剣術道場(後編)
私は鬼でいい。
すべてが私の敵になってもかまわない。静を守ることができるならそれでいい。
「それで」
と、無表情で切り出したのは奴奈川薫、本物の若殿だ。
静に呼び出され大社に来たのに、静は顔を見せない。接待殿の二の間には自分。そしてそれをとりまくように座る斎姫殿の若い巫女たち。
「静はどこなのだ?」
返事はない。
不思議な緊張が二の間に満ちている。
藩の剣術道場にも緊張が満ちている。しかしこちらは、うかつに触るとすぱっと切れてしまいそうな緊張だ。若殿――斎姫と黒姫俊輔は対峙したまま動かない。
まずったな。
俊輔は思った。
斎姫がどんな剣を操るのか、情報が少なすぎる。
鉄太郎に先にやらせて、様子をみれば良かった。
しかし、俊輔。おまえは戦場でもそれを言うつもりか。はじめて対峙する相手にあんたの剣を見せてくれと言うのか。おれは戦場で斬り合うために人を捨てたというのに。
斎姫の構え。
隙だらけのようだ。
なにも考えていないようだ。しかし誘っているようにも見える。わからない。それでも確かに、彼女はおれと同じヴァンパイアの勝之進の小手を腫れ上がるまでに打ったのだ。
黒姫俊輔。その醜い姿で二度と静に近づくな!
そう叫び泣いたあの少女とは別なのか。
遥。
そう名乗ったヴァンパイアの少女。
また張られるのかな。それは嫌だな。あれは強烈だったからな。どこかで見ているのなら、いや、この斎姫が遥なのなら、おれから近づいたんじゃないってことは頼むから忘れないでくれよ。
ふっと俊輔の口に微笑が浮かんだ。
ばかなことを考えたおかげで、どうやらほぐれた。
いくか。
俊輔が動いた。見ている者たちは身を乗り出し、「あっ」と口を開けた。俊輔は左手を放し片手で竹刀を突きだしたのだ。
片手突き。
打突部位を宣言することも知らなかった素人、それも女性。そんな相手にこのような間合いの遠い奇襲技を使ったとおれは笑われるだろう。いいじゃないか。この斎姫は謎だらけなんだ。御免、まずは一本いただきます。それで仕切り直しです。次の一本からは真正面から打ち合いましょう。
斎姫は動かない。
いや、そう見えただけだった。
斎姫の竹刀の剣先が動いた。それは俊輔の突きの剣先を、ちょん、と弾いたのだ。俊輔は両眼を見開いた。
初めての愛刀、木花咲耶姫。
はじめて抜いたとき、その美しさに震えた。それ以上に畏れが襲いかかってきた。幼い今の自分が振ったらすっぽ抜けてしまうかもしれない。
一〇年はやい。
そう言われた気がした。
「斎姫がそんな男のような事をしなくていい」
素振りに明け暮れる静に、遥はなんども言った。それでも疲労でカチカチになった腕と身体を癒やしてくれた。傷を直してくれるだけじゃない。遥にはそんな不思議な力がある。
何千。
何万。
箏、茶道、生け花、礼法、書道、和歌、論語。神楽舞。果てしなく続く習い事が終われば竹刀を振った。どうせ遊ぶ相手はいなかった。
何千。
何万。
やがて竹刀は木刀に変わった。
何千。
何万。
何十万。
静がそれに気づいたのは、何年か経ってからだった。
まず、音が消える。
次に色が消える。
すぐに気付けなかったのは、いつも隠れてひとりで木刀を振っていたからだ。
そもそも一度素振りをはじめると頭はカラッポになり、音は聞こえなくなり、色も見えなくなった。だから、はじめてそれに気づいたのは野外に出たときだった。
春の気配に誘われ、木刀を手に斎姫の間を抜けだし、やっぱりすることは素振りだ。
数百、数千。
数万。
やがて静はなにかの気配に空を見上げた。
鳥が止まっていた。
飛ぶ鳥が、その姿のまま空中で止まっている。
実際には止まっているわけではなかった。ゆっくりと鳥は羽ばたいている。ゆっくりと空を横切ろうとしている。静は周りを見渡した。杉林。きらきらと光る小川。でもその世界には色がない。そして音がない。そして動かない。
静は杉の木に触ってみた。
触れる。
だけど感触が変だ。もしかしたら感触はなく、この感触は記憶が作り出した幻なのかもしれない。足元の野の花にも触ることができる。手折ることもできる。だけど顔に近づけても香りを感じない。
静は野の花を放った。
野の花も空中で止まっている。
ザッ!
