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あめふりさんぽ  作者: 姫乃若菜
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散歩のはじまり

 都会の空だって空は空だ。五月サツキはビル越しの青空を見遣った。街がこの地の全てを覆っているように見えるけれども、世界の半分は空だ。


 朝の横断歩道前。通勤途中の幾人もの男女が信号待ちをしている。その中に中村五月ナカムラサツキがいる。五月は四十二歳。五月の隣に同僚の前田愛子マエダアイコがやってくる。愛子は五月のチームで働く派遣社員でまだ二十代半ば。五月がとうに捨ててしまった可憐な雰囲気を身に纏っている。


五月サツキさん、おはようございます。ちょっと聞いてくださいよ。 昨日、五月さんが先に帰ったあと、北島課長ったら、ひどかったんですよ。」


 愛子の話だと、夕べの飲み会で、上司の北島がひどかったらしい。何がひどいかといえば、セクハラだ。愛子の隣の席に移ってきて、ベタベタと触りまくったそうだ。


「私は黙ってなんかいませんよ。このまま泣き寝入りなんてしません。私、他にも被害者を見つけたんです。やりましょう、五月さん、絶対に勝てますよ。」


 『そんなことして何になるのよ。』


 信号が青に変わった。何事もなかったように早足で歩き出す五月を愛子が追いかける。


 そんなことして何になるのよ。五月は心の中で繰り返した。


 五月サツキの職場は小さなコンテンツ制作会社だ。雑居ビルの6階にある。飾り気のない無機質なオフィス。五月はここで、Webクリエイターと共に、さまざまなデジタルコンテンツを制作している。たとえば製品の取り扱いを紹介する動画や、博物館で上映されるアニメーション、企業の教育用コンテンツなどだ。


 五月は愛子アイコが席を外したのを見計らって北島明彦キタジマアキヒコの席へ向かった。北島は初老の男性で、例のセクハラ課長だ。五月は北島に小さくつぶやく。


「またやらかしたらしいですね。」

「ああ・・・。なんか久しぶりに酔っぱらっちゃって。覚えてないんだけど。深野君にも言われたよ。すまん。」

「私に謝ってどうするんですか。前田さん。訴えるって言ってますよ。どうするんですか。」

「そこをなんとかなだめてよ。あんたチームリーダなんだから。ね?頼むよ。」


 電話が鳴った。深野慎二フカノシンジが電話を取りついだ。深野も五月と同じチームにいて、主に映像の編集を行なっている。ひとたび編集作業が始まると編集室にこもってしまうが、最近は映像コンテンツの依頼が減り、今日のように電話番をすることが増えている。三十代前半で、五月には「独身を通すつもりだ」と言っていた。人と距離をおくタイプだ。べったりと誰かと過ごす時間など、想像できないのかもしれない。


五月サツキさん、ご自宅から電話です。」


 五月は北島を睨みつけながら席に戻り電話をとる。


「もしもし、どうかした?」


 電話の相手は森山岩夫モリヤマイワオ五月サツキの父親である。八十三歳。戦争時代を満州で過ごし、過酷な状況で生き延びて帰還した経歴を持つ。


「ああ、五月サツキか?あのさあ、おばあちゃんの財布しらねえか?」

「知るわけないじゃない。またなくしたの?」

「ああ、それがな、いや、とにかく困ってんだ。すぐ帰ってきてくれよ。」


 五月サツキは小さくため息をついた。まだ仕事が残っている。後ろ髪を引かれながら、五月は会社を後にした。


 五月サツキの家族が住む家は二世帯住宅だ。車が一台。表札が二つ。「森山」は親世帯、「中村」は娘である五月の世帯の表札となる。五月は門を開け、玄関の脇に置いてあるケイタリングボックスを抱えて玄関に入る。一階が両親の居室で、二階が子世帯の居室。キッチンは一階、二階、それぞれにあり、風呂場と玄関を共有している。家に入るなり、両親が言い争っている声が聞こえてきた。五月はそっと両親の居室をのぞく。

