カノン
仏に逢えば仏を殺せという。
祖に逢えば祖を殺せという。
私はなにに逢い、なにを殺すのだろう。この煌びやかなガス灯の街で。
いったい彼は、深夜の公園で何をやってるのだろう。
魔方陣らしきものを描いているようだが、あいにく私にはそちらの知識はない。ソロモンの七二柱を名乗っているというのに。
「やって来た!」
彼は私を指さした。
「見ろ、彼はやって来たぞ!」
そんな無礼なただの人間の彼に、なぜ私は返事をしてしまったのだろう。
「私を呼んだのか?」
この仮面にこの長髪で、抜群の舞台装置の中に登場してしまった自分への戸惑いもあったのかもしれない。
「君は、私を呼んだのか」
これは偶然なのか。
ただの偶然なのだろうか。
「そうだ! おれは首相になるんだ。なんのバックもなければ後ろ盾もない、そのおれが首相になるんだ!」
「君は政治家なのか?」
「これからなるんだ」
「気が遠くなるような話だ」
「だが叶えるんだ。あんたの助けを借りて叶えるんだ。契約をしてくれ。覚悟はできている。おれは、おれの夢の為にならなんだってできるんだ」
「悪魔との契約もか」
「そうだ」
「悪魔との契約で首相になったとして、そのような者を人々は許すだろうか」
「許されん」
彼は言った。
「許されるわけがない。おれは天国になど行く気はない。地獄の業火に焼かれるのも覚悟している。おれはただの人であるおれが首相になることを示すんだ。おれが首相になることだけでもこの国は変わるんだ。なんだ、どうしたんだ?」
「いや……」
私は目がうまく見えない。
かつて身もわきまえず強大な男に逆らい、目を爪で引き裂かれてしまった。私たちの自己治癒能力は人のものを遙かに超える。なのに私の目も顔の傷も完全には治らなかった。仮面をつけているのはそのためだ。その私が真夏の陽射しのようなまぶしさを感じた。
いまさら目をやられてしまった。
そんな気がした。
「首相になった後は?」
「福祉に労働問題。搾取から共栄だ。でもおれの代じゃ無理だろうな。おれは礎になればいい。仲間を集め――おい、待ってくれ。今さら、あんたは悪魔じゃないとか言わないでくれよ?」
彼が言った。
私は答えた。
「あなたが望んでいた悪魔ではないかもしれない。私はグレモリーと名乗ることが多い」
「おお……ソロモンのグレモリー……!」
「私は、あなたたちが想像するように万能ではない。空を飛べないし、触らずに人を倒すこともできない。あなたの魂も食べない。ただ、私はあなたともう少し一緒にいたいと思う。いいだろうか」
彼の両眼から涙が溢れた。
二〇年前の夏の夜。私の手を両手で握り締め、スチュアート・ウッドは長く泣き続けたのだった。
「その仮面はなんだい。おまえのきれいな顔をおれに見せてはくれないのかい、グレモリー?」
地上一〇〇メートル。
風が吹きすさぶビッグベンの頂塔の上で、その赤毛の男が言った。はだけたシャツ。腹までのぞく肌。耳には無数のピアス。
よくは見えない。
文字だって指の先でなぞって読む。それでもそれくらいは見て取れる。だらしのない。グレモリーのクリス・ランバートは思った。そして。
「また体を換えたのか、アスタロト」
西の恐怖公。
気まぐれなアスタロト。
「そうだったか? おまえと最後に会ったのは、前の体の時だったか?」
アスタロトは今さらのように自分の体を眺めている。
「まあ、どうせ飽きたんだろうさ。それよりその仮面だ。ひょっとしてだが、その仮面はおれがつけた傷がまだ治っていないってのか?」
「治っていない」
「そいつは悪かったな!」
アスタロトは声をあげて笑った。
「おまえも馬鹿だな。だったらおまえもさっさと体を換えりゃあいいんだ!」
この男のように。
服を着替えるように体を入れ替えることができるなら。
「ああ、無理か。おまえら程度のヴァンパイアには」
ヴァンパイアが一度選んだ体は変えられない。肉体の隅々まで浸透し、そして縛られるのだ。この体の生命力のぎりぎりまで共存するしかない。
だが、それでなんの不都合がある。
彷徨うだけの霧のような存在だった私が、クリス・ランバートという人生を歩むことができたのだ。
この傷をふくめ。
出会う人々を含め。
「まあいいや。おれがロンドンに来たのはおまえに会うためでも、くだらない自慢をするためでもない。なあ、フルカスが散ったよな?」
やはりこの話題だ。
ソロモンの七二柱が散った。それは私たちの世界では大きな出来事なのだ。やっかいなことにフルカスは長くロンドンに腰を据えていた。それを知っている仲間も多い。こうしてこんな男までやってくる。
「そのようだ」
「このロンドンで散ったんだよな?」
「たぶん」
「おまえか?」
「私はおまえたちに興味がない」
はっ!とアスタロトは笑った。
「そうだったよな! じゃあ誰がやったんだ?」
「ヌナガワ・シズカ」
「おいおい」
アスタロトは顔をしかめた。