静は野の花を木刀で切った。切れたわけじゃない。それでも正確に打つことができた。打った瞬間まではっきりと克明に観察することができた。
それまでにも何度かあったのかもしれない。
でも静は、この時はじめてこの世界を知った。
対面する俊輔はなかなか動かない。
この黒姫俊輔は強いらしい。
対人に関して自分が圧倒的に素人なのは静も自覚している。だから静も動かない。もっとも、この時には格上の俊輔の動きが予想できないために静は動かなかったのだが、静の特質的にそれが正解だろう。そしてこのあと、静はこの戦い方を極めていくことになる。
やがて、俊輔が動いた。
竹刀から左手を放し、足を踏み込み、どうやら右手を突き出そうとしている。
ああ。
なるほど。
静は剣先で俊輔の竹刀の剣先を、ちょん、と払った。自分以外のすべて止まっているように見える世界の中だ。静の竹刀捌きなら造作もない。
面の奥で俊輔の顔が驚きに染まっていくのが見える。
おれの片手突きを予想していたというのか。いや違う、それでも無理だ。技を読まれたんじゃない。まるでおれの竹刀が動いていないかのように斎姫は振る舞っている!
一連の動作として、俊輔は後退をはじめている。
慌てもせず突っ込むのでもなく、静はそれを追って脳天に竹刀を叩きこんだ。
ぱあァん!
色が戻ってくる。
そして音が聞こえてくる。
自分が竹刀を叩きつけた音は聞こえなかった。でも今は、どおっという道場の声が聞こえてくる。俊輔はその場に崩れ落ちた。
「あ」
静はキョロキョロしている。
「面。――面? 脳天? え?」
「面でよろしいのです」
とは、誰も言わない。みな、ただただ圧倒されている。
俊輔は動かない。
気を失っている。
「若殿をなんとしても引き留めよ」
「私が戻ってくるまで引き留めよ」
「失敗したらお仕置きよ」
道着に袴、防具袋にマイ竹刀を担ぎ、ルンルン調子で大社から出かけていった斎姫からの巫女たちへの命令だ。
お仕置きはともかく。
――引き留めいでか!
薫をとりまいて座っている巫女たちは無表情ながら、しかし目はランランと輝いている。欲望が渦巻いている。
斎姫さまそっくりな美少年。
われら、この眼に焼き付ける! 今夜は俊輔さまと組み合わせるのよ! 私は殿と組み合わせるつもりよ! あら、私は!
「それで」
と、薫は目の前に置かれたものを取り上げた。
「おれにこれを着ろというのか」
巫女装束である。
――着て!
髪を切った静さまの巫女装束姿にもぐっときたけど、本物の凄みを見たいのよ! 本物の男の娘の破壊力をわれらは感じたいのよ!
「若殿」
ずいっと膝を進めたのは黒姫高子だ。
「斎姫さまは若殿とお近くでお会いしたいと。段で隔てられたこんな部屋ではなく、できれば斎姫殿でお会いしたいと。巫女装束であれば男子禁制の斎姫殿にも出入りできましょう」
高子さま!
高子さま!
さすがはわれらの巫女長、平然と嘘をつく! われら、どこまでもついていきましょうぞ!
