グングニル
仏に逢えば仏を殺せという。
祖に逢えば祖を殺せという。
私はなにに逢い、なにを殺すのだろう。この煌びやかなガス灯の街で。
「シズカ、マンスフィールド家からの贈り物です」
「はい、ハウスマザー。ありがとうございます」
静にとって初めての定期演奏会を終えたばかり。微妙ながらも爆発的な歓声。指導教官のミス・チェンバースの苦笑い。震える達成感に仲間との涙。酔いはまだ醒めていない。
そんな午後。
ハウスマザーが静の屋根裏部屋のドアをノックした。
ハウスマザーが両手で持っていたのは、蒔絵が見事なお重だ。
この頃、レディは小道具にも凝るようになった。それにしても演奏会用のドレスとしてプレゼントされた振り袖といい、日本に目利きの知り合いでもいるのだろうか。
「オセキハンだそうです」
「はい」
お重を受け取り、蓋を少し開けてのぞいてみると、ほんとうにお赤飯がつめられている。
「渡すとき一緒に伝えるように、伝言も言付かっています。よろしい?」
「はい」
「『おめでとう、シズカ。オセキハンを召し上がれ』」
ハウスマザーがメモを読みあげている。
「『これであなたもオトナ』」
無表情にお重を眺め、ぼんやりと考え込んでいた静が、「あっ!」と顔を上げた。ハウスマザーはいつもの厳格な顔で静をじっと見ている。
「どうしました、シズカ?」
「わっ、私はっ!!」
静の顔が、真っ赤に、羞恥に染まっている。
「とっくにオトナですっ!」
「続けます。『演奏会の成功を私も嬉しく』――なんです?」
二枚目のメモを読み上げていたハウスマザーが言葉を止めた。
「……」
「……」
もちろんハウスマザーには静がなにを勘違いしたのか予想がついている。階段の陰で声を押し殺して爆笑しているレベッカ・セイヤーズにも。
そして、レディも。
従僕のハワードが見つけてきてくれた新しい宿で、今ごろは静の反応を想像しながらご機嫌に笑っていることだろう。そもそもこのシチュエーションは、レディが作り出したものなのだ。「あなたもオトナ」の後に次のメモをめくるのは少し間を置くのよ。ぜったいよ。忘れたら抹殺よ。そう一枚目のメモに書き添えられてあるのだから。
「オトナのシズカ」
ハウスマザーが言った。
メガネがきらりと光ったように見えたのは気のせいだろうか。
「どうします。ここで食べますか。それとも夕ご飯まで待って皆と食事室で食べますか」
「……」
「どうしますか、オトナのシズカ」
「ここで……」
「では紅茶を淹れてあげます。あとで取りに来なさい。オトナのシズカ」
「はい、ハウスマザー……」
ハウスマザーは厳格に去って行った。
シズカはお重を受け取ったまま動けない。
ズドォオン!
廃墟にとてつもない銃声が響いている。
修道院解散によって破壊された郊外の修道院。蔦と木々に埋もれ、訪れる人はいない。
ズドォオン!
ズドォオン!
「すごいね! 耳栓をしていても意味がない!」
「意味はあるから抜くなよ!」
アラン・カペルとブラックストン神父はかろうじて残っている壁の中で怒鳴り合っている。
グングニル。
全長1.8メートル。重量17キロ。銃身は1メートルに達し、口径は12.7ミリ。専用の30ミリライフル弾を射出し、その破壊力はヴァンパイアであっても一撃で粉砕する。
のそり、と撃ち終えたデハーイィが立ち上がった。
「どうやら終わったかな」
ふう、とブラックストン神父は耳栓を耳からはずした。
「すごい音だろう。実は衝撃波も出している。だから消音には限度がある。こんなものはロンドンでは使えない」
アランが言った。
「でも使うの?」
「ソロモンであろうと一撃で斃せるからな。アスカロン――モーゼル1871多弾倉改ではそうはいかない」
「君は練習しなくていいの?」
「カステル・サントカヴァリエーレでさんざんやってきた。あんまやりすぎると変な癖がつく。……なんだい、神父さん?」
「デハーイィくんがなにかやってるけど、あれはなに?」
「……」
デハーイィはさかんにこちらに向かって、自分の耳をちょんちょんとついている。あっとアラン・カペルが手で耳を覆い、ブラックストン神父もそれにならった。
ズドォオン!
