ヴァンパイア
仏に逢えば仏を殺せという。
祖に逢えば祖を殺せという。
私はなにに逢い、なにを殺すのだろう。この煌びやかなガス灯の街で。
ディクソン邸の玄関に、静とジョン・アストン陸軍少尉の二人の姿が現れた。
「ブラーヴァ」
ロジャー・アルフォード海軍少佐が、拍手の仕草をしながらささやくように声をかけた。
「ブラーヴァ」
「ブラーヴァ」
副官のヘンリー・ローレンス海尉補以下の六課の仲間たちも同様だ。いつの間にだろう、それが静を讃える儀式になっている。
「シズカ、突然の呼び出しだったのによくやってくれた。そっちは?」
アストン陸軍少尉は憔悴している。自分が問われているのだと気づくのにも時間がかかった。
「わ、私はジョン・アストン陸軍少尉であります」
「怪我は」
「ありません」
「生存者は」
「部下は――」
「四人の死体を確認した。全員、社会死状態だった」
静が言った。
「四人……」
静の言葉に、ベンジャミン・ウィルソン陸軍大尉は蒼白になっている。
「陸軍大尉、陸軍少尉」
アルフォード海軍少佐が言った。
「今夜ここであったことは忘れろ。どうしても忘れられられなくても墓場まで持っていけ。もしどこかで少しでも噂になっていたら、おれはおまえたちが喋ったと考える。”M”もだ」
「”M”……!」
ウィルソン陸軍大尉はその名にすくみあがった。
静を促し、アルフォード海軍少佐は歩き出した。
「待ってください!」
アストン陸軍少尉が声をあげた。
片眉を上げ、海軍少佐が振り返った。
「あれはいったいなんです! ぼくは部下を四人も殺されたんだ! 教えてください、あれは――!」
止めるウィルソン陸軍大尉を振り払うようにして、アストン陸軍少尉が迫っている。
「おれは納得しろとは言ってないんだぜ、アストン陸軍少尉」
アルフォード海軍少佐が言った。
「忘れろと言ったんだ。この先、おまえさんが出会う疑問のすべてに納得がいく答が用意されるわけじゃない。納得できないことのほうが多いだろう。だが、おまえさんは好奇心で死ぬ猫じゃない。おまえさんは人間で、軍人で、エージェントなんだ」
アストン陸軍少尉はがっくりと首を垂れた。
アルフォード海軍少佐は背を向けた。
「ヘンリー・ローレンス。さあ、今度はおれたちの番だ!」
「イエス・サー!」
「血はすべて拭きとれ。穴の開いた壁は塗りつぶせ。割れたガラスは代えろ。調度品は復元しろ。遺体は軍医務局に搬送。戦いの痕跡は全て消せ。朝までに完了。掃除屋の仕事の始まりだぜ!」
「アイ・アイ・サー!」
軍特務機関六課アルフォード班。
通称、掃除屋。
機関銃を馬車に戻す班、馬車から道具を持ち出しディクソン邸に入っていく班、きびきびと動き出した。
「ロジャー」
静が言った。
「おい、そこ。タイミングを合わせろ。たるんどる。代われ、おれがやってみせてやる――うん、なんだ、シズカ」
静はなにごとかをささやいた。
アルフォード海軍少佐の顔に驚愕の表情が浮かんだ。
「ほんとうか」
「自己申告だ。確かめようがない」
「ソロモンの七二柱、フルカス――」
二人の背後で掃除屋たちが、活気に満ちそれでいて静かに作業を進めている。
彼の黄金に光るケモノの瞳の中で、その剣が振り下ろされた。
「奴奈川斎姫、静だ」
彼の従僕がそうであったように、彼もまた黒い塵となって散った。
夜のロンドンを歩いていたその紳士は、振り返り顔を空に向けた。
腰まである長い黒髪をコートの背に流しているが、それ以外はこの世界帝国の首都に相応しい隙のない完璧な紳士である。
「……」
星のひとつもない霧の夜空をしばらく見上げ、紳士はステッキを手に歩きはじめた。
――フルカスが?
「どうした、クリス」
暖炉の前の椅子に座るスチュアート・ウッド下院議員に声をかけられ、秘書のクリス・ランバートは視線を議員へと向けた。もっとも、被っている仮面のために彼がどこを見ているのかはわからないのだけれど。
「いいえ。失礼しました議員」
クリス・ランバートは途中になっていた報告書の読み上げを再開した。
窓の外には、ビッグベン。
――フルカスが?
