The Big Bear
第二章――
傷が疼く。そう感じていた。
久雄はあてがわれた自室の中で、そんな風に思いを巡らす。そして、徐に上半身を覆っていたシャツを脱ぎ、半裸になる。決して、ナルシスト的な嗜好から自分の肉体を見たいわけではない。ボディビルダーのように極限まで研ぎ澄まされた身体。その肉体が部屋にある小さな鏡に映っていた。
部屋の大きさは狭く屋根裏のようである。久雄は身長が一九〇㎝に迫り、大柄のため、余計に部屋が小ぢんまりとして感じられる。その広さはおよそ三畳半。一般的な四畳半の室内よりも狭い。
そんな小屋のような場所で、久雄は三〇年間暮らしていた。不知火家の一族は、久雄に対しそのような処遇を与えていたのである。しかし、久雄は何の文句も言わなかった。生まれながらに山に捨てられ、この世の辛酸を若くして舐めることになった久雄は、自分の力がどこまで無力であるか、痛いほど分かっていた。
但し、久雄の体躯を持ってすれば、不知火家を制圧するくらいわけないことである。事実、巨大な肉体を持つ久雄に対し、千代は恐れを抱いていたし、元当主の彦治も一目置いていた。だからこそ、久雄を可愛がったのかもしれない。
久雄は誰にも懐かなかった。人に甘えることが愚かな行為であると錯覚していたのである。同時に、自分に芽生えた謎の力の使い方も心得ていた。
彼の背中には特殊能力の秘密であるのか、黄金の毛が生えている。馬のたてがみのように。それはまさに神が己を特別に創った証拠であるように思えた。毛は抜いても、剃っても、綺麗に再び生えてくる。そして、『六』の日になると黄金色に輝き、如何ともし難い能力を発揮するのである。
能力――。
それはなんであろうか?
ギリシア伝説を見てみよう。すると、神々たちが人間たちと交わり『半神・半人』の生物を作り出す。このような伝説はギリシア伝説だけではない。古今東西の多くの伝説、あるいは民間伝承に伝わる、ありきたりな話であると言えるだろう。
どうして神々が人間たちを交わるのか? それが正しければ、その子孫。つまり、神の血を告ぐものがこの世界のどこかに生きているということになる。日本には八百万の神がいるとされている。ならば、その血を引く者もどこかに……。
久雄は自分が特殊な血を引く人間であると考えている。その証拠も持っている。
単刀直入に言おう。
ビッグベアーの正体は久雄である。彼が変化し、不知火家を襲い、消滅させようと試みているのである。それもあえて長い年月をかけて、じっくりと狂わせ、料理をしようと考えていた。それも、もうすぐ終わる。
いや、もう終わっていると言っても過言ではない。既に跡取りは殺したし、残りの人間は気まぐれに殺せばいい。そんな風に思っていた。また、誰も自分がビッグベアーであるとは思っていないのだろう。
気がかりなのは、東京から来たオカルト出版社の知屋城。そして村の狩猟会の面子である銀二の二人。しかし、フランツ・カフカの『変身』のように、突然人間が謎の生物になることなどありえない。そんな風に考えるのが自明。知屋城や銀二だって、心の中では久雄がビッグベアーであると思考しているわけではないだろう。
久雄は左肩に手を当てる。異様な回復力を持つ肉体は既に怪我を八〇%ほど治しているが、口内炎のようにぐちゅぐちゅとした傷口が肩にはある。もちろん、銀二から受けた攻撃である。銀二のライフルの一撃が、久雄を襲った。弾は貫通しなかったから自分で取る羽目になった。
取らないと、そこから化膿し、痛みが若干出るからだ。久雄は長さ五㎝に迫ろうかというフルメタルジャケットタイプの弾丸を手のひらで弄ぶ。これが人に直撃したら、ひとたまりもないだろう。肉体を破壊し、容易に死に誘う。そんな死神めいた銃弾である。
久雄はそれを部屋の唯一の家具である小さな引き出しに入れた。その中には、小瓶があり、今まで受けたライフルの銃弾が入っている。これは久雄しか知らない秘密。同時に、久雄がビッグベアーであるという証拠。
いずれにしても、人が熊に変化するなど信じられない話である。誰も信用しないだろうし、信憑性のない出来事。だからゆっくりと、緩く縄を締めるように不知火家を殺せば良い。
なぜ、彼は不知火家の人物の狙うのか? それは天の意志である。山の熊たちはその昔、自身の子供をことごとく、不知火家の人間に殺された。蹂躙されたといっても良いだろう。当時の当主、彦治はその権力を十二分に発揮し、好き放題を重ねていた。その彼の気まぐれ、あるいは趣味の一つが狩りをすることだった。
ライフルを持つ人間と熊。体格はまったく違うが、持っている武器は雲泥の差である。何しろ、不用意に近づくことができない。しかし、小熊はそれを知らないのだ。興味本位で人間に近づいてしまう。何にでも興味を持つのは、人間も熊の子供も一緒だ。好奇心を消すことは難しいのである。
子供を殺害された熊は、己の境遇を呪い、不知火家へ対する恨みを募らせた。その邪悪な思いが悪魔を呼んだのか? あるいは目覚めさせたのか? それはオカルト狂であっても分からない。だが、熊の意志が、三〇年前捨てられた久雄の体内に宿ったのは間違いない。
久雄は生まれながらに自分の宿命に気づいていた。そして、不知火家へ拾われることも分かっていた。彦治は山に捨てられた久雄を見つけ、そして背中に生える奇妙な毛に注目していた。その畸形が彼の気まぐれに火をつけて、不知火家へ久雄を迎え入れる行動を起こしたのである。
地獄からの使者である事も知らずに……。
久雄は再び、肉体を見た後に、千代から貰ったスカーフがないことに気がついた。
彼は一家から冷遇されている。別にそれは構わない。どうせ死ぬであろう人間たちから、冷や水を浴びせられたとしても、それは久雄にとっては最後の悪あがき、つまり、稚児の駄々に過ぎなかった。
(スカーフを落としたか……。まぁ仕方ない)
と、久雄は思いを巡らす。
決して、気に入っていたものではないが、傷を隠すのに便利だったので、今回は肩の傷を隠すために使おうと考えていたのである。あの一五〇㎝ほどのスカーフから、知屋城や銀二が答えを導き出そうとしているとは思いも寄らなかった。久雄は服を着て、部屋から出て行く。するとちょうど、そこに今まで頭の中で考えていた知屋城と銀二の二人に会った。
彼らは話によれば、ビッグベアーの捜索に出かけていたはずである。時刻はまだ午前中。日も高く昇っていない。帰ってくるにはまだ早い。一体何の用であろうか?
「これ、久雄のだな」
と、銀二は言う。そして、赤褐色のハンティングベストからスカーフを取り出した。
藍染の千代から貰ったスカーフ。拾ったのは不幸にも銀二であったのか。久雄は表情を一切変えぬまま、
「ありがとうございます。探していたんです」
と、答えた。
「これ、どこにあったと思いますか?」
そう尋ねたのは、銀二の隣に立つ知屋城。今日の彼の格好はラフであった。スーツをまとわずにTシャツの上に綺麗な白シャツを羽織り、下は色落ち加工がされたデニムパンツを穿いている。遊びに来たわけではないが、この軽装にはいささか憎しみが湧く久雄であった。
あくまで冷静さを繕いながら、久雄は質問に答えた。
「さぁどこにあったんでしょうかね?」
「山ん中ですよ。それもビッグベアーがいたとされるところです」
これは意地の悪い答えである。正しくはビッグベアーの足跡があった場所に落ちていたのであるが、ビッグベアーがスカーフと関係しているとは一〇〇%正しいとは言えない。平たく言うと、知屋城は久雄を試そうとしていた。
「ビッグベアーのところですか。それは不思議ですね」
「あなたは昨日、ええと、午後三時から夕方にかけてどこにいましたか?」
「まるで、警察の尋問みたいですね。昨日なら山の中にいましたよ。ビッグベアーの日ですから警戒しなければなりません。それに隼人様と優馬様が山の中に向かったという目撃情報がありましたら、彼らを探していました。しかし、残念なことになりました。隼人様は食い殺され、優馬様は酷い精神的なショックに見舞われた。不幸なことです」
胸の前で十字を切るように久雄は言ったが、表情は相変わらず無感動、無関心。本当に不幸を感じ、悲しんでいるとは思えない。どこまでも淡々とした表情は、感情が宿らぬロボットのように見える。
「山ん中には一人で入ったんですか?」
続けて、知屋城が尋ねる。もちろん、その質問に真っ直ぐに答えた。
「もちろんです」
「武器は?」
「武器? しいて言えば斧ですかね」
本来は斧など持っていなかった。しかし、久雄はそう告げる。
「斧って、そんなものでビッグベアーと対峙するつもりだったんですか?」
「ええ。そうですが、私は狩猟会に所属していませんし、免許も持っていませんから、銃を携帯することはできません。それにビッグベアーは私を襲いません。彼奴が誰を襲うかは、あなたも十分に御存知でしょう」
「不知火家を襲撃することですね。昨日は不知火家の中にも侵入してきたのですよ」
「知っています。ビッグベアーの知能、そして行動力を考えれば当然のこと」
「ビッグベアーの知能は熊を越えています。不知火家の間取りも把握しているし、人間以外には決して手を出さない。ええと、食物をとったり、家具を破壊したり、そんなことは一切しないということです。その件についてどう思いですか?」
まどろっこしい質問である。
久雄は早く話を切り上げたかった。どうして自分の聞きたいことを真っ直ぐに聞いてこないで、意味のない変化球を投げ続けるのだろうか? それが不快で堪らなく感じられる。
同時に、久雄は銀二と知屋城が事実に近づいてることを察した。三〇年かかったが真相にたどり着く人間がいたのである。
二人とも地獄を垣間見たような面持ちをしている。
「何か知っているという感じですね」
あえてはぐらかすように言う久雄。
それに対し、ずっと黙っていた銀二が口を開く。
「信じられねぇ話だが、聞いてくれるか?」
「構いませんよ」
「久雄。お前とビッグベアーは何か繋がりがあるんじゃねぇか?」
やはり、真相を突いている。銀二と知屋城は自身がビッグベアーではないかと感づいているのだ。それは不可解なことであった。なぜなら、人間が熊に変化するなど本来はありえない行動だからだ。人間には不思議はない。
オカルト的な行為はいつの時代だって淘汰されることになる。
魔女狩りしかり。
黒魔術しかり。
錬金術しかり。
しかし、銀二も知屋城もそんな世間の常識を超えて、突っ込んできた。その猪突猛進さにいささか驚きを覚えた久雄であったが、すぐに冷静さを取り戻した。熊と人間の半陽だから持つ、特殊な泰然自若とした態度。
「私が」久雄は言う。「ビッグベアーと関わりがある。どうしてそんなことを言うんですか?」
「不知火家の人物の中で、唯一襲われないのが、お前だ。これはもう何かあるとしか」
そこで一旦、銀二は口を閉ざした。静寂が辺りを支配するが、すぐに銀二はそれを破った。そして、同時に久雄の左肩を指差し、
「久雄。左肩を見せてくれねぇか?」
「左肩ですか」
久雄は躊躇する。その僅かな変化を銀二は見逃さない。
「あぁ。随分と前の話になるが、聞いてくれるか? 俺はビッグベアーを追い詰めたことがある。首をライフルで撃ち抜いてやったんだ。あの時は『殺った』と思ったよ。しかし、ビッグベアーは異常な神通力が働いているかの如く、まったく痛みを受けていないようだった。俺も長いこと狩猟人生を送っているが、あんな生物は初めてだよ。人間も熊も、主要な器官や体の構造は似ている。首っていうのは生命を司る重要な部分だよ。そこを打ち抜いた。通常ならどうなる?」
「さぁ。ビッグベアーは特別ですから、生きていてもおかしくはありませんよ」
「普通なら死ぬさ。だが、ビッグベアーは死ななかった。微動だにせず、立ち尽くしてたよ。俺はあの時のビッグベアーの眼を忘れねぇ。どこまでも研ぎ澄まされていて、平静だった。まるで焦っていねぇんだよ。こんなことはありえない。さらに不可解なのは……」
再び、銀二は言いづらそうに口を閉じる。
その先に言いたいことが久雄には十分良く分かる。銀二はことの真相に完全に気づき、そして把握している。それはもう間違いのない事実だ。しかし、幻想と現実の間で揺れているのである。
一般的には、人は怪奇を信じることができない。だから小説や映画がある。フィクションの話だから安心して身をゆだねることができるのだ。実際に不可思議な現象が起きると、必ずそれを検証し、人によっては信じるし、信じない場合もある。銀二と知屋城の場合、信じるという選択を取ったようである。これは久雄にとってはマイナス。
彼はもごもごと口を動かしながら、若干傷ついた左肩を摩った。少しだが、『ピリ』とした痛みが走る。
「私がビッグベアーと同じ箇所を怪我し、千代様からスカーフを頂いたということを言いたいわけですね」
と、察しの良い久雄は言った。
その言葉に、銀二も知屋城も首を上下に振り、肯定して見せた。もはや、隠しておくことはできそうにない。しかし、ここで変化することはできない。久雄の能力。つまり、ビッグベアーに変化する力は万能ではない。
無敵の力ではないのだ。能力が開花するのはあくまで『六』の日のみ。満月の夜、狼男に変化するように、期間限定の力。『六』という神秘的な数字の日にしかビッグベアーになれないのだ。それをここで言うことはしないが、久雄はさらに考えを進める。
さらに言えば、久雄の力は不知火家限定と呼べるだろう。不知火家への復讐心が久雄とビッグベアーを繋げたのだ。故に、ビッグベアーとなり、攻撃を仕掛けることが可能なのは不知火家しかいない。その誓いを破れば、どのような制裁が待っているか分からない。恐らく、死に近いことになるだろうし、能力も失うだろう。
漠然とではあるが、久雄はそんな風に思いをめぐらせていた。同時に、三〇年という長い間、その誓いを守り続けてきたのである。
前世の記憶というものがあるだろうか?