銃声が鳴り響いた。
「ばっきゃろおお、ゲオルク・フォン・アウエルシュタット! 撃つときには周囲に警告してからにしろッ!」
アランが叫んだ。
ブラックストン神父は腰を抜かしているようだ。
並んで射撃訓練をしていたデハーイィが予定を終えて立ち上がっても、ゲオルクは訓練をやめる気配がない。地面に伏せているゲオルクの肩をデハーイィが掴んだ。
「ごめんなさい」
視線も寄こさず、ただゲオルクは次の銃弾を薬室に送り込んだ。
「もう少し、納得できるまで」
ズドォオン!
続けざまに撃つ。
ズドォオン!
ズドォオン!
ズドォオン!
かつては堅牢を誇っただろう修道院。その壁が崩れ落ちた。
「はあい、オトナのシズカ。取りに来ないから私がお茶を持ってきてあげたわよ」
もそもそとお赤飯を食べていると、レベッカがティーセットを手に顔をのぞかせた。イラっとはするが、お茶は素直にうれしい。
「あなた、いつもお茶に砂糖を入れないよね」
「入れる方が気持ち悪い」
そして自分の分の紅茶も入れて居座ってしまう好奇心の塊なのだ。
「これが日本のオトナお祝いの料理?」
ちがわい。
お重を覗き込んでいたレベッカの顔が無表情になった。
「日本人って料理が苦手なの?」
「素材の概念を知らない英国人に料理のことを言われたくない」
お重は、どう考えても日本人、それもかなりレベルの高い板前さんが作ったとしか思えない豪華なものだ。以前にはおにぎりもいただいたっけ。ロンドンに店を構えている大将がいるなら、自分も通いたいものなのだけど。
それでもレベッカは、ひょいと出汁巻き卵をつまんで口に放り込んだ。
「ま、楽しかったよね」
味の感想は言わない。
「うん」
「ちょっと感心したのは、あなた、あがるそぶりがなかったね。ふつう、はじめてあんな大きなホールで演奏する場合は落ち着いてられないものだけど。まるでいつも通りだったね。いつも通りの自由奔放」
自由奔放はともかく。
「慣れてるもの」
「え?」
「私、子供の頃から何万もの人の前で舞を奉納してたんだもの」
リン!
神楽鈴の音が聞こえる。あ、今、少し胸が痛くなった。
リン!
リン!
目を閉じていると、レベッカが言った。
「ねえ、シズカ。あなた、ロンドンにきょうだいがいる?」
「――?」
リン!
「ビリー・グッドウィル。ぼくのリストの八番目の男だ」
いかにも気が弱そうな痩せた男が歩いている。
うつむき加減に背を丸めているのが哀愁さえ漂わせる。
「真面目な事務員だったのが、突然、夜の街で暴れるようになった。ただの酔っ払いの喧嘩にしか見えないので警察が介入しても解散させられるだけだが、実はかなりえぐい怪我をさせている。見た目があれだからやられた本人しか被害を訴えないし、本気にしてもらえない。中には半身不随になった相手もいる」
ビリー・グッドウィルはキョロキョロとあたりを窺いはじめた。
おっと立ち止まったのは、山のような大男を見つけたからだ。スキットル(中身はミルク)を呷っていた大男はビリー・グッドウィルの視線に気づいてジロリとにらんできた。ビリー・グッドウィルはおどけた顔でファイティングポーズを取った。大男は親指で路地裏を示し、先に入っていった。
こいつはオイシイ。
こんなでかい奴を半殺しにすればスカッとするだろう。
誰だってこんなおれがやったとは思わない。こいつだって恥をさらす真似はしない。ふふふ。
前を歩いていた大男は、突然その体からは想像もできない素早さで路地の陰に身を隠した。なんだ? ビリー・グッドウィルは目を剥いた。路地の先にだれかがいる。ゴミと排泄物にまみれた汚い地面に寝そべり、なにかをこちらに向けている。
「ヴァンパイアを確認」
ゲオルクが言った。
ズドォオン!
