陰と陽
死の感覚は死んだ時にしかわからない。
そもそも感じる事が出来るのかすらわからない。
だがあえて例えるならば、それは『海』
暗黒の中、五感全てが閉ざされた完全なる無。
微かに感じるのは沈んでいるような浮遊感だけ。
ならば何故、無ではなく海と感じたのか。
何も視えない、視えるはずもない暗闇の中、確かにそれを感じた。
脱力の極みに至っている手を誰かが掴み、引っ張り上げようとする感覚。
「何……だ……」
その時、自我が戻った。
心臓の鼓動が聞こえる。
酸素が喉を通る感覚がある。
微かに木の匂いもする。
『』
「何故だか……懐かしい」
手の正体を知ろうとする前に、あらゆるストレスが脳内へと一気に雪崩れ込んで来た。
足の裏が寒い。
疲労感が重く乗しかかる。
腹が減った。
腹が減った。
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「……うぅ」
脳が体に起床指令を出す。
だが九十五超えの老人でありながら、夏休み中の子供の如く起きる事に反発し、布団を頭の方へと持ってこようとした。
「! こ、腰がっ……」
この男、名を【葉昏】という。
三年前までは『一刀開闢流』の師範を務め、その腕は肉体の衰えと逆行し卓越。常識には捕らわれず、自由な考えを持つ一方、常に個人を尊重していた。
容姿は目に見えたご老体でありながらも、どこか若々しい。
髪も髭も黒が全く無い白妙。
腰を曲げることなく、背中に一本の筋が通っているほど真っすぐな立ち振る舞いは、多くの老人の理想の姿と言える。
腰に手を当て、姿勢を崩す。
ぎっくり腰ではない、筋肉痛による全身の痛みである。老体にとって、全身の痛みの中でも特に腰に掛かる痛みに敏感なだけである。その証拠に、痛みの中にありながらも、周りを見渡して、自分のいる場所の把握を図っている。
「ここは……宿、か?」
「ご名答。ここは東の方の村だぜおっさん」
「! 貴様!!」
この男、名を【出雲】という。
十数年前からその名は、剣の道を進む者ならば心の片隅に置いて置かねばならない程の危険人物として広く伝わっている。
その戦歴は様々で、戦場へ赴いた時は一騎当千の活躍を見せ、辺りには屍肉しか残らないという噂。
ある時は名のある無いに関わらず、片っ端から道場破りをしたという噂。またある時は国の懐刀相手に辻斬り。
戦ある所にフラリと現れる姿は雲。
敵味方問わず蹂躙する様子は鬼。
出雲の名を言う事すらを恐れた民衆は、二つの似た存在を合わせ『鬼雲』と呼ぶようになった。
戦いにおいての出雲の話は事欠かないが、私生活等の情報を知る者は誰一人としていない。
肉体は老人の葉昏よりもガリガリで細身である。
刀を持つ腕も皮が骨に張り付き、艶も水気もない。
餓死寸前の浮浪者のような姿ではあるが、この状態が出雲の平常時の姿である。
「鬼雲。いや、出雲!」
「これはこれは。一介の侍である私の名を知っているとはなんと名誉なことか」
「一介の侍? 冗談は休み休み言え。開闢流門派の人間も、貴様の被害に遭っている。いつかこの刀で斬ってやろうと思っていたところだ!」
「ハハ! それはそれは。……なら、ここで決着をつけるか?」
達人同士、たとえ寝床から起きた瞬間であろうと、不治の病にかかっている最中で在ろうと、戦闘のオンオフを切り替える事は容易い。一秒にも満たない、穏やかな空気と戦闘が始まる鈍重な空気の境目。まるで狙ったかのように部屋の扉が勢いよく開かれた。
「検診の時間ですよー、って、起きてる!!」
扉をガラリと開けておばさんが入って来た。
完全に場の空気が入れ替わる寸前で、しかも完全な一般人的な台詞に、鈍重になりつつあった空気が霧散した。
「もぉ〜アンタ達大丈夫? 色々聞きたい事、確認したい事もあるだろうけど、無理に体起こさないで、今は安静に寝ていなさいって! ほらほら!! あっそうだわ、先生呼んでこないと!! 先生ー、先生ーー!!!!」
二人の状況などお構いなしに、一人で騒ぎ一人で思いだし、一人で部屋から出て行った。再び戦うの空気に切り替えるのは容易だが、おばさんという異物が入り込み、幸か不幸か二人は状況を理解しようという思考になった。
「白けるな……なぁおっさん。ここにいる理由、覚えてるか?」
「覚えとらん。覚えとらんが……意識が途切れる寸前、何十年か振りに怒りが爆発した記憶はある。だが、何に対する怒りだったのかが思い出せん」
「あの場にいたの俺とおっさんだけ。なら何かしたんじゃない? 俺は怒ってた事すら覚えてないけど」
あの時の行動は特殊な反射行動みたいなものだ。
本来ならばどちらかの意識が揺らぐその一瞬まで待つという静の居合。自然の音など完全に遮断し、ただ相手の発する全てに意識を集中して攻撃する。いわゆる『一対一の居合空間』である。
そんな空間内に騒音を発し、尚且つ完全に無防備な何者かが介入してきた。二人は自分達以外の介入はないと考えている為、第三者のことまで意識に入れてはいない。
そのままその第三者は二人の居合空間に入ってしまい、反射的に二人は揺らいでいる第三者に切りかかってしまったのである。
そんな出来事があった事すら二人は覚えてはいないし、想像もしてはいない。あの場所には決して、二人以外の存在が立ち入れない。始めて来た土地だというのに、二人は確信が持って言える。
「……数にしてニ、三十といった所か」
「一体何の様だろうな。田舎だから、侍が珍しいのかねぇ?」
突拍子もない話題。しかしその意味も、ガラガラと開かれた扉の先に答えはあった。
二、三十の村人が、本来扉の先に広がっているはずの廊下の景色を埋め尽くしている。タネの知っている手品程下らないものはないが、先頭に立っている存在は想定外だった。
「い、生きてた!」
普通の衣服に身を包み、年齢は十歳程度のお多福の面を付けた童。そんな人物が村人を代表して第一声を上げれば、多少なりとも反応せざるを得ない。