「そ、そうか……!」
しかも若殿がそれに反応したのだ。
あのクールを飛び越して冷たい感じすらする若殿が、ぽっと頬を染めたのだ。
「静が、そう言ったのか。おれのことを考えてくれていたのか。せっかく奴奈川の地に帰ってきたというのにめったに静に会えなくて、おれはさみしかった。静もそうだというのか。おれはうれしい……!」
いけない。
これいじょういけない。
並外れた美形でありながら他の女より妹に執着する変態美少年。われら、あと数年はこれをオカズにご飯を頂けます。
大社の巫女たちは訓練されている。
しかしこれ以上尊いと無表情が崩れてしまう。
「この奴奈川薫。静のためになら巫女姿を極めてみせよう!」
だめ。
めまいがしそう。
巫女たちが大社の寮でもんもんと妄想の中で眠りにつき、薫もまた部屋住みの自室で巫女装束を抱いてニコニコと布団にくるまっている中、静は斎姫の間で正座している。
床の間の刀掛けには木花咲耶姫に石長姫。
「黒姫俊輔は、いま、道場でいちばん強いそうです。大人より強いそうです」
静が言った。
「私はそれに勝ちました。もう、許してくださいますね?」
静は木花咲耶姫を手に取って構えた。
ぎらり!
闇の中、木花咲耶姫が一閃した。
「一〇年――かかりませんでしたね」
静が言った。
■登場人物紹介
奴奈川 静 (ぬながわ しずか)
奴奈川斎姫。正四位下。
人を越える治癒能力をもち、そして守りに徹するなら最強の剣士となる。
奴奈川 遙 (ぬながわ はるか)
生まれなかった静の妹。
奴奈川 薫 (ぬながわ かおる)
静の双子の弟。奴奈川藩次期藩主。背格好も顔も静にそっくり。
ちなみにこの三きょうだい、気づいている人もいるかもしれないが、たがいを妹、弟扱いする。
黒姫 俊輔 (くろひめ しゅんすけ)
薫の学友。奴奈川家筆頭連枝黒姫家の嫡男。
鷹沢 勇一郎 (たかざわ ゆういちろう)
米山 鉄太郎 (よねやま てつたろう)
小林 静馬 (こばやし しずま)
三浦 勝之進 (みうら かつのしん)
黒姫俊輔を筆頭とする薫の学友。
黒姫 高子 (くろひめ たかこ)
巫女長。静のレディスメイド。斎姫代でもある。俊輔の従姉妹。
奴奈川日向守 (ぬながわ ひゅうがのかみ)
静と薫、そして遙の父親。奴奈川一万石領主。
奥方
日向守の正妻。静たちの母。
かつて奴奈川斎姫代をつとめていた。実は不思議ちゃんである。
レオンハルト・フォン・アウエルシュタット
グラキア・ラボラスのヴァンパイア。黒のシズカの盟友。
シャルロッテ・ゾフィー・フォン・シュタウフェンベルク
アムドゥスキアスのヴァンパイア。
美人だが目立つことに執念を燃やす変人。レオンハルトを日本に誘う。
トリスタン・グリフィス
ダンタリオンのヴァンパイア。
詩人で旅行者。まだ身体をもたないヴァンパイアのセーレを連れている。
※木花咲耶姫
コノハナサクヤヒメ。静の愛刀。朱鞘。栗原筑前守信秀。
※石長姫
イワナガヒメ。静の愛刀。黒鞘。栗原筑前守信秀。
※木花知流姫
コノハナチルヒメ。薫の愛刀。栗原筑前守信秀。
※カノン
正典。そのヴァンパイアグループの始祖。ソロモンの七二柱のカノンは「キング」と呼ばれる。
※アポクリファ
外典。カノンが直接生んだヴァンパイアのグループ。
※スードエピグラファ
偽典。アポクリファが生んだヴァンパイアのグループ。