いや、そもそも前世というものは存在するのだろうか? 人の前世はスピリチュアリズム的に解釈すると、人は人にしか生まれ変わらないらしい。それが正しいのかはここで討論しないが、久雄は間違いであると思っていた。
彼には確かに前世の記憶がある。それは熊としての前世。殺害された熊としての生活の記憶が久雄にはあるのだ。それは決してこびりつき取れない汚れのように久雄の頭に食い込んでいる。生まれた時からその記憶はあった。同時に、自分を殺した相手も知っていた。それは言わずもがな、不知火家の元当主、不知火彦治その人である。
不知火家への復讐を誓い、赤子の頃から恨みを晴らそうと虎視眈々と策略を練っていたのだ。金色の背中のたてがみを持ちながら。
中国の奥地の村に、前世の記憶を持つ村がある。
そこでは完全に輪廻転生が信じられており、数多くの人間が生まれ変わりを信じている。本来、輪廻転生とは近しい部分でのみ起きる現象なのだ。つまり、昔の恋人の子供として生まれ変わることだってある。世間は狭いというけれど、人の前世のつながりも案外狭いのかもしれない。
「久雄。聞いているか?」
考え込む久雄。ついつい沈黙が長く続いてしまった。待ちきれなくなった銀二が、再び言葉を継ぎ、
「左肩を見せろ。それで話は終わる」
「私は男性の前で半裸になるほど、愚かな人間ではありませんよ」
久雄は頑なに断る。決して半裸になるのがいやなわけではないが、この場で傷を見せるのは、自分の甘い部分、弱点をみせるようであまり良い気持ちがしなかったのだ。
「脱ぐ必要はない。少し見せてくれればいい。仮に何もなければ、それで話は終わる。お前だっていやだろう。自分がビッグベアーではないかと疑われているんだ。それを払拭するには良いチャンスだと思うが」
「あなたがたは、本当に私がビッグベアーだと思ってるのですか? だとしたら驚きなオカルティストだ。記者である知屋城さんは分かりますが、銀二さんがそのような戯言を信じるとは思えませんね」
「お前には、たてがみがあるだろう? 俺はそれを知っている」
「たてがみ、それは背中に生える金色の毛のことですね。確かにありますが」
「ビッグベアーの背中にも金色の毛がある。これはもうお前とビッグベアーが……」
同一であるという証拠。
銀二は最後まで言わなかったが、口にすべき言葉は分かった。
肩の傷、首の傷。そして金色に輝くたてがみ。証拠は揃っている。これだけの物証があれば、奇跡を信じることはそう難しいことではないだろう。
「仮に……」久雄は言った。「私がビッグベアーだとしましょう。それを誰が信じるというのです? 警察が信じますか? 法的に私を裁けるのですか? 世間の人間がそんな怪奇現象を信じると思っているのですか?」
確かに久雄の言うことは正しい。
現行の法律では久雄を裁くことは難しい。いや、厳しいだろう。
彼を裁くためには、久雄=ビッグベアーであることを立証しなければならない。そんな奇跡に近い現象を明らかにすることはできないだろう。久雄は自分の意志でビッグベアーに変化できるのだ。ならば、変身しなければ良いだけの話。
それに、法律家も警察も、さらに世間の人間もこのような奇術めいた話を信用するはずがない。熊が人間になる。そんなバカな話があってたまるものか。悠々と久雄は解放されるだろう。それだけの自信が彼にはあった。
「誰も信じねぇだろうな。だが俺と知屋城は信じている」
と、久雄は確固たる決意を持った声で言った。その隣にいる知屋城も首を上下に振る。この歳の差五〇年近いコンビはオカルトに身をゆだねつつある。ありえない現象を信じ、それに向かって一直線に走ってくる。
見ていて心地良い。同時に自分の存在を確かに認められているような気分にもなる。しかし、勝負はついている。来月にすべてを終わらせよう。ちょうど三〇年。ビッグベアーの伝説の終幕には相応しい年月。いや、時間がかかりすぎだ。仮に不知火家への復讐が終わった場合、久雄はどうなるのだろうか? そのことは誰にも分からない。
能力が消滅するかもしれない。
事実、消滅するといっても過言ではない。前述の通り、久雄の力は不知火家へ対する憎悪の念が生み出した力なのだ。その一族が息絶えれば、能力を使う意味がない。
「お前の左肩には傷があるはずだ。俺が昨日つけた生生しい傷が……」と、銀二。
「とにかくお引取りください。今はそんなことを言っている場合ではありません。立て込んでいますし、私も仕事で忙しい。あなた方がすることは、人間がビッグベアーであるという幻想を捨て、捜索隊と一緒になり、山の中を捜索することです」
「ビッグベアーはみつからねぇよ。今日は『六』の日じゃねぇ。ビッグベアーが『六』の日にしか現れねぇのは周知の事実だ。お前も知ってるだろう」
「ええ。そのことは知っています。しかし、何故なんでしょうね?」
その質問には知屋城が答えた。
知屋城は緊張の面持ちで、頭をかきむしる。その姿はさながら金田一に似ている。
「六は神秘的な数字です。六道、六芒星、六陽……。六がつく意味のある言葉は沢山あります。また、『調和』という意味を持つんです。魂と感情の調和、それが久雄さんとビッグベアーを繋げているんではないですか?」
「恐ろしい考えですね。オカルト的なこともそこまでいくと、素晴らしいものがあります」
と、久雄は言う。言葉には嘲りの色があり、決して信用しているようには思えない。「こじ付けもいいところですよね。私には信じれません」
「確かに、六=神秘数だから、特殊な力が宿るとは僕にも思えません。だけど、実は六には秘密があるんです」
「秘密?」
「そう。あなたが山で捨てられた日。つまり、不知火家に発見された日、その日も『六』の日なんですよ。これはもう偶然ではない。何かあると考えるのが必然であると思えます」
(そこまで知っているのか?)
久雄は心の中でほくそ笑み、記憶を反芻させる。
もう三〇年も前の話であるのに、今でも昨日のことのように鮮明に覚えている。
話は三〇年前に遡る――。
久雄に残っている、遠い遠い過去の記憶である。
「あなた、何を考えているんですか?」
と、言う声が聞える、
赤子である久雄はその声をはっきりと聞き取っていた。赤ん坊のときの記憶がある人間はそれほど珍しくないが、ここまで神妙に相手の言葉を聞き取る例は珍しいであろう。久雄は生まれながらにそのような機能が備え付けられていた。同時に、もう一人居たような気がする。
山に捨てられたときの記憶は良く覚えている。小さな羽毛に包まれ、捨てられたのだ。だが、生き延びる自信はあった。というよりも、それがデフォルトで、自分は生まれながらにして孤独に生きるのだろうという、変な期待があったのである。
捨てられることは半ば必然。だからこそ、不安はまったくない。同時に、自分に宿った異常な力。異能な力。そのことも知っていた。使い方も……。
『六』の日が来れば、能力を発揮することができる。そうすれば、赤子としての体から解放されて、熊として君臨することができる。それもただの熊ではない。大柄な○○山を支配できるくらいの偉大の力。そんな影響力を持つ熊だ。
名はないが……、『ビッグベアー』そのままの表現であるが、これが一番的確であると思えた。久雄は虎視眈々と、そして寝首を掻こうとしてある人物の襲来を待っていた。それはこの○○山の現支配者。不知火彦治。その人である。
彼奴は我が恨み。久雄はそう考えている。いや、事実敵なのである。
彦治を殺し、不知火家を一網打尽にすることが、久雄に課せられた使命。この時、久雄には名前がなかったが、拾われたとき、『久雄』と命名されることになるのだ。まぁそれは、久雄にとってどうでも良い話だった。自分の人間名が久雄、熊の名前がビッグベアー。それだけ分かればほかのことなんてなんだっていい。
『久雄』でも良いし、『太郎』でも良い。少し変わって『ハニオ』なんて洒落た名前だって良いのだ。
「まったくこんな勝手なことをして。勝手は一人だけにしてくださいな」
再び、声が聞えた。壮年の女性の声。この声の主を久雄は知っていた。そして、視線をゆっくりと壮年女性向ける。
声を発した女性。それは彦治の妻である不知火千代。
やや、不安げでそれでいて迷惑そうな顔をしている。それはそうだろう。犬や猫を拾うのとはワケが違う。今まで色んなことをしてきた彦治にやや愛想を尽かしていた千代であったが、今回だけは文句を言わなければならないと思っていた。
得体の知れない子供を彦治は拾ってきたのである。話を聞けば、山の中に捨てられたそうだ。時は一〇月六日。午後十三時。午前中の猟の最中に発見し、昼食も摂らずに一目散に家に戻ってきて、すぐに風呂を沸かせとわめき散らす。どこまでも自分勝手な行為であるが、今回だけは諌めなければならない。そう思っていた。
「いいじゃねぇか。おっかぁ……」
と、大き目の洗面器に湯を張り、赤子を洗っている彦治がそう言った。その顔は不気味に微笑んでおり、何を考えているのか見当がつかなかった。まったく、ここまで愚かなことをするとは思わなかった。
「良くないですよ。捨て子なんて拾ってきて。どうするんですか?」
「どうするって家で育てるんだよ」
飄々と言う彦治。この言葉には流石の千代も呆れて物が言えなくなった。二人の間にしばし、沈黙が走り、彦治が捨て子である久雄を洗う『ちゃぷちゃぷ』という音だけが虚しくこだましている。
不知火家は由緒正しい家庭である。杉沢村を昔から統治していた良家だ。それなりの歴史がある。そんな家庭に捨て子などの取り入れる精神が気に食わない。千代はそう思っていた。洗われている赤子にそっと視線を注ぐ。
赤子と言えば、大抵は無垢で可愛らしいものだが、この時の久雄にはそんな愛嬌がまったくなかった。しいて言えば悪の固まり。悪魔の使者。そこまで言うと、いささか言いすぎであるかもしれないが、あまり良い印象はない。どちらかというと、悪いイメージが付きまとう。自分たちを破滅に追いやる悪徳者。そんな風に感じる。
女の勘。と言えばそれ以上の説明はできないが、千代の鋭敏に研ぎ澄まされた勘は正しかった。しかし、彦治は納得する兆しを見せない。良い玩具を手に入れたといわんばかりの態度で、赤子をしかと洗い上げ、清潔なタオルでくるみ始めた。自分は命令するだけの彦治が、ここまでの作業をするのだから、今回の気まぐれは相当にレベルの高いものになる。
「育てるって誰がですか?」と、千代。
「俺やおっかぁに決まってるだろ。乳母や女中に任せても良い」
「家にはそんな人いませんよ。この間雇った方だってあなたが追い出してしまったではないですか」
そう、不知火家には常駐の女中や下男が存在しない。皆、彦治との折り合いがつかずに逃げ出すか、辞めてしまうのである。傲慢の固まりとも言える彦治を前に、彼の眼鏡にかなう人材はなかなかいない。いや、完全にいないと言っていいだろう。それは千代も痛いほど分かっていた。
「正輝に頼んでもいいじゃねぇか」
正輝は彦治の息子であるが、この時まだ二〇歳。彼は晩婚であり、四〇歳の時に美佐子(二十五歳)と結婚し、子供である隼人をもうけた。
「正輝に何ができるというんですか?」
「あいつだっていい年になる。将来のためには良い勉強ができるはずだ」
「今日だって遊びまわっていますよ。不知火家の恥です。大学だってお金を積んでようやく入れたのに、授業にはほとんど出ていないそうですよ。学校から連絡が来ました。ここまでの落ちこぼれは中々いないと、皮肉を言われましたよ。私、もう恥ずかしくて、情けなくて……」
千代は、涙を流さんばかりにそう言った。しかし、泣いたところで状況が変わるわけではない。今はグッと耐え、自分の精神を保たなければならない。
「まぁいいさ。俺が育てても良い」
と、自信満々に言う彦治。彼のこの傍若無人な態度はどこからやってくるのだろうか? 正輝を育てたのはほとんど千代と、歴代の乳母や女中であるが、彦治も無関係であるというわけではない。子は無自覚にも親の背中を見て育つものである。当然、正輝は彦治の背中を見て育った。
彦治の背中。それは横暴で歪んでおり、自分のやりたいことは何でも押し通す我の強いものであった。そんなものを見ていれば、正輝にもその曲がりくねった性質が乗り移り、遺伝との相乗効果で、制圧的な人間になってもおかしくない。事実、そうなりつつある。
「あなたには無理ですよ。子育てなんて五〇歳を過ぎてからやるものではありませんよ。それに男の子ですし、得体もしれませんし。よくご覧になって、この子、赤ちゃん特有の愛嬌がまったくありませんよ。忌子。きっとこの不知火家にとって不安な因子になるでしょうよ。捨て子なら、警察に届けるのが一番です。気まぐれで拾って育てるなんて、お互いにとって良いことにはならないでしょう」
千代の言うことは確実に的を射ている。それだけ説得させたかったのだ。しかし、今回の彦治は意固地でなかなか言うことを聞かない。かなり我の強い人物であるが、千代の言うことは大抵飲み込むのである。だが――。
「名は『久雄』そう決めた」
勝手に話を進める。むしろ話を聞いていない。何がここまで彼を取り憑かせるのか? 千代には理解不能であった。
この時、千代は赤子の笑う醜悪な顔を確かに見た。
心臓を鷲掴みにされるような感覚が体中を走る。なぜ、ただの赤ん坊にここまで恐怖しなければならないのだろうか? 絶対に、この子には近づいてならない。そんな警報が脳内を侵食し、千代に危機を知らせる。
「私は反対ですよ」
鬼気迫る口調で千代は言うが、彦治はまったく納得しない。
「うるせぇな。俺が育てると言ったら育てるんだ。文句は言わせねぇ」
この暴君のおかげでどれだけの迷惑を感じている人間がいるか、分からないのだろうか? 千代はあからさまにため息をつき、仕方なく首を左右に振った。自分は決してこの子には近寄らないようにしよう。そう、心に決めたのである。
そんな千代の思惑とは裏腹に、久雄は堅実に育った。
男児は育てにくいというが、久雄はそんなことがなく、むしろ女児よりも癖がなく、ロボットのように聞き分けが良い子供であった。
五歳を迎えたとき、とっくに彦治は久雄に飽きていて、彼に対し、父親のように振舞うことはなくなっていた。しかし、今更放り出すわけにはいかない。結局、久雄は不知火家に住みつき、一〇歳になる頃には下男として家を切り盛りできるくらいに成長した。相変わらず、不知火家には女中や執事が定着しなかったが、久雄がいたおかげで上手く家が回るようになったのだ。
