【アンチノミーの作曲家】(紅ルートの二次創作・頂き物)
※アンチノミー
二律背反。
ケンカした友達に対して、会いたいけど会いたくないと思ったりするような状態を指す。
※サワダーテ
ポルトガル語で、『失われた幸福を取り戻したいという切実な想い』とかいう意味。
「島尾さん、この楽譜を受け取ってくれないかしら」
そういって自作と思われる、手書きの楽譜を差し出してきたのは、知らない女の子だった。
でもどこかで見かけたような気がして、記憶を辿っていったら、紅の誕生日に、集まっていた女の子達を遠目で見ていたのを思い出した。教室の入り口で、封筒を持っていた姿が脳裏に浮かび、それでも紅に近付こうとはせずに帰っていた筈だ。
「えーと、何でそれを私に?」
近くに他の人はいないけど、ここは図書室。本棚の間で隠れてるだけで、呼べば誰かが、直ぐに来てくれる筈だけど、本当なら警戒すべきなんだと思う。
だけど、寂しげな悲しげな微笑みをする彼女には、ただ戸惑うだけだった。
「だって、紅様に直接渡しても、受け取ってくれそうにないのだもの。だから、貴女に受け取って欲しい。一度でも良いから、弾いてみて、聴いてみて欲しいのよ」
「……ごめんなさい、私は――」
彼女の気持ちも想像出来たけど、紅が受け取らなかった物を、私が受け取る訳にはいかなかった。一度でも受け取ってしまえば、私経由で紅に貢ごうとしたり、私が受け取った事を理由に、紅に押し付けようとする娘達が出てくるに決まっているから。
「勘違いしないで。私にはもう、紅様を取ったり、二番目になろうとするつもりは、残っていないわ」
「え?」
「確かに私は紅様が好き。ううん、好き『だった』わ。だけどね、紅様の周りに、私の居場所なんてないのは分かってるし、紅様の迷惑になるような事はしたくないから」
彼女は改めて楽譜を差し出すと、無理に作ったような笑顔を浮かべ、その頬には透明な跡が出来ていた。
「紅様を好きだからこそ、想いを捨てる事にしたの。これは、捨てた想いをまとめただけの楽譜。……私には、仕舞い込む事も燃やす事も出来なかったから」
私は、さっきの『彼女の気持ちも想像出来た』と思った私を、殴りたくなってしまった。
紅のファンは、皆ファッション感覚だと思い込んでいたけれど。中には彼女みたいに、本当に紅を好きだった娘もいたんだと、思い知らされてしまったから。
「だから、紅様の彼女の、貴女にこれを受け取って欲しい。今の私の為じゃなくて、紅様を好きだった昔の私の、そしてこの曲の為に。一度だけでも良いから、弾いてみて、聴いてみて欲しいの。そして、もしも気に入ってくれたなら、紅様にも弾いてみて欲しい。紅様を好きだった女の作品としてじゃなくて、ただの知り合いが、弾くのが上手な貴女に、頼んで演奏してもらった楽譜として」
彼女は無理に作った笑みを深めると、最後に告げた。
「もしそれで、万が一にでも、紅様が気に入ってくれたなら、紅様を好きだった昔の想いだけは、紅様の周りに居られると思うから。……もし気に入らない楽譜だったら、悪いけど貴女の手で、処分して欲しい。もしこれを受け取ってくれるなら、二度と近付かないって約束するわ」
私は一人、結局受け取ってしまった楽譜を、演奏していた。
終始穏やかな曲なのに、どんな曲よりも熱く激しく感じられる――そんなアンチノミーな曲の名前は、サワダーテ。その意味は『失われた幸福を取り戻したいという切実な想い』だとネットには書かれていた。
彼女は、どんな想いでこの曲を作ったのだろう。ファッションとして扱われる紅を、どんな想いで見ていたのだろう。
どこまでも優しくて、どこまでも狂おしい。
どこまでも痛々しくて、どこまでも真っ直ぐな音色。
その完成度は学生のものとは思えなくて、それでも間違いなく彼女の想いそのものだった。
約束通り、あれ以降彼女は、二度と姿を見せようとはしなかった。たまにすれ違っても、挨拶だけすると離れていった。
あの日からしばらく経って、紅と二人きりの時に、暗譜したあの曲を演奏してみた。『気に入ってくれたなら、紅様に弾いてみて欲しい』という願いに、応えたくなってしまったのもあるし、純粋に紅にも聴いてみて欲しかったから。
私は『知り合いが作った曲』としか言わなかったけど、何かを感じ取ったのか、呟くように紅は言った。
「この曲の作者には、幸せになって欲しいな」
「うん、私もそう思う」
それから数年後、あの日の彼女が、二周り年上の人気作曲家と結婚したと、ニュースで知った。
彼女は斬新でアンチノミーな名曲良曲をいくつも発表したけれど、あの日の楽譜に勝るものは最後まで見る事が出来なかった。
天才作曲家の最高傑作は、青春時代に生まれたけれど、世に出るのはきっと、私達が死んで、遺品整理された時なんだろう。
私はその時の為に、色褪せたあの日の楽譜を金庫の中に、そっと仕舞った。
夢現さまが書いて下さった二次創作作品です。
紅ファンの女子生徒のお話でした。
紅編34話目の裏話的なものになっています。
とっても素敵なお話を連想して下さった夢現さまに感謝です!