魔都
仏に逢えば仏を殺せという。
祖に逢えば祖を殺せという。
私はなにに逢い、なにを殺すのだろう。この煌びやかなガス灯の街で。
一九世紀末。
ヴィクトリア女王治世のもと、連合王国は空前の繁栄の中にあった。
深夜の北ロンドン高級住宅街。銀行家ジェイムズ・ディクソン氏の書斎にはまだ明かりが灯っている。
「旦那さま、わたくしはこれで。いつでもお呼びください」
「ああ、ご苦労さん。おやすみ」
ディクソン氏は、この広いタウンハウスに従僕と二人だけで住んでいる。食事や掃除は通いのメイドで済ませているようだ。良くも悪くも評判はあまり聞かない。
――秘密主義。
なのだという。
従僕がランプを手に廊下を歩いていると、背後から手が伸び従僕の口をふさいだ。手から落ちかけたランプは別の男が受け取る。その横をさらに数人の男たちが足音も立てずにすり抜けていく。よく訓練されている。
書斎ではディクソン氏がまだ仕事に没頭している。
積みあがった書類に次々と目を通し、ペンを走らせる。
書斎のドアが乱暴に開け放たれた。飛び込んできたのは三人の男たち。手には拳銃。
「軍特務五課だ。ジェイムズ・ディクソンだな。あなたを逮捕する」
中央のまだ若い青年が言った。
「見ての通り仕事中だ。あとにしてくれ」
ディクソン氏は書類に目を落としたままだ。
「ジェイムズ・ディクソン、あなたを――」
「そうだ、私がジェイムズ・ディクソンだ。なんの容疑なのだね」
「業務上横領、特別背任、贈賄、そして――殺人およびスパイ容疑」
「ああ。それで警視庁ではなく、軍特務機関五課か」
そしてディクソン氏は、顔も上げずに雷鳴のような声を張り上げた。
「バクスター!」
エージェントたちは、ぎょっとすくみ上がった。
「なにをしていた! 仕事中のおれを煩わせるな、バクスター!」
「申し訳ございません、旦那さま」
背後から声がして、エージェントたちはざっと拳銃を向けた。
さきほど確保したはずの従僕がランプもなく闇の中に立っている。従僕は中央の若い青年の腕を掴むと、ドアの向こうへと放り投げた。まるで猫でも放るように無造作に。更にもうひとり。小柄、痩身。その貧弱な体格からは想像もつかない怪力だ。
パン! パン!パン!パン!
残されたエージェントが拳銃を撃った。警告する余裕はない。しかし全弾命中したはずなのに従僕は平気だ。何事もなかったようにエージェントに迫り、片手でエージェントの首を掴み振り回した。
ボキッ!
不気味な音がして、エージェントの首が折れた。
従僕はそのまま、死体となったエージェントもドアの向こうに放り投げた。
「おまえがここまでの侵入を許すとはな。老いたか、バクスター」
「面目次第もございません。お叱りはあとで。失礼いたします」
書斎のドアが閉められた。
ジェイムズ・ディクソン氏は書類に目を戻した。
「アストン少尉以下、突入しました」
「うむ」
没落貴族から買い取ったというディクソン邸を見上げ、軍特務機関五課ベンジャミン・ウィルソン陸軍大尉はぶるっと体を震わせた。緊張じゃない。この冷える秋のロンドンの夜のせいだ。
「悪夢だ。ああ、悪夢だ」
闇の中から声がした。
はっと振り返るウィルソン陸軍大尉の前に、極めて長身で肩幅の広い男がのっそりと姿を現した。
「六課、アルフォード海軍少佐……」
ロジャー・アルフォード海軍少佐。
軍特務機関の名物少佐だ。決して背が低いわけではない大尉が見上げる位置に、火のついていない葉巻をくわえた傲岸不遜な顔がある。
「この世でいちばんの悪夢とは、無能な働き者が身内にいることだ。そうだろう、ベンジャミン・ウィルソン陸軍大尉」
「五課が先にディクソン氏を逮捕するのが気に入らないのですな、アルフォード海軍少佐」
「ああ、気に入らんな。ジェイムズ・ディクソンはな、おれたちがずっと追っていた標的だ。おれたちが慎重に。予断を許さず。
――短慮を慎みッ!
多角的かつ巨細に情報を重ね!
検討に検討を重ね!
幾つもの決裁を仰ぎ!
愛妻のメシも食えない毎日に耐え、追い続け追い詰めていた標的を、あんたらは無思慮無分別にも横獲りしようとした! おれはな、実に不愉快だぞ、陸軍大尉!」
「あんた、独身でしょう」
「ものの例えだ。絡むな、無能」
「言葉が過ぎませんか、海軍少佐。五課もずっとディクソン氏を追っていたのです。彼は大物だから、それこそ慎重に――」
「つまらん泣き言はいいから、状況を言え」
「……五人を屋敷に突入させている。そろそろ氏を確保している頃でしょう」
少佐は、いまいましげに鼻を鳴らした。
「五人」
「だから言ったじゃないか! 我々も慎重にやっているんだ。万が一にも逃亡されないように――」
「おれはな、五人じゃ少なすぎると言ってるんだ。バックアップは。ここに何人揃えた。機関銃くらいは用意したんだろうな」
「機関銃だと!? 軍の秘密兵器じゃないか、あんたは何を言っているんだ!」
パン! パン!パン!パン!