これには千代も驚いた。しかし、どこか不安は残る。久雄には人間味がまるでないのだ。何を考えているのか分からない。そんな心象がある。
〇歳の時、久雄は一度ビッグベアーに変化した。不知火家に挨拶がてら襲撃をかましたのである。この時出会ったのが、後の好敵手になる銀二と金蔵であった。二人は久雄が思っているよりも優秀で手ごわかった。この二人を掻い潜りながら、不知火家に攻撃を仕掛けるのは難題である。自分の力をもっと高め、慎重にことを行わないとならない。
久雄は僅か〇歳のうちにそこまで考えを押し進めていたのである。その元来の冷静さをきめ細かい性格が、高々人間の一族である不知火家を三〇年も生き延びさせてしまった、重大な因子でもある。これには久雄も後に反省することになるが、この時の彼はそんなことは一切考えていなかった。
ビッグベアーと不知火家の戦いは続く。
当時の不知火家の家系を見てみよう。
まず、当主『彦治』その妻の『千代』そして彦治の妹である『小夜子』
彦治と千代の間には四人の子供がおり、長男を『正輝』次男を『優輝』三男を『大輝』四男を『光輝』といった。
小夜子はどういうわけか、一度村から離れて行方が分からなくなったが、再び戻ってきて、銀二と婚約することになり、この時、結婚が迫っていた。しかし、とある理由があり、小夜子は結婚に好意的ではなかったのである。
さらに、当主である不知火彦治を筆頭に彼の弟である『忠雄』
そして、忠雄の妻、『涼子』その子供『雄太』
まず、挨拶がてら餌食にしたのは雄太。当時三歳の子供であった。幼児を殺害するのはわけのないことだ。ビッグベアーに変化する必要もないのであるが、久雄はビッグベアーに変身し、そして事件を起こすことが自分に課せられた使命であると感じていた。
この時、久雄は〇歳。屋根裏のような薄暗いに部屋に半ば幽閉されたように暮らしており、ゆりかごの中でぼんやりとしていた。『六』の日になると、体が太陽になったかのように力が高まるのである。胸の中が熱くなり、自分が太陽系の中心にように錯覚する。身体の底から力が湧いてきて、自由に変化をすることができる。要するに、ビッグベアーになることができるのだ。
久雄はビッグベアーになり、不知火家の中を縦横無尽に歩いた。ひっそりとした不知火家。そして、リビングの中心にはテレヴィでミッキーマウスの映画を見ている雄太と、光輝の姿があった。この時、別にどちらを殺しても良かった。二人とも食い殺しても良かったし、二人とも生かす事だって出来たのである。
つまり、生殺与奪の権利はすべて久雄にあった。ビッグベアーの状態になっている久雄の姿に、雄太も光輝も気づいた。しかし、彼らは助けを呼ぶのには幼すぎた。何も言えず、ただぼんやりとビッグベアーに対し視線を注ぐ、二歳の光輝は、逆に「きゃっきゃっ」と、ビッグベアーを受けいれているようにも思えるのだ。
(どっちでもいいが)
そんな風に考えた久雄であったが、まずは雄太を殺すことにした。
赤子の首を捻るという諺があるが、それと同じだ。重々しい手で、一撃。そしてその後首から食いちぎった。たちまち、鮮血が室内を飛び、辺りに飛び散る。バキボキと頭蓋骨が自分の口の中で割れる音が聞える。脳と骨が口内で入り混じり、味のないゴムと硬い岩を食べているような気分になる。
それを見た光輝はそこでようやく、自分の窮地に気づいたのか? あるいは気まぐれか? その辺りのことは判断できないが、自分の意志で泣き始めた。その叫び声に、雄太の母である涼子が気づき、慌しくリビングに入ってくる。
ビッグベアーと涼子の邂逅。
彼女はあまりに現実離れした状況を見て、言葉を失った。後にも先にもここまで驚きに満ちた人間の姿を、久雄は見たことがない。
言葉を忘れたかのように涼子は立ち尽くしていたが、数秒後、糸が切れたかのようにストント腰を落とし、そのまま気絶した。このまま涼子を殺害しても良かったが、久雄はじっくりと不知火家を攻めるつもりであった。積年の恨みはそんな早く晴らさなくても良い。真綿で絞めるように、ゆっくりとそして確実に絶命させていけば良いのだ。
その後現れたのは小夜子であった。彼女は再び村に戻ってきていた。小夜子は前述の通り、銀二の許婚である。叫ばれるのは回避したいビッグベアーの久雄は、小夜子を同時に殺害することを決意した。素早く彼女に襲い掛かり、その細い首を噛み切った。人間は紙くずのように脆い存在。ビッグベアーにとって何の脅威も感じない愚物だ。
あっさりと小夜子を殺害し、ビッグベアーは己の力を自覚する。
まるで殺人を楽しむ猟奇殺人者の如く、久雄は考えを推し進め、そのまま赤子の姿に戻ろうとした――、が、そこで、声と不審を聞きつけた彦治と相対することになる。
彦治は涼子とは違い、気絶することはなかったが、言葉を失っていることは自明。ただ、漠然と状況を見つめている。あまりの惨状が彼の目の前に広がっていたであろう。この○○山の王である彼にとって、この陰惨な状況はありえないことである。いつだって自分が中心で頂点に君臨にしてきたのだから。
「な、なんだこれは……」
狂ったかのように、彦治は言う。その言葉は誰に向けて放たれたか分からない。
しかし、自分の目の前に熊がいるのである。それも今までに見たことのないくらい、強大で凶暴そうな熊が……。
さて、どうするべきか。久雄は悩む。
しかし、最初に考えたとおり、ここですべての人間を蹂躙することは避けようと思った。楽しみは最後に残しておく。そんな考えが脳内を過ぎる。そして、彼のとった行動はこの場から立ち去るということであった。それも悠然と。
口の中で噛み砕いた雄太を勢いよく吐き出し、そのまま四足歩行で駆け出す。まさに一瞬の出来事であった。
山の中にもぐり、一連の記憶を反芻する。人間を殺すのは他愛もないこと。蟻と象くらいの差があるのだ。誰も敵うわけではないだろう。この時、久雄はビッグベアーとしての力を過信し、少しだけ油断をしていた。その油断という間隙を、この後突かれることになる。つまり、ハンターとの遭遇。金蔵と銀二のコンビ『金と銀』の参上である。
彦治は精神的なショックを受けつつも適切な対処を取ることができた。それは王としてのプライドがそうさせたのか? 今となっては分からない。彼は優秀な狩猟者と共に、山狩りを始めたのである。
すぐにビッグベアーから赤子の姿に戻っても良かった。しかし、久雄はそうしなかった。傲慢な態度がそこにはある。
(私は無敵だ。人間など怖くはない)
そんな風に感じながら、二人の歴戦の狩猟者と相対することになった。
金蔵も、銀二も、ビッグベアーがここまで巨大な熊だということは、想像外のことだったのだろう。驚きのあまり、愕然としている。三人の間に鋭い緊張が走り、数秒後、激しい銃撃戦が繰り広げられる。
異変を感じたのは、この時だった。久雄は攻撃をすることを躊躇った。まるで意思をくじかれたように、力が入らない。できることはその場から退散することしかなかった。どうやら、ビッグベアーの無敵の力は不知火家限定で、他の人間には通用しないようである。つまり、逃げるしかない。くるっと身を翻し、久雄は逃げ始めた。しかし、そんなビッグベアーを愚かにも逃がす金蔵と銀二ではなく、しつこい宗教の勧誘者の如く追ってくる。
ライフルに弾を食らい、そして危険を掻い潜りながら、山の中を失踪し、とにかく逃げ続けた。背中に生える金色の毛を高らかと揺らしながら……。
深夜――。
力がどんどんと抜けていることに気がついた。どうやら、時間のようである。
時刻は午前〇時。つまり『六』の日が終わったのだ。雄太と光輝を襲撃したのが、午後五時。それから逃げ出し、半日が経っていた。山の中を逃げ続けて、ようやく深夜を迎えたとき、ビッグベアーは赤子である久雄の姿に戻っていた。生まれたままの姿の久雄を発見したのは、皮肉にも銀二であった。銀二は山の中で置き去りにされた久雄の姿に異変を感じながらも、無傷で発見したことに安堵し、とりあえず不知火家へと戻った。
ビッグベアー伝説の始まりである。
警察や山の狩猟者、そして村の有志たちを集めた大捜索が始まったが、ビッグベアーは発見されなかった。それはそうである。ビッグベアーは『六』の日限定なのだから。あまりすぐにビッグベアーの遭遇日を知らせるのは不味いと考えた久雄は、〇歳から三歳までの間、ビッグベアーに変化することはなかった。
次に襲撃したのは四歳の誕生日である一〇月六日。
六歳になった光輝を襲撃し、そして殺害した。この時も金蔵や銀二を追われることになったが、なんとか逃げ切った。銀二は許婚である小夜子を殺されたことを恨みに持ち、ビッグベアーに対しては恐ろしい力を発揮していた。
少しずつ、ゆっくりとであるが、確実に不知火家を絶命させていく久雄。彼の思惑はほとんど成功したかのように思えた。金蔵や銀二は確かに優秀なハンターであるが、ビッグベアーには敵わない。いかんともし難い戦力差があるのだ。熊と人間では立っている土俵が違う。いくら恨みの力を持った銀二であっても容易にビッグベアーに傷を与えることはできなかった。
しかし、そんな久雄を変える事件が起きる。
不知火家にある生命が誕生することになるのだ。
それは、涼子に娘が誕生したことである。彼女は『優香』といい、久雄とは五つ違いの人間である。
SF小説でロボットに感情が芽生えるシーンは数多くある。それと同じ。男と女は互いに惹かれあうものだ。だから結婚するし、子供も生まれる。人生の長い間を共にする。感情が希薄であり、恨みのために、この世に生を受けた久雄であったが、彼に感情の変化が現れたのは、優香の存在が大きい。この優香の存在が、久雄を悩ませる重大な因子になるということは、この時の久雄には考えられないことだった。
久雄はじっくりと時間をかけて不知火家を支配し、そして破滅に追いやっていた。
久雄が十五歳の時には、忠雄と涼子を殺害し、さらに、彦治の四人の息子を絶命させていた。不知火家の人間は確実に久雄によって侵略されている。UFOに乗った宇宙人に人類が死滅させられるように。この窮地に、彦治は恐怖を覚えていた。王であった彼の態度は既に昔の傲慢だった面影がまったくなく、年とともに、衰え、怯えるただの老人になろうとしていた。
次にターゲットにするのは、彦治でもいい。久雄はそんな風に考えていたが、それを憚るような事件が起きる。それこそ、久雄と優香の関係である。
「久雄……」と、優香は呟いた。
優香が久雄の正体に感づいていることは間違いない事実であったであろう。でなければ、色々なことが説明できないからだ。
久雄と優香は山の中で二人、山菜を取っていた。
山の中は危険だから、子供だけで入ってはならないと言われていたが、優香はまったく問題がないと考えていた。彼女は独自に自分の力でビッグベアーの対策を取っていたのである。
「何?」
と、久雄は尋ねる。
眼の前には敢然と山の新緑が見え、二人の精神を幾分か安定させてくれる。
「ビッグベアーって知ってるでしょ?」と、優香。
「もちろん、知ってるよ。皆危険だって言ってる」
「あたしとあなたに対してはね。でも他の人間には危険はないわ」
「どうしてそんなことが言えるの?」
「あたしね。一応統計を取ったのよ」
「統計?」
繰り返し尋ねる久雄。表情は驚きに満ちていた。ちょうど、山の中を心地の良い風が通り、淡い緑の香りを運んでくる。優香は繊細な瞳を久雄に傾けながら、話を続ける。
「そう。統計。その結果、あることが分かったわ」
「あることって何?」
「今日はビッグベアーは出ない。ビッグベアーが現れるのは『六』の日だけなの」
これは意外な言葉であった。齢一〇歳程度の小さな少女が、ここまでビッグベアーのことを調べ上げるとは思いもよらなかったのである。但し、得意の冷静さで久雄は淡々とその場を乗り切る。例え、登場する日を判明されたかといっても、なんら問題はない。変身できる日は『六』の日だけだ。
これまで通り、行動をすればいい。
しかし、どうする。次に殺害するとなれば、この少女……。つまり、優香を殺害するべきであろうか? 通常ならそうするべきだ。あまりビッグベアーのことを調べられるのは、久雄にとって有益なことではない。けれど、久雄にはそんな気が起こらなかった。
「これ、久雄にあげる」
そう言って優香が取り出したのは、お手製のお守りであった。どこで作ったのかはわからないが、手縫いで、ガタガタとした針目が特徴の赤いお守り。この世に生を受け、ほとんど人からもらい物をしたことがない久雄は、優香の気まぐれな行為に対し、今までに感じたことのない感情が湧き出すことを自覚していた。
嬉しい……。
いや、喜び。
それも違う。何か認められたような気がするのだ。人間として。こんなことは今までにない。慌てる久雄。それを冷静に見つめる優香。二人の間に淡い恋人同士に一幕のような雰囲気が流れる。決して終わらせたくない時間。隅から隅まで感じ取り、全身で受け取りたい。感情のすべてを集中させ、今この場のすべてを味わいつくしたい。そんな意味不明のセンチメンタルな思いが、噴火する。
「どうして僕に?」
久雄は尋ねてしまった。
これまで冷静であった久雄が確実に揺れている。それは自分でも分かっていたし、恐らく優香も自覚していたであろう。それが優香の策略であるとは、久雄には感じ取ることができなかった。
要するに、優香は久雄がビッグベアーではないかと疑っていたのだ。そうとしか考えられないことが多数出ている。このまま時が進めば、自分以外の人間もその事実に気づくだろう。久雄は自分では完璧に行動していると考えているようだが、実はそれは違う。
この世に完全などないのだ。完全がないから、それを目指そうとする。努力をする。そして成果を挙げる。だけどまだ完全ではない。完全主義者は完全に到達しないから、精神的に病んでしまうのだ。それに完全ほどつまらないものはない。未完成だから人は己を高めようとするのである。
久雄はそのことを知っているが、コンシャスはしていない。ただ、漫然とした態度で不知火家を襲撃していた。
「あなたも……」と、優香は言う。「不知火家の人間でしょ」
「不知火家の人間だって、僕が?」
「ええ。あなたは不知火家の人間よ」
とても一〇歳の子供が言うような言葉ではなかった。優香はどこか大人びているし、周りの人間よりも成長の速度が速い。夭折する人間は特殊な力を持つことが多いが、優香にもそれが当てはまるのだろうか?
