例大祭
私は鬼でいい。
すべてが私の敵になってもかまわない。静を守ることができるなら、それでいい。
リン!
神楽の鈴が鳴る。
北陸道、奴奈川大社。
紅葉が美しい山腹に張り出した舞台の上で、巫女たちを従えて舞を奉納しているのは奴奈川姫の生まれ変わり。三〇〇年の時を隔て誕生した奴奈川斎姫である。
奴奈川静。
まだ数え十三歳になったばかりというが、長身であり美形であり、大人の女性のように見える。さらに見事な衣装と化粧で、この世のものとは思えない美しさだ。
リン!
リン!
リン!
「おや、いい時期に来たようだ」
にこりと笑ったのは富山の薬売りだ。
一万石の小大名の城下町が、たいへんな賑わいなのだ。春と秋の奴奈川大社例大祭の日にあたったらしい。それにしても。
「こいつはまいった」
どこの宿も客で一杯だ。
ここまで混むほどだったろうか。
「おや、薬売りさん。久しぶりだね」
難儀している薬売りに声をかけてきたのは、小僧を連れた恰幅のいい旦那さんだ。
「これは猪俣の旦那さん。お久しぶりでございます」
「泊まる場所が決まらないようだね。なら、うちにおいでなさい」
「それは有り難い」
「全国を旅しているあんたの話を聞くのが毎年の楽しみなんだ。遠慮はいらない」
「それにしても今年のお祭りは賑やかでございますねえ」
「三〇〇年ぶりの奴奈川斎姫さまのご登場だ。春も賑やかだったさ」
「おや、奴奈川斎姫さまは毎年いらっしゃったのでは?」
「さあ、道端で話していてもしょうがない。まずはうちに来て草鞋を脱ぎなさい。風呂をあびてさっぱりしたら斎姫さまの舞だ。私の枡席に連れて行ってあげる。あんたも余所で話すいい話の種になるだろうさ」
リン!
「奴奈川家は美女の家系でね。静さまの母君の斎姫代姿もおきれいだった」
猪俣の旦那さんは造り酒屋を営むお大尽だ。
奴奈川大社の舞台を臨む枡席を春秋を通じて買い上げてある。席にはふんだんの料理にお酒だ。
「ささ、おやんなさい、薬売りさん」
「はいはい、頂いております。今年も良いお酒で」
「北陸道を支配した奴奈川姫。その生まれ変わりが奴奈川斎姫だ。でもいつもいるわけじゃない。斎姫さまが生まれるまで奴奈川のご一族から斎姫代が毎年選ばれて代わりをなすっていたのだ」
「それで、静さまが斎姫さま」
「そう、正真正銘の奴奈川斎姫だ。奴奈川姫の生まれ変わりさ。だから生き神さまで、奴奈川姫さまとお呼びするべきなのだが、畏れ多いということで奴奈川姫の巫女、斎姫さまとよぶのさ」
「静さまは――はばかりあることかもしれませんが、その、何かが違うのでごさいますか?」
「これを薬屋さんであるあんたに言っていいものかどうか」
「はい、はい」
「静さま三歳の時にお披露目があったのだが、静さまの左の掌には傷がなかった」
「はい」
「奴奈川の一族は誰でも生まれたときに左手に傷をつけられる。だけど静さまにはその傷が残っていなかった。大きな声では言えないが、正直ぴんとこなかったけどね。傷があるならわかりやすいのだが、傷がないから斎姫だというのはね。でも、これは奴奈川一族が勝手に決めているわけじゃない。都からの使者も確認したことなのだ。静さまはどんな傷でも痕を残さずに治すことができる。それも驚くほど早く、だそうだよ」
「はあ……、それは、それは」
「十三になった今年、勅書が届いた。静さまは正四位下。奴奈川斎姫として正式に認められたのだ」
リン!
