レオンハルトふたたび
私は鬼でいい。
すべてが私の敵になってもかまわない。静を守ることができるならそれでいい。
南ドイツ、ミュンヘン。
雑居ビル二階の事務所のドアを開けようと、その長いコートの男は全身のポケットを探っている。鍵が見つからない。武器やタバコなら片手で自在に取り出せるのに。
「フォン・アウエルシュタットさん、おはようございます。お珍しいことですな」
隣の不動産のオヤジが声をかけてきた。
憎たらしいことに、とくに探すこともなくポケットから鍵を取り出している。いや、それが当たり前なのだが。
「なにが」
「あなたがですよ。朝からご出勤ですか。一日顔を出さないことも多いのに」
「思いついたんだ。依頼がないわけじゃない。おれが事務所を留守がちだから客を逃がしているんだってな」
「それはよいことを思いつきなさった」
「今朝、目が覚めたときにな」
「互いに商売繁盛といきたいものですな。では」
不動産屋のオヤジは愛想笑いを振りまいて事務所の中に入っていった。
シガレットケースを取り出し、器用に片手で蓋を開けて一本咥え、これも片手でマッチを擦って火をつけ、レオンハルト・フォン・アウエルシュタットは自分の事務所を見上げた。
アウエルシュタット探偵事務所
鍵は胸ポケットに入っていた。
一服ついて、レオンハルトは事務所のドアを開けた。いや、見つけただけで鍵をまだ差していない。ぐわん!と顔面をドアに打ち付けてしまうレオンハルトである。
部屋の中はほこりっぽい。
掃除なんかしたことないのだから、そりゃそうだ。
レオンハルトは机に座ると、さっそく引き出しからワインボトルを取り出した。ラッパ飲みではなく、いちおうグラスに注ぐ当たりはまだ救いがある。
前に依頼があったのはいつだったか。
腹減ったな。まあ、明日食うか。
ちなみにこのレオンハルトはまだ日本に渡る前のレオンハルトだ。盟友”からくり”ペッフェンハウゼルが「死んだような目をしている」と表現した真っ盛りのレオンハルトだ。
そんなレオンハルトの事務所のドアが開け放たれた。
燦然と注ぎ込むのはまばゆい光だ。
その光の中から貴婦人のシルエットが現れ、どこかの劇場の大階段で男役がするような派手なポーズをとった。
「私が来たぞ」
シルエットが言った。
「馬鹿が来たのかよ」
レオンハルトは構わずワインをなめている。
貴婦人はそのポーズのまま動かない。やがて飽きたのか、体勢を元に戻し、ドアを閉めた。汚い事務所にいつもの薄暗さが戻ってきた。
「なあ、アムドゥスキアス。それ、どういう仕組み?」
「部外秘。けっこう大変なんだからもっと驚いてよね、レオンハルト」
ソロモンの七二柱アムドゥスキアス。
のちに、ミュンヘン駅で若きアウエルシュタットのゲオルクと顔を合わせることになる。今は背中を向けて、なにやら大きな仕掛けを分解収納中のようである。
「ていうか、その呼び方やめてちょうだい。優雅じゃないのだもの。私にはシャルロッテ・ゾフィー・フォン・シュタウフェンベルクという長ったらしい名前があるのよ」
「長ったらしい名前を人に言わせるなよ」
「あなただって長ったらしい名前じゃない、レオンハルト・フォン・アウエルシュタット。グラキア・ラボラスって呼んであげましょうか」
「わかったよ。それでなんの用だ、シャルロッテ・ゾフィー」
ぽん、と新聞が机の上に投げられた。
それを手にして眺め、視線を向けるとシャルロッテ・ゾフィーはにやりと笑っている。
「キング、日本に上陸す」
シャルロッテ・ゾフィーが言った。
キング。
いったい、ヴァンパイアという肉体を持たない生命体はいつ生まれたのか。
なんのために生まれたのか。
どのようにして生き延びてきたのか。
キングはそれを知るひとりだという。ソロモンの七二柱のカノンにして最古のヴァンパイアだとも言う。
「キングに会ったことのあるヴァンパイアは少ない。でも、会えばわかるというわ」
「黒のシズカは会ったことがあるそうだ」
「へえ?」
シャルロッテ・ゾフィーは眼を細めた。
「とにかく、そのキングが興味深いジャポニズムの国に現れたのよ。そのコラムには、私たちにしかわからない情報を忍ばせてその事が書いてある。トリスタン・グリフィス、あの詩人も日本にいるのね」
「誰それ」
「ダンタリオン」
「それで、それがおれになんの関係がある」
「あなた、興味ないの。自分がどこから来てどこに行くのか。キングに聞いてみたいって思わないの」
「どうでもいい」
「私たちのパパよ」
「おれの親父は死んだよ。二〇〇年もまえに」
ざっ!
