指切り(蒼編アフター)~リクエストSSその5
蒼編後日談。
「家事をしてる蒼を見てみたい」というリクエストでした。
「分かる! なーんか上から目線なんだよね。手伝ってやってるんだぞ、みたいな」
休憩室の前を通りかかった時、そんな会話が漏れ聞こえてきた。どうやら中で数人の女子社員が雑談しているらしい。
蒼はぴたりと足を止め、思わず耳を傾けてしまった。
環境に不満を感じているのなら早急に改善しなくてはならない。円滑な人間関係の大切さを、蒼は社会に出てから痛切に感じている。意識して無愛想に見えないよう努めているが、足りてないのだろうか。
「ほんとそれ。あなたの洗濯ものでもあるでしょ? ご飯食べなくても生きていけんの? って苛々する。家事分担するのなんて当たり前じゃんね。うちらも同じくらいの時間、外で働いてるんだから」
「そりゃ給料の差はあるかもだけど、その分、向こうはお小遣い多いんだし、恩着せがましく手伝うアピしないで欲しいわ」
……会社の話ではないようだ。
休憩室にいるキャリア職の彼女たちは全員既婚者だ。つまりこれは、配偶者への不満なんだろう。
安堵するのと同時に、もやもやと鳩尾あたりが曇ってくる。
同じく既婚で働いている妻を、思い浮かべずにはいられなかった。
「――あれ? 主任どうしたんですか?」
後ろから部下に声をかけられ、蒼は飛び上がりそうになった。
盗み聞きしてしまった罪悪感で、耳が赤くなる。
「いや、何でもない」
そそくさとその場を離れ、デスクに戻る。
午後からの打ち合わせで使う資料を取り出し、目を通そうとするものの、先ほど聞いた女子社員たちの愚痴が頭から離れない。
蒼は書類をめくる手をとめ、我が身を振り返ってみた。
共働きといっても、家事に手馴れてる真白と不慣れな蒼では、受け持ってる量が圧倒的に違う。
真白が夜のうちに済ませた洗濯ものを、朝ベランダに出すのが蒼の仕事。ハンガー類を物干し竿にかけるだけの簡単な作業だ。
その間に、真白は朝食作りと弁当つくりを手早く済ませてしまう。
パンを焼くのとコーヒーを淹れる役目だけは死守したいから、大慌てで洗濯ものをかけ、台所に戻るのが常だった。
「うーん。美味しい! 蒼、ありがとう」
当たり前のことをしてるだけなのに、真白はいつも律儀に礼を言ってくれる。
妻に褒められただけでニヤけてしまうなんて、いい年して恥ずかしい。でも勝手に頬が緩むんだから仕方ない。
真白にうんと頼られたい。甘やかしたい。
いつでもそう願ってるはずなのに、真白の方が一枚も二枚も上手で、容易く蒼を嬉しがらせてしまう。
それから2人で並んで食器を洗い、そのまま洗面台に移動。
鏡越しに微笑み合いながら、一緒に歯磨きをする。
パジャマ姿の真白はすごく可愛くて、どれだけ眺めても飽きることがない。
溜息をこらえながら視線を引き剥がし、ウォークインクローゼットでスーツに着替える。真白もブラウスとスカートに着替え、持ち物の点検を始めてる。
仕事着姿になった真白も、すごく魅力的だ。女教師然とした凛々しさに、毎朝見惚れてしまう。
口に出して褒めると、真白も「蒼のスーツ姿も大好きだよ。ネクタイ締めるとこ、いっつも見ちゃう」なんて返してくる。
人がみたら砂を吐きそうな甘いやり取りを、蒼は気に入っていた。
――だけど、本当は?
真白も「お前ももっと家事をやれ。上から目線うざい」と思っていたら?
蒼はそこまで考え、眉間に皺を寄せる。
真白のことだ。そう思った時点で、注意してくれる、と思う。
それくらいの信頼関係は築けてるはずだ。
――真白はお前に甘いからな。我慢してるのかもしれないぞ
もう一人の自分が、意地悪く囁いてくる。
振り返ってみれば、真白は昔から蒼に甘かった。自分さえ頑張ればいいと思っている可能性はある。
はぁ、と長い溜息をついてしまった蒼を遠巻きに眺めていた女子社員達は、アンニュイな面持ちの美青年に同じく溜息をついた。
普通に仕事をしているだけでも目の毒なのだから、憂鬱そうな顔をほいほい見せないで欲しい!