ソロモンの七二柱、フルカスが散った。
その異変はロンドンを越えて伝わっている。
アドリア海の孤島の古城でも、あざやかな白い髪の女がベッドの上で眼を開けた。バイエルン王国でも無精ヒゲの男が、ニューヨークでも赤毛の男がそれに気づいている。赤毛の男は蒸気二輪を石畳を吹き飛ばして横滑りで止め、まだ明るさが残る空を見上げてにやりと笑った。
そして、深夜のサンクトペテルブルク。
長身痩躯の男が、眠る気配のない街角で立ち止まった。
「どうしました?」
連れの男が言った。
こちらは小柄だ。しかし少女のように美しい。東洋の少年だ。
「私たちと同じソロモンだ。ソロモンの七二柱がひとり消えた。体を入れ替えたわけじゃない。消えた。死んだのだ。ペイルライダーのフルカスが」
長身の男は少年へと振り返った。
「わからなかったか? そんなことはあるまい。君も感じたはずだ」
「さあ」
「まだ体の使い方がわからないか? 君を一族に迎えて日が浅いからな。いや、ちがうな。君はただ、他人に興味がないだけだ」
「ええ。ひとりを除いて」
「素直だ」
男はクスッと笑った。
「見ろ、カオル」
ステッキをぐるりと回し、彼はガス灯がまばゆい街を指した。
「こうして闇は失われ、夜は短くなり、私たちの居場所はなくなっていく。このペテルブルクなど、数万の人骨の上に作られた魔都だというのに」
「なんだ、私の話はつまらないか?」男は苦笑いした。
「そうでもありません」
「すぐにでもロンドンに行きたいのだな」
「ええ、彼女がそこにいるのなら」
「行くか、ロンドンに」
「ええ、彼女がそこにいるのなら」
パリ、ベルリン、トリノ。上海、東京。サンフランシスコ、リオデジャネイロ。世界のあらゆる街で、彼らは仲間のひとりが消えたのを感じていた。
彼らは何者なのか。
彼ら自身が知らない。
この世界にいつからいたのかもわからない。彼らは長く生きた。
彼らは肉体をもたず、肉体を欲した。
奪うわけではない。
ただ人の体に入り込み、その肉体を共有した。
彼らの存在に気づいた者は、その存在を「ヴァンパイア」と呼んだ。
血を吸うわけではない。死んでいるわけではない。薔薇を枯らし、首筋に犬歯をたてるイメージはモダンなものに過ぎない。
確かに彼らはいるのだ。
そこに。
「お呼びでございますか、殿下」
シンガポールのホテル。
その青年は朝の紅茶を楽しみながら彼を待っていた。
「おはよう、ヨコハマ・たそがれ」
「ルキフゲ・ロフォカレです。無理があります、殿下」
「わかっているのだろう、ヨコハマ・たそがれ。なぜぼくが君を呼んだのか」
「フルカスの消失」
「ぼくはわくわくしているんだ」
青年は目を輝かせている。
「散ることはないといわれたカノン――キングが散った。では彼が生んだ七二柱のアポクリファたちはどうなる。すでに何かが始まっているのかもしれないんだ。ねえ、ヨコハマ・たそがれ。フルカスがどこにいたのかわかるかい」
「ルキフゲ・ロフォカレです。正確にはわかりかねますが、ここ数十年、彼はロンドンにいたと聞きます」
「よし、行くぞ、ロンドンに!」
「日本行きは?」
「あのね、ヨコハマ・たそがれ。彼はもういないんだ。キングは散ったんだ。散った跡を見物したってなんになるというんだよ。おい、なんだい、そんな嫌な顔をするなよ!」
「しておりません」
「ま~~た、ぼくの気まぐれが始まったとでも思っているんだろう。キングが日本で散ったらしいから見に行きたい。こんどはフルカスだからロンドンだ。いいだろ。万博だってまだ先だ。退屈なんだよ。だいたい、なんだい七二柱とかさ。恥ずかしいったらありゃしない。キングはソロモン王だったとでも言うのかい。中二病だよ、ただの中二病さ!」
「殿下」
「なんだよ、ヨコハマ・たそがれ!」
「ルキフゲ・ロフォカレです。殿下、中二病とはいったい……?」
ディクソン邸では、掃除屋がまだ作業を続けている。
奴奈川静は立てかけておいたチェロケースを横にして蓋を開けた。チェロはない。そこにあるのは黒い鞘のもう一差しの剣。
「遙、さみしくなかった?」
静は語りかけ、手の朱い鞘の刀をその横に置いた。
赤鞘は木花咲耶姫。
黒鞘は石長姫。
作、栗原筑前守信秀。
この姉妹の剣には、刀身彫りを得意とする信秀によるその名の女神の姿が彫られている。
「つまらない。ソロモンのヴァンパイアなら、もっと強くてもいいじゃない。もっと手こずらせてくれもていいじゃない。もっと反撃してきてくれてもいいじゃない」
見上げた空には星がない。
遠い東の果て。故郷の海辺の町なら降るような星が見ることができた。手を伸ばせば星が掴めそうだった。
「もっと――私を殺してくれるほど――」
手を伸ばしても、この霧とガス灯の街ではなにも掴めない。
「誰が殺した、フルカスを」
霧の中、ビッグベンが刻を告げている。
「誰が殺した、フルカスを」
「誰が殺した、フルカスを」
※社会死
医師の確認なしで死亡を判断できる状態をいう。具体的には頭部がないとか、ミイラ化しているとか。言葉としては勘違いされやすい言葉だと思います。