「僕は違うよ。不知火家の人間じゃない。優香さんは知らないかもしれないけれど、僕は捨て子で、その昔、この○○山に捨てられていたんだよ」
「知ってるわ。それをおじい様が拾ったんでしょ。あの人の気まぐれで、久雄は拾われた。そして不知火家に入ることになった」
「でも」
久雄は口ごもる。自分が不知火家の人間であるということを考えたことは、これまでに一度もなかった。久雄にとって不知火家とは敵。それしかないのである。そんな敵である一族の一員であるなど考えられない事態。
「あなたは不知火家の一員よ。少なくとも、あたしはそう思ってる。だからお守りを受け取ってよ」
十五歳の久雄は大きな手でお守りを受け取り、それをまじまじと見つめる。その姿を興味深そうに優香が眺めていた。それしかできない。
「ねぇ。久雄、一つ聞いてもいい?」
「何?」
「どうしてビッグベアーは不知火家だけを襲うのかしら?」
「不知火家だけを襲う?」そこまで気づいているのか。久雄は生唾を飲み、「何故そんなことを?」
「ビッグベアーってね。不知火家の人間しか襲わないの。でもそれって変なことよね。ビッグベアーと私たちの戦力差は歴然としているわ。なのに、あの熊は少しずつしか、あたしたちを殺さない。まるで、殺戮を楽しんでいるみたい」
『殺戮』だとか、『戦力差』『歴然』……。そんな一〇歳の少女が使うような言葉ではない語彙が次から次へと飛び出す。優香は山の中で立ち止まる。背は小さく一三〇㎝ほどだろうし、押せば簡単に折れてしまうのではないかと思えるくらい痩身の体。
しかし、久雄には優香の姿がどこまでも勇敢でゲームの中の勇者のように神々しい存在に思えた。同時に、彼女に対し興味が湧き、惹かれつつある。
「銀二さんや、金蔵さんがそのうち、打ち倒すんじゃないかな?」
と、久雄は告げる。もちろん、そんなことは露ほども感じていない。確かに銀二や金蔵は脅威の存在だが、ビッグベアーに変化すれば、恐れるに値しない。高が人間なのだ。それを久雄は知っているが、自分の正体を曖昧模糊にするために、あえてそう言った。しかし、そんな言葉に納得する優香ではない。
「無理よ。あの人たちじゃビッグベアーは倒せない。というより、ビッグベアーはあたしたち人間には倒せない霊獣なのよ」
「霊獣ってどういうことさ?」
「簡単よ。神様が創った獣ってこと。この山の神様」
「山の神様。神様がどうして人を殺すの? おかしな話じゃないか」
「不知火家ってそれだけ大業なことをしてきたのよ。皆、影で言ってるわ。ビッグベアーが現れて、不知火家を襲撃する。それは因果応報だってね。きっとあたしたちはビッグベアーに殺される。それは運命なのよ」
「優香さんも死ぬと思っているの?」
「あたし」優香は身をくるっと翻した。表情は硬く、神妙としている。「多分死ぬのかもしれない。久雄はあたしが死んだらどうする?」
久雄は沈黙する。
暗黙の時間が流れ、久雄の体を苦しめる。自分は優香を殺せるだろうか? 今まで不知火家の人間に対し、このような感情が湧き出たことはない。このような余韻が残る感情。それは……。
『失いたくない』という心緒。
「僕は……」と、久雄が言い、優香が答える。
「僕は何?」
「君を失いたくないよ。少なくともそう思う」
「そう、もし仮にビッグベアーがあたしを襲ったらどうする?」
「襲わないよ。きっとね。君は大丈夫さ」
「どうしてそんなことが言えるの? まるで自分とビッグベアーがつながっているみたいな口調ね」
「そうじゃないけど。なんとなくそんな気がするんだ」
「でも無理よ。あたしもあなたも多分殺される。いいえ、久雄の場合は分からないけど。不知火家は殺される運命なのよ」
これが悪夢だったらすぐに醒めてほしい。しかし、そんなことはならない。今まで久雄は淡々と殺戮を繰り返してきたが、どうすればこのホロコーストに近い虐殺が終わるのだろうか?
ビッグベアーとしての異能の力は神が与えたというよりかは、悪魔の力である。悪魔が棲みつき、不知火家の人間に復讐せよと言っているのである。不知火家に対する恨みを持つ人間は、いや、人間だけではない。動物、植物、色々あるだろう。それらの押し固まった恨みの力が不思議にも悪魔を呼び出し、それを久雄という入れ物を通し、この世に顕現しているかのようであった。
久雄はあくまでも箱。不知火家を抹殺するだけの存在。
そんな血も涙もない人間なのだ。感情が希薄なのは、殺戮という行為をやりやすくするためなのだろうか? それが正しいのだとしたら、久雄は悪魔となんら変わらない。この時、確かに久雄は自分の運命を自覚した。
もしも不知火家の人間を皆殺しにした時、自分はどうなるのだろうか? 自分は消滅するのだろうか? 不知火家の人間と同じように。
何のために生まれてきた?
不知火家へ復讐するため。
何故、自分がその役目を担うのか?
神のイタズラ、あるいは、悪魔の愉悦。
「君は死なないよ」と、久雄。彼はそう言うしかなかった。
「ありがとう。久雄も大丈夫。そのお守り、きっと効くと思うから。大切にしてね」と、優香。
「うん。大切にする」
久雄はお守りをポケットの中にしまう。
この後、二人は山の中を散策し、山菜取りに出かけた。その帰り際、久雄と優香の二人は、ライフルを持ち、山の中を四苦八苦している銀二に出会うことになる。
銀二は久雄ら二人を見るなり、慌てた姿をし、怒鳴り散らす。年季の入ったハンチングをかぶり、弾丸がしまえるハンティングベストを着て、そしてワークパンツを穿いている。
「お前らここで何をしてる?」
銀二の声は一言で怒りと焦りに満ちていると察することができる。
彼がこのように慌てるのも無理はない。子供が二人で山の中に入っているのだ。ビッグベアー対策が何もかも上手くいかない昨今、このような行為は自殺行為であるとしか言えない。事実、村の子供たちには子供同士で山の中に入らないように、警報を出しているのだから。
それをあっさりと破る久雄と優香の姿に、銀二は苛立ちを覚えていた。
「何って山菜を取っているんですよ。分かりませんか?」
久雄に冷静さが舞い戻る。今までの人間じみた行動のすべてをどこかに置き忘れたかのような感覚である。
「山菜って、山の中がどれだけ危険だか知ってるだろう?」と、銀二は怒る。
「ビッグベアーですよね。大丈夫ですよ」
「バカやろう。彼奴はどこに潜んでいるかわからねぇ、すぐに家に帰るんだ。そして、二度と二人で山の中に入るな。いいな!」
強い口調だった。一斉に銀二に対する訝しい思いが吹き出す。
こいつは始末したい。だが、不知火家の人間ではない。特に銀二は許婚を失ったことで、ビックベアーに対してシビアになっている。
怒られた優香と久雄。二人はそれほど衝撃を受けていない。ただ黙って銀二のことを見つめている。銀二の愛用のライフルが黒々と見え、それがどことなく恐怖感を煽ったが、久雄は平然としていたし、優香も特に驚くことはなかった。
優香は決して『六』の日にビッグベアーが現れるという自分の見解を言うことがなかった。何故なのか? 言えばこの場を打開することができる。窮地を脱せられる。恐らく、銀二も喜んでくれるだろう。しかし、彼女はグッと口を閉ざし、山の中を見つめている。その姿はいささか一〇歳の少女のものとは思えない。
銀二は訝しそうな視線を送り、二人を見つめる。相性の良い二人だと感じた。同じ穴の狢。そう言えば伝わるだろうか? 子供らしくないし、どこか憎らしい。それが銀二が抱いた久雄と優香に対する感情である。
「帰りましょうか」
と、徐に久雄が言った。冷静な口調が舞い戻り、静かにこだまする。
銀二は深く頷くと二人を護衛するかのように先陣に立ち、山を下り始める。別に、ここまでしてもらう必要はなかった。というよりも、優香との時間を奪われたことに、久雄は激しい憤りを感じていた。早く、銀二のそばから離れたい。そんな感情があるのだ。
こんな感情を経験するのは初めてである。何故だろうか。心が少しチクリとする。決して痛いわけじゃない。柔らかく、刺激が少ない傷み。だけどそれは確実に久雄の胸を捉えていた。
やがて、三人は不知火家へ戻った。銀二が余計なことを言ったのか、千代に怒られる羽目になった。不知火家は襲撃され、多くの家族を失っている。つまり、ビッグベアーに対しては神経質になっているのである。
特に千代の態度といったらない。余計に心配するものだから、食事は喉を通らず、少し痩せ始めた。体力や新陳代謝が衰えた五〇代が、著しく痩せるのだから、その心労の深さは耐え難いものがある。
優香と久雄はきつく怒られることになる。特に憤慨したのは千代ではなく、当主の彦治であった。彼は久雄を縛り上げると、屋根裏に放り込み、そのまま半日放置することに決めた。時代が時代なら確実に虐待としてニュースに取り上げられるだろう。いや、事実彼の行為は行き過ぎていた。
明らかにやりすぎであると、千代も反対したが、当主の意見に逆らうことができず、そのまま久雄のことを屋根裏に閉じ込めた。
たった一人。薄暗くなった屋根裏に閉じ込められる久雄。
通常、屋根裏というと、天井が低く、立つことができない。おまけにクモの巣の張った汚い場所であると想像しがちであるが、不知火家の屋根裏はそんな不衛生なものではない。なぜなら、几帳面である久雄がしっかりと手入れをしていたからである。同時に、似たような場所を生活の糧として利用していたのも久雄なのだ。
彼にとっては日常の一ページとなんら変わらない。このまま一生閉じ込められてもいいくらいだ。いつか、豆電球をひき、この場でゆっくりと読書ができれば良いとさえ思っていたのだ。
屋根裏には小さな窓がある。そこから山の様子が良く見えた。空気の循環もあり、居心地は悪くない。閉じ込められた久雄であったが、その気になれば窓を伝い、外に出ることは可能だろう。しかし、彼はそんなことをしなかった。
高々、三畳半ほどの細長い空間の中で、彼は一人ごろりと横になり、時間が過ぎるのを待った。考えることはただ一つ。『優香』のことであった。
(僕は……。彼女を殺せるだろうか?)
必死に思考する。
だが、答えは出そうにない。いや、出ているのだ。それを実行できるかはまた別問題。恐らく実行はできない。ここまで感情が変化するとは、自分でも思っても見なかった。久雄は優香に対してただならぬ行為を持っている。
『恋』と言っても過言ではない。恋など今まで経験のしたことのない感情だ。それは久雄には分かっていた。だが、恋という言葉の意味は知っている。同世代の間でも男女で付き合っている人間は多くいるし、異性に興味が出始める時期だから、自ずと会話は恋愛話の比率が高くなる。
だが、彼が抱える悩みは、そんな生ぬるいものではない。
久雄の目的は不知火家の消滅。彼は不知火家を滅ぼすために山の神が導いた使者なのだ。だから、不知火家を襲撃し、その家系を絶やす必要がある。家系を滅ぼすということは、同時に優香との別れを意味している。
優香を失うことは、久雄にとって堪らなく恐怖であった。他の誰よりも失いたくない人間の一人。どうして? なぜ? どこからこの感情はやって来る? 横になった久雄は苦しそうに考えを進める。
ライフルを顔面に突きつけられるよりも大きな衝撃が、久雄のことを襲い始めている。苦しみは大きく、陥穽に陥る。
(多分、殺せない。そんな気がする)
そう感じた。そしてゆっくりと身を起こす。薄暗い屋根裏から見える○○山の景色。
今頃銀二や金蔵は血眼になってビッグベアーを探しているだろう。しかし、見つかるわけはない。ビッグベアーは今、閉じ込められている。物理的にも精神的にも。
そのことを、金蔵や銀二は知らない。ほくそ笑むように久雄は笑う。しかし、すぐにその考えは洗い流され、優香のことばかりが頭の中を支配する。苦しくて胸が痛い。優香を殺すことができなければ、自分はこの先どうなるのであろうか?
ファンタジー小説なら、ここで神と悪魔が舞い降りてきて、それぞれの見解を言うはずであるが、そんなことは起きなかった。ただ分かっているのは自分の宿命だけだ。不知火家を滅ぼすことができなければ、自分はこの世にいる意味がない。つまり、用なしのロボットである。それはまさに死を意味しているのではないのだろうか?
そんなことを漠然と考えていると、突如屋根裏の窓に人影が映る。
多少の驚きを感じる久雄であったが、持ち前の冷静さで場を取り繕い、上がっている人物に神経を注いだ。
その人物はなんと優香本人。
今まで想像していた優香が突如現れたものだから、久雄の精神は高鳴った。どこかこう、喜ばしく嬉しい感情が舞い起こるのである。
「ここにいたのね」
開口一番、優香はそう言った。細くしなやかな体を動かしながら、彼女は土足のまま屋根裏に侵入してくる。そして、久雄を縛っている縄を解く。
別に縄を解いてもらう必要はなかったが、両手と両足は自由になった。
「それにしても」優香は言う。「意外と綺麗な場所なのね」
「うん。こまめに掃除してるから」
「ふ~ん。それにしても酷い目に遭ったわ。まぁあたしの場合、少し怒られただけだと、久雄みたいに閉じ込められることがなくてよかった」
「僕はこの家の下男、つまりお手伝いさんだからね、君を危険な目に遭わせるわけにはいかないよ」
「危険? そんなわけないでしょ。ビッグベアーは今日は現れない。だって『六』の日じゃないんだから」
自信満々に告げる優香。
その姿を見つめる久雄。彼はそこで一つの考えにたどり着く。
「どうして『六』の日のことを銀二さんに言わなかったの?」
「あたしね、あまりあの人のことが好きじゃないから。というより、ハンターは皆嫌い。なんで動物を殺すの? 人を殺せば罪になるのに動物を殺しても罪にならないのはどうして?」
「動物を殺しても罪になるよ」久雄は知っていた。「鳥獣保護法という法律があるんだ。一〇歳の君に言ってもまだ早いかも知れないけど、その三九条に、無意味に動物を殺したり、免許なしで殺害したりすると、一〇〇万円以下の罰金になるということが書かれている。多分、初犯の場合、そこまでお咎めはないだろうけど」
「人間を殺せばそんな軽い罪じゃないのに」
「そうだね、でも仕方ないよ。山は環境の変化により、食物が少なくなっている。だから人里に下りて悪さをする害獣が増えているんだって。それを駆逐するのがハンターの役目さ」
「駆逐?」
「つまり、やっつけるってこと」
「ビッグベアーすらやっつけられないのに? 笑っちゃう話ね」
「ビッグベアーは強いし、人間にはやられないよ。あれは霊獣。害獣とは違うんだ」
「どうしてそんなことが分かるの? まるで自分のことみたい。ねぇ、久雄。あなたってもしかして――」
その先は言わなかった。
だが、久雄には優香の言いたいことが分かった。既に不知火家は一族の半数がビッグベアーにより襲撃され、命を落としている。それは言い換えれば恨みがあるといっても間違いないことである。
優香にとってビッグベアーは巨大な敵であることには違いない。だが、この小さな少女はそのようなことをまったく考えていないのである。
「あたしね。なんとなくビッグベアーの気持ちが分かるの」
と、優香は物思いに耽った表情で告げた。
それに対し、久雄はゆっくりと答える。
「ビッグベアーの気持ちって何?」
「ビッグベアーはね。傲慢に育ち、君臨している、あたしたち不知火家を滅ぼすために現れたのよ」
それはまさに図星。しかし、どうしてそこまでの考えに至ったのかは謎。高々一〇歳の少女が考えるには早すぎるように思えた。
「そうなのかな?」
久雄はくぐもった声を出す。あくまで見知らぬ素振りで。
「そうよ。だって統計的に襲撃されているのは不知火家の人間だけだもの。これは絶対に神の意志が働いている。それにね、あたしは知ってるの。不知火家の人間が杉沢村の人間たちに快く思われていないことを。あたしも学校でそんな噂を聞くし、この歳になって友達の一人だっていないんだから。皆怖がって、あたしに近づこうとしない」
「僕もそうさ。友達なんていない。だけど寂しくはないよ」
実際に久雄には友達はない。そんなものは必要なかった。だが、今は少し違う。
「久雄とあたしは似てるわ。ねぇ、久雄、あなたあたしの友達になってよ」
「友達?」
繰り返し言う。久雄。彼にとって友達はそれほど重要なものではない。けれど、今回は喉から手が出るほど、優香を欲していた。それは友達以上の関係を望んでいると言っても過言ではない。
「僕で良いのかな?」
決して寂しそうに言うわけではなかったが、声は悲しい旋律を帯びていた。友達ではなく、もっとそれ以上の、特別な関係に憧れていた。それは傲慢な思いだろうか? 久雄は心の片隅で、そんな風に考えている。しかしここでそのことを口に出して言うことは憚れた。
友達で満足すべきだろう。ビッグベアーになるしかとりえのない久雄にとって、友達は重要なことだ。今まで生きてきて友達の一人すら作らず、ただ虎視眈々と不知火家を襲撃するだけの存在。
そんな寂しい存在が久雄なのである。神や悪魔は、何故久雄に対してこのような役割を求めたのだろうか? それは不可解であるが、一生賭けても判明することのない、大きな謎が隠されているような気がした。
一体、自分はどうなるのだろう?