彼女らは帰り際のパウダールームで上司への不満を言い合った。
帰宅すると、すでに妻は帰ってきている。
洗濯ものはきちんと畳まれ、シャツにはアイロンがかかっているし、夕飯もじきに出来そうだ。
「おかえりなさい」
台所からひょいと顔をのぞかせ、目があった瞬間、嬉しそうに笑みを浮かべる真白は、今日も仕事を持ち帰ってきているはず。
夕食後、ぼんやりテレビを眺める蒼の隣で、真白は採点したりプリントを作ったりする。そのことを結婚してすぐ謝られたことがあった。
胸がキュウと苦しくなる。
蒼は上着を脱ぎながら「なにか手伝えることはない?」と聞いてみた。
「んー。じゃあ、お箸出してくれる? もうすぐ出来るから」
「了解」
真白は鼻歌を歌いながら、手際よく盛り付け始めた。
今晩のメニューは野菜炒めとミネストローネ、鶏の照り焼きだ。真白の料理はどれも美味しい。
思わず顔がほころんでしまう。
いただきます、と手を合わせ、一緒に温かなご飯を食べる。
ごく普通の家庭の風景なんだろう。
だが蒼にとっては、ずっと願ってきた幸せな空間だった。
「――家事を分担?」
箸を進めながら、蒼が切り出すと、真白は不思議そうに首をかしげた。
「分担してもらってるよ。ゴミ出しは蒼だし、掃除機かけも蒼だし、お風呂掃除だって。十分だよ」
それから「どうしたの、急に」と悪戯っぽい表情で、身を乗り出してくる。
「なんか言われた? 私の大事な旦那さまにケチをつけるのは、どこの誰なのかな?」
私の大事な旦那さま。
その一言で、こわばっていた心がするりと解ける。
会社で聞いた話を打ち明けると、真白は目を丸くした。
「なるほどね。それより蒼が他の人の雑談を気にする方が、意外!」
「するよ。真白に不満持たれてたらどうしようって、かなり焦ったんだからな」
「ありえないから」
真白はあけっぴろげな笑顔で、蒼の不安を一掃してしまった。
「私が早く帰りたいのは、家事の為じゃなくて、蒼におかえりなさいを言いたいからだよ」
「え?」
どういう意味かわからず思わず聞き返してしまう。
真白は箸を置き、テーブルの向かい側から手を伸ばしてきた。蒼もすぐにその手を掴む。
片手をつなぎ、上機嫌な表情で真白は言った。
「誰もいない暗い家に帰るの、寂しそうだった。だからずっと思ってた。結婚したら、蒼より早く帰って『おかえり』を言いたいなって。結婚して夢が叶った。私は幸せだよ、蒼」
熱い塊が胸をせり上がり、喉を塞ぐ。
言葉に詰まった蒼をみて、真白はへへ、と笑った。
真白は蒼の奮闘ぶりを思い出していた。
掃除機の紙パックの替え方がわからず、説明文をじっくり読み込んでいたこと。
お風呂掃除が丁寧すぎて、最初は30分もかかっていたこと。
ゴミの分別にはすぐに慣れて、軽々と大きなゴミ袋を運んでくれること。
何より。
真白が疲れている時は、心から心配してくれること。
まだレパートリーは片手の数しかない蒼だけど、人参少なめのカレーは世界一美味しい。
立ちくらみを起こしてしまいそうなほど素敵なカフェエプロン姿も、加算ポイントだ。
「俺も幸せ。これ以上ないくらい」
ふにゃり、と蒼が笑う。
その笑顔に真白が日々どれだけ癒されているか。
的外れな心配をしてしまうところも全部含めて、愛おしい。
「手伝って欲しいことあったら、ちゃんと言うね」
「うん、絶対言って」
繋いでいた手をほどき、小指を絡めて指切りひとつ。
お腹も心も満たされ、蒼は深々と息をついた。