The Big Bear
第三章――
舞台は現代に舞い戻る。
「結界ですよ」
と、言ったのは青年の男性、知屋城博である。
彼は都内の弱小出版社からやってきた記者で、非常にオカルト知識がある人間であった。もちろん、第一印象はそれほど良くない。そう、銀二も思っていたし、久雄も感じていた。知屋城が初めて出会った杉沢村の人物は、どういう因果か分からないが、久雄である。山の中を散策中の久雄と、取材のために杉沢村に訪れた知屋城は、格好つけて言えば、邂逅することになる。
運命。そう言えばそれまでだが、この時の二人に何か強い結びつきがあったとしてもおかしくはない。
「結界?」
久雄はくるりと踵を返す。
声には特徴がなく、端整な標準語。同時に、今までに聞いたことのない声質であった。しいて言えば、声変わりがなく、少年がそのまま大人の言葉を喋るような、そんな不思議な声。少なくとも、杉沢村の人間ではない。それはすぐに分かった。
知屋城はダークグレーのスーツに、白シャツ、そして黒の革靴。某スーツ店でまとめ買いした安物であるが、ビシッとした身なりをしていた。杉沢村の村人で日常的にこんな格好をしている人間はいない。
もちろん、久雄もだ。彼は下男という立場であるが、物語に出てくるような執事の服装をしたことは一度もない。彼の服装は至ってシンプルで、動きやすいTシャツ(夏場)かシャツ(それ以外)を着て、ボトムスは大抵、安物のデニムパンツを穿いている。どこかしら山の男を髣髴させる姿だが、特にこだわりがあるわけではない。
二〇一五年一月。季節は冬――。
年が明けて、まだ間もなく、山の中は森閑としている。幸い、雪は降り積もっていないが、氷のように冷たい空気が漂っている。今の時期、山は死の季節である。
トーマス・マンの『魔の山』では、最後に主人公が山の中に進入していく描写で終わっているが、久雄にとってもここは魔の山に近いものだった。いや、魔の山と形容してもまったくおかしくはない。
久雄と知屋城の視線が交錯する。お互いに初対面。久雄は冷静に知屋城を見つめ、反対に知屋城は少しはにかみながら、久雄に相対した。
「あなたは誰ですか?」
と、久雄は尋ねた。
見たところ、自分と同い年くらいであろうということがすぐに見てとれた。しかし、そこは冷静な久雄。決してタメ口ではなく、しっかりと敬語を使い、声をかけた。それに対し、知屋城は決して上等とは言えないスーツの内ポケットから、革の名刺入れを取り出し、その中から一枚の名刺を取りだした。
「僕はこういう者です」
名刺の受け取り方を知らない久雄は、あっさりと片手で受け取った。対する知屋城は少し大柄な受け取り方をされたにも関わらず、嫌な顔を見せずに、逆ににっこりと笑った。大分、このような状況に慣れているのだと察せられる。
「出版社の方ですか?」
と、久雄は名刺を見ながら言った。
それに対し、知屋城は答える。
「ええ。そうです。よろしくお願いします」
「はぁ、それで、何の用ですか? 確か、さっき結界がどうとか言ってましたよね?」
「そうです。この山には結界を敷いた跡があります」
「結界の跡?」
言っている意味が分からなかった久雄は、露骨に顔を歪めた。何かこう、変な人に会ってしまったような気がするのだ。もちろん、自分も十分変ではあるのだが……。この時の知屋城の台詞は、久雄が考えているよりも、もっとおかしなものだったのである。
「ビッグベアーの伝説を調べているんです」
ビッグベアーという言葉が出て、久雄は若干身構えた。都心ではなく、全国的にビッグベアーのことが噂されていることは、テレヴィやネットなどで知っていた。情報はどこにいても平等に届く。そんな時代である。ビッグベアーのことは最早隠し通すことができないレベルになっていた。
それ故に、頻繁に変化することができず、優香を殺害してから一〇年の月日が経ってしまったのである。
一〇年といえば、かなり長い年月である。人の子供であれば、自我を持ち、十分に話せるくらいになるし、個性も豊かになるであろう。また、どんな仕事でも一〇年遣り通せばプロフェッショナルになれる。それくらい、一〇年というのは長い期間なのだ。
それだけの期間、久雄が何をしてきたかというと、何もしていない。
着実に不知火家を死滅させ、残りは少なくなっている。隼人という新しい後継者が生まれ、さらに一〇年経っている。隼人以外に跡取りはいないから、この人物を殺せば、実質的には不知火家は消滅することになる。
故に、隼人に対する警戒は強い。当の隼人は自分が守られていることなど、露ほども感じさせず、まるで彦治のわがままで理不尽な精神が乗り移ったかのように、縦横無尽に行動していた。彦治に似ていることで、村人たちから嫌悪されていたが、それは少年である隼人には感じることができなかった。
さて、話が少し前後したが、元に戻そう。
都会からやってきた謎の記者。それが知屋城。彼は今確かにビッグベアーのことを言ったのである。
「ビッグベアーのことを知ってるんですか?」
軽くジャブをかますように、久雄は尋ねる。それに対し、にっこりと微笑みを維持しながら、知屋城は質問を返した。
「そうです。もう、有名ですよ」
「そんなに有名ですかね」
「すくなくともオカルティストの間では有名です。まるでUMAですよ」
「UMA?」
「えぇ。知らないですか? 雪男とか、野人とか、そういう未確認生物のことですよ。ビッグベアーもその一員です。これ見てください」
そう言い、知屋城は持っていた革のブリーフケースから一冊の冊子を取り出した。鞄は大分年季が入っており、外見は綺麗だが、内側はところどころ素材が擦れ、経年の使用が感じられた。
久雄は雑誌を受け取る。『月刊オカルトミュージアム』と書かれている。
表紙はサバトを行っている魔女が描かれ、どこか醜悪な印象を受ける。完全にオカルト。それを思い出し、ぼんやりと優香の姿が再生された。彼女もまた、どこかオカルト的な気質があった。久雄が追い詰められたとき、優香は森の中に結界を造っていたのである。そして久雄に対する復讐を果たそうとした。
優香にとって、久雄は憎き敵。両親を殺害されたのだから、それは当然起こる反応であろう。しかし、恋は人を盲目にさせる。久雄は優香の気持ちを露ほども感じずに、ただいたずらに彼女に近づき、その結果恋に落ちた。
それでも神や悪魔は久雄の気持ちを認めなかった。彼はあくまでビッグベアー。その役目を果たすまでは、人間らしい生活を送らせることはしなかったのである。当然、優香と久雄は引き裂かれる。これは仕方のない事実であった。
パラパラとページを捲ると、黄色い付箋が貼ってあるページがあった。
いわずもがな、そのページは知屋城が特集したビッグベアーのページである。いつの間に、こんなものを書いたのであろうか? 特集によればビッグベアーは神の化身であり、この○○山に潜む霊獣なのであるということが書かれている。
「霊獣ですか……」
と、久雄は誰に言うでもなく呟いた。
霊獣などという存在ではない。少なくとも久雄はビッグベアーに対してそう思っていた。愚かな存在であり、意味の分からない生物。自分がなぜビッグベアーとして生まれたのかさえ、分からないのだから。
分かっていることは、
『不知火家の消滅』
『得体の知れない力』
『背中に生える金色のたてがみ』
それだけなのだ。
目的は分からない。目的の達成は近い。しかし、その後に何が待っているかは皆目見当がつかない。死が待っているのだろうか? それは恐ろしいことではあるが、実質、久雄は死んでも良いと思っていた。
優香が亡くなり、裏切られた一〇年。久雄の『生』は地獄のようなものだった。生きているのか死んでいるのか分からない日常。どうして自分はこの世に生まれてきたのだろうか? アイデンティティはまったくの不明。
「一応、五万部は売れている雑誌なんです」
と、徐に知屋城は言った。
五万部というのはどれだけの売り上げなのか分からないが、久雄はある程度売れている雑誌なんだということが理解できた。
オカルト雑誌なのに、これだけの売り上げを見せる。雑誌を始め、書物は年々売上高が落ちている。ネットの繁栄により、情報を得る媒体が書物でなくても良いのだ。逆にさくっと自分の調べたい情報が一秒も経たずに出てくる、ネットの方が社会にマッチしていることは間違いないだろう。
そのくらいのことは久雄にも理解できる。
「それで、その雑誌の記者さんが何の用なんですか?」
久雄はビッグベアーのページを見つめながら、尋ねた。
「今度、再びビッグベアーの特集をするんですよ」と、知屋城。
「特集ですか」
「そうです。そこで村人であるあなたにも話を聞きたいと思いまして」
「話なら麓の人間に聞いてください。僕なんかよりも、十分に知ってますよ」
これで話は終わり。そう思った久雄であったが、そんなことにはならなかった。知屋城は意外と食い下がり、久雄に詰め寄ってきたのである。
「結界のことを御存知ですか?」
またこの台詞。
同時に、優香も『結界』ということを言っていたではないか。淡い思い出が反芻され、久雄はどんよりとした気分になる。優香との思い出を捨てたい。桂枝雀の落語で『おもいでや』というものがあるが、自分の思い出を売りさばいてしまいたいとさえ思っているのである。
過去の産物をほじくり返されるのはあまり良い気分ではない。そのことを知屋城は知っているのだろうか?