「からかうなら時と相手を選ぶんだ。おれは真面目に聞いているんだぜ」
「文句なら使徒座に言え。これは使徒座の情報だ」
アスタロトは考え込んだ。
「あのおっかねえじゃじゃ馬が復活したって?」
「私たちに復活はない。一度散ればそれで終わりだ」
散ったヴァンパイアは、自分を生んでくれたヴァンパイアの元に還るという。
七二柱のように始祖カノンが直接生んだヴァンパイアをアポクリファと呼び、アポクリファが生んだヴァンパイアはスードエピグラファと呼ばれる。私たちソロモンの七二柱はアポクリファだ。散れば始祖キングのもとに還る。そこで新たなヴァンパイアに生まれ変わり、また彼のもとを離れていくのだという。それは新たなヴァンパイアであって私ではない。
私の記憶は千年もない。
それなのにグレモリーの名を与えられているのは、カノンにそう呼ばれたからだ。私の前にどんなグレモリーがいたのか、私自身がそうなのか、私にはわからない。ヴァンパイアの総量は変わらない。そう主張する者もいる。
「ふうん。じゃあ、ヌナガワ・シズカを名乗るだけの別人か?」
「別人であるのだけは間違いない」
「なぜわかる」
「そのヌナガワ・シズカはヴァンパイアではない。聖ゲオルギウス十字軍の騎士がそう確認している」
「なんだって?」
「ただの人間の少女が近接格闘でフルカスを斬った。使徒座の情報ではそうなっている」
「おいおい、それを早く言えよ!」
アスタロトの顔が輝いている。
まるで新しいオモチャをみつけた子供のように。
「ヌナガワ・シズカがこのロンドンにいて、そいつがフルカスを斬った。それもそいつはただの人間だっていうのかい! おもしろい! おもしろいじゃないか!」
飽きやすい男だが、どうやらしばらくは時間を稼げそうだ。
クリス・ランバートは思った。
そのアスタロトの眼がクリスへと動いた。
「逃げるな」
アスタロトが言った。
「おれから逃げられると思うな。もし逃げられたとおまえが思っても、それはおれが逃がしてやっているだけのことなんだぜ」
アスタロトが足を踏み出した。
そこがまるでただの段差であるかのように。
「忘れるな。おまえはおれの女だ、グレモリー」
地上一〇〇メートルの頂塔から無造作に飛び降り、鐘楼を蹴り、アスタロトは地上へと落ちていく。
どおん!
空から人が降ってきた。
行き交う人々は仰天している。降ってきた青年と空を交互に見ては目を丸めている。青年は何事もなかったように軽快に歩き始めた。そしてまたがったのは、巨大な蒸気二輪だ。
大量の蒸気が噴き出す。
遠巻きに見ていた人々に蒸気が襲いかかる。アクセルをふかしクラッチを当てる。限界までマシンを抑えつけブレーキを解除。
蒸気二輪は爆音をたて飛び出していった。
「あいつ、ヴァンパイアが目立つことばかりして……!」
頂塔から見下ろし、クリス・ランバートが苦々しく言った。
あの男は考えたことはないのだろうか。キングが散った。
それを怖ろしいとは感じないのだろうか。
スードエピグラファが散ればアポクリファのもとに還る。アポクリファが散ればカノンのもとに還る。キングがいない今、私たち七二柱――アポクリファには還るべきところがないのだ。
あのかわいそうなフルカスはどこに行くのだろう。
自我もなく、なにも考えることもなく、ただ永遠を彷徨うのだろうか。
私たちはどこから来て、どこに行くのか。
残すものもなく。
残す思いもなく。
今は還るところもない。
ふと浮かんだのは、あの夜の公園だ。
クリス・ランバート――七二柱のグレモリーの私の手を握り締め、泣き、とうとうと夢を語ったあの男だ。
この頃思うよりは、たぶん悪くなかった。
二〇年、この私でも夢を見ることができた。
クリス・ランバートの仮面の下から流れ落ちていったのは涙だ。久しく記憶にない。クリス・ランバートは思った。
※カノン:正典。
※アポクリファ:外典。
※スードエピグラファ:偽典。
■登場人物紹介
奴奈川 静 (ぬながわ しずか)
戊辰戦争の生き残り。新たなる戦地を与えられ、魔都ロンドンに渡る。クールを気取っているが、実はすちゃらか乙女。愛刀は木花咲耶姫と石長姫。
奴奈川大社の斎姫であり、正四位の階位を持つ。
ロジャー・アルフォード
英国軍特務機関六課、アルフォード班(掃除屋)のトップ。海軍少佐。極めて長身で、強面。
ヘンリー・ローレンス
アルフォード海軍少佐の副官。童顔だが、階級は海尉補(中尉)。
メアリ・マンスフィールド
侯爵。六課の庇護者。別名をM、もしくは鉄のメアリ。年齢不詳。
英国海軍の名門であるマンスフィールド家の現当主。爵位はやがて弟に継がせることになっている。本当は名前はもっと長ったらしいのだが、そちらは出さない。
レベッカ・セイヤーズ
静の音楽院の友人。下宿も同じ。実は実力者。Aオケの次席ヴァイオリン。
ハウスマザー
静が暮らす下宿、学生アパートの管理人。実は軍特務機関のエージェント。




