、そのものはまんま椅子である。
※聖騎士団:使徒座の対ヴァンパイア騎士団。全員がヴァンパイア。カステル・サントカヴァリエーレ(聖騎士城)に本部がある。