「言葉の意味くらいなら知っていますよ」と、久雄は言う。
「それなら話は早いです。実は、この山には結界の跡があるんですよ。僕はそれを調査により導き出しました」
「結界の跡ですか?」
「ハイ。無敵の力を持っているビッグベアーが追い詰められたことがある。その事実を僕は知っています。あの時は結界の力が上手く作用したからなんです。ということは、結界を張ることさえできれば、杉沢村はビッグベアーの恐怖から解き放たれることができるんですよ。それをドキュメンタリー風に特集しようと思い、僕はやってきました」
「そうなんですか?」
「もちろん」知屋城の表情が蠱惑的なものに変る。それはどこか優香に似ている。「あなたもビッグベアーのことを知っていますよね?」
ビッグベアーを知っている。これは愚問である。当然久雄は知っている。知っているというよりも、本人なのだから。しかし、そんなことはここでは言えない。知らん顔をしながら、久雄は声を発した。
「まぁ知ってますが」
「ビッグベアーは不知火家の人物しか襲わないそうですね」
そんなことまで調べているのか。久雄はやや面を食らい、その場で唖然と立ち尽くした。急激に知屋城のことが悪魔の使いのように見えてきてならない。たとえ、悪魔の使いであっても、ここで冷静さを崩すことはできないであろう。久雄は下唇をグッと噛み締めながら、緩やかに言った。
「そうみたいですね」
「あなたは」知屋城は言う。「怖くないのですか?」
「怖い?」
「ハイ。だってあなたは……。失礼ですが、名前は調べました。久雄さんは不知火家の使用人でしょう。つまり、不知火家と縁のある人物だということです。それならば、ビッグベアーに襲われる可能性があるということです」
「それはそうですが」
久雄は口ごもる。
知屋城が深くビッグベアーを調べ上げていることにも驚いたし、何か他にも重要なことを知ってるであろう雰囲気を感じることができる。それが久雄を苦しめ始めた。この青年はどこまで真実を明らかにしているのであろうか? 気がかりな感情がアメーバ状に広がり、久雄の脳内を侵食していく。
「首の傷どうしたんですか?」
いつの間にか、首元に巻いたスカーフがずれ落ちていた。そのことに気づかず、銀二に与えられた傷がくっきりと浮かび上がっている。醜く引きつれた傷跡。あの窮地のことが脳内を掠める。
「色々とありましてね」
と、はぐらかす久雄であったが、知屋城の興味の目線を掻い潜ることはできなかった。知屋城は探偵宜しくの態度で、まじまじと久雄に対して視線を注いでいる。この時、久雄は確かに感じた。
『この男は気づいている』
危険人物であると……。
「どこまで調べたんですか?」
と、久雄は恐る恐る尋ねる。それを受けて知屋城は両手をグッと掲げ、『六』という数字を作った。
「『六』の日御存知でしょう」
「どういうことですか?」
「ビッグベアーが現れる日です。それは『六』の日なんですよ。これは間違いありません」
そう言われ、久雄は持っていた雑誌をパラパラと捲った。しかし、雑誌には『六』の日の情報は載っていない。少しだけ安堵する久雄。この条件が外部に漏れるとなると、非常に作業はやりにくくなる。それはまちがいない。
そんな久雄の安堵感を摘み取るように、知屋城は答える
「安心してください。この事はまだ書きませんから……」
「まだ、書くことはないということは、いずれは書くということでしょうか?」
「さぁどうでしょうかね?」
不思議な記者。知屋城と、久雄の出会いはこのようなものであった。
さて、状況は刻一刻と変る。
知屋城は村の狩猟会の面子が集まる作業所へ足を向け、そこで情報を得ようと考えていた。同時にそこで金蔵や銀二と出会うことになる。
金蔵は事務的に知屋城を迎え入れたが、銀二は当初、突然現れた、この都会の記者を毛嫌いしていた。しかし、それはすぐに崩壊することになる。ベルリンの壁が解き放れたかのように。
「あなたが銀二さんですか?」
小型カメラを取り出し、一枚写真を撮ろうとしている知屋城は徐に言った。
何となく、知屋城の態度が気に入らない銀二は、無視を決め込んでいたが、記者特有のしつこく傲慢な態度と、とある情報を前にして彼は話さざるを得ない状況を作られた。
「なんなんだ、あんたは?」
「雑誌の記者です」
名刺を渡す知屋城。それを受け取る銀二。銀二はすぐに名前を確認し、名刺をハンティングベストのポケットの中にしまい込んだ。
「知屋城さんよ。危険なことはよした方がいい」
警告を放つ銀二。しかし、知屋城は微笑を崩さず、逆に興味の色を浮かべている。その仕草に銀二は興味を持ったし、久雄が感じたのと同じ、『この男は何かを知っている』というオーラを垣間見た気がしたのである。
「少し歩きませんか? 話したいことがありますし」
いつもなら、こんな台詞を聞いたところで無視である。あまり人と触れ合うことがない銀二に対してかける言葉ではない。しかし、銀二は首を上下に振り、知屋城の言葉を受けいれる。その行為に対し、金蔵も他の狩猟者たちも驚きの表情を浮かべていた。
山の中はひっそりと静まり返り、時折聞える風の音が、静かに染み渡っていた。
時刻は正午を迎え、日の光が燦々と降りしきっている。山の緑が良く映えて、今日が『六』の日でなければ、絶好の散策日和になっていただろう。
ある程度山の奥深くに入った二人は、歩きながら会話を始めた。
「どうして俺の名前を知っている」
単刀直入に聞いたのは銀二。彼は背中に背負っていたライフルを持ち替え、そのように尋ねた。恐らく知屋城はライフルを初めて見るのであろう。興味深そうな視線を送り、ふむふむと頷いて見せた。
「それは簡単です。ビッグベアーを一度追い詰めているからです」
「あんたはビッグベアーに詳しいようだな」
「銀二さんも詳しいんじゃないですか? 例えば『六』の日を御存知でしょう」
「六の日」
銀二の声は若干震えた。もちろん、その事実に知屋城は気づく。今日は六の日。つまり、ビッグベアーが現れる日である。そのことを知らぬ、銀二と知屋城ではない。
「そうです。今日は一月六日。つまり、ビッグベアーが現れる日なんです。僕は雑誌をまとめる際に、ビッグベアーの情報を隅から隅まで調べ上げました。その結果、ビッグベアーが現れるのは『六』の日であるということを見つけたんです」
そう言った後、知屋城は、『六』という数字がどれだけオカルト的に言うと神聖な数字であるかを説明していた。
『六』が抱える背景を黙り込み聞いていた銀二であったが、彼もこの時、『六』の日のことを十分に心得ていた。だからこそ、手入れを入念に行ったライフルを持参してきたのである。それに、突然現れた異国の旅人のような雑誌記者が、ビッグベアー伝説をしっかりと調べ上げていることに驚きを覚えた。
「あんた、色々と調べているようだねぇ。だが深入りは危険だよ」
銀二はあえて警告をする。とは言っても、この攻撃は無駄撃ちに終わったようである。知屋城はまったくダメージを受けないビッグベアーの如く、平然としながら、
「大丈夫ですよ。ビッグベアーは『六』の日に現れますが、一般人を攻撃することはありません」
そこで、知屋城は自分が調べ上げた情報を少しも隠すことなく、銀二に告げる。雑誌記者としての経験は四年あまり。そう熟練した腕を持つわけではない。しかし突撃取材を敢行していた彼の手腕は一般的な記者と比べても遜色のない技術であった。
その安定感のある態度が銀二のことをある程度認めさせた。つまり、この男は信用しても良いかもしれないという気になったのである。
その後、知屋城が言ったことが、結果的に銀二を説き伏せる、重要な因子となった。
「ビッグベアーは首元に傷があります。これは銀二さん、あなたが与えた傷ですね?」
銀二はゆっくりと頷いた。どこか引き込まれる瞳を持つ知屋城の顔を見つめながら……。
「そうだが、どうしてそれを知っている」
「調べたといっているじゃないですか。それに僕はもう一つ重要なことを知っています」
「重要なことだと?」
「ええ。実はそれをお話しする前に、あなたとコンビを組みたいのですが、良いですか?」
「俺とコンビを組む? どういうことだ」
「簡単な話ですよ。銀二さん、あなたはビッグベアーをどうするつもりですか?」
どうするつもりか? そう問われると、答えはひとつしかない。
山の中に日差しが降り注いでいる。その影響なのか、知屋城の顔はくっきりと堀の深いものに変り、どこか霊妙さが浮かびあがっているように見えるではないか。神聖さとは違う、興味深い表情。それが知屋城の身体から煙の如く舞い起こる。
「ビッグベアーを倒すのが俺の役目だ」と、銀二が言い、知屋城が答える。
「失礼ですが、許婚を殺されたんですよね」
「その通りだ」
「なら余計に僕と組むべきですよ」
「そうかね、俺は基本的に単独なんだが」
「不知火家に今時珍しい使用人がいますよね?」
「久雄のことか。あいつには色々曰くがあるからな」
曰く。そのフレーズを聞き、知屋城の眉毛が虫のように動いた。
「曰くですか」と、知屋城。「彼が……。彼がですよ。もしも、ビッグベアーだとしたらどうですか? 驚きますか?」
その言葉を受け、銀二は凍りついた。
知屋城が言うことはまさに自分が考えていた事実と瓜二つであったためである。つまり、銀二は久雄がビッグベアーであるということを見抜いていたのだ。それは前述しているので、ここではあえて詳しくは語らない。
この事実が決定的に知屋城と銀二の二人を結びつける因子になったことは間違いない。