どこからやって来て、そしてどこへ向かうのだろう。
そんな、哲学的なことを考える。しかし、一向に答えはでない。答えなどないのかもしれない。
「久雄はどうして友達を作らないの?」
と、優香が尋ねた。興味を持っているのだろう。その眼は幾分か光っている。
「友達ってそんなに必要かな?」
「だって、皆持ってるじゃない。一人くらい、誰にだっているわよ」
「そうなのかな。僕は友達を持つメリットが分からないよ」
「メリット?」
「うん。つまり、旨味っていうか、友達を持つことで何が得になるかってこと?」
「そもそもそんなことを考えている時点で、曲がっているのかもしれない。友達ってそのメリットって付き合うわけじゃないもの」
「じゃあどうして付き合うの?」
「ただ、一緒にいたいから。一緒にいて楽しいからじゃない?」
一緒にいて楽しい……。
それはまさにこの瞬間のことである。
久雄は確かに自覚し、この自分に訪れた優しい感情を大切にしたいと考え始める。それが友情という証なのか? あるいは恋愛感情なのか? その点はゆらゆらと揺れる陽炎のようであったが、この際どうでもいい。今の関係よりも、もっと親密に優香に近づくことができればそれでよかった。
友達であっても、恋人であっても……。
口をもごもごと動かし、久雄はただならぬ空気を発し始めた。それは相違ないだろう。
「それってさ、友達っていうよりも恋人だよね」
久雄は言う。それに対して、優香は答える。
「恋人。あたしたちにはまだ早いかもね」
「学校の連中には付き合っている奴らがいるよ」
「それは久雄が中学生だからよ」
「小学生はいないの?」
「いない。だって男子はバカばかりだもの。ゲームとか、ガンダムとか、漫画とか、そんな話ばっかりしている。まぁ女子も似たようなものだけど。オカルトじみた話をする人は誰もいないわ」
「オカルト?」と、久雄はくぐもった表情で言った。突如出たオカルトという言葉。その言葉に興味を惹かれた。
「うん。オカルトって知ってるでしょ。あたしね、どうやら学校の人にオカルト少女だと思われているみたいなの。ずっとビッグベアーを追って研究していたからかもしれない。だからね、あまり人によりつかれないの。皆、牽制しているっていうか、超えられない壁を感じているっていうか」
「そうなんだ。確かに、ビッグベアーはオカルトだよ。あんな存在、他に類をみないからね」
「久雄はビッグベアーをどう思う?」
確信めいた質問。どうやら、今までの話はすべてここにたどり着くための策略であったように思える。確実に、そして絶対的に、優香は久雄がビッグベアーであると感づいている。だからこそ、彼の目的を知り、できることなら、その呪縛から解き放ってやりたいと考えているのである。
しかし、久雄はグッと顎を引き、この問題をどう対処し、優香を導けば良いか? そればかりを考えていた。この答えを誤ると、『友情』も『愛情』もすべて吹き飛んでしまうように思える。優香との関係を崩したくない。むしろ進めたい。久雄はかつてないほど、考えを進める。
「ビッグベアーは悪いやつじゃないよ。多分……」
「そうかしら。あいつは不知火家を滅ぼそうとしている霊獣よ。誰かが倒さないと。あたしたちは皆殺しにされる」
「僕らは大丈夫だよ」
「どうしてそんなことが言えるの?」
「不知火家を辞めよう。つまり、逃げ出すんだ。僕は今十五歳。君は一〇歳。男は十八歳から、女は十六歳から結婚できる。そうして不知火家という呪縛から逃げ出せば、僕らが殺されるということはないと思うよ」
結婚という飛躍した考えが生まれた。どうして、このようなことを言ったのか? 久雄には理由が分からなかった。ただ、口から自然とすべり出たのである。
「結婚とはまた凄い話ね。さっきまで友達になろうって話題だったのに、あっという間に結婚になっちゃった。でもさ。あたし、久雄とだったら結婚してもいいかも。まぁ多分、皆は反対するだろうけどね」
優香の言うとおり、この結婚話は現実味がない。
未だにイギリスには身分の階級があるように、久雄と優香では立場が違いすぎる。『ロミオとジュリエット』というわけではないが、そのような強固な壁が二人の間には立ちはだかっている。これは久雄も自覚していたが、そんなことはどうでも良かった。
なぜならば、不知火家の命運は自分が握っていると言っても過言ではないからだ。不知火家の運命は久雄の手のひらの上。それは確かだ。
ビッグベアーになった久雄を倒すことができる人間はこの世にはいない。つまり、無敵なのだ。結婚に反対する人間をすべて死滅させれば、誰も文句は言わない。ただ、宿命を果たした久雄の未来がどんなものであるのか? そればかりは分からなかった。
「とにかく」優香は言う。「友達になろうよ。あたしたち」
「うん。いいよ」
「なんだか変な話ね。でも、嬉しい。久雄はどう思う?」
「嬉しいかって言われれば、嬉しいよ。でも……」
どこか寂しい気もする。
但し、それは言わなかった。言えば友達という関係性も壊れてしまうと思ったからだ。
「じゃあ、助けてあげる。友達だもの」
優香は久雄を屋根裏から解放し自室に連れ込んだ。
久雄の三畳半の部屋とはまったく違う優香の部屋。身分というか、カースト制度を感じさせる。八畳ほどの洋間に小説家が使うようながっしりとした机が、入り口のトビラの前に見える。そのそばには窓があり、ささやかな木漏れ日がまったりと差込み、ゆらゆらと日の光を放っている。
さらに室内の両壁には書棚があり、そこに児童書や文学書などが放り込まれている。小学生が持つには少し気が早い本棚である。その他にも魔術や呪術と記された本も数冊ある。これがオカルト少女と呼ばれる由縁かもしれない。
友達がいない分、自分の好きな世界を飛躍し、そこに浸かっていることができる。孤独は何も悪いことばかりではない。孤独な環境は大きな力を作る因子になるのだ。久雄は何となくそう思っていた。
部屋の中心には二人がけのソファがある。革張りのソファで、革の良い香りがする。時折掃除でこの部屋を訪れる久雄は一度だけソファに座ったことがあった。大変座り心地がいいソファなのだ。
優香はソファに座り、その対面にある音響のスイッチを入れた。流石にアキュフェーズやマッキントッシュといった設備ではないが、ソニーの最新の機器が取り入れられている。音響設備にまったく縁のない二人。優香だって音楽は聴ければなんだって良かった。ただ、テレヴィを見ない優香は、映像よりも音を重要視していたのである。
流れた音楽はクラシックであった。それもバッハ受難曲。小学生と中学生が聞くには場違いな曲。聖性さ荘厳さが入り混じる曲が室内を覆っていき、どこか部屋の空気を神聖なものに変えていく。
「優香さんはクラシックが好きなの?」
と、久雄は徐に尋ねる。
「優香でいいわ」と、優香。「友達なんだから呼び捨てじゃないと駄目」
「分かりました」
「『分かった』でしょ。敬語も禁止。一応久雄の方が年上なんだから」
なんだか注文が多い。しかし、久雄は文句一つ言わず、首を上下に振った。
「分かったよ。それでどうして僕をここに?」
「ここなら誰も来ないもの。久雄に聞きたいことがあるの?」
「僕に聞きたいこと?」
久雄は優香の話を五〇%、部屋の様子を伺うのに五〇%それぞれ神経を分断させていた。だからこそ、次に放った言葉を理解するのに時間がかかったのである。
「そう、久雄はビッグベアーなんでしょ?」
「へぇ……え?」
思わずノリ突っ込みをするところであった。
言っている意味がわからず、困惑する久雄。やはり、優香は久雄の存在意義に気づいている。だからこそ、久雄に対し友達になろうと言ったのだろうか? いや、ビッグベアーと友達になるなんてことは普通は言わないだろう。それは自分の保身のためか? あるいは別の理由があるのか? 久雄は理解できない。
「なんて言ったの?」
繰り返し尋ねるしかない久雄。この場を打開する都合のいい答えは何もない。
ただ、漠然と降り注ぐ場違いな日差しが、二人の凝り固まった関係性をゆっくりと氷を溶かすように注いでいく。
「もう一度言うわ」優香は言う。強い視線を久雄に注ぎながら、「久雄がビッグベアーなんでしょ?」
「僕は人間だよ。そんなに熊に似てる?」
あえてジョークに持っていこうとする久雄であったが、慣れぬことはするものではない。彼の冗談はあっさりと崩れ去る。砂で作った城のように……。
「あたしね、知ってるのよ。久雄がビッグベアーに変化するのを」
これはどういう意味を持つのか? 久雄は確かにビッグベアーに変化する。しかしそれを見られたことはない。絶対的に自信がある。ということは、優香は今、久雄を罠にかけようとしているのだ。それが久雄には分かった。
簡単に罠にかかるわけにはいかない。まるで警察の尋問を受けているようである。呼吸を整え、久雄はゆっくりと答える。
「それはオカルトの話?」
「正直に答えてよ。友達でしょ、それに許婚でもあるんだから。久雄はビッグベアー。今まで不知火家の人間を殺害していたのは、あなたなんでしょ?」
「僕は人だよ。熊じゃない。僕はビッグベアーじゃない」
あくまで冷静に対処する久雄。その言葉を優香が信じているかは分からない。ただ、優香はつぶらな瞳をまっすぐ久雄に向け、口を噤んだ。
やがて、一ヶ月が経ち、『六』の日がやってくる。
久雄は狭い自室で一人佇んでいた。優香の監視が強いということは分かっている。だからこそ、今日、変化して不知火家の人間を始末することは避けたほうがいいだろう。なるべくなら、しばらくの間、ビッグベアーになるのは避けたほうがいい。
それだけ優香は鋭く推理している。この怪奇現象の正体を掴んでいる。久雄は部屋にある唯一の窓から外を見つめる。季節は夏。六月六日。ぞろ目の日。決してぞろ目だから力が高まるというわけではない。不知火家の人間は六名ほど残っている。少しずつ、ゆっくりと消していく久雄であったが、ここのところ、その行為が正しいのか不明になっていた。
その背景には当然、優香の存在がある。
優香は不知火家の衰退をどう思っているか? 本当の気持ちが知りたい。それだけだった。きっと心のどこかで不知火家の敗退を願っているのかもしれない。優香の言うとおり、村人が密やかにビッグベアーを山の神だと認め、不知火家を退治していることを快く思っていることは確かなのである。
救世主――。
それがビッグベアーの真の正体なのかもしれない。不知火家が滅べば、杉沢村に安泰の空気が流れるだろう。いや、不知火家ではない。不知火家の当主、不知火彦治が死ねばすべて丸く収まるのだ。それを村人たちは心待ちにしている。その雰囲気を肌でヒシヒシと感じ取ることができる。
黄金に輝く背中のたてがみが疼く。ビックベアーになるため、細かいことは何もいらない。ただ人が食事をするように、祈りを捧げるように、自然に考えて変身を願えば、ビッグベアーに変化することになる。たてがみが伸び、全身を覆っていくのだ。しかし、今日は変身できない。いや、今後しばらくはできないかも知れない。
そんなことを言っていると、先に進まないではないか。
久雄の心は揺れる、友達である優香の言葉が頭の中に突き刺さるのである。
「久雄。いる?」
突如、ドアをノックする音が聞えた。同時に声も。久雄にはすぐに声の正体が分かった。
「優香かい? 何か用?」
そう、優香だった。声質は慎重であったが、特にそれ以外感じることはない。久雄は部屋の戸を開けた。
「入ってもいいかしら?」
部屋の前で佇む優香。ピンクのキャミソールに、ショートパンツという軽装。スリッパの代わりにトングのサンダルを履いている。
「別に構わないけど……」と、久雄。
「なら入るわ」と、優香。
優香はずかずかとあまり遠慮せずに久雄の部屋に入る。
三畳半の狭い空間。まるで物置である。これが久雄が抱える現状。ネグレクトといってもおかしくはない。但し、久雄は不快には思っていなかった。どうせ不知火家は死滅する。今の境遇が苦しいものであっても、それはビッグベアーに変化することで解決していた。
「それで、何か用なの?」
と、久雄は言う。優香は窓のそばにたち、そこから山の風景を見つめ始めた。
「今日は何の日か知ってるでしょ?」
「六の日。つまり、ビッグベアーの襲撃の日さ。君の推理によればね」
「そう。久雄、変身してみせてよ。誰にも言わないし、友達になら、それを見せることくらい可能でしょ?」
「僕はビッグベアーじゃないよ」
「まだそんなことを言ってる。あたしはあなたがビッグベアーであることを知っているわ。それにそれを他言することもしない。ただ、見てみたいのよ。人間が熊に変化するということを……」
オカルト好きな少女であるが故に、優香の目は興味と希望で輝いていた。久雄は迷いを見せる。果たして、優香に自分の姿を……真の姿を見せても良いのだろうか? 神や悪魔がいるわけではない。彼らが仮にいるとして、自分の能力のことを他言無用であるとは言われていないのだ。つまり、誰にでも自由に告白することができる。
しかし、久雄の目的は不知火家の消滅である。
優香の処遇をいずれ決めなくてはならない。果たして、久雄に優香を殺せるのか?
(殺せない)
と、久雄は考える。
心底優香に惚れこんでいる久雄にとって、優香は女神そのものである。決して触れることができない神聖な存在。彼女を殺せば自分は狂ってしまうだろうと思えた。
しばらく黙り込む久雄に対し、優香は苛立ちを覚えたようである。くるっと身を翻し、久雄に視線を向けた。
「久雄。答えて。あたしを殺すの?」
「君を殺す?」久雄は目を細める。「どうしてそんなことを言うの?」
「何度も言わせないで、ビッグベアーは不知火家を滅ぼすために遣わされた、神や悪魔の使者なのよ。それは確実」
「そんなことはないよ」
そう思っているときだった。突如、体が、正確に言うと背中が熱く、それでいて痺れているように感じ始めた。
背中のたてがみを思い切り引っ張られ、その後、ジッポで火をつけられたように熱くなったのである。こんな変化は今まで感じたことがない。
みるみるうちに体が溶け出して、ビッグベアーに変わっていく。
どうしてこんなことが起きているのだろうか? 自分の意志とは裏腹に、ビッグベアーに変化してしまった。抑えることはできない。ただ、自然と呼吸するように久雄はビッグベアーに変わる。その姿を、地獄を見るかのような眼で優香は見つめていた。己の確信は正しかった。それを自覚するように優香は恐る恐る声を出した。
「やっぱりあたしの考えは正しかった」
完全にビッグベアーに変化した久雄。
ビッグベアーに変化すると、喋ることができない。体長二mを越える大柄な体は、この三畳半の室内には狭すぎる。
(何故今、変化したんだ?)