と、シャルロッテ・ゾフィーが身を翻した。パンパンパン!と手を叩きながら左右に激しく踊り、そして机の上にダン!と片足を乗せた。
「怠惰な男!」
「なあ、普通に喋れないの、シャルロッテ・ゾフィー」
「あなたも行くのよ、日本に」
「はあ?」
「私の護衛として」
「なに言ってんの、おまえ」
「ダンタリオンがいて、キングもいて。それどころじゃない、お調子者がこうして情報を広めてしまった以上、私たち以外のソロモンのヴァンパイアとか聖騎士団とか、あの金髪坊やの円卓の騎士だとかわらわらと集まってくるかもしれないじゃない。そんな危険なところに、うら若き美女にひとりで飛び込めというの」
「行かなきゃいいじゃん。若くもねえじゃん」
「日本よ」
と、シャルロッテ・ゾフィーが言った。
ワインをなめていたレオンハルトが、ぴたりと動きを止めた。
「ロマンチストのレオンハルト。いつお風呂に入ったかもわからない、きっちゃないレオンハルト。無精ヒゲのレオンハルト。死んだ目のレオンハルト。でも知っている。あなたは二〇〇年もまえの恋を忘れられない純情なロマンチストよ」
「……」
「こんな美女が目の前にいたって、ずっとひとりの女を見つめ続けるまぬけやろう。だから私は安心してあなたに護衛を依頼できる。では、いいわね。出発は三日後よ」
「おい!」
シャルロッテ・ゾフィーは小切手を机の上に置いた。
おおっとレオンハルトは目を見張った。
「三日後にまた来るわ。滞納した家賃、借金、全部きれいにして準備しておきなさい」
ぱちん、とシャルロッテ・ゾフィーが指を鳴らした。
事務所のドアが再び開け放たれ、今度は楽器を手にした何人もの男たちがぞろぞろと入ってきた。
「私は去る!」
あのまぶしい光がまた差し込んできた。
景気のいいマーチの中をシャルロッテ・ゾフィーは光の中へと消えていく。演奏を終えた楽団もコソコソと事務所を出て行って、最後にドアが閉められた。レオンハルトはシャルロッテ・ゾフィーが置いていった小切手を拾い上げた。そして額面を確認して思わず口笛を鳴らした。
「しゃあねえな」
レオンハルトはグラスにもう一杯ワインを注いだ。
昨日見た夢は覚えていない。
「朝から事務所にいれば依頼を逃さないかもしれない」
目が覚めてはじめにそう思ったのだから、借金取りに追われる夢だったのだろうか。
今朝の夢はあざやかだった。
あざやかでおそらくフルカラーだったのに、画面はモノトーンだった。しょうがない。あいつはそういう女だった。
黒髪に黒いマント。
自分を縛るかのようなバックルだらけの黒い男装。
そういえば東アジア人の目は黒くないそうだ。濃い茶色なのだそうだ。だがあいつは目まで黒かった。漆黒の瞳をしていた。いや、夢の中ではそこまで確認できなかった。シャルロッテ・ゾフィーのおかしな演出のせいだろう、今朝のあいつはまぶしい光の中でおれに背を向けていたのだから。
「なりゆきだ、助けてやる」
両手には太郎丸に次郎丸という名の日本刀。
黒のシズカ。
Shizuka die Schwarze
はるか世界の果て。東の果てからきた戦士。
たまに夢に出てきたんだから、微笑んでくれたっていいだろう。
まあ、あいつはおそろしく愛想が悪かった。こんなもんだ。
まだ明け切らない薄暗い部屋のベッドに座り、タバコを咥え、そしてレオンハルトの頬を一筋の涙が落ちていく。
ああ、そうだな。
ほんとうに依頼があったじゃないか。おれの予感も捨てたもんじゃないようだぜ、隣の小憎たらしい不動産屋のオヤジ。
日本か。
悪くないかもな。
※間違ってもシャルロッテ・ゾフィーの名は字数稼ぎではない。
※ここでシャルロッテ・ゾフィーの楽団が演奏した行進曲はもちろん『威風堂々』なのだが、この当時はまだ発表されていない(だから曲名が書かれていない)。
※Shizuka die Schwarze:黒の静。実はドイツ語は落第した中の人なので、これでいいかどうかどなたか教えてください。また、いつも悩むのは、このスペルだとドイツ人は「しつか」と発音するのだろうなと……。
■登場人物紹介
奴奈川 静 (ぬながわ しずか)
奴奈川斎姫。正四位下。
人を越える治癒能力をもち、そして守りに徹するなら最強の剣士となる。
奴奈川 遙 (ぬながわ はるか)
生まれなかった静の妹。
奴奈川 薫 (ぬながわ かおる)
静の双子の弟。奴奈川藩次期藩主。背格好も顔も静にそっくり。
ちなみにこの三きょうだい、気づいている人もいるかもしれないが、たがいを妹、弟扱いする。
黒姫 俊輔 (くろひめ しゅんすけ)
薫の学友。奴奈川家筆頭連枝黒姫家の嫡男。
鷹沢 勇一郎 (たかざわ ゆういちろう)
米山 鉄太郎 (よねやま てつたろう)
小林 静馬 (こばやし しずま)
三浦 勝之進 (みうら かつのしん)
黒姫俊輔を筆頭とする薫の学友。
奴奈川日向守 (ぬながわ ひゅうがのかみ)
静と薫、そして遙の父親。奴奈川一万石領主。
奥方
日向守の正妻。静たちの母。
かつて奴奈川斎姫代をつとめていた。実は不思議ちゃんである。
レオンハルト・フォン・アウエルシュタット
グラキア・ラボラスのヴァンパイア。黒のシズカの盟友。
シャルロッテ・ゾフィー・フォン・シュタウフェンベルク
アムドゥスキアスのヴァンパイア。
美人だが目立つことに執念を燃やす変人。レオンハルトを日本に誘う。
トリスタン・グリフィス
ダンタリオンのヴァンパイア。
詩人で旅行者。まだ身体をもたないヴァンパイアのセーレを連れている。
※木花咲耶姫
コノハナサクヤヒメ。静の愛刀。朱鞘。栗原筑前守信秀。
※石長姫
イワナガヒメ。静の愛刀。黒鞘。栗原筑前守信秀。
※木花知流姫
コノハナチルヒメ。薫の愛刀。栗原筑前守信秀。
※カノン
正典。そのヴァンパイアグループの始祖。ソロモンの七二柱のカノンは「キング」と呼ばれる。
※アポクリファ
外典。カノンが直接生んだヴァンパイアのグループ。
※スードエピグラファ
偽典。アポクリファが生んだヴァンパイアのグループ。