「久雄のことも調べているんだな。あいつには首元に傷がある。いつだったか、ついた傷らしい。あの日、俺はビッグベアーを追い詰めた。あれが千載一遇のチャンスだった。しかし、俺はその好機を逃しちまった。久雄は首元を隠すようになったのもあの日からだ」
「それはですね」知屋城は自信満々に告げる。「この山の中に結界が張ってあったからです」
「結界?」
急激に飛びだした、オカルト的な用語。その言葉の意味を知らぬ銀二ではないが、何か自分の思惑の斜め上を行き過ぎて、どう対処していいものか迷い始める。それをしっかりと感じ取った知屋城は、続けて声を出した。
「この○○山には結界を張った跡があります。恐らく、僕らの他にもビッグベアーの正体に気づいた人間がいたのでしょう。だからこそ、結界をという防衛線を張り、ビッグベアーを追い詰めたんです。今度は僕が結界を張ります」
中世魔術師のような態度で、知屋城は言う。その顔を見る限り、自信の高さが垣間見れる。銀二の中で、今度こそビッグベアーを追い詰めることができるという確信がマグマのように湧きあがってくる。
「結界について説明してくれ」
「分かりました」と、知屋城。「実は以前にもこの場所で結界を張った人間がいるみたいなんです。心当たりはありませんか? 知っているのなら、その人物と接触したいと考えているのですが」
とはいうものの、銀二にはそのような人物に心当たりがない。
結界なんていうものは、御伽噺の中に出てくる存在のようなもので、まったく現実味が感じ取れなかった。事実、この段階になってもなかなか信じられない。淡々と結界のことをさも、真実味があるように語る知屋城のことが不思議でならなかった。
「結界というのは……」知屋城は語る。「ビッグベアーの能力。つまり、生物の限界を超えた異能の力を抑える効果があります。簡単に言えば、霊妙な力をそぎ落とし、ただの熊にすることが可能なんです。これならば、銀二さん、あなたであっても手が届きます」
「あんたの言い方じゃ、今のままじゃ、俺にはビッグベアーを倒せないという口ぶりに聞えるが」
「その通りです。今のままじゃビッグベアーは倒せません。というより、これはあなたに限ったことじゃないんです」
「ビッグベアーというものは何者なんだ? あれは怪物か? どうして不知火家ばかり襲う?」
「詳しい理由はわかりません。ただ、神の意志が働いているのは間違いないでしょう。そして、その使命感が久雄という人間に乗り移ったんです」
「なぜ久雄なんだ?」
「さぁ。運命と言えばそれまででしょう。きっと何か理由があるのかもしれません。熊が人を襲う理由。多くは食物の問題でしょう。でも今回の場合、そのような背景が隠されているとは思えません。食べ物だけでは、不知火家を襲う理由にはならない」
「なら他には……、怨恨か?」
「その通りです。僕は怨恨が原因に潜んでいると考えてます。恐らく、ビッグベアーはその昔、人間に……、いえ、この場合は不知火家に滅ぼされた熊たちの怨念が乗り移り形成された霊獣だと判断されます」
霊獣、霊妙、神の化身。
今まであらゆる言葉で形容されてきたビッグベアー。その秘密が徐々に溶け出している。突如現れた、オカルト記者によって。
到底真実のようには思えない。何もかも幻で、作り話のように察せられるではないか。不知火家が狙われる原因。それは元当主彦治が関わっているであろう。しかし、既に彦治は絶命している。ビッグベアーに襲撃され、命を落としたのである。
あの時のことを、銀二は忘れることがない。
「原因は彦治だよ」
と、銀二は言う。歩調が緩やかになり、山の空気を大きく吸った。
「彦治というのは、不知火家の元当主ですよね」と、知屋城は答える。
「そうだ。あいつは滅茶苦茶だったからな。熊だけじゃない。色んな獣を殺した。ハンティングというやつだがな」
「ハンティングといっても法律はあるでしょう。生き物を無駄に殺すことは許されていない」
「この界隈を支配しているのは不知火家だ。昔はな。今は世代が変り、そうでもないが、彦治の時代はヤツの時代だった。誰も逆らえないし、統治していたといっても過言ではない。だから、ビッグベアーによって彦治が殺された時、内心俺たち村人は喜んだものだよ」
「だから、ビッグベアーの崇拝伝説が生まれたんですね。よーし、何となく理由が分かってきたぞ」
嬉々として語る知屋城。その性格の良し悪しが良く分からない。しかし、物事を見抜く眼力があることは間違いないだろう。すくなくとも信頼して良いのかもしれない。銀二はそう考え、結界を張るという作業を肯定することに決めた。
「結界はあんたが張るのか?」
と、銀二は尋ねる。すぐに知屋城は柔和な表情になり、
「僕にはできないので、後日霊媒師を呼んできます。そして、ビッグベアー伝説に終止符を打ちましょう。成功すればこりゃビッグニュースになりますよ! まぁオカルトの世界限定でしょうが。でも、不知火家を滅ぼすわけにはいきませんからね」
「不知火家は半分死滅している。もう、残りは少ない」
「でも跡取りがいますよね。一〇歳くらいの小学生」
「隼人様のことか。まだ小さいが、彦治の面影がある要注意人物だ」
「小学生で要注意。さぞ甘やかされて育てられたんでしょう」
「そりゃそうだ。現当主の正輝はなかなか子供に恵まれなかったからな。だから眼に入れても痛くないんだろう。それだけ可愛がっている」
「しばらくはこの隼人という人間を守りながら、結界を形成することになりそうですね」
ふと、知屋城は言った。
隼人を守る。村人にとってあまり推奨された行為ではない。まだ、小学生とは言え、隼人は村人に嫌悪されている。不幸な少年であると銀二は思っていたが、特に文句は言わず、事態を見つめていた。
しかし、彼らの思惑は見事に打ち砕かれることになる。
そう、隼人はビッグベアーにより殺害されるのだ。この事実は銀二と知屋城を奈落の底へ突き落とした。
二〇一五年九月六日――。
隼人の遺体が発見され、事態は急激に進む。時計の歯車が勢いよく回るように……。
結界の形成は間に合わなかった。それは事実だ。故に救えたはずの命を守ることができなかったのである。同時に、不知火家はビッグベアーに敗れた。隼人という跡取りを失い、残されたのは中年の正輝、その妻である美佐子。最後は正輝の母の千代。この三名である。
彼ら三人は自分たちの運命を受け入れているのだろうか? 皆、諦めの表情を浮かべている。隼人の葬儀は速やかに行われた。村人は彦治の時と同様、歓喜の念を抑え、葬儀に参列することになった。
亡霊のようになった三名の不知火家の人間を尻目に……。
終焉が近づく不知火家。その中心に久雄という下男の存在があった。彼は何を考えているのか? 淡々と作業を続け、葬儀を完璧に執り行うことに一役買っていた。葬儀が終わり、久雄は銀二に呼び出されることになる。つまり、己がビッグベアーではないか? ということを完全に悟られたのだ。
三〇年という長い月日、久雄はビッグベアーとして君臨してきた。しかし、その生活も終わりを迎えようとしている。銀二は口をつぐんだが、一〇月六日にはすべてが終わる予定であった。結界は完成し、ビッグベアーを追い詰める準備が着々と進行していた。隼人を守ることはできなかったが、ビッグベアー伝説に終止符を打つことができるだろう。
そのことを久雄は知らない。だが、既に勝負はついている。自分の宿命はこれで終わり、あとはもうどうでもいい。いや、彼の人生は既に終わっている。なぜなら、最愛の人間である優香を自分の手で殺めてしまったからである。
その罪の重さに耐え切れそうにない。不知火家を滅ぼし、自分も消滅する。それが幕の引き方として、一番ピッタリとしているように思える。まるで、余命宣告されたような気分。しかし、恐怖や憤り、悲しみ、怒り、何の感情も湧きあがらなかった。今流行りのうつというわけでもない。ただ、自分はこの先死ぬだろう。そんな風に思えていたのである。
もちろん、久雄のそんな姿を銀二は見抜いていた。彼はビッグベアーが久雄であると既に告げていたし、確信している。そして、ビッグベアーを倒すのは自分であると考えていたのだから……。
小夜子という最愛の許婚を殺害され、恨みを晴らすために今まで生きてきた銀二であったが、今ではその気持ちがくじかれつつある。それはなぜか? 理由は簡単である。銀二は久雄の抱える真の悩みについて気づいてしまったからだ。つまり、久雄が優香を愛していた事実を垣間見たのだ。
その愛情は、自分が小夜子に向けていた気持ちと瓜二つ。
最愛の人間を失う悲しみは、誰よりも良く分かっている銀二。久雄と優香という存在。
一〇月六日を間近に迎えたある日、銀二は久雄に接触することになった。場所は○○山の中、久雄は一人山の中を亡霊のように歩いていた。既に結界は完成している。知屋城と、彼が連れてきた結界師という怪しげな人物が、綿密に計算し、六芒星型の結界を作っていたのである。結界師の話によれば、結界内にビッグベアーを誘い込むことができれば、勝負はあったようなものだと、太鼓判を押した。どこからそのような自信が巻き起こるのかは分からなかったが、銀二は一応、彼らの言うことを信じた。
一〇月六日の勝負の日に向けて、銀二はただひたすらに念じ、準備することを固く誓う。すべてはもうすぐ終わる。長い年月、追いかけてきたビッグベアー。その長過ぎる関係に終止符を打つ日は近い。
銀二の目の前には久雄が立っている。
彼は亡霊のような胡乱な眼で、木々を見つめている。その木は結界の張ってある木。どうやら久雄はその鋭敏な感覚で結界の真実を知ったのかもしれない。ならば、この場で久雄を逃すことはできない。
但し、久雄は人間だ。熊を殺害するように、殺すことは許されない。彼は何のために生まれ、何のために生きてきたのか?
