キング
私は鬼でいい。
すべてが私の敵になってもかまわない。静を守ることができるならそれでいい。
「やあ、トリスタン・グリフィス」
トリスタンがカフェで新聞を読みながら朝のお茶を楽しんでいると、当の新聞の記者が声をかけてきた。
「なにか面白い話はないかい」
「ないね」
「あら、つめたい」
「私の目的は旅行記の出版だ。君の新聞への寄稿じゃない」
「そういうなよ。あんたの地獄耳には感服しているんだ。江戸のこと、サムライのこと、見てきたような記事を書いてくれる。うちの新聞が日本でも本国でも売れているのはあんたのおかげさ。だいたい、いい宣伝になるぞって言ってるのに名前を出すのを拒んでいるのはあんただ」
「そうだよ。私の名前を出してみろ」
トリスタンはぎらりと記者を睨みあげた。
「後悔させてやるぞ」
「……」
記者はごくりとつばを飲み込み、慌てて離れていった。
窓の外のはるか沖に蒸気船。
朝だからと油断せずに個室にすれば良かった。それにしても今朝も新しい船がやって来たようだ。
この国も支那のように食い物にされるのか。それとも――。
ソロモンの七二柱ダンタリオンを名乗り高位悪魔を気取っても、肉を持ち認知は人と変わらない。未来など読めない。朝のお茶を邪魔されれば機嫌が悪くなる。
「おや」
ぼんやりと外を眺めていたトリスタンがつぶやいた。
「今日の便にはヴァンパイアが乗っているようだ。それもかなり強大だ。気配を消そうともしていない。やっかい事を起こさなければいいんだが」
『それで済めばいいと思うよ』
がたん!
と、トリスタンが立ち上がった。
「あれは」
『やっと目が覚めたかね、ダンタリオン』
カフェを飛び出し、水揚げ場にトリスタンは走った。
連絡艇が近づいてくる。商人や旅行者の紳士淑女が乗っている。そのなかのひとりがトリスタンに気づいたらしく手を挙げた。
「君はキングに会ったことはあるか、セーレ」
トリスタンが言った。
『ないね』
「では私たちは、二人揃ってはじめてキングと会見する事になる」
その紳士はにこやかに手を振っている。
リン!
神楽の鈴が鳴る。
リン!
何人もの巫女たちを従え、奴奈川斎姫が舞っている。
三〇〇年振りに斎姫が生まれた。それでも勅書をいただき正式な奴奈川斎姫として舞台に立ったのは、数え十三。今年の例大祭からだ。
生き神さまのお披露目だ。
町は大変な賑わいだ。
「さあさあ、うちの枡席はこっちだ。薬売りさん、そんなキョロキョロしてちゃはぐれちまうよ」
さきほどは造り酒屋の旦那が目の前を通り過ぎていった。
若殿薫が例大祭に間に合うように帰郷を急いだわけがわかる。なにしろ奥方さますら江戸に置いて、俊輔たち学友五人だけを連れて奴奈川の地に入ったのだ。
だけど。
と、俊輔は思う。
やはり、人だ。
紅葉が美しい山腹にせり出した大社の舞台。
春の例大祭がはじめてだったのだからまだ二度目なのに、静の所作はとうに完成されている。なにより華やかな装束に化粧。
しかし――人だ。
大社には従姉妹がいる。
静と同い年で巫女長として育てられた高子、黒姫高子だ。従姉妹といっても初対面ではあるのだけど、声をかけるとっかかりにはなる。
「斎姫さまには若殿いがいにもきょうだいがいるのだろうか。女性の」
くすくすと、巫女たちはひそやかに笑った。
「俊輔さま。真に受けているのですか、斎姫さまのひとり遊びを」
「ひとりあそび」
遥の存在は、静を世話する巫女たちの間では既知の事実なのだ。
だが、静に用意される食事はひとりぶん。
ここで巫女たちは俊輔には伏せたが、実は量としては二人分だ。それでも二人で食べているわけではない。静は痩身でありながら大食なのだ。ぺろりと二人分食べてしまう。当番の巫女の前で食べるので、ちゃんと完食しているのも毎日確認されている。まあ、そんな乙女の秘密まで俊輔にしゃべることはないだろう。
用意される装束もひとり分。
そもそも静が二人でいるのを誰も見たことはない。
それでも声は聞こえてくるのだ。障子を、襖を通してきょうだいの会話が。
「声だけ聞いておりますれば、たしかにふたり」
「静さまはすこしお転婆」
「遥さまは不機嫌なことが多いよう」
そしてまた、くすくすと巫女たちは笑った。
この巫女たちは知らない。
ふたりどころか、遥と名乗る少女は鬼なのだ。
鬼――ヴァンパイア、吸血鬼。
おれたちのような。
それだけじゃない。このおれを組み伏せてしまうような、はるか強大な。
リン!
俊輔は舞台を見上げた。
リン!
リン!
そしてその戦慄は、突然に俊輔を襲ってきた。
全身が震えた。
全身が総毛立った。
予感がして、仲間たちの姿を探した。観衆のなか、鷹沢勇一郎や米山鉄太郎たちもざわめいている。彼らも感じている。この恐怖を。鬼だけが感じるなにかが鬼だけを怯えさせている。
いや、犬も吠え、鳥がいっせいに飛び立つ。
なにがおきた。
なにかがいる。
とてつもない存在が、ここにいる。
俊輔は舞台に視線を戻すべきだった。
このとき、奴奈川斎姫にも変化が起きていたのだ。
もしもの時に斎姫の代役を務めるために斎姫と同じ装束をつけて舞台裏に控えていた黒姫高子は「あれ」と思った。
この斎姫が舞を乱すことはない。
幼少の頃から一緒に稽古をしてきた高子だ。静の集中力と技量を知っている。しかし、その静がさきほどから舞を乱している。
「さがれ」
しかも静はなにかをささやいている。
高子には聞こえない。
同じ舞台で舞う巫女たちにも聞こえない。
「じゃまだ、遥。なにを右往左往している。ひっこみなさい」
このとき、鬼――ヴァンパイアたちが奴奈川斎姫を見ていたなら、自分の眼を疑っただろう。おかしくなってしまったのかと感じただろう。
人。そしてヴァンパイア。そして人。ヴァンパイア。
人。
ヴァンパイア。
奴奈川斎姫の姿が激しく移ろっている。
「いい加減になさい、遥!」
リン!!