時は幕末。
アメリカ合衆国海軍ペリー代将が来航してすでに一〇年近く。鎖国か開国か、日本全国が揺れている。志士と称する者の跋扈は治安を悪化させ、この年、清河八郎が浪士隊を率いて江戸から京に上っている。そんな時代だ。
この北陸道の田舎にも熱さだけは伝わってきている。
しかし、奴奈川斎姫。
静にとって、それはどうでもいいことなのだった。
薫に会える。
江戸から帰ってくる。
江戸時代、大名の妻や子は江戸屋敷に住むことになっていた。人質である。奴奈川藩藩主、奴奈川日向守の娘である静が江戸住まいでないのは、ひとえに彼女が奴奈川斎姫であることによる。従五位下の父親よりはるかに高い正四位下の位階を持つのが斎姫たる静だ。
赤子の頃に斎姫だと認められ、それ以来、奴奈川大社の中で育った。
父母との思い出はない。
ただ、まめに文を寄こしてくれた弟の薫。
そしていつも一緒の妹の遙。
彼らだけが静の友なのだった。
「静に会えるぞ!」
先ほどからなんど彼はそれを口にしているだろうか。俊輔は、二歳年下の彼がこれだけはしゃぐのを初めて見ると思った。
街道をゆくのは、奴奈川薫。
その学友、黒姫俊輔。
「静に会えるんだぞ、俊輔!」
まただ。
ものごころつくまえに引き離された双子に会えるのがよほど嬉しいらしい。
もっとも、俊輔にとっても静の名前には甘酸っぱさを感じずにはいられない。俊輔の黒姫家は奴奈川宗家筆頭連枝だ。奴奈川宗家とその連枝は枝分かれして数百年の時を経ている。さすがに血が薄くなるため、ときおり婚姻を通じて血を濃くする。
静は俊輔の妻になることが決まっていたそうだ。
もちろん、その話は静が斎姫だと判明して消えた。正四位だ。俊輔が妻にできる相手ではない。それどころか、静は斎姫として一生独身で暮らすのだ。
「静は美人だというぞ」
そうらしい。
惜しいことをした。子供ながら、俊輔は苦笑まじりに思ってしまう。
「おれによく似ているらしい」
しゃあしゃあと言う。
しかし、薫を目の前にすれば「それほどの美人なのか」とむしろ思う。男、少年でありながら、怖ろしいほどきれいな顔をしているのだ。
そして薫は言った。
「遥は不細工らしい」
遥。
静と薫は双子だ。だが、生まれて来なかった三人目のきょうだいがいるのだという。それが、遥だ。
「もっとも、そう言っているのは遥本人だけだ。おれは遥を見たことがない。静も見たことはないそうだ。おれたちのきょうだいなら不美人のわけがないのにな」
本当に、しゃあしゃあと言う。
それにしてもと俊輔は思う。
この将来の殿は、まるで本当に「遥」がいるように語る。
七五三の祝いに欲しいものがあるかと江戸定府の藩主、日向守から問われた薫は刀を所望した。それも三きょうだい全員に。
木花咲耶姫を静に。
石長姫を遙に。
木花知流姫を薫に。
薫の発案ではない。静の発案でもない。遥が発案し、静に文を書かせたのだという。
「静はきれいだから木花咲耶姫。遥は不細工だけど頑丈だから石長姫。おれはどうでもいいから木花知流姫――だそうだ。女神さまに叱られるだろう」
打ったのは栗原筑前守信秀。
源清麿の弟子であり、清麿の刀の多くを打ったとも言われる。刀身彫りを得意とし、三姉妹剣には、それぞれの名前に対応した女神像が彫られている。女神の刀身彫りがある刀を男子の薫が喜ぶだろうかと思えば、これがどうやら気に入ったようすで今も腰に佩いている。
出産の前から、奥方さまは生まれてくるのは三つ子だと断言していたらしい。奴奈川姫の御子だとも言っていたらしい。
それは当たり、三つ子のほうは外れた。
しかし奥方さまは生まれてこなかった子にも遥と名付け、奥方さまに薫が影響され、文を交わすうちに遠く離れた奴奈川の地にいる静も影響された。
いつか奥方さまの傷が癒やされれば、遥は消えてなくなる。
俊輔はそう思う。
たぶん、殿もそう考え、遥の存在を否定しない。