ビッグベアーとして生まれ、ただ恨みを晴らす、神や悪魔の傀儡として生を受けた久雄。その人生は波乱万丈である。化身として選ばれ、宿命を終えた後はどのような道が待っているのか? それは誰にも分からないのである。
「久雄か……」
呟くように、銀二は言った。背中には決まりきったライフルを背負っている。
久雄は銀二の声に気づき、くるっと身を反転させる。どことなく、ビッグベアーを彷彿させる仕草である。まず間違いなく、久雄はビッグベアー。それはもう確信的である。問われた久雄であったが、特に何も答えなかった。ただ、チラと銀二のことを一瞥し、タバコの煙を吐くように嘆息する。
「ここで、何をしている?」
そこでようやく久雄は口を開く。
「別に何をしているわけでもありませんよ。ただの散歩です」
「一人で山ん中に入ったら危ねぇじゃないか」
「愚問ですね。あなただって知っているでしょう。ビッグベアーが『六』の日しか現れないということを……」
「そうだったな」
「それに私のことをビッグベアーだと言っていましたね」
そう言い、久雄は首元に巻いていた、スカイブルーのスカーフを剥ぎ取った。首元には引き攣った傷跡が見え、醜く銀二の瞳に映りこんだ。
「この傷はあなたに付けられたものです」
久雄は告白する。
あまりの展開であったが、銀二は冷静さを保つことができた。
「認めるんだな」銀二は言う。「自分がビッグベアーだということを」
「この木、あなたの仕業ですか? いや、違うか、恐らく東京から来た雑誌の記者の所業でしょう。あの人も私の正体を知っているようだったし、色々調べて回っているみたいですからね」
「知屋城というオカルト雑誌の記者だよ。お前さん、結界のことを知ってるんだな」
「知っています。痛すぎるほどに」
「壊すのか?」
壊すと言えば、ここでその行為を食い止めなければならない。最悪殺生することになるかも知れない。銀二は固く唇を噛み締める。しかし、次の瞬間久雄は言った。
「いいえ。むしろ私を殺してほしいくらいです。私の役目は既に終わっているんですから」
「役目が終わっている? お前は一体何者なんだ? 目的は何だ? ビッグベアーという熊は何なんだ?」
己が一体何者なのか? それは久雄が一番聞きたいことだ。一体、何のために自分はここにいるのか? そのアイデンティティは不明だ。恨みを晴らすため、誰の? 不知火家に対する熊の怨念。それを受け継いだ久雄という生命。
どういう因果なのだろうか? 今考えれば、自分の運命はビッグベアーによって振り回された。自分がビッグベアーでなければ、このような止めどない寂寥感に襲われることはなかっただろうし、一般的な生活を送る、ただの人であったに違いない。その存在にどれだけ憧れたことか。
久雄の心の中で、濁流のように後悔が押し寄せる。熊が人を食らう。
これは決してありえない話ではない。熊と人間は共存が難しい存在だ。ごく稀に禁忌の領域に踏み込まれたとしても、人間は文句は言えない。人間だって理不尽にも熊を殺すことだってあるし、逆の立場だってあるだろう。
久雄はゆっくりと身を翻し、銀二の顔を覗き込んだ。銀二はハッと胸を打たれた。いつもはまったくの無表情である久雄が、その細い瞳からぼとぼとと涙を零したのである。この乾ききったような身体を持つ久雄のどこに、そのような水分があったのか、銀二には分からなかった。気が動顛するということはまさにこの事で、男泣きをする久雄に対し、どのように声をかけるべきなのか? 皆目見当がつかない。
「どうして泣く?」
と、辛うじて銀二は言った。
その言葉は久雄の胸に確かに届いたようである。彼は自分が泣いていることを自覚していない。涙を不思議そうに、手に取り、目元を拭いた。久雄の両手に涙が付着し、そして、彼は言った。
「分かりません。なんだか突然、ふって湧いて出たんです」
「ビッグベアーの呪いだよ」
「呪い……。まさにその通りですよ」
久雄の体はぐったりとしている。すべてを受け入れているといえばそれまでだが、今までとは確実に様子が違う。それだけは確かだ。
同時に、銀二の心の中で、本当にビッグベアーを殺すべきなのか? という疑問が巻き起こる。確実にビッグベアーの正体は久雄だ。それはもう変えようのない真実。となれば、これから自分たちがすることは『熊殺し』ではなく、『殺人』になるのではないか? そんな風に思えたのである。
熊を殺すことと、人間を殺すことでは、まったく意味やレベルが違う。
熊ならば、免許さえあれば簡単に殺すことができる。相手がビッグベアーでなければ、ライフルを持つ人間の方に分があるからだ。
しかし、相手が人間だったらどうだろう? いくら初犯であっても、人を殺めておきながら無実になるということはありえない。第一、久雄=ビッグベアーという縮図だってどうやって裁判官や警察に認めさせればいいのだろうか? そんなことは不可能である。きっと、頭のおかしくなった老人の戯言として判断され、精神鑑定にかけられるかもしれない。
それに、自分は久雄のことを殺せるのか? ビッグベアーから突如人間の姿になった場合、そんな久雄の命を削れるのかといったら『?』が思い浮かぶ。たとえ、自分の許婚を殺した憎き敵だとしても……。
「久雄。一つ聞くぞ」
と、銀二。
相変わらず泣き濡れている久雄は首を上下に振った。
「何ですか?」
「不知火家を殺したのは、お前の意志なのか?」
「私の……意志か?」
と、久雄は繰り返す。
意思というよりも、神や悪魔の力が働いたという気分。事実、結界を張られた場合は、自分の行動意欲を越え、魂や身体が操られる。そこに殺人を行うという行動力は存在しない。あくまで傀儡となるのだ。そう、文字通り、操り人形。
考えてみれば、自分は今までどういう気持ちで不知火家の人間を殺めてきたのだろうか? 久雄は考え込む。意志は確かに働いている。なぜなら、久雄にはビッグベアーが抱える、熊たちの怨念が手に取るように分かったからだ。
敵討ちは無限の負の連鎖を生む。どこかで断ち切らなければ永遠に終われない呪縛になるだろう。但し、それが今、この時なのかは不明。
「意志というよりも、運命なんですよ。私は不知火家を消滅させるために、この世に生を受けました。なんとなくそんな気がするんです。でも、優香を殺したとき、私は自分の意志で彼女を殺したわけではありません。身体が乗っ取られ、気がついたらビッグベアーとなり、優香を蹂躙し、食い殺していました」
久雄は淡々と語る。泣き声が若干入り混じり、悲しい旋律を帯びている。
生々しい告白。銀二は胸を冷たい手で鷲掴みにされたような感覚になった。一体、自分はどう行動することがベストなのか? 必死に考えてみるものの、答えは出そうにない。一人、魔界という名の世界に踏み込んだ気分。
小夜子の敵を討つことが、銀二の生命活動のすべてである。そのためにこれまで生きてきたし、ビッグベアーと戦ってきたことは間違いない。これまで多くの熊を殺害していた。それは真実である。しかし、それが正しいかどうかは別問題だ。
熊にも感情があるだろう。腹が空けば食べるし、生きるために交尾だってする。自分の子供に愛着を持つ事もあるし、必死に子育てをする。人間のエゴだけで、殺すことは本来あってはならないことだろう。銀二が小夜子を奪われたように、多くの熊たちも仲間を失ってきたのである。
ただ、人間と相対し、村に現れたというだけで……。
そのきっかけを作ったのもあくまで人間なのだ。○○山はまだマシなほうであるが、日本の森林は年々姿を消している。山の緑がなくなれば、食物は当然減る。すると、そこで食物連鎖が崩れていることになる。となれば、熊は食べ物を求めて、生きるために人間を襲うかもしれない。これは、元を正せば、人間が悪いのである。自業自得。それまでのこと。
もちろん、銀二はそのことを十分に把握している。把握しているからこそ、今まで熊殺しをし、ハンターとしての栄誉を得てきたのである。
「銀二さん」
と、久雄は口を開いた。首の引き攣った傷跡が妙に痛々しく見える。
「何だ?」
「私を殺しますか?」
「どういう意味だ?」
「結界が張られているのは分かります。そして『六』の日になると、お察しのように私はビッグベアーに変化する。そうすれば村のハンターたちに追われることになるでしょう。結界が張られた中では、ビッグベアーとしての力を発揮できません。簡単に言えば、ただの熊になるんです。そうすれば、どちらに勝利の女神が微笑むか? それは考えるまでもない」
「死にたいのか?」
「分かりません。ただ、もう私は自分がビッグベアーとして生きることに疲れました。次の『六』の日。すべてを終わらせるつもりです」
「それはつまり、不知火家を滅ぼすということか?」
「そうなります」
「止めろ。不知火家は隼人を失ったことで、跡取りがいなくなった。養子を迎えない限り、繁栄はないだろう。つまり、勝負はもうついている。ビッグベアーが勝ったんだよ。久雄、お前の勝ちだ」
「でも不知火家に人が残っている限り、ビッグベアーに変ることは間違いないでしょう。それに……、不知火家の人間は他にも」
そこまで言うと、久雄は牡蠣のように口を閉ざした。
急激に黙り込んだため、銀二は訝しい印象を受ける。この男は何かまだ知っているようだ。それを聞き出すまで、この場から離れるわけにはいかない。銀二は腕のいい狩猟者であるが、決して心理カウンセラーではない。どのようにして久雄の心を解きほぐせばいいのか分からなかった。
「何か知っているんだな」
単刀直入に銀二は尋ねる。
久雄は遠い目をしている。潤んだ瞳が哀愁を帯びていて、山の緑に涙が反射している。不思議な気分。ふわふわと浮ついて、雲を踏んでいるかのようだ。久雄は目を幾度となく瞬き、銀二に対して頷いた。
「不知火家はまだいるんですよ」
神妙な声。久雄はただ一言告げる。
「残された不知火家は」銀二は確認する。「当主の『正輝』その妻『美佐子』そして、正輝の母『千代』この三人だ。彼ら以外の一族がいるということか?」
「ええ。います」
「隠し子か?」
前当主の彦治は人間的に無茶苦茶であった。どこかで女を作っていてもおかしくはないし、隠し子がいても不思議ではないのだ。そんな話は初耳であるが、ありえないことではないだろう。但し、そんな不穏なスキャンダルをどうして久雄が知っているのか? いや、彼の告白は正しいのか? それは分からない。久雄はまだいると言った。となれば残っている人物は誰なのだろう?
