何卒~
「――っ」
「あっ」
ラティさんが温泉から上がり、即座に臨戦態勢を取った。
彼女は分厚い短剣に手を伸ばし、それを胸元の前と構える。
風呂場は無防備になる場所なので、用心のためと武器だけは持ち込んでいたのだ。これはラティさんからの提案だ。
俺も遅れて無骨な槍を手にする。
「……俺の名前だったよね?」
「はい、聞き違いではないかと。わたしの名前と二つ名も呼んでいました」
「俺が出るね」
「……はい、お任せします」
ラティさんはタオルを巻いた姿、水滴がポタポタと落ちている。
相手は女性の女将さんとは言え、他に誰か居る分からない。
そんなところに、今のラティさんを行かせるわけにはいかない。
俺は腰に手ぬぐいを巻いて、恐る恐る脱衣所へと向かう。
「あの、すみません。………………えっと、何の確認でしょうか?」
俺であることを認めず、ただ『確認』という言葉だけに反応してみた。
もっと上手い返し方があったのかもしれないが、今の俺にはこれが精一杯。
「はい、ご入浴のところ大変申し訳ございません。その……」
「その? 何ですか?」
「ジンナイ様、ですよね?」
「……そんなことを言っていた偽物が捕まったみたいですね」
「え、ええ。ジンナイ様の名を騙っていた不届き者が捕らえられたと聞いております。それで、あの……そのときに、お客様がお連れのことをラティ様とお呼びしたそうで……」
「あっ」
やっちまっていた。
あのとき興奮していたため、俺はラティさんのことを偽名ではなく、普通にラティさんと名前で呼んでしまっていた。そう、普通に……
監視役の二人はどう思っただろうか。
冷静に考えてみると非常にマズい状況だった気がする。
ちょっと思い返してみる。
ラティさんは大物の魔物を倒した。
しかも一撃で、シュッ、シュシュって感じで簡単に。
あれを見て監視役の男たちはラティさんのことを……
――いや、普通に異常だよな、
少しでも早く混浴したいからってそのまま帰ってきたけど、
よく考えたら駄目だろ、何やってんだ俺……
あのときは完全にハイテンションだった。
生死を賭けた状況から脱したことで、本当に浮かれ切っていた。
安堵と歓喜が噴き出していたとはいえ、もうちょっと何かするべきだった。
なんのフォローもなく戻ってきてしまった。
「あの、ジンナイ様。何かご事情があって身を偽っておられるのだと存じております。それでも、その……少々ご相談がございまして」
「……分かりました。あと少し、……えっとあと一時間ぐらいしたら出ますので、それまで待ってもらって良いですか?」
「はい、承知しました」
俺は取りあえず話を切り上げた。
どうやら誤魔化しきるのは難しい様子。
だったらそのための相談と打ち合わせが必要。
俺は湯へと戻り、ラティさんと今後の対応を話し合ったのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「それで、俺たちのことを、この宿の宣伝に使いたいと?」
「いえいえ、宣伝なんてそんな大それた事は、ただ、ジンナイ様が泊まったことがあるという名誉をいただけましたら……。どうか、どうか何卒」
「あ、えっと……」
ご年配の方に土下座をされて困ってしまう。
勇者というものは、本当に恐ろしいほど敬われる存在らしい。
どちらかと言うと小心者の俺には、少々重すぎる立場。
どうやら宿の女将さんは、俺が勇者ジンナイであると確信していた。
元から俺に対して妙な雰囲気を覚えていたとのこと。
そして例の偽物騒動。
最初は馬鹿がいると野次馬気分で見ていたそうだが、その後の俺の行動を見て、直感的に確信したとのこと。
特に偽物が言っていた偽装の話。
付加魔法品を使って名前を偽っているという話を聞き、本物もそれを使っているのではと思い至った。
そしてこれは俺たちが迂闊だったのだが、モモちゃんの名前もヒントになっていたそうだ。
どうやらモモちゃんは、【乙女たちの愛娘】として割と有名らしい。
モモちゃんが登場する演劇もあるのだとか。
そんな風に一つ一つの欠片が合わさり、女将さんは真実に辿り着いたのだった。
「あの、どうしましょう、ヨーイチさん」
「う、うん……」
「何卒、何卒、どうか……」
こういった話は元の世界でもあった。
もの凄く有名な人が泊まった部屋とか、そういったものに付加価値を付けて高くする的なヤツだ。
心情的には了承してあげたい。
取りあえず擦りつけている額を上げて欲しい。
ご年配の方に頭を下げさせて快くするクズではない。心が痛い。
だけど――
「あの、ご存じの通り、俺たちは身分を隠している身なので……その」
「はい、それは重々承知しております。何が特別なご事情があると察しております。ですが、魔王を討伐したジンナイ様が泊まっていただけたのです。このような僥倖は一生ありません。なので……」
「ううっ」
記憶がないので気まずくて仕方ない。
魔王を倒したという記憶があれば、その偉業を誇れたかもしれない。
しかしその記憶がないのだ。
覚えが無いことを讃えられても嬉しくないし面白くもない。
できることならそっとして欲しい。
「ご、ご迷惑をお掛けするようなことはしません。ただ、ちょっとだけ誇らせていただけましたら……」
「……」
女将の言う『誇る』とは、要は、勇者《俺》が泊まったことがある自慢。
これはとても自慢になることなのだろう。
自分にそこまで価値があるとは思えないが、この異世界ではこういったことがちょいちょいある。
「はぁ、折れるしかないか」
「それでは!!」
俺の言葉に女将さんが顔を上げた。
目はらんらんと輝いており、何なら星とか出そうな感じ。
もう駄目と言えない、そんな圧に気圧されてしまう。
「一つ、条件があります。その、自慢ってか誇るのは少し待ってください。少なくとも一年は待ってください。それが条件です」
「は、はい! それで良いです!」
バレるのが後なら問題はないはず。
もしかしたら駄目かもしれないが、その場合はそのときだ。何らかの対処をすれば良い。
「ラティさん、こんなところで良いかな?」
「はい、一年後でしたら、たぶんよろしいかと」
「じゃあ、これで」
「ありがとうございますっ」
こうして俺は、女将さんからのお願いを聞くことにした。
その見返りとして、女将さんから宿代は要らないと言われた。
世界を救った勇者様からお金を受け取れないと。
だがそれは断った。
ラティさん曰く、見返りを受け取ると、後々響くことがあるとのこと。
何でも似たような形で言質を取られ、俺はそこそこ苦労したことがあったそうだ。
そう、これは予防策。
しかし次の日、これが妙な形にで裏目に出たのだった。
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あと、誤字脱字も……