それでも傍にいる(紅視点)~リクエストSSその2
大学入学を機に、真白は一人暮らしを始めた。
青鸞の付属大学は、高等部からかなり離れた小高い丘の上に建っている。
コンサートホールだけで3つ。練習室もリハ室も、高等部とは比べ物にならないくらいの数がある。車通学の学生が多い為、駐車場も広い。必然、敷地面積も大きくなり、辺り一帯が大学の敷地だ。
真白は大学の近くに用意されている音大生用のマンションに入ることになった。
完全防音仕様で、入居者は青鸞の生徒に限られている。セキュリティ面から見ても安心だということで、真白のご両親は快く彼女を送り出した。
マンションでもピアノが弾けるように、と真白にグランドピアノを譲ったのは玄田の伯父夫妻だ。
彼らに子供はいないし、伯父夫妻はどちらも楽器を嗜まない。
それなのに、玄田の屋敷にはベヒシュタインのピアノがあった。ピアノだけでなく、ちょうど真白くらいの年頃の娘が使うような部屋まである。
いかにも少女趣味な天蓋付きのベッドを見て唖然とする俺に、千沙子さんははにかんだ笑みを浮かべた。
「女の子がほしいな~と思って、私が準備したの。結局使わないままになっちゃったんだけどね」
隣に立っていた真白は、無言のまま文机へと近づき、その上に置いてあったガラス玉のストラップをそっと取り上げた。
「このストラップも、おば様が?」
静かな声で真白が問うと、叔母は怪訝そうに首をかしげる。
「いいえ……どうだったかしら? 私に覚えはないけれど、どなたかからの頂き物かしら」
近づいて、真白の手の中を覗いてみる。
新品ではなく、使い込んでいる印象を受けた。紐の部分に擦れた跡さえある。
なぜこんなものが、机の上に?
遅れて、これとよく似たものを真白から貰ったことがあった、と思い出す。
同じことを思ったようで、真白は千沙子さんに「色違いのストラップを私も持っているんです。もし良ければ譲ってくれませんか?」と頼み込んだ。
「真白ちゃんが欲しいのなら、新しいものを買うわ。そんな古いのじゃなくて――」
「いいえ」
真白から何かをねだられたのは初めてで、よほど嬉しかったのだろう。
叔母がいそいそと言うのを真白はやんわり遮る。
「このストラップが、いいんです。これじゃないと意味がないんです」
穏やかな口調の向こう側に透けてみえる切迫感に押され、千沙子さんも俺もすぐに口を開くことが出来なかった。
あっけに取られた俺たちを見て、真白はへにゃり、と笑った。
胸が痛くなるような笑みだった。
――まただ
彼女は時々、こんな表情をする。
泣きたいのを堪え、何とか自分を立て直そうとするような顔を。
「いいわよ。真白ちゃんが欲しいのなら、好きなものを持って行って」
千沙子さんがあれもこれも、と持たせようとするのを真白と2人で何とか断る。
ベヒシュタインについても、「4年間だけお借りします」と真白は律儀に頭を下げた。
別々の大学へ進み、離れることを、真白はあまり気にしていないように見えた。
俺だけが不安や寂しさを抱えてるのかと思うと、情けなくなってくる。
昔から無遠慮な視線に晒され続けてきたせいか、俺には必要以上に人からどう見られるかを気にしてしまうところがある。上代には「カッコつけ」と揶揄されるその難儀な性格のせいで、素直に真白に「面白くない」と伝えることも出来なかった。
大学生活は順調に進んでいる。
新しい友人もできたし、授業も問題ない。
まとわりついてくる異性には「恋人がいるから迷惑だ」とはっきり伝えている。
昔はどうしてあんなに愛想を振りまいていたんだろう。
何か重大な理由があった気がするのだが、単に流される方が楽だったのかもしれない。今となっては、彼女たちの相手をする方が面倒だ。
