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  作者: 長曽禰ロボ子
戊辰戦争編
32/77

奴奈川斎姫

私は鬼でいい。

すべてが私の敵になってもかまわない。静を守ることができるならそれでいい。


奴奈川(ぬながわ)斎姫(さいき)(しずか)です」

 奴奈川大社、接待殿。

 一段高い一の間の襖が開き、静が姿を現した。二の間の(かおる)とその従者である俊輔(しゅんすけ)は、「あっ」と、口をぽかんと開けた。

 二の間に案内されたとき、薫は明らかに不機嫌だった。

「おれはどうやら臣の扱いらしい」

「若殿。静さまは正四位(しょうしい)――」

「黙れ俊輔。それくらいわきまえないおれではない」

 少しもわきまえていないじゃないか。

「そのお姿で大社に立ち入るのは言語道断、まかりなりませぬ」

 洋装でやってきた薫は、すでに老中と神職相手にすでに一悶着起こしている。もちろん俊輔は素直に素襖(すおう)姿だが、この先なにが起きるかわからない。ずかずかと、それも洋装のまま段を乗り越えて一の間に入り込み、正四位と同席しかねない。

 しかし、俊輔のじりじりとした焦燥と懸念は静の登場とともに霧散した。

 それどころか。

 美形らしいといっても田舎娘だ。素朴な美少女なのだろう程度に考えていた。失礼ながら俊輔もだ。しかし今、目の前にいるのは奴奈川斎姫の正装に身を包み、目の覚めるような化粧を施されたこの世のものとも思えない美女だ。

「薫どの、お久しゅう」

 しかも静は貴人として扱われるのに慣れている。

 何万の人々から見られることに慣れている。自分をより気高く美しく見せることに慣れている。

「俊輔どのもお久しゅう」

 こほん。

 二の間のすみに控えていた巫女が咳払いをした。

 あぐらをかいていた薫が慌てて居ずまいを正した。すでにきちんと座っていた俊輔もだ。そしてふたりは深々と頭を下げたのだった。

「ははーっ」

 役者が違う。



「やばい、なんだあれは……!」

 大社での「謁見」を終え、屋敷に戻ってきた薫と俊輔だったが、部屋でじっとしていられなくなって広い庭を歩き回っている。そもそも部屋でなにか口走ってしまうかもしれない。だれかに聞かれてしまうかもしれない。

「おまえ、あんなきれいな女を見た事があるか、俊輔!」

 ほら、この通りだ。

「若殿、妹御です。『おんな』というのは」

「きれいだったな!」

「はあ、その――」

 庭でなら、自分だって少しくらい口走っていいだろう。

「……きれいでした」

 ぼっと顔が火照ってしまう。

「幸いだ!」

 薫が嬉しそうに声をあげた。

 この若殿は、ほんとうに妹御が好きなのだな。苦笑とともに俊輔は思った。

「静は奴奈川斎姫だ。どこにも嫁には行かない。そんなことになったらおれは、嫉妬に狂ってそのクソやろうを斬り捨ててしまうことになっただろう」

 え?

「良かったな、俊輔」

 ええ?

 今、若殿は自分をジロリと睨んだろうか。しかし婚約者だったのはほんの赤子のうちで、おれも静さまも知らない事で……。

「そういえば、静の()()()()を見せてもらうのを忘れていたな」

 薫が言った。

「……はい」

 話が変わっても、若殿のあの目つきが頭から離れない。

「おれの手には傷跡がある。おまえの手にもあるんだよな、俊輔」

 奴奈川一族の子は、赤子のうちに左のてのひらに傷をつけられる。その痕が消えるようなら、奴奈川姫の生まれ変わり奴奈川斎姫だ。女の子だけでいいのだが、念のために男の子にも傷がつけられる。宗家の薫はもちろん、連枝の俊輔の手にも傷跡がある。一族で左の掌に傷跡がないのは静だけなのだ。

「見せてみろ」

 言われるままに俊輔は左手を差し出した。

 そしてギョッとした。

 ――まずい、忘れていた!

