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あめふりさんぽ  作者: 姫乃若菜
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お仕事辞めようかな

 次の朝、五月が出勤すると、トイレから女性従業員達が騒いでいる声が聞こえた。五月は足を止め、トイレをのぞいた。同僚が五月に気づいて声をかける。


「あ、五月さん、どう思います?愛子さん、セクハラを告発する署名活動はじめましたよ。」


 たたみかけるようにもう一人の従業員が続ける。


「ねえ、五月さん、愛子さんからセクハラの件、相談されたんでしょ?怒ってましたよ。五月さんは北島さんをかばってちっとも相談に乗ってくれなかったって。五月さんと北島さん、なんかあるんじゃないかって。」


 五月はむっとした。


「何バカなこと言ってんの。そんなわけないでしょ。」


 そして、この女性の手段の後方にいたやや大人しめの女性が、何かに気づいたように声を上げた。


「セクハラっていえば・・・ちょっと小耳に挟んだんだけど、このビルの女子トイレの様子が社内のネットで流れてるって。会社の2ちゃんねるで盛り上がってるらしい・・・。」

「えー!盗撮されてるってこと?」


 女性達はあたりをきょろきょろ見回しながら、一人、また一人とトイレから出て行った。盗撮。そうね。そんなこともあったわね。五月は天井を見回し、洗面台を両手で思い切り叩いてからトイレを出た。


 夜、帰宅後、上着を脱ぎ捨てエプロンをつけて炊事をしている五月のところへ、岩夫がやってきた。


「ちょっといいか?」


 岩夫はなんとも言いにくそうに口をもごもごと動かした。


「あの、おばあちゃんの財布のことなんだけどさ。どうも、ノゾムくんが盗んだみたいなんだよ。証拠はねえんだけどな。ほら、前にもそんなことあったろ?」


 五月は思い出した。ノゾムが小学五年生の頃、祖父母の部屋に置いてあったお金を拝借した。大きな災害や強盗があって一人ぼっちになったときの準備金として。いかにも小学生のやらかしそうなことだ。しかし、今の希はどうだろう。


ノゾムがそんなことするわけないでしょ?お金を欲しがる子じゃないもの」

「え?何?よく聞こえない。」

「この前もお財布がないって騒いだけど、結局どっかからお財布が出てきたでしょ?」


 岩夫は耳が遠いから一回行っただけでは伝わらない。


「え?よく聞こえない。」

「とにかく、希がそんなことするわけないって言ってるの。」

「まあ、親にしてみればなあ、うちの子に限って、と思うものだろうけどさ。念のため聞いてくれよ。」

「・・・わかった。」


 五月は希の部屋のドアをそっと開けた。希は机に向かって勉強している。ノートを滑る鉛筆の音だけが響いていた。


「ねえ、ちょっといい?」

「なに?」

「おばあちゃんがね、希がお財布を盗ったって騒いでるんだって。」

「えー?また?これで何回目?」


 希は大きく伸びをしながらぼやいた。


「ちょっといい加減にしてよ。オレ今、受験生だよ。オレがそんなことするわけないじゃん!オレ食い物さえあればお金なんかいらないもん。盗る理由ないじゃん。無人島でも生きてく自信あるよ。」

「絶対に盗ってないよね?」

「当たり前でしょ!」

「わかった。」


 わかっている。希はそんなことをする子じゃない。親だからそう思うのではなく、希の性質を知っているから。五月が階下へ行くと岩夫が新聞を手にトイレからちょうど出てきたところだった。五月は岩夫を呼び止めた。


「おじいちゃん、あのね、お財布のことだけど、希は盗ってないって。」


 岩夫はばつが悪そうに苦笑いを浮かべた。


「ああ、財布なら見つかったよ。」

「え?どこにあったの?」

「布団の間から。」

「布団の間?そういえばこの間もそうだったよね。今度から財布がないときは希を疑うんじゃなくて、まず布団を疑ってよ。」


 翌朝もまた、職場の同僚達が、女子トイレに集まっていた。トイレの壁に掲示物が張り出されていたからだ。掲示物には「女性トイレで不審者あり」と書かれている。昨晩、警備員がこのトイレを巡回した時、不審な男が現れ、逃走したというものだった。チャイムが鳴り、掲示物を見ていた女性達はそそくさと職場へ急いだ。五月はなんとなく一人残り、盗撮カメラがありそうなあたりに向かって口だけで「バーカ」とつぶやいた。


 五月の職場はチームで仕事をしてはいるが、それぞれがそれぞれの担当の仕事に追われ、ひたすらパソコン作業をしている日も多い。外は雨。静かな部屋でキーボードをたたく音が響く。たまに、ため息やら独り言が聞こえたりもする。五月は集中できずにいた。なぜ母の知恵は長男のノゾムが財布を盗んだと思い込んだのか。五月はぼんやりしながらパソコンで検索しはじめた。認知症...検索。パソコンの画面には、認知症の症状の記事が表示された。そしてその中から「盗難妄想」という言葉が目に留まる。五月のデスクの電話が鳴った。


「はい。中村です。」


 五月あてにかかってきた電話は、営業の山川からだった。


「山川です。先日お話しした、水源林保存館の紹介ビデオの制作が決まりそうです。詳細はメールで送りましたので確認をお願いします。」

「了解です。納期はいつになりそうですか?」

「今年の7月初旬に保存館が完成する予定ですから、そうですね・・・最低でも5月初旬には一回目のレビューをしないと間に合わないでしょうね。手直しも入るでしょうし。大丈夫ですか?」