石の壁を通して、乾いた銃声が聞こえてきた。ウィルソン陸軍大尉とアルフォード海軍少佐はディクソン邸を見上げた。
「シズカ」
陸軍大尉はそれまで気づかなかった。
少佐の背後にもう一人いる。闇の中でじっと気配を消していたのだ。
「もう間に合わないかもしれん。それでも行ってくれるか」
「了解した」
澄んだ声。少女だ。
ガス灯の灯りの中に浮かび上がったのは、陸軍大尉も万博で見た事がある異国のドレス――キモノだ。足には編み上げブーツ。長い髪を頭の後ろで縛って下ろしている。手には鞘に収められた長剣。
日本刀である。
少女はディクソン邸へと歩きはじめた。
「お、おい。海軍少佐、彼女は何者だ!」
「軍の機密だ。三下には教えられんね」
「聞いただろう、銃声だ。中では争いが起きているのだ。そこに一般人を突入させるのか、それも少女を!」
「あいつは特別なんだ」
アルフォード海軍少佐が言った。
「おれたちの誰よりも迅速に、確実に、完璧に、あいつは掃除をしてくれる。この世の東の果ての国から、そのためにやって来たお姫さまなのさ」
おれは逃げているのか!
ジョン・アストン陸軍少尉は闇の中を走っている。
目の前で部下二人を殺された。それなのにおれは逃げ出してしまったのか! 部下を捨て、たったひとりでおれは逃げているのか! ちくしょう! こんちくしょう!
異質だ。
この夜、この屋敷、顔も上げない主人、小柄で痩せっぽちの従僕、なんてみんな異質なんだ――!
「うわあああ!」
闇の中から突然人影が現れ、アストン陸軍少尉は拳銃を向けた。
閃光が走った。
とん、という小さな衝撃を少尉は手に感じた。拳銃の銃身がなくなっている。壁に当たり甲高い音を立てたのは、斬り飛ばされた銃身だ。
「ベンジャミン・ウィルソン陸軍大尉の部下か」
人影が言った。
「女!?」
「行け。私には人間と――の区別はつかない。ここから先は躊躇なく斬るぞ、ジャマになるようならおまえもだ」
今、彼女はなんと言った。
人間と、なにの区別がつかないと言ったんだ。
そう言ったのか。ヴァンパイアと彼女は言ったのか!?
突然、少女がアストン陸軍少尉の腕を掴んで引っ張り、後へと放った。この少女もすごい力だ。陸軍少尉は尻餅をついてしまった。
どおん!
アストン陸軍少尉が立っていたところの床板が激しくめくれ上がった。悠然と拳を引き抜いたのは従僕だ。
拳で床板を貫いたのか!
今、その拳でおれを潰そうとしたのか!
アストン陸軍少尉は、ぞっと震え上がってしまう。
「この頃の人間はやっかいだ。銃にガス灯。こうして集団で忍び寄る知恵まで覚えた。つまらなくなったものだ。良き時代は終わった。私と旦那さまの美しい時代は終わってしまったのだ」
ゆらり。
従僕が体を起こした。
やはり小柄だ。少女と大して変わらない。それなのに。
「おや、あんた、今までの男たちとちがうね。これはどうしたことだい。あんた女の子じゃないか!」
「逃げろ!」
アストン陸軍少尉が叫んだ。
「ぼくはジョン・アストン陸軍少尉! 君も逃げるんだ! それは人間じゃない! かれは異常だ、異質だ!」
その声に少女と従僕が同時にくるっと顔を向け、アストン陸軍少尉はびくりと体をすくめた。
「あちらのお仲間で?」
従僕が言った。
「なるべく助けるようには言われている。私もそうしたいとは思う」
少女が言った。
「だが私はヴァンパイア掃除のために雇われている。すべてにそれが優先する」
この時、書斎のディクソン氏のペンがピタリと止まった。
ディクソン氏は凄みのある笑いを浮かべた。
「ククク……」
従僕は聞き触りのある含み笑いを上げている。
「そんなか細い女性であるあなたが、ヴァンパイア狩り。異国の衣装ではったりを利かせたつもりかも知れないが、残念でしたな、わたくしどもにはわかるのですよ。あなたがただの人間だってことがね」
「そうらしいね。だからさ、さっさと確認させてくれないか。ただの人間の私にはわからないんだ」
「なにをです」
「はやくおまえたちの目を見せろよ」
少女が言った。
「斬ってみたら、馬鹿力なだけの人間でしたじゃ気分が悪い」
従僕は目を剥いた。
「――なんと育ちの悪いお嬢さんだ!」
昂ぶりとともにその両眼が黄金色を帯びる。
ああ、あの目だ。
アストン陸軍少尉は思った。
片手で首をねじ切った。ひと踏みで肋骨をすべて折り破り、心臓を潰した。拳銃を向けても避けようともしない。当たっても効かない。目だけが異常で異質な殺戮のなかで光っていた。
彼は魔物だ。
そうだ、あれは魔物だ。
「あいにく私は領主の娘でね、育ちはいいんだ。ただ、男に混じって戦争に従軍して少し荒んだかもしれないな」
少女がかちりと鯉口を切った。
「ヴァンパイアを確認。奴奈川静、おまえを斬る」