この答えはあまりに単純で、一見しただけでは分からないかもしれない。しかし、数秒の沈黙の後、銀二は答えを手繰り寄せた。つまり、真相を知ったのである。
推理小説の宗祖、エドガー・アラン・ポーの小説『盗まれた手紙』のトリックと同じ。見つけにくい場所は案外眼に入る場所。ただそれだけのこと。つまり、不知火家の生き残り。最後の一人も案外近くにいるということである。
「そいつは――――のことか?」
と、銀二は答えを発した。
明確な意志を感じさせる声。久雄にも当然届いた。そして、首を上下に振り、銀二の言葉を肯定して見せた。
「その通りです。つまり、初めからすべて決まっていたんです」
「決まっていた?」
「そう。不知火家が終焉する。それは同時に、最後の人物に対しても破滅を意味しているということです。それが今、私には分かった。運命の日。すべてが終わることは間違いないですよ」
粛々と告げる久雄。諦めに似た声と表情。
彼は今、自分の宿命を受け入れ、それを密かに待っているのだと察せられた。
「良いのか? 久雄。都会から来た出版社の、知屋城はビッグベアーを殺すつもりだぞ」
と、銀二が言うと、久雄は答える。
「でしょうね。五万部を売る雑誌ですから、オカルト的な情報は欲しいでしょうし、彼もまたすべてを知っているでしょう」
「もう一度聞くぞ。お前はそれで良いのか?」
「さぁ、分かりません」
久雄はそう言うと、涙をしっかりと拭い取った。凛とした瞳が夕暮れの山中に浮かび上がる。若干ではあるが、空は赤みを帯びており、やがて来る闇に備えている。
いずれにしても久雄は覚悟を決めている。
Xデー。
つまり、一〇月六日。すべて終わるだろう。ビッグベアー伝説。三〇年という長い月日を流れたこの伝説は、まさに終着駅を迎えようとしている。これが最後。銀二にも久雄にも分かっていた。それは別れを意味しているし、破滅という名の滅亡である。アイロニカルな気分になり、久雄も銀二も口を閉ざした。
何分ほどだろうか? 沈黙が界隈を支配する。
すると、最初に久雄が動く。右手に持っていた藍染のスカーフを首に巻き、ゆっくりと山を下り始める。
「私は帰ります。それじゃ『六』の日に会いましょう」
そう言い、久雄は悠然と銀二の横を通り抜けた。
風の匂いと久雄の香りが漂った気がした。人間と熊の半陽的な存在である久雄。獣の香りか、あるいは悪魔の匂いか。それは分からない、だが、確実にもう一度会うことになるのは眼に見えている。運命の日は近い。
一〇月五日一八時――。
熟練の狩猟者、銀二は狩猟会の会議室の空き部屋を利用し、知屋城と最後の確認を行っていた。会議室と言っても大きなスペースではない。
「知屋城。ちょっと良いか?」
と、銀二は言った。この空間には彼と知屋城の二人しかいない。しんと静まりかえり、どこか居心地は悪かった。知屋城はにこやかな笑みを浮かべているが、内心では何を考えているのか分からなかった。
「なんですか?」
知屋城、壁に貼り付けられた小動物の剥製を見ながらそう尋ねた。ちょうど、彼が見ているのは、雉の剥製である。もう、数十年も前のものであるから、古びているし、ホコリをかぶっている。金蔵が仕留めたものだ。
「お前はどうしてビッグベアーを追うんだ?」
「僕がビッグベアーを追う理由ですか。簡単ですよ。仕事です」
「仕事。オカルト雑誌のか」
「そうです。本当は報道関係にいきたかったんですけどね。ああいう大手の出版社は高学歴じゃないと無理なんですよ。僕は行っていた大学は三流ですから……。まぁ文句は言えません。それに案外オカルト的な雑誌も気に入っているんです。意外とはまると面白いですよ」
飄々と語る知屋城。彼の表情を見る限り、嘘を言っているようには見えない。人は置かれた場所で咲かなければならない。どんな人間にも夢があるし、希望や野望が存在する。しかし、それを叶えることができるのは、ごく一握りの存在だ。
銀二だって、決して昔からハンターになりたかったわけではない。ただ、生まれた時代、背景を鑑みる限り、彼の行く末は決まっていた。そう、久雄がビッグベアーに生まれついたように、彼もまた、ハンターとして生きることを半ば約束されていたのである。
但し、そのことで文句を言ったりはしない。事実、ハンターとしての腕はいいし、これまでそれなりの人生を歩んできた。人生のすべてを賭けるビッグベアーとの出会い、そして最愛の人を失った悲しみ。色んな経験がある。しかし、それももうすぐ終わる。
「でも」知屋城が言う。「どうして急に僕の背景を? 今まで見向きもしなかったのに」
「わからねぇ」と、銀二。空は曇っている。銀二の心の中をトレーシングペーパーで写し取ったかのように……。「ただ、迷ってる」
「迷ってるって何がですか?」
「ビッグベアーのことだよ」
「つまり、久雄さんのことですね。何を迷うんですか?」
「ビッグベアーが久雄ということは、もう違いねぇ」
そこで銀二は久雄の過去について、知屋城に聞かせる。
知屋城は黙ったまま、銀二の話を聞き、時折相槌を打っていた。そして慮ったように、話を飲み込み、少し暗い表情を浮かべる。その微妙な変化に、銀二は気づくことができなかった。ただ、自分の話に夢中になっている。
「ビッグベアーを殺すことは」銀二は続けて話す。「久雄を殺すってことだ」
「そうなりますね」
「簡単に言うな! それは殺人ってことだろう」
「そうです。でも、相手は殺人鬼ですよ」
「どういうことだ?」
「久雄さんはビッグベアーとなり、不知火家の人間を殺しました。大量殺人ですよ。とは言っても、今の彼を法律は裁くことができない。なぜなら、彼がビッグベアーであることを証明することは不可能だからです。オカルト的な現象を科学的に説明するのは非常に難儀なことですよ。銀二さん、あなただって何も知らない人に対し、久雄さんがビッグベアーであること話すのは骨が折れる作業でしょう。というよりも、誰も信じないはずです」
「確かにそうだが……」
「久雄さんを止めるためには、彼を殺すしかありません。ビッグベアーを殺すんですよ。久雄さんを殺すわけじゃない」
あっさりと言う者だ。その決意の源泉はどこから来ているのであろう。久雄がビッグベアーであると分かった以上、殺人であることには変りない。その事実が銀二を苦しめている。たとえ、許婚を殺されたとしても。そのことを見抜いたかのように、知屋城は言う。
「銀二さん、あなただってビッグベアーに恨みがあるはずです。小夜子さんのことですよ。それをそのままにして良いのですか?」
小夜子のことを語られると、どこか怒りが湧いてくる。決して風化しない感情。その重たい思念が銀二を覆いこみ、ビッグベアーの殺害に対する感情を煽る。
そう、
(俺がやるべきことはビッグベアーを仕留めることだ。それ以外は考えなくていい)
と、銀二は念じる。まるで呪文のように、繰り返しながら。
再び、意を決した銀二。その仕草を見た知屋城は、概ね満足そうに顔を綻ばせ、再び剥製に視線を注ぐ。彼の意志や野望の底がみえない。いくら雑誌の取材、仕事だからといって、ここまで精を出すのだろうか? それが不思議でならない。
不思議といえばもう一つ、最大の不思議がある。
「ビッグベアーは不知火家を滅ぼそうとしている。それは何故だと思う?」
根源的な質問を吐く銀二。
それに対し、知屋城は持論を述べる。
「恨みの力でしょう。オカルト的に言えば、今まであなたたちに殺された熊たちの怨念が作り上げた幻想。それがビッグベアーです。そして、久雄さんに乗り移った。そう考えるのが妥当じゃないでしょうか?」
「その根拠はどこからきている?」
「オカルトに根拠はありませんよ。ただ、事実がそこにある。それだけです。どうもあなたは決意が揺らいでいるようですね。大丈夫ですよ。何も心配はいりません」
「迷うのは当たり前だ。久雄を殺すんだからな」
「いえ、違います。僕らが殺すのは久雄さんではありません。ビッグベアーです」
「ビッグベアーを殺した場合、不知火家は助かる。とはいっても、あの家系はもう滅びてしまったがな。最後の跡取りである隼人様を失った今、不知火家の血は絶えた」
「まだいるじゃないですか……」
「まだ……いる?」
「そうです。残された跡取りがいるじゃないですか」
「誰だ?」
「あなたも知っているはずですよ」
銀二はグッと詰まる。
そう、不知火家はまだいるのだ。しかし、その人物は、
「それは――――のことか?」
と、箴言を吐くように銀二は言った。根拠はない。だが考えられるのはそれだけだった。不知火家の崩壊と繁栄。その天秤の上で銀二の心は揺れている。
「さぁ」知屋城は曖昧に言う。「どうなんでしょうか? 流石に僕はそこまで分かりませんよ」
本当にそうだろうか? 銀二は目の前に座る知屋城という青年が分からなくなる。どこか得体の知れない考えを持っている気がしてならないのだ。それをここで言うことはないが……。
今頃、久雄はどうしているのだろうか? きたるべき運命の日『六』の日は明日。
明日、久雄は死ぬかもしれないのだ。そしてそれに加担する銀二、または知屋城。悪魔と契約する中世の魔術師のような気分。どんなことがあっても殺人はしてはならない。たとえ、そこにどんな恨みがあったとしても。
ダンテが地獄を垣間見たみたいな感覚に襲われる。
夜――。
普段は嗜まない日本酒を飲みながら、銀二はタバコをふかしていた。もう何十年も時を共にしたハイライトがゆっくりと灰になり、煙となり消えていく。ライフルを見つめながら、曇り空を見上げる。
一〇月五日。既に秋は深まっている。夏の暑さは完全に消え、山の秋は寒い。最早長袖は必須である。空は曇りでいつもは見える星はまったく輝きがない。暗黒だ。それは銀二の心を投影しているようにも考えられる。
どこまで神は許してくれるだろうか?