まったく自分の取った行動についていけない久雄。同時に激しい憤りが噴火の如くあふれ出す。目の前に立つ優香を殺したい。そんな衝動が芽生えるのだ。ビッグベアーになると、感情の起伏が激しくなり、それでいて殺人という行為が、まるで推奨されるように感じるのである。
久雄は止めどなく溢れ出す憎悪の念を抑えることに躍起になる。このままでは、自分は優香を殺してしまう。
(友達を……いや恋人を殺してしまうのは駄目だ!)
優香を失いたくない。そんな希望と、優香を殺してしまいたいという野望が、濁流のように自分の心を覆い尽くす。かつて、こんなことは経験したことがなかった。よって、久雄が取った行動は、この場から逃げるということだった。すっと身を翻し、優香の細い体を切り裂きたいという邪念を何とか追い出し、部屋から出て行った。
不知火家にいた人間が叫び声を上げる。だが久雄は懸命に体を動かし、外に出て行く。邪魔になる者はすべて殺害してもいい。そんな風に思えた。
この時、不知火家に残っているのは、当主の『彦治』『千代』。その息子の『正輝』。
それ以外の人物はすべて殺害していた。だからこそ、不知火家への周囲は常に警戒され、杉沢村の狩猟者が交代で見張りをしていたのである。
突如現れたビッグベアー。
見張りをしていたというのに、あっさりと裏を突かれたかのように、顕現したのだ。不知火家を取り巻くハンターたちが一斉にビッグベアーに襲い掛かった。恐怖を抑えるために、皆、猛々しい雄叫びを上げる。その声を聞き、金蔵と銀二もその輪に入ってくる。狩猟者は六名。対して、ビッグベアーの久雄は一人。多勢に無勢。これが通常の熊だったら既に勝負はついているだろう。
しかし、ビッグベアーは違う。神の化身といっても決して冗談には聞えない莫大な力を内包している。
「いたぞ!」
「こっちだ!」
と、ハンターたちの声が轟く。
そして、辺りはたちまち戦争映画顔負けの銃撃戦が始まった。
久雄はこの場を打開するチャンスを窺っている。弾丸が体にめり込むが、ゴムで軽く弾かれる程度の痛み。それは良いのだが、ハンターたちは不知火家の人間ではない。つまり、ビッグベアーに変化した久雄には殺せないのだ。
この理由は分からない。ただ、殺意が起こらず、殺すことができない。前述したように、ビッグベアーの力は不知火家限定なのだ。
無敵の力ではない。そもそも、この世に無敵の力など存在しない。あまりに強大すぎる力。著名な刀に鞘があるように、強固に守られているものなのだ。
一斉に射撃を食らう久雄であったが、その中に達人、銀二がいることが分かった。彼の攻撃だけが的確にダメージを与えてくるからである。このままここに佇むことは不味い。久雄はそう考え、狂った野獣の如く、山の中に侵入していく。
ハンターたちが追い、ビッグベアーは逃げる。当然、ビッグベアーの方が足は速く行動的である。いつもなら冷静になれる久雄であったが、今日は完全に冷静さを欠いていた。
自分の意志とは別にビッグベアーに変化してしまった。これは一体何故なのだろうか? 何か大いなる野望が隠されているように思えた。きっと、ビッグベアーには定期的に変化しないとならないのかもしれない。果たしてそうなのか? 〇歳で人を殺し、その後四歳までブランクがあったことは間違いない。
この前にビッグベアーに変化したのは三カ月前。その時に彦治の息子である光輝を殺害したのである。つまり、食い殺した。あれから三ヵ月しか経っていない。定期的に不知火家の人間を殺害しないとならない条件ではないだろう。
となると次に考えられるのは?
(不知火家の人間が目の前にいたということ)
通常、ビッグベアーに変化するとき、久雄は一人である。変身している姿を見られているわけではない。だが、今日は違う。目の前に、優香という不知火家の末裔がいたのだ。それが原因なのであろうか?
(いや、そんなことはないだろう)
と、久雄は考えをめぐらせる。
それよりもビッグベアーから早く久雄に戻らなければならない。これ以上、騒ぎを大きくするべきではない。久雄がそう思い、体を戻すために念じようとすると、それを憚る存在が現れた。
金蔵と銀二の『金と銀』のコンビ。
そして、不知火家の現当主、『彦治』であった。彦治は愛用のライフルを持ち、それをビッグベアーに向けている。一族を殺された恨みは、自分で晴らす。そんな確固たる気持ちが含まれている。
「ズドン!」と、爆音。
狙いを定めた彦治の一撃がビッグベアーを襲う。
しかし、普段狩猟慣れしていない彦治の一撃は外にそれてしまう。それでも何度も狂ったように彦治は銃撃を続ける。それを援護するように、金蔵と銀二の攻撃の雨がビッグベアーに注がれる。
槍のように注がれる攻撃の雨を掻い潜り、久雄は山の中に逃げる。金色のたてがみが熱い。
この状況をどうするべきか? 考えは決まっている。彦治を倒すことだ。この邪魔者さえいなければ、もしかしたら何か答えがつかめるかもしれない。そんな淡い希望を胸に抱き始めた。
久雄は彦治と対峙する。彦治の存在は久雄にとっては重要なものである。なぜなら、彼を救ったのは他でもない彦治なのだから、彦治がいなければ、久雄はどうなっていたのか分からない。
アマラとカマラではないが、野生児として○○山で育つことになったのかもしれないし、ビッグベアーとして生きることができずに野タレ死んだかもしれない。つまり、これから久雄が行おうとしている行為は、彦治に対する恩を仇で返す行為。通常ならば、考えられない行動である。
但し、この時の久雄は酷く興奮状態にあった。かつてないほどに……。その理由は他でもない、優香に自分の変化した姿を見られたことにある。こんなことは今までになかった。秘密裏に活動し、そして暗躍していた。しかし、それはすべてまやかしで、自分のうぬぼれでしかないことが判明した。
甘かった。自分の行動は高々小学生すら見破られるほど、単純で簡単なものだったのだ。いや、確かに優香の行動力や推理力は小学生離れしている。『六』の日の謎は、大人たちの間でも特定されていないのだ。もちろん、杉沢村に住む村人たちは、密かにビッグベアーのことを崇拝しているから、本気で探そうとはしていない。
それを鑑みても、誰よりも先にビッグベアーの正体や特徴に気づいたのは、特質すべき点であろう。それだけ優香は卓越した能力を持っていた。
シャーロックホームズのように。
明智小五郎のように。
胸が熱い。茹だる。目の前に立つ彦治を早く殺したい。そして噛み切りたい。肉を噛み切る時の『パツン』とした触感を心待ちにしている。普段はそれほど感じないことでも、今は激しく欲している。
「彦治様。下がっていたほうがいい」
と、言ったのは銀二であった。
彼はあくまで冷静に事態を把握している。そしてビッグベアーのことを鬼のような形相で見つめている。
彼にとってもビッグベアーは許せない敵なのだ。なぜなら小夜子(銀二の許婚)を失ったからである。それ以来、彼は一生独身を貫くことに決めたのだ。人生の伴侶を奪われた苦しみは、オウム事件さながらの憎しみや難渋さを生み、銀二のことを侵食していた。
もちろん、そのことを久雄は知っている。知っているからこそ、あえて無視をしているのだ。いつもは余裕のあるビッグベアーの久雄。しかし、今回はそうではない。感情が支配されている。自分の思い通り行かない。
「銀二。俺に撃たせろ!」
既に何発の発射させている彦治であったが、頑なにそう告げた。
銃身の先が震えている。これでは命中しないだろう。どれだけの時間が流れただろうか? 時の流れがぐっと圧縮され、ここまでの行動に、僅か一〇秒しか掛かっていないことを、この場にいる誰もが感じ取れなかった。
それだけ濃縮した時間が流れていたのである。
先に行動を見せたのは彦治。
決して熟練し、慣れた手つきではないが、ライフルをビッグベアーに向け、立て続けに三発連射をする。ライフルは連射することが難しいが、彦治のライフルは特製に作られている。三発までなら連射できる特別仕様なのだ。
弾が止まって見える。極限まで研ぎ澄まされた神経。苛立ちと焦り、そして憤怒と不安。様々な感情。それが得体の知れない脳内物質を生み出していた。久雄の精神は二度とこれを上回ることがないくらい高鳴っている。
その特別な感覚が、弾を止まって見えるくらいに感性を鋭敏にさせる。
まるで、巨大な妖怪の如く、久雄は銃撃を避ける。あまりの俊敏さに、銀二、金蔵、そして彦治は度肝を抜かれる。これはどういうことだ? まるで物の怪を見るかのようにビッグベアーを見つめている。
その後、行動を起こしたのは金蔵。彼もまた愛用のライフルでビッグベアーを襲う。金蔵の場合、彦治とは比べ物にならないくらい高い技量を持っている。すべての弾丸は着実にビッグベアーを捉えている。
これが通常の熊であれば、既に勝負はついている。しかし、今彼らが対峙にしているのはビッグベアー。神や悪魔の化身なのだ。ビッグベアーはありえない速度をみせて、身を反転させ、烈火のごとく弾丸を回避し、怒涛の勢いで、突進する。
傲慢だとしたら、まさにこの瞬間であっただろう。久雄は高鳴る感情に支配され、完全に我を忘れていた。その結果、このような愚かな行為に走ってしまった。
(早く殺したい)
この思いの源泉はどこから湧いてくるのだろうか?
いきり立つ精神を静めたいからなのか? それとも優香に真相を掴まれた焦りからくるものなのか? いや、また別のものなのか?
その正体に久雄は気づかなかったが、実はこの時、久雄の体内には、激しい殺意のほかに、恐ろしい恐怖も湧き上がっていた。自分がどうなるのか分からない。そんな不安が彼のことを波蝕するように覆いかぶさっている。
死にたくないから殺したい。
この場を早く立ち去りたいから殺したい。
そんな感覚。ビッグベアーは熊が見せるスピードとはまるで別物の速度をみせ、彦治に襲い掛かる。
これは参ったと、彦治はライフルを落とし、そしてその場に尻餅をつき、ガタガタと震え始めた。これを村人が見たらさぞ歓喜したことであろう。このまま喰われ、そして命尽きる。それが垣間見えた気がする。まさにその瞬間の出来事であった。
なんと銀二が目の前に飛び出し、そしてライフルをビッグベアーに向け、稲妻の如く、弾丸を発射させたのである。
「ズドン!」
鈍い音が界隈にこだまする。
同時に激しい炸裂音が鳴り響く。
一瞬、この場にいる誰もが何が起きたのかを把握することができなかった。
久雄もよく分からない。だが至近距離で撃たれたことは確かである。首元が激しく熱い。熱湯をかけられたような気分。それは間違いない。同時に首元から、鮮血が飛び散るのを自覚した。
(何が起きたんだ?)
久雄は興奮した感情を何とか抑え、状況を把握することを躍起になる。
この時、久雄の首元にはある物がぶら下がっていた。それは優香から貰ったお守りである。小説ではよく、お守りが人を救うことがある。小説だけでなく現実世界でもありえる話。つまり、銃で撃たれてもお守りが衝撃を緩和する防弾チョッキのような役割になり、命を救うという仕組みである。
まさにこの時、久雄の首元にはいつの間にかお守りが巻かれていた。その姿に気づいたのは、銀二だけであったことを忘れてはならない。この瞬間、銀二はあることに感づくのであるが、この場ではまだ、そのことを詳しく説明はしない。
お守りがあった分、衝撃は和らいだ。しかし、致命的なダメージを受けたことには変りはない。この場にいることがどれだけ危険なことか、痛いほど分かっている。さらに言えば、自分の犯した、愚かな行動に嫌気が差す。
早くこの場を立ち去りたい。そんな気分さえ浮かび上がってくる。自分に対する怒り。そして死という恐怖。死ぬわけにはいかない。死ねば優香に会うことができなくなる。彼女と別れてしまうことは、久雄にとってこの上ない脅威なのである。
しかし、ここで逃げても事態は変わらないだろう。
圧倒的な劣勢状態。こんなことは今までになかったのだ。当然、好機とみて金蔵や銀二は襲ってくるだろう。逃げることはむずかしい。となればどうすれば良いのか? 赤い飛び散る鮮血が、ビッグベアーとなった久雄の体力を奪っていく。あまり時間はない。彼が導き出した結論は――、
(彦治を殺す!)
と、いうことであった。
彦治を殺害すれば、勝負はつく。深入りすることはないだろう。
ビッグベアーは残された力をぶるんと振るい、銀二の攻撃を掻い潜る。そして尻餅をついている彦治に襲い掛かり、あっという間にその首を食い千切った。
人形のように首が飛び、辺りは阿鼻叫喚の地獄へと化す。その後、すぐに久雄は身を反転させ、山の中に入る。
この間、なんと五秒。それだけの短時間ですべては終わった。しかし、久雄に与えた衝撃はさらに大きなものだった。首から流れる血。それはビッグベアーの生命そのものであった。ユラユラとしか動かない体。今の攻撃ですべての能力を使い果たしたように、のろのろと怠慢した動きである。
その変化に銀二や金蔵が気づかないはずがない。彼ら二人は、協力し、彦治のそばに残る者と追う者に別れ、ビッグベアーを追い詰めたのである。しつこい人間。
追ってきたのは銀二。彼は逃げるビッグベアーに焦点を定め、襲い掛かってくる。不知火家の人間しか襲えない特質上、ビッグベアーは逃げるしかない。首から流れる血が量を増してきた。このまま死ぬのであろうか? そう考えた久雄であった。高が人間にやられる。その苦しみが全身を襲い、優香のことが頭に浮かぶ。
生を諦め、死を覚悟したときだった。
まるでこの世に生を受けたように世界が広がり始めた。山の中、久雄が進む先に、人影が見えたのである。小さな人影。一瞬ではあったが、久雄にはすぐにそれが誰だか分かった。自分の恋焦がれている少女。
そう。優香であった。
まるで天使のように見える。優香は久雄がここに逃げてくると察していたのか、待っているようにも見えた。
この時焦ったのは銀二である。目の前に突如現れた優香の存在。これではライフルを撃てない。万が一、弾丸が反れ、優香に直撃したらひとたまりもないだろう。
「チッ」と舌打ちをし、銀二はライフルをおろし、優香に向かって叫んだ。
「優香! 逃げろ!」
波瀾の叫び。しかし優香は聾になったかのように、その場から動かない。焦りや恐怖を感じさせないのである。
ただ、久雄のことを迎えるように、ビッグベアーを助けるかのように。
(優香!)