  部屋では、五月の次男で小学三年生のミツルがひざを抱えてテレビを見ている。その横で両親が何やら言い争っている。五月は黙ってそのまま二階へ上がった


 五月はスーツの上着を脱ぎ捨て、エプロンを付けた。そこへ中学三年生の長男、ノゾムが帰宅する。高校受験生だ。今晩はすぐに塾に行かなければならない。


「腹減ったー。飯まだ?」

「ごめん。これからつくる」

「マジで。おばあちゃん、またおかしくなっちゃった?」


 希の祖母、つまり五月の母である知恵ちえは、二世帯同居をはじめて以来、ずっと子世帯の家族の分も夕飯を作ってくれた。知恵が家事や育児を肩代わりしてくれていたおかげで、五月は仕事に没頭することができたのだ。

 家族六人分の食事のメニューは好みが分かれて喧嘩になるし、買い物が大変だからと、ずっと食材のケイタリングを利用している。

 しかし、このところそれがうまくいかくいかない。炊事の途中で、何を作っているのかわからなくなって、スーパーへ駆け込み、出来合いのおかずを買っては食卓に並べることが多くなった。それならまだいい。今晩はどういうわけか、食材に手付かずのままだ。勤務中の岩夫イワオからの電話といい、言い争っている様子といい、あきらかに何か問題があったのだろう。


 その一方で、成長期でものすごい食欲のノゾムが先ほどからガサガサと冷凍庫をあさっている。


「あっ!たい焼きあるじゃん。夕飯は塾から帰ってから食うから。」


 そこへ、次男のミツルがやってきた。


「あ、母さん!帰ってたんだ。お腹すいたー!あ、たい焼き?お兄ちゃん、ズルい!僕も食べたい!」

「もうない。」


 階下で物音が聞こえる。岩夫イワオの怒鳴り声が響く。


「おい!五月サツキ!ちょっと来てくれ!」


 五月は慌ててバタバタと階段を駆け下りた。玄関では、外へ出ようとする知恵ちえ岩夫イワオが力付くで制止しようとしている姿があった。知恵はすっかり取り乱し、涙声で訴える。


「こんな家もう嫌!離してよ!あたしの好きにさせてよ!」

「何言ってんだ!バカ野郎!」


 五月は、目の前の両親の姿に動揺した。動揺したにもかかわらず、静かに言った。


「いいよ、おじいちゃん。離して。私が付ついて行くから。」


 岩夫イワオは気が抜けたように知恵を離した。知恵は体が自由になって「フン」と岩夫を一瞥して玄関のドアノブをとり、よろよろと家を出て行く。五月はエプロンをはずしてその後に続いた。


 夜の住宅街。どこからかカレーの匂いが漂う。五月サツキ知恵チエは、そんな薄暮の道をゆっくり歩いた。知恵は膝が上がらないためにすり足で歩く。五月はまるで幼児を連れて歩いているようだ、と思った。知恵がボソボソと独り言のようにつぶやく。


「もう泣きたいわよ。なんで私は外に出ちゃ駄目なの?おじいちゃんは、まるで私がぼけっちゃったみたいなこと言って。」


 そして、おもむろに五月に振り向き、顔をしかめて言った。


「ねえ、最近、お父さん、おかしいわよ。ぼけたかもよ。」


 五月は苦笑いを浮かべた。


「まあ、どっちもどっちじゃない?それより、なんかおやつでも買って帰ろうよ。みんなお腹すいてるし。」

「そうねえ。何がいいかしら。」


 五月はふと、夜空を見上げた。


「とりあえず、たい焼きかな。」


 一日の終わり。五月は寝室でノートパソコンを開いた。日記のように日常生活をTwitterに記録するのが日課となったからだ。職場では、日々、持ち込まれた原稿の校正や、画面デザイン、色設計やイラストの提案、文章作成やナレーション収録など、様々なコンテンツに接している。140字のただの空欄は、五月が唯一自分と向き合える場所だったかもしれない。


(tweet)

 歳を重ねることは成長することだと思ってた。経験を積み重ね、知恵を授かり、思案の末には、慈愛に満ちた精神に辿り着けるって。そんなの理想だった。老いた両親。父も母も尊敬に値する人生の先駆者だったはずなのに。まるで熱湯を注いだ氷のよう。人格が音をたてて崩れていく。

(/tweet)

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