「見ろ、俊輔!」
薫が指さした。
そして走り出した。腰の木花知流姫が揺れる。
ああ、本当に困った若殿だ。
みんな見ている。街道を行く人々は足を止め、走る薫を見ている。彼が美しい少年だからではない。上下黒のスーツに、リボンタイ。髷はとうにない。この数年後には新選組副長土方歳三もが洋装することになるが、この時期ではさすがにまだ早い。
「尊皇攘夷派に見咎められたらどうするのだ」
学友であり、常によりそう最後の護衛でもある俊輔にとってはたまったものではない。しかし困ったことに、その洋装はこの美少年に似合う。
「俊輔、海だ! 奴奈川の海は冬には荒れるそうだぞ!」
振り返り、笑顔で薫が言った。
奴奈川の国が近い。
一度も見たことがない故郷に、俊輔の心も躍った。
この年、長年の習慣であった参勤交代が部分的に緩和された。
江戸住まいが義務だった正妻と子の帰国が許されたのである。時代が変わらなければ江戸定府の奴奈川薫と国元の静、一生顔を合わせることがなかったきょうだいが顔を合わせる。
きょうだいの運命だけではない。
時代の荒れた波が、日本に襲いかかろうとしている。
※江戸定府:参勤交代を免除され本国に戻らず江戸に住む大名。徳川水戸家など。
※代将:コモドー。小艦隊の司令官で、階級としては大佐。ただし「ペリー提督」が間違いなのではなく、当時の日本の記録に「ペリー提督」と書かれている。誤訳のようにされてしまうのは、その後の日本語における意味の変化のためではないか。また、当時のアメリカ合衆国海軍としてはコモドーが最高の地位だった(たしか。中の人は記憶力が壊滅的なので記憶違いの可能性はある。あるというか高い)。これは欧米の軍の階級が厳格にその権限を意味することによる。大隊を指揮することが必要なら、軍曹も少佐でなくてはならない。小艦隊しか持たない海軍であれば提督は存在しない。ところで、アメリカではお兄さんの方が有名だそうな。
■登場人物紹介
奴奈川 静 (ぬながわ しずか)
奴奈川斎姫。正四位下。
人を越える治癒能力をもち、そして守りに徹するなら最強の剣士となる。
奴奈川 遙 (ぬながわ はるか)
生まれなかった静の妹。
奴奈川 薫 (ぬながわ かおる)
静の双子の弟。奴奈川藩次期藩主。背格好も顔も静にそっくり。
ちなみにこの三きょうだい、気づいている人もいるかもしれないが、たがいを妹、弟扱いする。
黒姫 俊輔 (くろひめ しゅんすけ)
薫の学友。奴奈川家筆頭連枝黒姫家の嫡男。
鷹沢 勇一郎 (たかざわ ゆういちろう)
米山 鉄太郎 (よねやま てつたろう)
小林 静馬 (こばやし しずま)
三浦 勝之進 (みうら かつのしん)
黒姫俊輔を筆頭とする薫の学友。
奴奈川日向守 (ぬながわ ひゅうがのかみ)
静と薫、そして遙の父親。奴奈川一万石領主。
奥方
日向守の正妻。静たちの母。
かつて奴奈川斎姫代をつとめていた。実は不思議ちゃんである。
レオンハルト・フォン・アウエルシュタット
グラキア・ラボラスのヴァンパイア。黒のシズカの盟友。
シャルロッテ・ゾフィー・フォン・シュタウフェンベルク
アムドゥスキアスのヴァンパイア。
美人だが目立つことに執念を燃やす変人。レオンハルトを日本に誘う。
トリスタン・グリフィス
ダンタリオンのヴァンパイア。
詩人で旅行者。まだ身体をもたないヴァンパイアのセーレを連れている。
※木花咲耶姫
コノハナサクヤヒメ。静の愛刀。朱鞘。栗原筑前守信秀。
※石長姫
イワナガヒメ。静の愛刀。黒鞘。栗原筑前守信秀。
※木花知流姫
コノハナチルヒメ。薫の愛刀。栗原筑前守信秀。
※カノン
正典。そのヴァンパイアグループの始祖。ソロモンの七二柱のカノンは「キング」と呼ばれる。
※アポクリファ
外典。カノンが直接生んだヴァンパイアのグループ。
※スードエピグラファ
偽典。アポクリファが生んだヴァンパイアのグループ。