 俊輔は差し出した左手を引こうとしたが、薫に掴まれてしまった。この若殿は細く女性のような顔をしていながら力が強い。それに無理に振りほどくわけにはいかない。

「これだ!」

 薫が声をあげた。

 俊輔の左手を掴んで、しかし傷跡を確かめようともしない。

「幸いだ! 今日、証を確かめるのを忘れたのも幸いだ! こんど静に会ったら左手を見せてくれとねだろう。そうすれば、堂々と静の左手を触ることができる!」

 なにを考えているのだ、この若殿は。

 だけど助かったとも思った。

 俊輔は解放された左の掌をちらと見た。そこには傷跡がない。



 くすくすと、静が笑っている。

 ぶはっ!

 ついには決壊したようだ。

「二人の顔、二人の顔!」

 ゲラゲラと笑っている。

 二人との会見が終わり自室に戻り、巫女装束の平装に着替えて化粧を落とし、静はすっかりくつろいでいる。肘置にもたれかかり足を伸ばし、少し、いや、かなりだらしない。

「ねえ、見た? 見た? 遙」

 今度は、ぱしぱしと扇子で足を叩いている。

 部屋には静しかいない。

「ふうん、返事をしてくれないのね。なにか気に入らないことでもあった?」

 そしてまた、くすくすと笑う。

「でもこれからは薫がいる。あなたがむっつりと返事してくれなくても、薫がいてくれる。不機嫌な姫も今までほど通用しないんだからね、遥」

 ”遙”はまた返事をしてくれなかったようだった。



 江戸から若さまがやってきた。

 いや、帰ってきた。

 洋装というとんでもない格好で闊歩する若さまはもちろん目立った。髷も結っていない。大人たちはもちろん眉をひそめているしいきり立ってもいるが、子供や若い少女には人気のようだ。なにより美形だ。

 そして五人の学友もやってきた。

 鷹沢(たかさわ)勇一郎(ゆういちろう)

 米山(よねやま)鉄太郎(てつたろう)

 小林(こばやし)静馬(しずま)

 三浦(みうら)勝之進(かつのしん)

 そして、黒姫(くろひめ)俊輔(しゅんすけ)

 彼らも町の少女たちを騒がせた。

 全員が江戸帰り、いや、江戸生まれ江戸育ちなのだ。垢抜けているのだ。そして。

「軽い、軽い、軽い!」

 剣術道場から声がする。

 きかん気の強い米山鉄太郎が声変わり間もない声を張り上げている。

 この若武者たちは強いのだ。道場の大人たちを圧倒する。江戸とはそこまですごいものなのか。

 特に黒姫俊輔は、穏やかな剣だが一歩抜けている。

 さらにこの俊輔は、一七二と当時としてはかなりの長身。そして若殿とは別のタイプの美男子ときている。少女たちが騒がないわけがない。

「若殿はもうやらないのですか」

「なにを?」

 一方、薫は道場に顔を出さない。

 俊輔は聞いてみた。

「剣術です」

 はっと、薫は笑った。

「してどうなる。これからはこいつだ」

 そして懐から取り出したのは拳銃だ。

 スミス&ウェッソン、六連発のリボルバーだ。

 そういえば奴奈川の地に帰ってきてから、若殿は剣を()かなくなった。

 残念だと思う。俊輔はここで麒麟児のように言われるが、天才とはこの人を言うのに。機械のように正確な剣筋に、怖ろしいまでの先読みの能力。

 二歳も年下なのに、ずっと敵わなかった。

 今なら、どうだろう。

 今なら。

「おまえもほどほどにしておけ。おまえにはおれの軍を率いてもらうのだからな」

 五人の学友。

 それはそのまま将来の薫の幕僚を意味する。

「おれがつくるのは銃士隊だ。殿にもそう進言している」

 この若殿におとなたちが眉をひそめるのはこれもある。

 銃の軍隊をつくる。

 それは武士のプライドを踏みにじることでもあるのだ。

 黒船来航より一〇年。新しい時代への渇望と抗い。日本が沸き上がっている。どうやら若殿は剣を捨てる道を選んだようだ。



 だが、おれたちは――。



 星明かりだけの闇の中を、俊輔は灯りも持たずに歩いている。

 目指すのは仲間たちと語り合うのに見つけた海辺の廃屋だ。他の仲間たちも灯り一つ持たず集まってくるのだろう。

(すごい……)