奴奈川斎姫は静に収束した。
「あ――持ち直した」
高子は思った。
「なんだったのだ、今の気配は」
俊輔は額の汗を拭った。
舞台に視線を戻すと、ただの人である静が華麗に舞っている。
漆黒の闇の中を巫女装束の少女が走っている。
昼の喧噪と熱は去り、祭に浮かれた宵っ張りも寝静まり、奴奈川の町を静寂が包んでいる。その中を少女だけが走っている。
はあ、はあ。
はあ、はあ。
「死ぬ前に一度は見ておくべきだというものが幾つかある」
奴奈川大社参道の竹林の中。
ステッキをつき、欧州人の紳士が立っている。
「私の古い友人の黒のシズカが、そのひとつが奴奈川斎姫の舞だと言ったんだ。だから私は来た」
ざあああああッ!
少女が彼の前に立った。
はあ、はあ。
はあ、はあ。
少女は鬼――ヴァンパイアだ。そして、その紳士も。
「あなたはだれ」
少女が言った。
「私はキング。七二柱のキングだよ、奴奈川斎姫」
「ちがう! やめて! 私は斎姫じゃない! 斎姫なのは静! きれいなのは静! 私じゃない!」
「君の名を教えてくれないか。私がよく知るシズカによく似た君」
「――遙」
「ハルカ」
「ねえ、教えて。どうして私は醜いの。静はあんなにきれいなのに、どうして私は醜いの。薫だって、男のくせにあんなにきれいなのに。教えて。どうしてきょうだいのなかで私だけが醜いの」
「ハルカ。私は言ったよ。君は私がよく知る女性に似ている」
「……」
「美しいひとだった。私は彼女に恋していたんだ」
少女の眼から涙があふれた。
紳士は少女の細い肩を優しく抱きしめた。
「ハルカ、君が知らないだけなのだ。君は美しい」
「私の記事の見返りを貰いに来た」
横浜外国人居留地の新聞社オフィスのドアを開け、トリスタン・グリフィスが言い放った。
新聞社といってもホテルの一室を間借りしているだけだ。記者がひとり、そして社長がひとり。件の記者は呆気にとられている。
「しかしだな、トリスタン・グリフィス。ウチは見ての通り貧乏だ。君を満足させられるような報酬は払えないよ」
「カネじゃない。私が欲しいのは君たちのその伝播力だ」
にやり、とトリスタンは笑った。
「トリスタン・グリフィスの名も今日から解禁だ」
数ヶ月後。
トリスタンが書いた記事が欧州各国の新聞に配信された。
それは日本という遠く離れた国の紹介記事でありながら、巧妙にある情報が織り込まれていたのだった。
始祖のヴァンパイア、キング。
日本に上陸す。
■登場人物紹介
奴奈川 静 (ぬながわ しずか)
奴奈川斎姫。正四位下。
人を越える治癒能力をもち、そして守りに徹するなら最強の剣士となる。
奴奈川 遙 (ぬながわ はるか)
生まれなかった静の妹。
奴奈川 薫 (ぬながわ かおる)
静の双子の弟。奴奈川藩次期藩主。背格好も顔も静にそっくり。
ちなみにこの三きょうだい、気づいている人もいるかもしれないが、たがいを妹、弟扱いする。
黒姫 俊輔 (くろひめ しゅんすけ)
薫の学友。奴奈川家筆頭連枝黒姫家の嫡男。
鷹沢 勇一郎 (たかざわ ゆういちろう)
米山 鉄太郎 (よねやま てつたろう)
小林 静馬 (こばやし しずま)
三浦 勝之進 (みうら かつのしん)
黒姫俊輔を筆頭とする薫の学友。
奴奈川日向守 (ぬながわ ひゅうがのかみ)
静と薫、そして遙の父親。奴奈川一万石領主。
奥方
日向守の正妻。静たちの母。
かつて奴奈川斎姫代をつとめていた。実は不思議ちゃんである。
レオンハルト・フォン・アウエルシュタット
グラキア・ラボラスのヴァンパイア。黒のシズカの盟友。
シャルロッテ・ゾフィー・フォン・シュタウフェンベルク
アムドゥスキアスのヴァンパイア。
美人だが目立つことに執念を燃やす変人。レオンハルトを日本に誘う。
トリスタン・グリフィス
ダンタリオンのヴァンパイア。
詩人で旅行者。まだ身体をもたないヴァンパイアのセーレを連れている。
※木花咲耶姫
コノハナサクヤヒメ。静の愛刀。朱鞘。栗原筑前守信秀。
※石長姫
イワナガヒメ。静の愛刀。黒鞘。栗原筑前守信秀。
※木花知流姫
コノハナチルヒメ。薫の愛刀。栗原筑前守信秀。
※カノン
正典。そのヴァンパイアグループの始祖。ソロモンの七二柱のカノンは「キング」と呼ばれる。
※アポクリファ
外典。カノンが直接生んだヴァンパイアのグループ。
※スードエピグラファ
偽典。アポクリファが生んだヴァンパイアのグループ。