と、久雄は心の中で念じる。神経が張り詰め、よく分からないことになっているが、目の前に現れたのが優香であることは理解できる。彼女はなぜ、この場所が分かったのだろうか? そして目的はなんなのか? すべては謎に包まれている。
首から鮮血を流し、黄金のたてがみを揺らしながら、ビッグベアーは優香に近づく。
突如、彼女に対する激しい怒りが沸いてくる。この怒りを鎮めるためにはどうすれば良いのか? 久雄には分からなかった。前方に広がるのは、断崖絶壁。ここから飛び降りれば、すべてを終わらせることができるかもしれない。
久雄は躊躇しなかった。ただ、さもそれが当たり前かのように、崖から勢いよく飛び降りたのだ。通常であれば自殺行為にもとれる行動。断崖の高さは数十メートルあり、都心で言えば、マンションの一〇階から飛び降りるものである。つまり、生存の可能性はほぼ〇%であろう。断崖から飛び降りたビッグベアーは米粒よりも小さくなり、優香と銀二の前から完全に姿を消した。
さて、飛びこみ自殺さながらの行動をとった久雄であったが、彼は無事であったのか語らなければならないだろう。一般的に、一〇階建のマンションから飛び降りた場合、まず助からない。骨は粉々に砕けるだろうし、内臓も破裂するだろう。轢死体のようにバラバラに飛び散ることはないだろうが、死という呪縛から逃げることはできない。
但し、ビッグベアーは違う。持ち前の異常な精神力と体力、そして頑丈な体が、一〇階の高さから飛び降りることを可能にしていたのである。足や手、体は無事であったが、問題になるのは、首から流れる血だ。ようやく少しずつ止まりつつあるが、ここまでの傷を受けたのは初めてであるが故に、久雄の気持ちは焦っていた。
痛みはない。だが……、
(お守りが台無しだな)
首元に手を当てると、そこには血に染まり、割れたお守りが確認できた。それを、そっと割れ物を扱うように手に取る。せっかく貰った優香からのお守り。この世に生を受けて、初めて貰った他人からのプレゼント。
それをあっさりと破壊してしまった。止めどない後悔が久雄のことを襲う。同時に、久雄はビッグベアーから人間の姿に戻っていた。自覚はないが、首元からは血が流れている。しかし、その血はDVDを逆再生するかのようにみるみると止まっていく。
今日は色々あった。ありすぎで困るくらいである。ここまで劣勢に立たされたことはないし、とうとう不知火家の当主を殺害してしまった。こうなると、不知火家は一歩終焉に近づいたことになる。
彦治がいなくなれば、その後を継ぐのは長男である正輝。だが、彼には彦治のようなカリスマ的な手腕はないし、どこかのほほんとしている。彦治の如く嫌われているわけではないが、舐められているのは間違いない。
(不知火家もとうとう終わりだな)
と、久雄は考える。
十五歳の久雄はあまりに不知火家の消滅に対し、時間をかけすぎたと、少しだけ反省する。
首から流れる血が邪魔だ。この傷をもって屋敷に戻ることはできない。どうしたら良いか言い訳を考える必要もあるが、このまま時間が過ぎるのを待てば、傷は修復するだろうと思えた。但し、この場に残ることは危険。
ビッグベアーが飛び降りた場所に遺体がなく、代わりに久雄がいたとしたら、疑われるのは必死。とりあえずはこの場から立ち去ることが重要であろう。特に銀二に見つかるのは避けたい。
しかし、この時久雄は銀二に見られていることに気づかなかった。山の中に慣れている銀二は速やかにビッグベアーの後を追い、遺体を確認しに来たのである。
不幸中の幸いだったのは、ビッグベアーから人間に変幻するところは見られなかったということだろう。しかし、確実に銀二の中に不信感を与えてしまった。それは避けられない事実。久雄はゆっくりと崖を登り、そして山の中に姿を消した。
しばらく山の中をうろつき、久雄は首元に手を当てる。血は既に止まっているが、傷跡が残ってしまった。もはや何かでやられましたという痕が克明に残っている。この言い訳をどうするか考えなければならない。
いや、それよりも考えるべきことは……
どうして久雄の場所が優香には分かったのか?
そして、何故彼女の前で変化してしまったのか?
この謎であろう。考えても埒が明かないが、久雄は一つの考えにたどり着こうとしていた。それは貰ったお守りの存在である。
今回の変身と、今までの変身に違うところがあるとすれば、お守りの存在しかない。つまり、このお守りに何か秘密が隠されているということは自明。お守りをそっと手に取ると、鮮血に染まった生地の中に木製の板が入っていた。それは割れていて、確実に弾丸を受け止めている。
ライフルの弾が直撃したというのに、板は粉々にはなっておらず、ただ真っ直ぐ、綺麗に割れていた。そして久雄の血がべっとりと付き、生々しい感覚を与える。
(もしかしたらこれにGPSのような機能があるのかもしれない。そして変身に関する謎も恐らく隠されているだろう)
木の板を見つめると、そこにはなにやら呪文のようなものが書かれていることが分かった。これは神社で売っているお守りではない。優香が手作りで作った代物である。確実に秘密があると察せられる。恐らくビッグベアーに関する制御不能な秘密が隠されていることは間違いない事実であろう。
久雄がしばらく考え込んでいると、森の藪を掻き分ける音が聞えてきた。
その音は確実にこちらに向かってくる。身構える久雄。一体誰だろうか? 銀二か? だとしたら、ここで見つかるのは不味い。
久雄の想像は外れた。
現れたのは、優香一人。彼女は蠱惑的な表情を浮かべ、久雄の許に近づいてくる。まるで、そこに彼(久雄)がいたことが分かっていたかのように……。
「大丈夫? 久雄」
と、優香は開口一番告げる。本当に心配している口調だ。優しさが垣間見える。
声が聞きたい。そして抱きしめたい。この場ではありえない感情が久雄の中で浮かび上がり、彼から冷静さを奪い取っていく。首の傷は完全に止まっているが、傷跡は隠せない。これではもう、何の言い訳もできない。優香を始末するべきか? そんな実行不可能なことを思い浮かべながら、久雄はゆっくりと答えた。
「大丈夫さ」
「そう。それなら良かった。崖から飛び降りたとき、まず間違いなく死んだと思っちゃったわよ。どうしてあんな危険なことをしたの?」
「分からない。ただあの場から逃げることが重要だと思ったんだ」
「お守り、砕けちゃったのね」
「うん。ごめんね」
「いいわよ。また作ってあげるから」
あっさりと言う優香。しかし、久雄は首を縦に振らなかった。
「このお守り」久雄は言う。「何か秘密があるんだろ? 例えばビッグベアーに変化するきっかけを作るとか……」
しばし、優香は考え込んだ。『これは意外』という表情になり、ゆっくりと声を発する。
「うん。本を見てね、造ったの。魔術的な効果があるって書いてあったから製作したけど、本当に効果があったのね。ああいうオカルト的な本ってあまり効果がないと信じていたけど、今回は違うみたいだった」
「もう止めてくれ」
と、懇願するように久雄は言った。
それに対し、優香は答える。蠱惑的な表情が消え、真剣な一〇歳の少女の顔になる。忌々しい時間。そして耐え難い雰囲気が辺りに流れていく。
「どうして?」
絞り出す声。優香には久雄が言っていることが理解できなかった。自分は久雄の秘密を知り、より久雄と親密な関係を築くことができると考えているのに、当の久雄はそれを迷惑に考えている。それは何故なのか? どうしてここまで頑なにビッグベアーのことを黙りとおすのか? 二人だけの秘密にすればいいではないか。
「僕は君を殺さなければならない。いや、今日確実に君への止まらない憎悪が湧き出したんだ。あのお守りの所為だ。お守りは僕の感情を奪い取り、制御不能にしてしまうんだ」
「おじい様を殺したのもお守りの所為だっていいたいの?」
「そうだ。僕は彦治を殺すつもりはなかった」
「だけどいずれ殺す必要が出てくるでしょ。あなたの目的は不知火家を消滅させることなんだから」
消滅――。それはつまり、優香自身の死をも意味している。不知火家の人間である優香の未来は絶望に包まれ、久雄の手のひらに転がされているのだ。しかし、そんな不幸なことを一切感じさせず、優香は声を継ぐ。
「久雄。あなたはあたしを殺すの?」
どこかで何度も聞いた声。呪文のような言葉。
「僕は殺したくない。いや、殺せない」
「でも殺さないと、あなたは目的を達成できない」
「達成しなくてもいいよ。それならずっと君と一緒にいられる」
「ねぇ。あたしのことが好き?」
その質問は久雄のことを凍りつかせた。優香のことが好きかと問われれば、『好き』と答えるしかないだろう。しかし、それが声になって上手く伝えることができない。
「そ、それは……」
口ごもる久雄に対し、優香は答える。
「今日。あなたはあたしを殺そうとした。お守りの所為だというけれど、それは確実なことよね。あたしにはそれが分かった。あなたの目的、変身する理由。それは二人だけの秘密」
「君は許してくれるの?」
「許す? 何を?」
「つまり僕が今まで不知火家の人間を殺していたことだよ。今日だって一人、それも当主である彦治を殺害したんだ。これで不知火家は大きく変わることになる」
「そうね。きっと変わる。変らなきゃ駄目だもの」
久雄はゆっくりと優香に近づき、そしてその小さな体をそっと抱きしめた。
細い、折れそうな体。されるままに優香は久雄の体を抱きしめ返す。淡い一幕が垣間見え、二人の間に濃密な時間が流れる。
「僕はもう、死にたいよ」
「死ぬ? どうして?」
「これ以上、自分の運命に立ちあいたくないんだ」
「運命。つまりビッグベアーになるということね……」
「そう。そうなんだ」
「大丈夫。あたしがついてるわ」
と、優香は自信満々に言った。
その時の表情を久雄は知らない。そして優香の考えていた真相も。
事件が起きるのは、それから五年後のこと。つまり、久雄二〇歳、優香十五歳の時のことであった。
雌伏して時を待っていた優香は、ここで行動を起こすことになる。
その日が……運命の『六』の日が近づいていることを久雄は知らなかった。この時、久雄と優香は付き合っており、いつも二人でいることが多くの人間に目撃されている。もちろん、不知火家の人間も知っている。下男である男と、その家に住む娘の恋愛。さながら恋愛小説のようであるが、誰も文句は言わなかった。言うほど権力を持つ人間が当時の不知火家にはいなかったということになる。
この時代、不知火家は終焉に向けて着々とその人数を減らしていた。
彦治の子供たちは、既に跡を引き継いだ正輝しかおらず、他の面子はすべてビッグベアーに食い殺されていたのである。残された正輝も戦々恐々とした日々を暮らし、特に『六』の日には何があっても絶対に外に出るという真似はしなかった。
既に、『六』の日にビッグベアーが現れるということは、銀二によって告発され、不知火家の人間を震え上がらせた。残された人間は『千代』『正輝』『美佐子』『優香』『隼人』の五名。隼人は生まれたばかりの赤子であるから、十分な警戒態勢が整えられていた。
やがて『六』の日がやってきて、緊張が走る。
大抵、『六』の日になると、ありえないほどの緊張感が流れ、不知火家を制圧するのである。その変化は耐え難く、ストレスを生む。優香と久雄を除いて……。
「今日は誰を殺すの?」
自室にこもっていた久雄の許を訪ねた優香は、そんな風に口を開いた。
下男として仕事を終えた久雄は自室で物思いに耽っていた。ビッグベアーに変化し、手っ取り早く、誰かを殺してもいい。しかし、今回はそんな気分になれなかった。着実に不知火家は終わりに向かっている。時間の問題である。残されて人間の多くはそう考えていた。
特に千代はその傾向が高い。彼女は既に六〇歳、つまり還暦を迎えていた。それ故にいつ死んでも良いと考えていた。毎月、ビッグベアーに怯える日々。そんな毎日が続くのであれば、いっそのこと死んだ方が楽であると考えていたのである。
しかし、食い殺されるのはゴメンだ。千代は『生』と『死』の狭間でゆっくりと振り子の如く揺れていた。何もできず、ただ小さな老婆として……。まるで生まれたての小動物のように。
「殺さないよ」
ポツリと久雄は答える。すべての権利は久雄にはある。実質、不知火家を牛耳っているのは久雄と言っても過言ではないのだ。但し、彼の正体を知るものはこの世にたった二人。
一人は今この場にいる優香。
そしてもう一人は銀二。
この二人だけである。久雄は優香が自分の正体を知っていることを理解しているが、銀二が正体を知っているとは考えていなかった。だから、この時、油断があったといっても不思議ではない。むしろ、今回はある策略が張り巡らされていたのである。それを久雄は知らなかった。
「本当に?」と、優香。
「本当だよ」と、久雄。
「でもさ、久雄は不知火家を殲滅させなきゃいけないのよね?」
「多分ね。それが僕に与えられた使命みたいなものだから」
「どうしてそんなことが分かるの?」
「知らないよ。生まれた時から察していたんだ。自分が男に生まれたことを、どうして? って疑問に持たないだろう? それと同じで、ビッグベアーに生まれた事もただの運命なんだ」
「それだけの理由で人を殺すのね。あなたは確かにビッグベアーとして生まれた。これはもう避けようのない事実。まぁ今のところあたししか信じていないみたいだけど……」
「いや」久雄はやや答えにくそうに、「もう一人察している人物がいるんだ」
「誰?」
「銀二さん。狩猟会の凄腕のハンターだよ」
「あぁあの人ね。どうしてそう思うの?」
「勘、といったらそれまでだけど。あの人が僕を見る眼は決まって疑いの目線だ。あの人は何かを察しているよ」
この時、優香の表情が持ち前の蠱惑的な面持ちから、苦悩するような顔に変化したことに、久雄は気づかなかった。あくまでも優香は自分の味方であると考えていたためである。
「勘か」優香は言う。「銀二さんは『六』の日にビッグベアーが現れることを見抜いた張本人。確かに何かを知っていてもおかしくはないわね」
「うん。それに」
久雄は首元に手を当てた。そこにはネックレスのようにお守りが下げられており、さらに深いブルーのスカーフが巻かれている。どういう気まぐれか知らないが、千代が久雄に渡した代物である。
「傷、残っているの?」
そう、五年前。断崖絶壁から飛び降りる原因を作った傷。
銀二によって与えられた弾痕が、久雄の首元には残っているのである。あの時の油断や窮地に陥った感情を、久雄はこの先忘れることがないだろう。
スカーフとお守りを取り、久雄は首もとの傷を見せる。皮膚がケロイドのように盛り上がり、引き攣っている。醜く見えるが、久雄はこの傷を絶えず隠しているから、この傷のことを知っている人間は少ない。ただ、僅かに知っている人間の中に銀二が存在していることは確かである。
「残ってるよ。ほら」
「痛々しいわね」
「もう、痛くはないんだけど、でも傷口を見せて歩けないよ。まるで自分がビッグベアーであることを、告げているようなものだからね」
「ビッグベアーは不知火家の人間しか襲わない。きっと銀二さんはそう察してるはずよね」
「多分ね。あの人は鋭い。何もかも気づいているよ。だけどそれを言わず、着々と自分の腕を磨き、ビッグベアーとの対決に備えている」
「手強い?」
優香は言った。
銀二とビッグベアーその関係に着目しているのは間違いない。
同時に、この時、ある策略を考えていたのである。久雄は気づく由もない。ただ、漠然と時の流れを感じていただけ。
「手強いかな。他のハンターとは違うよ」
「じゃあ銀二さんを殺せば良いのに」
あっさりと言う。そんなに簡単に人を殺すことはできない。
久雄はそう考えていた。自分が不知火家の人間を殺害していることに、小さな罪悪感さえ覚え始めていたのである。但し、その溢れ出す感情を抑えながら、日々の生活を送っていた。ビッグベアーと人間。その役目と宿命。そして倫理感の狭間で久雄は大きく揺れている。もって生まれた運命が不知火家の消滅だったとしても、それが人を殺していい理由にはならないのである。
「君は恨んでいるだろう? 何故僕と一緒にいる?」
久雄の声は急激に萎んだ。花が枯れるような繊細な響き。
「恨む?」優香は答える。「何を恨むの?」
「君のお父さんやお母さんを殺したのは僕だ。その事実を知っているだろう。だから、君にとって僕は憎き敵のはずだ。君には僕を殺すだけの条件が整っている。だけど、君は僕に優しくしてくれるし、こうして付き合ってくれている。それは何故なの?」
「何故か? 分からない。久雄のことが好きだけど、ビッグベアーのことは嫌い。ねぇ、山の中の行かない? 答えが見つかるかもしれない」
「答え? 何のことを言ってるの?」
「ビッグベアーとしてあなたがどう生きるべきか、ここではっきりさせようということよ」
久雄はこの時、罠に掛かった。鋭利な刃物を殺人鬼に渡し、殺してくださいと懇願するような状況であった。しかし、久雄は気づくことがなく、優香と二人、森の中に入っていく。
○○山は厳重な警戒態勢が整えられていた。地元の狩猟者だけでなく、警察や有志の人間が数多く警戒しており、山の中には独特の刺すような雰囲気が流れていた。彼らに見つかると色々と面倒であるから、久雄も優香も十分に注意しながら山を歩く。
この時、久雄はある違和感を得ていた。何か身体の底が熱くなるような気分を感じるのである。同時に、この気分の正体を知っていた。それは首を撃ちぬかれたときに感じた、あの感覚。つまり、制御不能の正体がそこに隠されているような気がしたのである。
「おかしい」
久雄は呟いた。
もちろん、その声に優香は気づく。
「何がおかしいの?」
「僕が僕じゃないみたいだ」
久雄は自分の状況に耐え切れず、身体を押さえてひざまずく。制御できない。たてがみが震えるように唸り、たちまち全身がビッグベアーに変化していく。なぜ、こんなことが起きている。
ただ一つ言えるのは、このような事態になることを、優香が半ば……、いや、一〇〇%予測していたということであろう。
(僕ははめられたのか?)