街を歩く人々は何事かと空を見上げた。
ピップは見ていた。停められた馬車に乗り込む大男と巨大なライフルを持つ若い男。馬車は走っていった。
「聖ゲオルギウス十字軍がいる」
今夜もパブの前の通りで初対面の男たちとビールを手に楽しんでいた獅子王プルソンの背にピップが近づいた。
「獅子王プルソンは、まだなにも悪いことをしていない」
プルソンはのん気だ。
「ばかでかいライフルを見た。あれはグングニルだ。フルカスやグレモリーもあれでやられたのかもしれない。ロンドンを離れよう」
「だから、まだロンドンに帰ってきたばかりだと言っただろう」
「獅子王プルソン――オリヴァー。夢をどうするつもりだ」
ピップが言った。
ジョッキを持つ獅子王プルソンの手が止まった。
「ロンドンから浮浪児をなくすんだろう。まずは救護院を建てて、次に学校も作って、貧しさが貧しさを生む連鎖を断ち切るんだろう。今散ってしまってもいいのか」
「……」
「なあ、オリヴァー」
「わかった」
獅子王プルソンはジョッキを置いた。
「久々のロンドンで、おれは浮かれていたのかもしれない。ピップ、おまえのいう通りだ」
のそりと立ち上がれば、やはり大きい。酔っ払いがみな彼に注目する。
「そうだ。ウッド議員はいないのだ。長居しても、ただこうして金を無駄に使ってしまうだけだ。しばらく田舎で働くか。金はいくらあってもいい。そのうちまた、おれたちに協力してくれる良き人が――」
おおらかに笑った獅子王プルソンの顔が劇変した。
凍り付いた表情は恐怖のためか。いや、そうじゃない。驚きと――激しい悲しみだ。
「ウオオオオ!」
獅子王プルソンが吼えた。
「ウオオオオオオオオ!」
酔っぱらいたちは首をすくめ、耳を手で覆った。
ピップは見た。
獅子王プルソンの視線の先には、夜の街を歩く浮浪児。雷鳴のような雄叫びに、びくりと足を止めている。
あの浮浪児をピップは見た事がある。
まえに獅子王プルソンに叱責され、ヴァンパイアを追い出した子だ。
今はもう、ただの浮浪児じゃない。
ただのヴァンパイアなのだった。
■登場人物紹介
奴奈川 静 (ぬながわ しずか)
戊辰戦争の生き残り。新たなる戦地を与えられ、魔都ロンドンに渡る。クールを気取っているが、実はすちゃらか乙女。愛刀は木花咲耶姫と石長姫。
奴奈川大社の斎姫であり、正四位の階位を持つ。
ロジャー・アルフォード
英国軍特務機関六課、アルフォード班(掃除屋)のトップ。海軍少佐。極めて長身で、強面。
ヘンリー・ローレンス
アルフォード海軍少佐の副官。童顔だが、階級は海尉補(中尉)。
メアリ・マンスフィールド
ストラトフォード侯爵。六課の庇護者。別名をM、もしくは鉄のメアリ。年齢不詳。
英国海軍の名門であるマンスフィールド家の現当主。爵位はやがて弟に継がせることになっている。本当は名前はもっと長ったらしいのだが、そちらは出さない。
ハワード
レディの老従僕。長身痩躯。レディは侍女ではなくいつもこの従僕を連れている。
レベッカ・セイヤーズ
静の音楽院の友人。下宿も同じ。実は実力者。Aオケの次席ヴァイオリン。
ハウスマザー
静が暮らす下宿、学生アパートの管理人。実は軍特務機関のエージェント。
ミス・チェンバース
音楽院の静の担当教授。
