二つが限界突破
目の前に凄いのがあった。抽象的にいうと山があった。
具体的にいうと、『ボタン、大丈夫?』といった感じ。
俺は頑張って山から目を逸らした。意識しないとどうしても惹かれてしまう。
「陽一さん。……少しだけ、いいでしょうか?」
Yシャツ姿の言葉が、おずおずとか細い声で尋ねてきた。
声は全然主張していないのに、声の下の方は主張がもの凄い。
( いったい何だよこれ……流行ってんのか? )
言葉沙織。彼女は同学年の女子生徒だ。
彼女と交流があった訳ではないが、内気な性格だということは知っている。
いつも猫背で顔も常に俯き気味。
だが保護欲を掻き立てる儚げな容姿と、性格とは真逆な胸元が凄く、男子生徒からの人気はかなり高かった。
かく言う俺も、つい横目で凄いそれを追ってしまった記憶がある。
そしてそれがいま――
「あ、あの、実はちょっと思いついたことがありまして……」
「あ、はい? 思いついたこと?」
視線が下へと下がらないよう意識しつつ、彼女の言葉に耳を傾ける。
ちょっとマジで凄い。
「はい、今日……モモさんと話していたときに、思いつきまして……」
「うん? モモちゃんと話していたときに?」
「はい」
今日あったことを思い起こす。
思い浮かぶのは、俺の撫ででモモちゃんが危なかったことだけ。
「……モモさんが言ってた……………………キスのことです」
「へ? え? きす?」
「はい、キスです。キスをすれば、お、思い出すかもしれないと」
「――っ」
確かにそんな話をしていた。
最初は有名な童話の話。そしてそれからチューをしてもらって思い出した的なことを言った記憶がある。
しかしあれはモモちゃんを悲しませないための方便。
「いや、あれはモモちゃんのためで、あれで本当に記憶が戻ったわけじゃ」
「私、葉月さんに相談したんです」
「え? 葉月に?」
何となく嫌な予感がする。
そこまで悪い予感ではないが、やはり悪い予感がビンビン。
「そうしたら、キス…………をすれば思い出すかもしれないと」
「へ?」
「葉月さんが教えてくれたんです。強い印象があれば、それが切っ掛けで記憶が戻るかもしれないって。それで少しでも刺激が強い方が良いと、このYシャツも貸してくれまして……」
「――それでYシャツ姿かよっ。いや、確かに強い印象があれば思い出すかもだけど……。ほら、キスしたことがあるってならそりゃあ強い印象になるかもだけどさ、そもそもキスしたことがなかったら………えっ?」
言葉が顔を真っ赤にさせて俯いた。
よく見れば、首や鎖骨の辺りまで真っ赤になっている。耳も当然真っ赤。
彼女は白磁のような色白なので余計に目立っていた。
「……………………あります」
「~~~っ」
「キス、したことがあります。陽一さんと」
「え、えっと……えっと」
「――だから」
真っ赤になって俯いていた言葉が顔を上げた。
いまにも泣き出しそうな潤んだ瞳で、俺のことをじっと見つめてきた。
何か訴えかけるように……
俺の脳内で緊急会議が開かれた。
『おいっ、どういうことだよ!』
『俺が知るかっ。ってか、キスってマジかよ!?』
『なあ、俺ってラティさんと結婚してんだよな? じゃあそれって……』
『落ち着け、結婚前かもしれねえだろ』
『そうだよ、その前ならセーフだ』
『アホか、問題はそうじゃねえだろ! いま、どうするかだろ?』
『……揉めばイイと思います』
『おい、どっからか小山が入り込んでぞ。警備は何やってんだ』
『いや、俺も賛成だ』
『俺も……』
『――だからっ、話を脱線させんな。いま』
「陽一さん?」
「あっ、ごめん。ちょっと混乱してた。それで、葉月に相談したら……キスと? 葉月がそう言ったんだな?」
「……はい」
言葉はそう答えてまた俯いてしまった。
そして申し訳なさそうに手をお腹の辺りで組んだ。ぎゅっと手を組んで、山もぎゅっと。
「だめ、……でしょうか?」
「いや、駄目っていうか、だってそれって、俺に言葉さんがキスをするってことだよな? それって……」
色々と困惑する。
ラティさんとのこともあるし、俺にはリティちゃんがいる。
そして何よりも、俺の記憶を戻すためにキスをしてもらうのはどうかと思う。
さすがにそれはおかしい。言葉に対してあまりにも申し訳ない。
言葉に詰まった俺に、言葉は俯いたまま話してくる。
「……陽一さん。ラティさんに悪いと思っていますか?」
「あ、ああ、そりゃあ……」
「葉月さんが言っていました。いまの陽一さんは記憶を失う前の陽一さんとは違うので、一応セーフだと……。それじゃあだめですか?」
「いや、その理屈は、えっとさすがに……」
「陽一さんの力になりたいんです。陽一さんの記憶を戻してあげたいんです」
「言葉……」
「ほら、モモさんも危ないですし。前の陽一さんでしたら撫で過ぎるなどなかったです。だから私、陽一さんの力になりたいんです」
彼女はそういって俺を見つめてきた。
その真摯な瞳に気圧されそうになる。
言葉は俺のために唇と許すと言っている。
俺の記憶を呼び起こすために、もう一度キスをすると……
「――っ!? …………駄目だ」
「え? なんで」
「多分だけど……いや、きっと思い出さない。記憶がある訳じゃないけど、言葉にしてもらったキスって、そんな風なキスじゃなかったと思う。ちゃんと覚えている訳じゃない。……だけど、違ったよな?」
キスのことを覚えている訳ではない。
でも何故か、こんな風にキスをしてもらっても駄目だと思えた。
言葉とのキスは、とても深い悲しみの中で交わされた口づけだった気がするのだ。
だからこんな、目的のためのキスでは駄目なのだ。
そんなのは絶対に駄目なのだ。
「すまん」
「…………はい、分かりました」
「悪いな、そんな無理をさせちまって」
「いえ、いいです。凄く嬉しいって思えましたから」
「あ、ああ……そうか?」
「はい、だから今日は戻り――きゃっ!?」
事故が起きた。
言葉は嬉しそうな顔をして胸を張った。
きっと心から嬉しいことがあったから胸を張ったのだろう。
しかしそのとき限界を迎えた。
しかも二つ。二つのボタンが限界を迎え弾け飛んだのだ。
解放されてまろび出たそれは、俺の眼前に――
「あ、すいません、お目汚しを」
そういってそれを抱えた言葉は、逃げるように去っていた。
それを呆然と見送る俺。
そしてその後俺は、腹筋とスクワットを三千回ほどしてから眠りについたのだった。
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あと、誤字脱字も……