ふたりの斎姫(後編)
私は鬼でいい。
すべてが私の敵になってもかまわない。静を守ることができるならそれでいい。
「ほう、ほう、これを私に!」
草庵の縁側でキングがお重をひろげている。
隣に座り、お茶を淹れているのは遥だ。お茶を淹れるなんてはじめてだ。おかしな味になっていなければいいのだけど。
「私のような子は多いのですか?」
遥が言った。
「私は母から生まれることはできなかった。今でも静の中にいるんです。私と静と薫。三つ子だった。でも、静は子供の頃からきれいな子だったのに、私は醜い。薫だって会ってみれば男のくせに静みたいにきれい。なのに、三人の中で私だけが醜い」
「ずっと」
と、遥はつぶやいた。
「孤独だった」
遥は気にしていないが、キングは器用に箸を使っている。
その箸を止め、キングが言った。
「ハルカ。あなたは今、どんな言葉で私と会話しているか気づいていますか」
「?」
「ほうら、わかっていない。あなたは今、英語を使っています。それも私に合わせて、私がこの数年を過ごしたウェールズ地方の英語だ。あなたのヴァンパイアは欧州で長く過ごしたことがあるのだ」
「……」
「それにあなたは、シズカに較べて自分は醜いという。でもあなたの言葉通りに考えれば、あなたがハルカとして見ているのもシズカではありませんか」
あっと遥は眼を見開いた。
考えもしなかったことなのだ。
「だけど鏡を見ると、静のときと私のときで映る顔が違います」
「同じなのですよ。ただ、人に見えるかヴァンパイアに見えるか。それだけなのだ。でもあなたはそれを知らず孤独に過ごしたのだ。あなたのまわりにはあなたしかヴァンパイアがいなかった。そして――どういうわけか、あなたのヴァンパイアはあなたにそれを教えようとしなかった。言葉はちゃんと覚えている子なのにね」
「……」
「心細かっただろう、ハルカ」
「……」
「さみしかっただろう、ハルカ」
遥の目から涙があふれた。
止めることができず、遥は両手で顔をおおって泣いた。
「奴奈川斎姫の舞を見ることができたのだから、私にもうこの地に留まる理由はない」
キングが言った。
遥の背がびくりとふるえた。
「でも、あなたにヴァンパイアのことを教えてくれない悪いヴァンパイアの代わりに、私がそれをあなたに教えよう。私はキング。ソロモンの王だ。教えてあげられることがたくさんある」
遥の涙は止まらない。
でもそれは、自己憐憫の涙から幸福の涙へと変わっている。
「私、俊輔たちを見た時、怖かったけど少しだけ嬉しかったんです。私はひとりじゃない。他にも私と同じ人たちがいる。鬼だと聞いて悲しかったけど、でも、私はひとりじゃない。この世でたったひとりじゃない」
ごらんなさい、とキングが言った。
「紅葉が美しいよ、ハルカ。この世界は、あなたの世界は美しい」
遥は顔をあげた。
色鮮やかな紅葉が目に飛び込んでくる。
紅葉なんて、ただの季節の風景にしか思っていなかった。
だけど今、こんなにも美しい。
「……」
静が気づいたのは、斎姫の間。真夜中の布団の中だ。
なんだか疲れている気がする。
頬がほにょほにょしている。
そして目がなんだか厚ぼったいようだ。
ふうん、遥のやつ、私の体を使いまくってくれたらしい。ふうん。そうか。
「……」
にたり。
遥の輝くような笑顔ではない。
もうひとりの奴奈川斎姫。
静は闇の中で邪悪な笑顔を浮かべたのだった。
「きゃーーーーああああ!」
奴奈川大社の朝は巫女の悲鳴から始まる。
と言うわけではないだろうが、静の朝食の膳を運んできた巫女長黒姫高子は鋭い悲鳴をあげ、危うく膳を落としそうになってしまった。
「なんだ、高子。うるさいぞ」
正座して座る静は高子に横顔を見せ、すまし顔だ。
「鷹沢勇一郎さまが素敵」
「のぼ~っとしたおっさんじゃん」
「米山鉄太郎さまのきかん気の強さがいいかな。ちっこくてきかん気って、なんか好き」
「わかる、わかる」
「小林静馬さまは?」
「三浦勝之進さまも!」
「でもね、うん、やっぱり黒姫俊輔さま」
「うん、うん」
「素敵よねー。巫女長さまにまた呼んでいただけないかしら。なにか用事をみつけて」
大社の巫女控え室が賑やかだ。
静の世話をする一〇代の少女巫女ばかりではなく、大社には大人の巫女もいる。神職だっている。叱られないようにそれなりに声をひそめているようではあるのだが、話題が少年たちの品評会ではやはり声は大きくなる。
「だそうだぞ、巫女長」
そして縁側で障子の前に立ち、盗み聞きというにはあまりに堂々とそれを聞いているのは静だ。
「あちらは黒姫本家ですから……。うちは遠い分家ですから……」
高子もいる。
「私は薫さま!」
その名前に、あっと巫女たちが息を呑んだ気配がある。
「ええと……」
「うーん……」
ふうん?
さすがに若殿を品評会の俎上にあげるのははばかれるか。
「美形すぎてなあ」
「自分よりきれいな人なんて……困るよねえ……?」
そうでもないようだ。
自由だな、こいつら。
「あんたたち、修行が足りないわね」
なんの修行だ。
「そうそう」
もうひとり参戦してきた。
「薫さまをあの五人の誰と組み合わせるか。もう私、妄想がすごくなってしまって毎日どうにかなっちゃいそう!」
「ねー、ねー! 小太りじじいの宮司さまと貧相じじいの老中さまのふたりに弄ばれる薫さまってのもすっごいよかった!」
……?