「クライアントが要求するクオリティにもよりますが。最前を尽します。」

「すみません。五月さんにはいつも無理なお願いばかりで。」

「あ、ただ・・・もしかしたら・・・。」

「はい。何ですか?」

「いえ。何でもないです。早めに打ち合わせしたいのですが。」

「わかりました。よろしくお願いします。」


 五月は電話を切った所に、背後から愛子がやってくた。


「五月さん、これ、署名してください。」


 愛子が五月のデスクに紙を置く。「セクハラおやじ北島課長を追い出そう運動!」と記された文書。何人かの署名がある。五月は文書を眺めながら赤ペンをとり、文章の校正を始める。


「(ペンで指しながら)まず、このタイトルはダメ。個人名はださないで。それに、この表現おやじもダメ。それこそ、これ(ペンで「セクハラ」の文字を指し)でしょ。」

「なるほど、じゃ、どんなタイトルがいいですかね。」

「そうねえ。こんな感じかな。」


 五月が赤ペンでタイトルを訂正する。「職場内におけるセクシャル・ハラスメント実態調査の要望書」と書き直す。


「わあ、すごい。会社っぽい書き方ですね。あ、本文の方も直していただけませんか。あと、署名の方も・・・よろしくお願いします。」

「・・・。これ、とりあえず、私に預からせて。」


 数日後、営業の山川が水源林保存館の紹介ビデオの件で五月達のところにやってきた。狭い会議室では山川、愛子、五月が資料を囲んでいる。山川と五月が無言で考え込んでいる姿を愛子はおもしろそうに見ていた。先ほどからこのメンバーが考えていたのは、水が地球上で循環しているイメージ図だった。大気から水が生まれ、雨となって大地に降り注ぎ、川となり、海に流れ、海から蒸発した水が大気に戻る。それを表す概念図だ。


 五月が突然何か思いついたように、資料の裏紙にイラストを描き始めた。ペンが走る音。五月はいつもこうやって思いついたイメージをザックリしたイラストで書き起こすのが得意だ。


「こんな感じですか?」

「ああ。いいですね。(大気を指して)汚染された雨を(森林を指して)森と森の土壌がきれいにしているんです。森がなくなったら生態系全体に悪影響があるってことをアニメーションで表現していただきたいのですが。」

「わかりました。やってみます。(愛子に向かって)わかった?」

「任せてください!」


 愛子はフワフワと浮ついているように見えるが、実はイラスト加工はずば抜けてうまい。


 愛子はイラスト制作に取り掛か利始めると決まって机の上がお菓子だらけになる。甘いものがないと頭が回らないそうだ。愛子は甘いドーナツのバニラの香りをまとって五月のところへやってきた。椅子に座ったまま移動してきて、五月の椅子にイタズラっぽくぶつけてくるのがいつものやり方。


「五月さん、作ってみました!見てもらえます?」


 五月もどれどれと笑いながら、今度は五月が椅子を移動して愛子の席のパソコンを覗き込んだ。思わず五月は吹き出した。水の妖精が何とも愛子らしいキャラクターだったからだ。愛子も一緒に笑う。周辺のものも面白がって画面を覗きにやってきた。その中には課長の北島や深野も。もっとこうしたほうがいいとか、こんな描き方もあるぞと、言い出す者が出てきたりするんだ。良いアイディアはこうやって生み出される、と五月は思う。セクハラなんて弊害はあっても、仲良く活気ある職場はやっぱり楽しい。


 その晩、うっかり帰宅が遅くなった。ちょっとのぼせた頭。仕事のことをかき消すように一歩一歩坂道を登る。坂を上がりきれば家は近い。懐中電灯を灯しながら犬の散歩をする人とすれ違った。自宅の玄関に明かりが灯っている。いつもの夜の景色だ。


 玄関に入るととたんに揚げ物の匂いがした。親世帯の台所をのぞくと、知恵が夕飯の支度をしている。油で何かを揚げていた。今日は知恵が何か作ってくれている、そう思うとなんだかほっとした。


「ごめん。遅くなっちゃった。今日はおばあちゃんが作ってくれてるんだね。」


 とは、言ったものの、見れば、食材が散乱している。ちゃんとつくれているのだろうか。そして、テービルに目をやる。そこには、ドロドロのサツマイモが乱暴によそられているドンブリがぽつんとあった。知恵はぶっきらぼうに言った。


「今、唐揚つくってるの。」


 五月は知恵が揚げている鍋を覗き込んだ。鍋の中には細切れの肉がグチャッとくっつきあって浮いている。残念ながら、唐揚げには見えなかった。そこへ、ノゾムが塾から帰ってきた。いつものように親世帯の食卓につく。テーブルには小間切れの唐揚げがまるでかきあげのような状態で盛られた。希はしばし絶句したあと、五月に小声で話しかける。


「母さん、何これ?」


 五月は顔をしかめて言う。


「黙って食べなさい。」


 箸をとろうとしない希に気がついた知恵が言った。


「あんた、唐揚げ好きだったじゃない?」

「ごめん、おばあちゃん。今日は疲れたから、先に風呂入る。悪いけど二階で夕飯食べるよ。」


 知恵はいぶかしげに言った。


「そーおう?」


 そう。どうせ希は二階に持って行ったって今晩の知恵の料理は食べないだろう。祖母を慮って無理して食べるほど彼は大人ではない。いや、咄嗟にお風呂に入ってから...と言っただけでも機転を利かせている。むしろ褒めてやるべきかもしれない。


 深夜になった。五月はベッドサイドでパソコンを開く。パソコンの画面が青白く光る。ポツポツと文章を打ち込む五月。


<tweet>ドロドロのさつまいも。母は認知症の初期だ。もう前みたいに料理ができない。母がいてくれたから仕事を続けてこられた。母娘で二人三脚の日々。感謝している。そろそろ恩返ししないと。今の母を受け入れてちゃんと向き合いたい。仕事は減らせないし。辞めるしかないかな。</tweet>

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