ミス・オコナー
音楽院の静が所属する校舎の管理人。表情を変化させることがない能面のような人。
ゲオルク・フォン・アウエルシュタット
聖ゲオルギウス十字軍の騎士。レオンハルトの子孫。そっくりだという。
エリザベート(エリーゼ)・フォン・アウエルシュタット
ゲオルクの妹。十五歳で死亡。
チャールズ・リッジウッド
イングランド唯一の聖ゲオルギウス十字軍の騎士。
オーレリア・リッジウッド
チャールズの妹。
アラン・カペル
聖ゲオルギウス十字軍の騎士。少年のような容姿と声だが怪力。そして意外と歳をとっているらしい。
デハーイィ
聖ゲオルギウス十字軍の騎士。2Mを越える巨漢で、岩石のような容姿。名前の意味は「おしゃべり」。
レオンハルト・フォン・アウエルシュタット
黒伯爵の異名を持つヴァンパイア狩り。自身もヴァンパイア。「ゼニオ(senior)」。ソロモンの悪魔としてはグラキア・ラボラス。
ヨハン・ペッフェンハウゼル
アウエルシュタット工房の工場長。この人も実はヴァンパイア。
シャルロッテ・ゾフィー・フォン・シュタウフェンベルク
ヴァンパイア名ダンタリオン。
美人だが目立つことに執念を燃やす変人。レオンハルトを日本に誘う。
アスタロト
ソロモンに名を連ねるヴァンパイア。
ステュクスとアケロン
アスタロトの身の回りの世話を焼く少年と少女。ヴァンパイア。
ダーネ・ステラ
発明家。電気関連に異才をもつ。ヴァンパイア。
オリヴァー
ヴァンパイア名、獅子王プルソン。
上半身裸の筋骨隆々の大男。
ピップ(フィリップ)
獅子王プルソンのスードエピグラファ。
アンナマリア・ディ・フォンターナ
ヴァンパイア名ウェパル。白の魔女。
白髪で、まゆ毛、まつげも白い。碧眼。使徒座に忠誠を誓うヴァンパイアで構成された「聖騎士団」の騎士団長。
ラプラスの魔
ヴァンパイア。聖騎士団最高幹部。
ファンタズマ
ヴァンパイア。聖騎士団最高幹部。名前の意味は「幽霊」。
スチュアート・ウッド。
英国下院議員。現在行方不明。
クリス・ランバート
ウッド議員の秘書。実はヴァンパイアでソロモンのグレモリー。機関銃によって散る。
ジェイムズ・ディクソン
銀行家。実はヴァンパイアでソロモンのフルカス。静に斃され、散る。
※使徒座:聖座とも。使徒ペテロの後継者たる教皇、ローマ教皇庁、そして広くはカトリックの権威全般を指す。ちなみに、司教座もそうだが、そのものはまんま椅子である。
※悪い冗談
静とロジャー・アルフォード海軍少佐の巨大拳銃。M500。
※ヴァルキューレ
レオンハルト・フォン・アウエルシュタットと聖ゲオルギウス十字軍の自動拳銃。コルトガバメント。
※グングニル
聖ゲオルギウス十字軍の対バンパイア用巨大ライフル。50口径。
※木花咲耶姫
コノハナサクヤヒメ。静の愛刀。朱鞘。栗原筑前守信秀。
※石長姫
イワナガヒメ。静の愛刀。黒鞘。栗原筑前守信秀。
※木花知流姫
コノハナチルヒメ。薫の愛刀。栗原筑前守信秀。
※カノン
正典。そのヴァンパイアグループの始祖。ソロモンの七二柱のカノンは「キング」と呼ばれる。
※アポクリファ
外典。カノンが直接生んだヴァンパイアのグループ。
※スードエピグラファ
偽典。アポクリファが生んだヴァンパイアのグループ。