と、久雄は残された理性の中、そう考えた。そして、優香のことをサッと見つめる。暗黒に満ちた優香の表情。その顔はとても十五歳の少女のものとは思えない。しいて表現するのなら、『鬼』や『蛇』の類。
「久雄。あたしは今日、あなたを殺す」
一瞬、何が起きているのか分からなかった。
優香に手を伸ばそうとすると、まるで見えない壁にぶち当たるように身体が跳ね返されるのである。それを見た優香は余裕綽々の顔をで、次のように言った。
「あなたは五年前、あたしの父と母を殺した。それは覚えているわね。忘れたとは言わせない。あたしは長い年月をかけて、この山に結界を作ったの。あたしがオカルト的な知識を持っていることは知っているでしょ。それであなたを始末するために、あなたに近づき、このチャンスを窺っていた。今日がまさにその好機の日。不知火家を守るため、あなたには死んでもらう必要がある」
優香の告白は辛うじて、意志を分断される久雄に届く。どうやら、この○○山の中には結界が張り巡らされているようである。そう、山の樹木を基点とし、長い年月をかけて構築され、念じられた結界ができているのだ。それは六芒星の形をとり、その中心に現在優香と久雄は立っている。
この結界の中にいる限り、久雄は自由に動き回ることができない。縛られ、拘束されたただの熊に成り下がってしまう。
初めて久雄は自分の窮地を知った。
(僕は……)
と、久雄は念じる。その後、優香がまるで答えを知っているかのように、声を発する。
「あんたは今日。ここで死ぬ。覚悟しなさい」
まるで腕のいい中世の魔術師が蘇ったようであった。
目の前に立ちはだかる小さな少女、優香。その後ろに守護霊のように高貴な天使が垣間見える気がした。久雄はこの時、自分が助かるためには、優香を殺害しなければならないということを確かに察した。
問題なのは、自分の恋人である優香を殺せるかということだ。
(殺せない……、ということはつまり)
自分の消滅を意味している。確かに久雄は死を意識した。優香を殺すくらいなら、自分が死んだ方がいい。今まで不知火家の人間を蹂躙してきた人間の考えと思えない、傲慢な考え。彼には罪の意識はなく、ただ、今の境遇を見つめるだけで精一杯であった。
「覚悟して……久雄」
優香はそう言い、どこからか手にいれた拳銃を取り出した。恐らく、狩猟会の事務所から持ち出したのであろう。
黒光りする拳銃は、中学生の優香が持つにはおかしな代物である。
久雄はどうするべきか迷っている。この事態を解決するには、優香をなんとかしなければならない。説得できるのだろうか? いや、できそうにない。既にビッグベアーに変化しているため、会話をすることはできないのだ。
着々と準備された計画なのだろう。だから銃を持っているのだ。この場を打開するためには、優香を……、恋人である優香を、殺さなければならない。
自分は今までずっとはめられていた。そんな思いが久雄のことを覆っていく。彼はずっと優香の真の心に気づくことがなかった。
優香が久雄に近づいた理由。それは親の敵を取るため。考えればすぐに分かりそうなものであるが、恋愛感情は、時として人を盲目にさせる。それは間違いない。久雄も優香に惚れるがあまり、優香の抱える真の感情に気づくことがなかったのである。
完全な不覚。その思いは膨れ上がるが、同時に、悲壮感も生じる。煙幕のように現れ、久雄を苦しめる。自分が今まで感じていた、あらゆる思念がすべて間違いだったのだ。それは久雄を絶望に誘い、あっという間に地獄に突き落とす。ダンテが地獄を見たように、久雄もまた精神的にも肉体的にも地獄という名の現実を感じ始めた。
生き残るためにはどうするべきか?
(優香……君は……)
久雄は声に出そうと躍起になる。しかし、声は出ない。それは当然である。ビッグベアーになっている間には声を出すことができない。自在に元に戻ることが可能であるが、今はその意志がくじかれる。つまり、元に戻ることができないのである。それは一体どうしてか?
優香の積み重ねてきたロジックのような罠が、今、久雄を完全に覆い尽くしていた。久雄はゆっくりと立ち止まり、真剣な瞳で拳銃を向ける優香に視線を注いだ。
人は、恋人は、自分の想い人に対して、拳銃を向けたりすることはない。いや、一般人なら拳銃を持つことさえ、稀なはずである。特に中学生がピストルを持つなんてことは、今時テレヴィドラマでもやらないことだろう。にも関わらず、そんな夢想じみたことが、今この場で起きている。
一体、どうやって打開すれば良いのだろうか?
「パン!」
と、乾いた音が炸裂する!
音の正体はいわずもがな、優香の持つ拳銃から放たれたものだ。
通常ならば、優香の持つ三十五口径の拳銃の威力など高が知れている。ライフルの攻撃すら、ほとんどダメージを受けないビッグベアーなのだから、拳銃の殺傷力など驚くに値しない。少なくとも、一分前の久雄はそう考えていた。
しかし、事態はそう軽いものではなかった。なんと、ビッグベアーの身体を弾丸が襲い、衝撃を与えたのである。こんなことはビッグベアーになってから初めての経験であった。
右腕を撃たれた。そこから赤い血が噴出している。当然、痛みもある。このままでは不味い。自分は丸腰であるし、先ほどの優香のピストルの音を聞きつけて、ハンターたちがやって来る可能性は大だ。早く事態を解決しなければならない。
迷っている時間はないのだ。この場を速やかに打開するためには……、
(優香を殺さなければならない)
そう。自分の最愛の人を殺さなければ、事態を潜り抜けることができない。しかし、そんなことが可能であろうか? 極限の状態の中、久雄は迷いに迷った。裏切られたという寂寥感、そして絶望、悲壮、あらゆる負の感情が湧き出し、久雄のことを苦しめる。それでも久雄は優香のことを信じていたかった。
「久雄、あなたはここで死ぬわ。諦めて頂戴」
と、優香は言う。その声は芯からはっきりしており、決して嘘をついているようには思えない。優香との恋愛、甘い一幕は完全に久雄の夢想であり、現実感のない出来事であったのだ。すべては仕組まれており、今日のまさにこの状況のために作られた人工的な思い出なのである。
変化ができない以上、優香を殺すしかない。あるいは、自分が死ぬしかないのだ。ビッグベアーになった久雄には、ピストルの音を聞きつけた、ハンター達がやって来る、地獄のような足音が聞えつつあった。地獄からの使者。通常の熊と同じ状態であるのならば、今ここで逃げずに立ち止まる行為は自殺行為。
仕方なく久雄は逃げようとするが、四方を透明な壁で遮られているかのようで、先に進めない。どうやら結界内に閉じ込められたようである。
「無駄よ。もう逃げられない」
と、優香は言う。嘘ではなく真実であろう。
諦めに似た感情が浮かび上がり、久雄はとうとう覚悟を決めた。
そう、自分は今日、ここで死ぬ。それでよかった。生きていても仕方がない。優香という恋人を失ったことは自明であるし、そんな環境下に置かれるのであれば、生きる目的を失ったも同然である。これ以上、生きることはしたくない。むしろ殺してほしい。
優香を失った久雄はそんな風に考え、だらりと両手を下ろし、迫り来る処刑の時間に備えていた。まさか、ビッグベアーが敗れるとは思っても見なかった。無敵の力を誇るビッグベアー。しかし、優香が長い年月をかけて編み出した結界を前に手も足も出ない。
戦力差は歴然としている。そんな能力の差が、『ウサギと亀』の御伽噺のような環境を作り出した。決して自分の態度が傲慢であったとは思えないが、罠にかけられ、それをまったく警戒しないくらい、油断していたのは確かである。
「パン、パン!」
優香の拳銃から二発の弾が放たれた。
一発は腹部に当たり、もう一発ははずれ、隣にあった木に直撃した。
まさにその時だった。力の大きなうねりが感じ取れた。一体どうしてか、これは後述するが、奇跡というビッグウエーブが久雄を覆いこんでいく。
(力が戻っていく)
しかし、力が戻っただけで、透明な壁を突き破ることできない。
同時に、我を忘れるくらいの感情の高鳴りが久雄を支配していく。自分はもう、自分をコントロールできない。表面張力を越えたグラスの水が、ぼとぼとと迸るように、久雄の心は完全に介抱された。
もはやそれは制御不能になった鬼のよう。
我を忘れた久雄は、当然のように優香に襲い掛かった。この時、久雄は意志をまったく鎮圧することができなった。
……。
どれだけの時間が流れたであろう。
ビッグベアーの腕、そして口元は真新しい血液でべっとりと汚れていた。結界はすでに解かれているようで、自由に山の中を行き来できるようになっている。まさに数秒前、銀二を中心とする狩猟会も面子が結界の張り巡らされた一帯にやってきた。実にギリギリのところであったのだ。
久雄は山の奥地に身を隠し、だらりと両手を下げた。鬼の目に涙、ではないが、久雄は泣いていた。心の底から悲しみが湧き出し、久雄のことを苦しめる。彼は変化状態を解き、一般の人間の姿に舞い戻っていた。右腕は拳銃によって撃たれたことで、血に染まっているし、僅かながら、痛みがあった。それにたてがみもどこかしら色合いが薄れているように思える。
口にはべっとりと血液がついている。苦く、そしてどこか生温かい。
「優香……」
久雄は搾り出すように言った。それしか言えなかった。
彼の口元にある血液の正体は優香の血液である。
この時の久雄には気づくことがなかったが、優香が放ち、外れた一発が、結界を作っていた重要な樹木に直撃したのである。それ故に、結界の効力が弱まり、久雄のビッグベアーとしての能力を介抱させたのだ。だからこそ、助かった。あの時、優香のピストルが二発とも久雄に当たっていれば、勝負はこのように転がらなかった。優香はワザと外したのだろうか?
どういう因果か分からないが、神は理不尽にも生きるべき生物に久雄を選んだのである。
山の奥地で、久雄は一人泣き続けていた。
決して元にはもどらない優香の躯を抱きしめながら……。あの時、優香を殺した時、自分はまったく感情をコントロールすることができなかった。悪魔に支配され、思うままに優香に襲い掛かり、あっさりと肉を噛むように殺してしまったのである。
最愛の人を失う悲しみ、それは数多くのテレヴィドラマ、そして小説などの物語が繰り返し表現してきた。久雄は自分で最愛の人間を殺してしまったのである。その絶望感は耐えがたく、まさにこれから自分も死のうと考えていた。
優香なしの人生は考えられない。
ゆっくりと断崖に進み、久雄は躊躇なく、飛び降りた。
人間であれば、粉々に打ち砕かれて、確実に死に至ることであろう。久雄はそう考えていたし、生きる望みを失っていた。しかし、神や悪魔は久雄をあっさりと殺すことはしなかった。それは慈愛か、あるいは破滅か。断崖から飛び降りたにも関わらず、久雄の体はビッグベアーと同じようにダメージを受けない。
今日が『六』の日だからなのだろうか? それは分からない。久雄はゆっくりと目を閉じて、自分が闇と同化するのを待った。これ以上、何も考えていたくなかった。
久雄は不知火家へ戻ったのは、夕闇が覆おう午後五時であった。不知火家は悲壮感に包まれている。優香が殺され、その遺体が発見されたからだ。誰もが口ごもり、邸内はどんよりとしていた。
翌日――。
警察の捜査が入り、優香の遺体が調べられた。
死因は失血死、ビッグベアーに噛み砕かれたことによるものである。
優香は死んだ。もう二度と元には戻らない。それは確かであった。久雄は電池の切れた人形のように、自室で一人眠り込んでいた。この後、死のう。今日は七日、つまり、ビッグベアーに変化することはできない。最愛の人を自分で殺害してしまったという負の感情はどこまでも久雄を苦しめた。
但し、久雄はこの先自殺することがなかった。彼が突き進んだのは、蛇の道。つまり、不知火家の消滅である。なぜ死を選ばずに、生を選び、尚且つ不知火家の消滅に向けて、ビッグベアーとして生活を選んだのか?
それは久雄もよくわからない。生きる目的はなかった。優香を失った今、生きていても仕方ないはずなのに、自分にとって、不知火家の消滅がある種の大切な責任でもあるように、久雄を鼓舞していたのである。
死は、すべてを終えてから……。
それからでも遅くはない。久雄はそう考え、ゆっくりと目を閉じた。身体は疲れており、すぐに彼は眠りに落ちる――。