 改めて思う。

(灯りがなくても見える。おれたちはとんでもない力を手に入れた)

 大人より圧倒的に強くなっただけではない。

 そう、俊輔も他の仲間も道場では本気を出していない。それでもあの強さなのだ。

(おれたちなら、やれる)

 俊輔は震えが来るほどの昂ぶりを感じている。

 若殿は銃を選んだ。

 そのほうが合理的なのかもしれない。そして正しいのかもしれない。でもおれたちはこの道を選んだ。


 ――鬼になる道を。


「黒姫俊輔」

 その声は闇の中から聞こえてきた。

 澄んだ声。

 「あっ」と思う間もなく、俊輔はその声の主に肩を掴まれ押し倒された。すごい力だ。

「おまえは何者だ」

 俊輔は目を見張った。自分を押し倒したのは奴奈川斎姫、静なのだ。あの美しい顔が目の前にある。近い。

「斎姫さま、いったい……」

「答えろ、黒姫俊輔。おまえは何者だ」

 そして俊輔はさらに驚くことになる。

 すぐ気づかなかったのは、あまりに混乱していたからだ。そして、それはあり得ない事だったからだ。だが俊輔の人ではない目は、この漆黒の闇の中でもはっきりとそれを捉えている。


 奴奈川斎姫、静。

 彼女も鬼だ。


 おれたちと同じ、鬼だ。


■登場人物紹介

奴奈川 静 (ぬながわ しずか)

奴奈川斎姫。正四位下。

人を越える治癒能力をもち、そして守りに徹するなら最強の剣士となる。


奴奈川 遙 (ぬながわ はるか)

生まれなかった静の妹。


奴奈川 薫 (ぬながわ かおる)

静の双子の弟。奴奈川藩次期藩主。背格好も顔も静にそっくり。

ちなみにこの三きょうだい、気づいている人もいるかもしれないが、たがいを妹、弟扱いする。


黒姫 俊輔 (くろひめ しゅんすけ)

薫の学友。奴奈川家筆頭連枝黒姫家の嫡男。


鷹沢 勇一郎 (たかざわ ゆういちろう)

米山 鉄太郎 (よねやま てつたろう)

小林 静馬 (こばやし しずま)

三浦 勝之進 (みうら かつのしん)

黒姫俊輔を筆頭とする薫の学友。


奴奈川日向守 (ぬながわ ひゅうがのかみ)

静と薫、そして遙の父親。奴奈川一万石領主。


奥方

日向守の正妻。静たちの母。

かつて奴奈川斎姫代をつとめていた。実は不思議ちゃんである。


レオンハルト・フォン・アウエルシュタット

グラキア・ラボラスのヴァンパイア。黒のシズカの盟友。


シャルロッテ・ゾフィー・フォン・シュタウフェンベルク

アムドゥスキアスのヴァンパイア。

美人だが目立つことに執念を燃やす変人。レオンハルトを日本に誘う。


トリスタン・グリフィス

ダンタリオンのヴァンパイア。

詩人で旅行者。まだ身体をもたないヴァンパイアのセーレを連れている。



※木花咲耶姫

コノハナサクヤヒメ。静の愛刀。朱鞘。栗原筑前守信秀。

※石長姫

イワナガヒメ。静の愛刀。黒鞘。栗原筑前守信秀。

※木花知流姫

コノハナチルヒメ。薫の愛刀。栗原筑前守信秀。


※カノン

正典。そのヴァンパイアグループの始祖。ソロモンの七二柱のカノンは「キング」と呼ばれる。

※アポクリファ

外典。カノンが直接生んだヴァンパイアのグループ。

※スードエピグラファ

偽典。アポクリファが生んだヴァンパイアのグループ。


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