(俺には、ビッグベアーを倒す資格がある)
何度も呟く。小夜子の墓にビッグベアーの躯を置くまで死ぬわけにはいかない。彼の人生は、ビッグベアーを倒すためにあったといっても過言ではない。しかし、いざ、ビッグベアーの正体を知ってしまうと、その強靭な意志も挫かれてしまう。
久雄の運命の重さ。それが銀二の心を苦しめる。決意しては跳ね返され、また決断する。その繰り返しである。知屋城はどうしているかというと、山の中に入り、最後の点検を行うのだといっていた。山の中に結界を張り、ビッグベアーを仕留める。準備は万端だ。後は行動に移すだけ。
明日になればすべては終わる。明日の今頃は祝宴でもしているだろう。その場に久雄がいるかは分からない。いや、いないだろう。それに祝宴なんて気分になるはずがない。ビッグベアーを倒せば、もう生きる希望はない。遣りおおした感情だけが残り、後は今吸っているハイライト煙のように静かに消えるだけだ。
(ビッグベアーが消えるのと同じように、俺も消えるべきだな)
老兵は死なず、ただ消え去るのみ……。
そんなことを考えていた。すると、不意に後ろから声をかけられた。
長年聞いた声。バリトンが効き、よく通る声だ。
「銀二、こんなところにいたのか?」
声の主は金蔵。彼はワンカップの酒を持ち、銀二の隣に座り、メビウスの一〇㎎を吸いはじめた。
「何か用か?」
と、銀二。対する金蔵はタバコの煙を吐きながら、何を言うべきか迷っている。この時、金蔵は『六』の日がビッグベアーの日であることを知っていた。だからこそ、銀二と知屋城の二人が何か準備していることを容認していたのである。
「明日だな」
それだけで、銀二には金蔵の言いたいことが分かった。
「そうだ。明日、ビッグベアー伝説に終止符が打たれる」
「そうか、長かった。三〇年だ。熊の寿命そのものだからな。あの熊は特別だ。山の神、霊獣と言っても過言じゃねぇ。俺たちはそんな得体の知れない熊に戦闘を挑もうとしている。明日は俺も出かける。いいな?」
どう言うべきか? 金蔵はビッグベアーが久雄であるという事実を知らない。いや、言っても信じないだろう。そこで困るのは、ビッグベアーを殺した後、その遺体が久雄に戻ってしまうのではないかということだ。
そうなるとたちまち話は複雑になる。熊殺しが一気に殺人へと飛躍する。
事故で済ませることはできるのだろうか? そんなことは今さら考えても仕方がない
「ビッグベアーは不知火家の人間ばかりを殺してきた」
と、金蔵は言った。
「そうだな。不知火家に対する恨み。それがビッグベアーの行動理念だ」と、銀二。
「行動理念なんて言葉良く知ってるな。あの青年の仕業か? 確か名前は……」
「知屋城だ」
「そう。知屋城。俺は苦手だ。どことなく彦治を彷彿させる。使命感に取り憑かれたときの、あいつは似ているよ」
知屋城と彦治の相似。そんなことは考えても見なかった。今まで自分のことで精一杯であったが、よくよく考えると、似ていないこともない。
「そんなものかね」
「オカルト雑誌の編集者だからな。かなり変っているんだろう。お前たちはいつも二人でいたな。何をしていた?」
「特に、いや、山の中に罠を張ったといえば分かりやすいか」
銀二は少しはぐらかせる。結界を張ったなどという戯言は言えそうにないからだ。
「罠か……。なら今回は期待できそうだな」
と、金蔵は柔和な笑みを浮かべる。
そう、今回は今までとは違うのだ。ビッグベアーを始末するための準備は着々と進み、そして完成したのである。後は、銀二が仕留めるだけ。それだけなのだ。
翌日――。
ビッグベアー討伐のための狩猟組みが組織され、朝から深く山の中の散策することとなった。
一〇月六日。運命の日である。
狩猟組みとは別に、銀二は一人、山の中を歩こうと決意していた。なるべくなら、単独、それもあまり人に見られないほうがいい。それは久雄のためでもあるし、自身の保身のためでもある。どこかずるい印象があるが、この際文句は言っていられない。
三〇年前の今日。ビッグベアーの化身である久雄は、この山に捨てられた。
そして、着実に不知火家を衰退させ、見事にその野望を果たした。それも今日まで、今日ですべてが終わるのだ。そう思うと、どこか感慨深い。伝説に終止符を打つ、登場人物に、銀二は任命された。その役目、必ず果たそう。
ライフルを持ち、銀二は山の中に入る。すると、後ろから追ってくる人物があることにすぐに気付いた。本人は尾行をしているつもりなのだろうが、山の中を歩き回ることに慣れた銀二はすぐに足音や身のこなしを察し、その存在に気づいた。
「知屋城か?」
不意に立ち止まり、踵を返す。
すると、木々の隙間からいやらしい瞳を向ける知屋城の姿がぼんやりと見えた。
「ばれましたか?」
と、愛想笑いを浮かべる知屋城。その表情はやる気とどこか、責任感に満ちていて、不思議に思える。同時に、首元には……。
「バレバレだ。俺を誰だと思ってる」
「流石は銀二さんだ。今回のハントにも期待ができる」
「ビッグベアーを倒すのは俺だ。でないと色々不都合がある」
「まだ久雄さんのことを考えているのですか?」
「当たり前だ。ビッグベアーを倒した瞬間、久雄に戻っちまったら、俺は殺人を犯したことになる。いくら事故だといっても、誰も信じちゃくれないだろうよ。久雄も名目上はビッグベアーを捜索していることになるだろうからな」
「それは大丈夫ですよ。心配いりません。そのための結界ですから」
あっさりと言う知屋城。言葉尻からは自信が感じ取れる。どうしてそこまで自信が持てるのか? それが不思議でならない。何か根拠があるのか? 彼が張った結界は、あくまで結界師が時間をかけて張り巡らせたオカルト的な行為である。そんな拙い結界であるのに、命運をすべて託すことができる知屋城の存在が、どこか恐怖に思える。
「知屋城。首元にかけているのは何だ?」
と、銀二は言う。
彼はその存在を昔見たことがあった。
一〇年ほど前の記憶である。あれをしていたのは確か……、
(久雄だ)
「これはですね」若干の間の後、知屋城は答える。「お守りみたいなものですよ」
「お守り?」と、銀二。鸚鵡返しに問う。
「そうです。銀二さんも一個持ちますか? 本当は久雄さんに渡したかったんですけど、警戒しているようで、受け取ってもらえませんでした」
「そのお守り、俺はどこかで見たことがある。昔、久雄がしていたものと同じだ」
「でしょうね。恐らく、昔この山に結界を張った人物が渡したのでしょう。これには結界と同じような意味がありますから」
「つまり、変化の秘密か?」
「まぁそうですね」
「しかし、久雄は受け取らなかったんだろう。大丈夫なのか?」
「ええ。大丈夫です」
「何故、そう言える」
「結界を張っているし、倒した後に付ければ問題ありませんよ」
何もかもが意味不明。知屋城は確実に何かを知っている。その何かが、果たしてどのようなことなのか? 銀二には理解できない。但し、この青年は……。
急激に知屋城に対する不信感が浮かび上がる。しかし、今更そんなことを言っていられない。彼とは協力関係を結んだし、ビッグベアーを倒すためには、切っても切れない関係なのである。
知屋城と銀二、そしてビッグベアー。
三人の遭遇は近い――。
話は少し前後するが、討伐隊が山に入った午前九時。
久雄は不知火家の中にいた。自室で瞑想をするかのように眼を閉じ、ただひたすらに佇んでいる。
今日、すべては終わるだろう。同時に、自分の命日になるかもしれない。
不知火家とビッグベアーの不思議な縁。絶望と地獄に繋がる関係も今日で終わりなのだ。久雄は部屋の唯一の家具と言っていい机の引き出しから、割れた木の板を取り出した。それは昔、優香がくれたお守りの一部であった。
お守りと言っても、それは名目で、実はビッグベアーに強制的に変化させるためのアイテムであることを久雄は知っている。そして、同時に昨日、知屋城がこれと似ているものを用意し、久雄に渡そうとした事も……。
何故、知屋城はここまで準備が良いのか?
そこまでして記事を載せたいのだろうか? 彼が所属するオカルト雑誌は、全国民に影響を与えるような雑誌ではない。もっとコアで一部の人間に受けるだけの存在である。真実味はゼロに近いだろうし、いい大人なら鼻で笑うような雑誌なのだ。
にも関わらず。知屋城は命の危険を顧みずに取材に望む。まるで、恨みを晴らすかのよう……。そう、恨み、何か得体の知れない成功に対する強いアンビションが感じ取れるのだ。
その感情の変化を、久雄はヒシヒシと感じ取っていた。同時に、昔、その意志の強さを垣間見たことがある。あの刺すようなオーラを放っていたのは、他でもない優香である。当時、十五歳の優香は、少女と女の間に立つ年齢であり、どこか人を魅惑する独特の雰囲気があった。同時に不知火家の人間であり、久雄に対する恨みを持ち、久雄に好意を持つ少女を演じながら、近づいてきたのだ。
その好意に久雄はあっさりと騙された。彼女を愛したし、事実、優香の手を取り、地獄の果てまで逃げたいとすら思えたのだ。
そこまで人を愛することができたのは初めての経験であるし、久雄が生きてきて、この世に残した唯一の痕跡であると言っても過言ではない。もう、遠い昔の話。自分が殺めた女のことをいくら後悔しても後の祭りである。何を言っても仕方がない。
久雄はグッとお守りを握り締める。そしてそれを新しく新調したお守り袋に入れて、最後の行動に移すために、部屋の中で一人瞑想をする。
もう、彼には不知火家を消滅させる気構えがなかった。
ただ、彼を突き動かすのは、銀二と知屋城の許へ行き、彼らによって、始末される現実を見ることだった。
(今日、僕は死ぬ……)
残された不知火家の人物は三人。
『正輝』『美佐子』『千代』
この三名である。彼らは厳重に警備された不知火家の中にいる。ここで変化し、食い殺して、山の中に入るか? あるいはすぐに山の中に入って殺されるか? どちらでも良かった。
久雄が取った選択は、不知火家を殺すということだった。当然銀二や知屋城は分かっているだろう。山の中に入って行ったが、あれはきっと結界を確かめに行ったか、あるいは、他の狩猟者を煙に巻くために、あえて山狩りをする姿を見せ付けたに違いない。
すぐに不知火家を戻ってきて、この家の警備をするだろう。現に、この館の中にも結界が張り巡らされているである。
午後一〇時を回ったとき、久雄は急激な感情の高鳴りを感じた。それに呼応するように銀二と知屋城が山の中から戻ってくる。その姿が人間の意識を僅かに保った久雄の瞳に映りこむ。しかし、その感情はすぐに消え、ビッグベアーという、神、あるいは、悪、の化身に支配される。
気づくと、ビッグベアーに変化し、後の記憶はない。
こんな経験をするのは一〇年以来。やはり、結界の力が効いているのである。ビッグベアーは不知火家の内部で大きな雄叫びを挙げた。
その声は鼓膜を突き破るほど大きく、不知火家の邸内にいた生き残りを地獄に突き落とした。
もちろん、ここまでは予定調和。銀二と知屋城は見抜いている。すぐに邸内に入り、そしてビッグベアー相対する。すぐに激しい銃撃戦が行われる。銀二が不知火家の人間を速やかに外に逃がす。ねずみのように逃げていく、正輝、美佐子、そして千代。三人の表情は絶望に満ちていて、ペストの恐怖に怯える中世の人間のように見えた。
この時、久雄には僅かに意識があった。
(追え!)
遠い場所から声が聞えてくる。
(不知火家を食い殺せ!)
悪魔の声。久雄はライフルを持つ銀二に襲い掛かろうとするが、攻撃はしない。彼の目的は銀二ではない。銀二という盾に隠れている不知火家の三人が標的なのだ。
銀二のライフルの攻撃を掻い潜る。
歴戦のハンターである銀二の攻撃は的確であり、確実に久雄を追い詰めていく。結界の効力が高いのか、いつもの無敵の力が軽減されている?