……?
……こいつら、なんの話をしているんだ?
隣に控えている高子をチラと見ると、彼女も目を爛々と輝かせて頬を紅潮させている。むふー、むふーと鼻息まで荒いようだ。
……まあいい。そろそろ入るか。
ばん!
障子が開け放たれた。ギョッと振り返った巫女たちは、さらにギョッとしてしまうことになる。縁側に立っていたのはたった今話題の若殿なのだ。
「きゃーーー!」
「ぎゃーーー!」
「若殿さまーー!」
「右専門の薫さまーー!!」
朝の悲鳴といい、賑やかな神社である。
「若殿っ! ここは斎姫殿、男子禁制でございます!」
「よおーっし!」
若殿が拳を握り締めて吠えた。
「やはり髪を切ればおれは薫だっ!!!」
あっと巫女たちは目を見張った。
髷はない。切り落とし、長めの前髪を横に流している。少し片眼を隠す。現代なら「鬼太郎」と揶揄されあだ名されるかもしれない。しかしこの若殿薫さま。よく見ると巫女装束なのだ。そして目を逸らして脇に控えているのは、巫女長黒姫高子なのだ。
「え……」
「まさか……」
「し……静さま……?」
「あーっはっはっはっは!」
静は高笑いまであげた。
「例大祭も終わった! しばらくは表の行事はない! とはいえバレて叱られるのは嫌だから、高子、カツラの準備は大至急だぞ! あと、道着と防具の調達も頼むぞ! ちゃんと「奴奈川」と名前を入れるんだぞ!!」
このすちゃらか斎姫、またなにかをはじめたらしい……。
巫女たちは呆然と高笑いする静を見上げている。
「激しすぎる」
ぼそりとつぶやいたのは、昨日から遥と静に振り回されっぱなしの高子だ。
「おや」
と、草庵の縁側に座っていたキングが声をあげた。
「これはこれは」
「どうしましたか、キング」
いつも通りにお重をもってきた遥は、キングの反応に戸惑っている。
「黒のシズカ」
と、キングが言った。
「彼女が甦ったようですよ、ハルカ」
「?」
「その短い髪」
あっと、遥はこの時になって静が髪を切ったことに気づいたようだ。
「えええーーーー! あの子、なにしてるの!!!??」
「似合っていますよ、ハルカ。黒のシズカはちょうどあなたのような髪をしていたのです。ああ、素敵だ」
褒められても、遥は涙目だ。
「素敵ですよ、ハルカ」
もう一度、キングが言った。
深夜。
キングが眠る草庵で、動く影がある。
「……」
欧州人の姿で、どうやって横浜からここまで来たのかと思えば。
奥の間に置かれたキングが持ち込んだ葛籠。大きく、そして重い。中には若い武士。仮死状態なのか、息がない。体を入れ替えてこの武士の姿で来たわけか。欧州人の体は葛籠の中に押し込めて。ヴァンパイアの力なら苦でもないが、武士がこんな大きなものを背負っていては目立つだろう。人足を雇ったか……。
はっと人影は息をひそめた。
キングの寝息のリズムが変化したのだ。
起きる気配がないのを時間をかけて確かめ、そっと葛籠の蓋を戻し、影は草庵を出ていった。
闇の中、キングが片目を開けた。
影は杉林の中を走っていく。
※右専門:わかりません。知りません。
■登場人物紹介
奴奈川 静 (ぬながわ しずか)
奴奈川斎姫。正四位下。
人を越える治癒能力をもち、そして守りに徹するなら最強の剣士となる。
奴奈川 遙 (ぬながわ はるか)
生まれなかった静の妹。
奴奈川 薫 (ぬながわ かおる)
静の双子の弟。奴奈川藩次期藩主。背格好も顔も静にそっくり。
ちなみにこの三きょうだい、気づいている人もいるかもしれないが、たがいを妹、弟扱いする。
黒姫 俊輔 (くろひめ しゅんすけ)
薫の学友。奴奈川家筆頭連枝黒姫家の嫡男。
鷹沢 勇一郎 (たかざわ ゆういちろう)
米山 鉄太郎 (よねやま てつたろう)
小林 静馬 (こばやし しずま)
三浦 勝之進 (みうら かつのしん)
黒姫俊輔を筆頭とする薫の学友。
奴奈川日向守 (ぬながわ ひゅうがのかみ)
静と薫、そして遙の父親。奴奈川一万石領主。
奥方
日向守の正妻。静たちの母。
かつて奴奈川斎姫代をつとめていた。実は不思議ちゃんである。
レオンハルト・フォン・アウエルシュタット
グラキア・ラボラスのヴァンパイア。黒のシズカの盟友。
シャルロッテ・ゾフィー・フォン・シュタウフェンベルク
アムドゥスキアスのヴァンパイア。
美人だが目立つことに執念を燃やす変人。レオンハルトを日本に誘う。
トリスタン・グリフィス
ダンタリオンのヴァンパイア。
詩人で旅行者。まだ身体をもたないヴァンパイアのセーレを連れている。
※木花咲耶姫
コノハナサクヤヒメ。静の愛刀。朱鞘。栗原筑前守信秀。
※石長姫
イワナガヒメ。静の愛刀。黒鞘。栗原筑前守信秀。
※木花知流姫
コノハナチルヒメ。薫の愛刀。栗原筑前守信秀。
※カノン
正典。そのヴァンパイアグループの始祖。ソロモンの七二柱のカノンは「キング」と呼ばれる。
※アポクリファ
外典。カノンが直接生んだヴァンパイアのグループ。
※スードエピグラファ
偽典。アポクリファが生んだヴァンパイアのグループ。