いや、軽減どころではない。むしろ逆に……。
(殺せ、殺せ、食い殺せ!)
その思いは一歩歩む毎に強く、激しく脳内を刺激する。
拒食症の患者が、食べ物に異常に執着を見せるように、ビッグベアーもまた、不知火家の生き残りを始末するために、感情をコントロールされていた。
それはまるで、どこか遠くから遠隔操縦されているような感覚である。
ビッグベアーは銀二の攻撃を掻い潜りながら、不知火家の人間に襲い掛かる。すべての力を……、溢れ出る力を搾り出すように。
これまでにないほど、ビッグベアーは暴れ狂った。本当に、結界が機能しているのか、分からないくらいである。頑丈にできた不知火家の壁を壊し、どんどんと破壊を進めるビッグベアー、感情は高鳴り、そして、久雄は人間としての気持ちを完全に忘れている。我を忘れたというのはまさにこの事で、地獄絵図が目の前に広がる。
慌てていたのは、銀二や知屋城のほうであった。特に知屋城の驚きはハンパではない。まさかここまで久雄が暴れ狂うとは思っても見なかったのである。
結界を張られ、その力はかなり抑えられているのではないのか? にも関わらず、ビッグベアーはかつてないほど興奮し、そして不知火家を破壊しようとしている。文字どおりの破壊行為。
人間を殺し、住む場所も破壊する。
もう、後がない生物が最後に見せる悪あがきのようにも感じられる。
ライフルを放ちながら、銀二はあまりの状況に頭を抱え始めた。これは想定外の出来事である。久雄は既にただの熊ではない。霊獣……、害獣……、神の化身。
否、地獄からの使者だ。これを止めなければ、不知火家は本当に今日滅ぶ。粘ついた汗が銀二の額を滑り落ちる。季節は秋で、一〇月。夏の暑さはまったくないのに、体中からは粘着質の汗が流れるのだ。
「知屋城。後ろにいろ。大分、話が違うじゃねぇか」
荒れ狂うビッグベアーを前に、何とかそれだけを言う銀二。
怪訝そうに、そして慌てふためき生命の危機を感じている知屋城は答える。
「これは想定外ですよ。どこにそんな力が。まさかここまでとは」
眼を細め、知屋城はビッグベアーの首元を見つめる。そして、この奇怪な行動の源泉を導き出す。ビッグベアーの首元にはお守りが捧げられている。あれが原因かもしれない。しかし、あのお守りは……。
「銀二さん。もしかしたら、あのお守りに影響されているのかもしれません」
ふと、銀二はお守りに視線を注ぐ。
ビッグベアーの体躯は大きく変ろうとしているではないか。金色のたてがみが一層伸び、それが全身を覆い始めた。マリー・アントワネットはフランス革命が起こり、一日で白髪になったと噂されているが、まさにそれと同じ現象がビッグベアーにも起こり始めた。
つまり、全身が滑らからで艶のある金色に染まり始めたのである。その神々しい姿は見るものを一旦魅了し、芸術の世界へ導くようでもあった。こんな事態を誰が想像したであろうか? すべて予想の範囲を超え、誰もビッグベアーを止めることができなかった。
このまま不知火家へ残ることは危険と判断した銀二は、一旦退散することを余儀なくされた。不知火家を飛び出し、そして外に出る。
外に出ると、冷たい風が吹き、騒ぎを聞きつけた村の有志やハンター、そして警察がぞろぞろと現れ始める。もちろん、多くの野次馬もいる。映画撮影さながらの環境が出来上がる。当のビッグベアーはというと、不知火家を完全に破壊し始めている。体躯は巨大化し、五m近くあるのではないか?
そして金色に染まる毛並み。それはまさに悪魔の擬人化でもあった。
「ど、どうしてこんなことに……」
ワケが分からぬといった体で、知屋城が呟く。彼の驚きも無理はない。完全に勝機を掴んでいたのにも関わらず、その勝機はあっさりと手のひらを滑り落ちた。今、残っているのは、完全なる劣勢状態。
あの巨大な体躯を前にしては、一般的なライフルは一切通用しないだろう。この場にいる誰もが阿鼻叫喚の地獄を意識し、ビッグベアーを山の神であると認め始めた。山の神の怒り。あるいは祟り。そんな感覚がすべての人間の身体に、覚せい剤を打つように染み渡っていく。同時に、激しい敗北感を与えはじめた。
目の前で、杉沢村のシンボルである不知火邸は完全に破壊された。
燃えて、粉々になり、修復することが不可能であると、誰の眼にも明らかである。そして、その壊された邸内からどすどすと使者が現れる。いわずもがな、それはビッグベアーである。真っ赤な炎に照らされた金髪は、神々しく、見るものを唖然とさせる。これは完全に化け物だ。最早、熊ではない。
「知屋城、どうする? あの巨体じゃライフルは効かない」
と、銀二は言う。
問われた知屋城であったが、彼は脳内をフル稼働させ、何とか事態を収束させようと躍起になる。しかし、この場でそんな都合のいい答えは浮かび上がらなかった。
巨大化したビッグベアーを前に、村人たちは逃げ惑う。その中には、ハンターたちもいたし、野次馬や警察官もいた。皆、自分の命が惜しいのである。特にこんな怪物を見た日には腰が抜けるほど驚くはずである。
まさに杉沢村に伝わる、伝説的な怪物が目の前に現れたのだから……。
ビッグベアーは失われた力を取り戻すかのように、鋭敏な感覚を研ぎ澄まし、標的を探している。標的というのは、不知火家の人間である。彼らは皆、麓にある村へ逃げていた。しかし、この状態である、いつまでも安全というわけではない。
極限まで研ぎ澄まされたビッグベアーの感覚は、容易に不知火家の人物の場所を導き出した。そして、四足で高速に移動を始める。人間たちは逃げ惑い、それをかきわけるように進むビッグベアー。
「彼奴はどこへ行くんだ?」
と、銀二は誰に言うでもなく呟いた。何となく、その場所は分かっていたが、あえて尋ねることで、現実を理解しようと試みていたのである。すると、その言葉を聞いていた知屋城が持論を展開する。
「恐らく、不知火家の人間を滅ぼしに、今、不知火家の人々はどこへ?」
「麓だ、多分だが、狩猟会の会議室にいるはずだと思う」
「そこに行きましょう」
身体は根を張ったように動かないが、なんとか身を起こすように足を動かす。どの道、このままでは事態は終息しない。
「あの巨体じゃライフルは通用しねぇな。完全に俺たちの負けだ。やっぱりありゃ神の化身だよ」
「こんなことはありえないのに……」
「だが、そんなありえないことが、現実に起きた。結界は効かず、逆にビッグベアーに力を与えた。これはどういうことだ?」
銀二には答えが分かっていた。同時に、一連の事件の真相を見抜きつつある。
ビッグベアーの行動力、そのスピードは完全に熊のものではなかった。戦闘機のように素早く、山を駆け下り、あっという間に狩猟会の会議室へたどり着いた。そして、不知火家を破壊した時と同じように、狩猟会の事務所を、まるで玩具の家を壊すように、壊滅させ始めた。中にいた人間たちが危険を感じ、ぞろぞろと蟻のように外に飛び出してくる。
そして、皆、異形の姿になったビッグベアーに恐れをなして、腰を抜かしている。その中に、不知火家の生き残りである『正輝』『美佐子』『千代』の三名がいた。彼らは驚きに顔を歪めていたが、すぐに自分たちに迫る、圧倒的なカタストロフに気がついた。
つまり、今日ここで、自分たちは死ぬ――。
そんな感情が体内を流れ、逃げるという選択肢を完全に阻害していた。ただ、漠然と撃滅される、狩猟会の会議室を眺めている。
「お父さん。もうすぐですよ……」と、千代が呟く。
この言葉を聞くものは誰もいない。
この状況を誰よりも理解していたのは、千代であった。彼女は冷静にビッグベアーを見つめ、そして情態の根源を察している。ビッグベアーが巨大化し、このように暴れ狂い蹂躙しているのには理由がある、それは誰もが諒解している事実であろう。同時に裏で糸を引いている人間がいる事も分かっていた。
狩猟会の事務所は、なんとものの五分程度で破壊されてしまった。地獄の業火に焼かれたように燃える事務所。その光を背中に受け、巨大化したビッグベアーが現れる。そして、さもそれを行うことが当然かのように、素早く外で立ち尽くす千代の許へ近づいた。
あっという間に首を吹き飛ばし、千代の肉体を食らう。
覚悟を決めていたであろう千代は叫び声一つ挙げず、人形のように死んでいった。残された人間は正輝と美佐子の二人であったが、彼らももう、自分たちの『生』は諦めていた。この生物を前にして、生きる希望を見出せる存在は少ない。
やがて、後を追ってきた銀二と知屋城が見たのは、他の追随を許さない地獄であった。
不知火家の躯が、ゴミのように散らばり、それを貪り食らうビッグベアーの姿。敗北の二文字が浮かび上がり、銀二を激しく束縛する。
「俺たちの負けだ。完全に……」
銀二は言う。この時、彼は冷厳に敗北を認めていた。
巨大化し、この世の生物を越えたビッグベアーを前にして、一切の努力は通じない。この場に原子爆弾が炸裂してもビッグベアーは無傷なのではないか? そんな風に思えるのである。
不思議なのは、ビッグベアーの変化が終わらないことである。
ビッグベアーの目的は果たされた。つまり、不知火家を消滅させ、山を破壊し、邸宅もぶち壊した。これ以上ない戦果を挙げたのである。にも関わらず、ビッグベアーはその勢いを止めようとはしない。これは何を意味しているのであろうか?
「不知火家はもう一人いるんだよ」
銀二は言う。あまりに冷淡に響く声。
狩猟会の事務所は燃え、そして不知火家は死滅している。徹頭徹尾、ぶれることなくビッグベアーは目的を果たした。完膚なきまでの敗北。しかし、銀二の隣の立つ知屋城だけが、満足そうな顔を浮かべている。
その蠱惑的な表情に、銀二は気づいた。
(やはりこの男か……)
そう念じた後、銀二はゆっくりと口を開いた。
「お前が悪の根源か?」
「僕が悪の根源?」
繰り返し言う知屋城。飄々としている。まるで、この状況を楽しむように、あるいは願っていたかのように。
「そうだ」銀二は言う。そしてライフルを突きつけた。本来、このような危険な行為をする銀二ではない。「お前の仕業なんだろう。俺は久雄が不知火家の生き残りだと思った。だが、もう一人いるんだ。結界もお守りもすべて嘘だ。お前自身が不知火家に対する恨みを持ち、そして破壊を計画したんだ」
……。
沈黙が続く。
できの悪いミステリ小説を読んでいるかのような、すっきりとしない感覚。
「お前は不知火家と繋がりがある。そうだな?」
銀二は告白する。
と、同時に、ビッグベアーの行動がぴたりと止まる。まさにこの告解を待っていたかのように。破壊活動がやみ、火花の爆ぜる音だけが界隈に広がる。村の有志たちや消防車がやって来る音が、次第に大きくなる。
このまま行けば間もなく消火活動が始まるだろう。
その時、ビッグベアーはどうなるのか? それは誰にも分からない。
「どこにそんな証拠がありますか?」
あくまで冷静な態度を崩さない知屋城。彼は淡々としている
「証拠か、それはお前のしているお守りと、そしてこの界隈に張り巡らせた結界とやらだ。あれはすべて、ビッグベアーの能力を極限まで高めるようにセットされていたんじゃねぇのか?」
「オカルトですね。銀二さんがそんなことを信じるとは思えませんよ」
「だが、それしか考えられねぇ。正直に言え。知屋城、お前も不知火家の人間なんだろう。そう、久雄と同じように……」
その台詞は、知屋城を凍りつかせるのに十分であった。今まで淡々としていた彼の動きが止まり、ロボットのように硬直する。知屋城が不知火家の生き残り。その背景は分からない。しかし、不知火家には癌である彦治という人間がいた。
彼に隠し子がいたとしてもまったくをもって不思議ではない。
久雄が山に捨てられ、そして拾われたように、何らかの気まぐれや運命が作用し、知屋城という人間を作り出していてもおかしくはないのである。
「どういうことですか?」
森閑とはほど遠い環境の中、知屋城は口を開く。
対面には銀二、反対側にはビッグベアーがいる。恐らく意志を持っているであろうビッグベアーは破壊しつくした狩猟会の事務所をバックに、まるで話を聞くように立ち止まった。危険は過ぎ去ったのか?
「既に残っている不知火家はいない」
そう、千代が殺され、その後、正輝、美佐子が食い殺された。その事情を鑑みれば、既にビッグベアーの目的は果たされたことになるのだ。なのに、ビッグベアーは消滅することなく、神の化身の如く立ち尽くしている。その姿を見る限り、まだ目的があるということは容易に見てとれるのだ。
「不知火家……ですか」
と、知屋城は言う。
心持、安堵しているようで、目的を達成した喜びのような気持ちが垣間見える。彼には何か秘密がある。どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろうか? 銀二は自分自身に腹が立ち、洗濯機に放り込まれたかのように混乱する。
よく考えれば、すべては出来すぎているではないか?
東京から来たオカルト編集者。ただの編集者がここまで不知火家をリサーチし、尚且つ自分で結界という名の、不思議な作業を行うだろうか? 普通なら、何か理由があると考えるだろう。
それでも当時の銀二にはそんなことを考えている暇がなかった。自分の宿命。つまり、ビッグベアーを倒すということばかりが前面に出て、全体を把握するということをしなかったのである。その結果がこの様……。
不知火家の人間は死滅し、残されたのは、ビッグベアーに変化した久雄と、そして闇に包まれた知屋城という人間の二人。
どこまでも暗黒な二人の人間。今更不知火家の人間が増えたとしても、最早どうにもできない。
「僕は」知屋城は言う。パチパチと火花が爆ぜる音と、静かな声が融合し、荘厳な雰囲気を奏でる。辺りには野次馬や金蔵、警察の姿もあり、銀二と知屋城の告白に耳を立てている。皆、何が起こっているのかわからない様子である。
それは当然だ。三〇年という長い月日、ビッグベアーを追ってきた銀二であっても、このような結果になるとは思っても見なかったのだから。
「不知火家の人間ですよ。同時に恨みを持っている。だからビッグベアーを利用し、一族を壊滅させようと考えたんです」
あっさりと自白する知屋城。
もちろん、ビッグベアーの久雄も聞いているだろう。血と火の赤焼けた光に染まるビッグベアー。さながら神の化身。巨大化した体躯は依然として見る者を恐怖に陥れ、不思議な感覚を与える。
「彦治が関係しているな」
「そうです。彦治という人間は、不知火家に対して悪鬼でした。彼には複数の私生児がいました。つまり、隠し子です。その数は二人。一人は久雄。もう一人は他でもない僕です。その事実に、千代は気づいています。だから久雄を冷たくあしらったし、気まぐれにスカーフを渡したりしたんですよ」
「どこでその事実を知った?」
「この情報化社会。調べればどんなことだって分かります。僕は養子として育ちました。久雄は山に捨てられたみたいですが、僕の場合は違うみたいです。そして、幼いときに、自分の母親らしき人間と出会い、その運命を聞きました」
「まさかその母親というのは……」
暗黒面に落ちたかのように、銀二は尋ねる。
次の瞬間に放たれる言葉が、簡単に察せされた。秘密は暴露される。この場にいて良いのだろうか? 何もかもが造られ、人工的な環境の中、知屋城は告白を続ける。
「そのまさかですよ。僕の母親は、あなたの許婚であった、小夜子さんです。彼女は自分に引け目を感じていた。だからこそ、あなたの求愛を受け付けず、ビッグベアーに蹂躙されるという運命を選択したのです。つまり、ビッグベアーを利用し、死を選んだということですよ」
「そ、そんなバカなことが……、否、待て、確か小夜子が一度村を出て行ったことがある。あれはもしかしてお前を産むために」
銀二はその言葉が信じられぬといった体で、ガクリと膝を折った。ライフルが地面に落ち、『ガチャン』と大きな音を立てる。危うく暴発するところであったが、その危険はなくなった。
今まで、自分は何をしてきたのだろうか? 小夜子のために一生を捧げた。そして、彼女を取り戻し、自分の天運を信じてビッグベアー討伐のために命をテディケートしてきた。それは間違いのない事実であるし、己の信念でもある。しかし、その城のような荘厳な思念も今や風前の灯。
「世間は狭いでしょう。僕は不知火家の人間なんですよ」
そう言った後、知屋城は久雄を睨みつける。彼の変化が終わらないのは、目の前に知屋城という人間がいるからだ。巨大化したビッグベアーと、ほとんど丸腰の知屋城。まともにぶつかり合えば、どちらに勝機が転ぶかなど考えるまでもない。
「さて、久雄……。僕を殺してくれ。僕の役目は終わった。僕は復讐を果たしたんだ!」
その眼には涙が見える。オレンジ色に輝く涙。どこまでも悲しい旋律を帯び、やるせない感情が銀二を覆っていく。自分の役目とは一体何なのか? 既に知屋城は死を覚悟している。彼は死ぬつもりなのか?
ゆっくりとビッグベアーが動き始める。
どすどすと地響きを起こし、そして知屋城の前にやって来て、小さくなっている知屋城を見下ろす。赤子と大人。そんな関係である。生殺与奪の権利はすべてビッグベアーが握っている。彼奴は知屋城を殺すのだろうか?
丸太のような太い腕が高らかに持ち上げられ、まさに怒りの鉄槌が振り下ろされる瞬間、銀二は動いた。身体が勝手に動いた。支配されるように、小夜子という自分が愛した人間の子供。裏切られた気持ちと、悲壮感が漂う中、彼はビッグベアーに突っ込んだ。
武器は持っていなかった。ビッグベアーの鉄槌が、生身の人間である銀二に直撃する。既に七〇歳を越える銀二の身体は決して丈夫であるとは言えない。ビッグベアーの攻撃をまともに食らい、その老体は真っ二つに割れた。辺りから阿鼻叫喚の叫び声が聞える。ビッグベアーは銀二の行為に驚いたようであり、同時に知屋城も倒れ込んだまま、血に濡れる銀二のことを見つめた。
「な、何をしてるんですか?」
慌てふためき、知屋城は言う。
「これで良いんだよ。ビッグベアーの能力は不知火家限定だ。それを破ればきっと……」
ビッグベアーが不知火家以外の人間を殺したのは初めてである。否、これが最初で最後であろう。するとどうだろう。ビッグベアーの身体が、あの頑強な肉体がみるみると風船のように萎んでいくではないか。
そして、完全に小さくなったとき、金色のたてがみに包まれた人間の姿に戻った。
それは言うまでもなく久雄の姿だった。しかし微動だにしない。その姿は完全に絶命している。運命という呪縛から解き放たれて、彼の表情は安堵しているようにも見える。
周りにいた人間たちの嘆息する声、そして悲観する感情が爆発し、騒々しいことになった。皆、どことなく事件の終焉が後味の悪いものになったと察している。
不知火家の死滅。
そして、ビッグベアーの正体と、陰惨な背景。
伝説は終止符を打たれたが、杉沢村の新たな伝説として、きっと語り継がれることであろう――。
銀二は己の身体を盾に知屋城という人間を守った。
ビッグベアーが人間であったということは、伝説となり、後々の杉沢村に語り継がれる。しかし、皆、積極的にそのことを言うことはしなかった。不知火家という人間が消滅し、村は新しい体勢になる。相変わらず、若者の流出は止まらず、ひっそりとした村となっている。
知屋城は最後の不知火家の人間として生きることはしなかった。法改正により、遺産を相続することはできるが、彼はその道を選ばずに、村の再生のために資金をすべて使い、元のオカルト編集者に戻った。
彼に首には、死の直前、ビッグベアーが巻いていたスカーフと、お守りが下げられている。これが、知屋城にとって、久雄に対する手向けの印でもあった。複雑にいりくねった運命を乗り越え、知屋城は生きることを選択した。
こうして、ビッグベアー伝説は閉幕する。
ビッグベアー伝説は村人の胸に深く刻まれ、やがて風化していくことだろう。
村は今日も生きつづける――。
〈了〉