新しく出来た男友達には、「見た目を性格が裏切ってる!」と変な感心をされた。
真白も、楽しくやっているようだ。
同じくエスカレーター組の上代や皆川、美坂が一緒だから、そう心配はしていないが、それでも開けっぴろげな笑顔で「すっごく楽しい! もう、ほんと毎日幸せ!」と言われると、少しは困ればいいのに、と思ってしまう。
困って、俺を頼ればいいのに。
だけど口から出るのは当たり障りのない言葉だ。
「そうか。良かったな」
にっこり笑ってみせたのに、真白はきゅっと口をつぐみ、まじまじと俺の顔をのぞき込んできた。
それから、やけに大人びた表情で
「紅のこと毎日考えてるよ。一緒だったら、もっと良かったなって」
なんて言う。
普段は鈍感な癖に、他人の発する微弱なSOSは見逃さない。
そういうところがひどく愛しくもあり、敵わないとほろ苦くも感じる。
自分だけがいつも必死な気がして、もどかしい。
大学一年目の真白の誕生日、俺は初めて指輪を贈った。
虫除け目的で選んだことは伏せ、「似合うと思ったから」と誤魔化してみる。
真白は大げさなくらい喜んだ。
迷わず右手の薬指に嵌め、目の前に掲げてニヤニヤ眺めている。
「嬉しい! 特別な感じあるよね、指輪って。つけるのも初めて」
「ピアノを弾くには邪魔だから、迷ったんだけどな」
舞い上がりそうな気持ちを押し隠し、そっけなく言ってみたが、真白は勢いよく首を振った。
「弾くときだけ外せばいいし、全然問題ないよ。本当にありがとう、紅。大事にするね」
そう言って指輪の嵌った右手を胸に引き寄せ、心から幸せそうにふわりと笑う。
苦しいほどの愛おしさに突き上げられ、衝動的に抱き締めた。
腕の中で、真白は猫のように頬を摺り寄せてくる。
可愛い。
可愛くてたまらない。
どこまでも甘やかし、ぐずぐずに蕩かして、ダメにしてしまいたい。
ほの暗い欲情を必死に押し殺し、頭のてっぺんに軽くキスをした。
真白が嫉妬しないのは、俺を信じきってるからだって、本当は分かってる。
無防備で純度の高い彼女の信頼を裏切る真似は絶対にしない、と改めて自分に誓った。
そんな真白へ、小さな疑いを持ってしまったのはその年の冬。
クリスマスの計画を立てていた時だ。
「24日は大丈夫だけど、25日は予定があるんだ」
「予定って?」
何の気なしにした質問だった。
家族でどこかへ行く、とかそんな答えを想定していた。
ところが真白は虚を突かれたように口ごもり、俺から視線を逸らした。
手のひらに冷たい汗がにじんでくる。
ここ最近の彼女の様子を即座に思い浮かべ、変わった点がなかったか探し始める。
新しく名前が出た男はいないはずだ。
「……学院に行こうと思って」
青鸞学院生が『学院』と呼ぶ時、それは高等部を指す。
後輩か!
そっちはノーマークだった。
毒づきそうになるのを抑える為、コーヒーを口に含む。味がほとんどしない。
この店には二度と来ない、と心に決めた。
「へえ。誰かと約束でもしてるの?」
真白は、一瞬躊躇したあと、ゆっくり首を振った。
俺はそれを、嘘だと判断した。
良くも悪くもまっすぐな彼女が、躊躇った。判断理由はそれで十分だ。
24日のデートは、何とか乗り切った。
真白はしきりに俺を気にした。不機嫌さをあらわにしたつもりはない。ポーカーフェイスで負けるはずがないのに、「本当に怒ってない?」と何度も聞いてくる。
「俺の方が聞きたいよ。もしかして、デートプランが気に入らなかった?」
「まさか! ……紅の雰囲気がいつもと違うから、何かしちゃったのかなって」
嘘、ついただろ。
心の中の黒い靄を素直にぶちまけられたらいいのに、どうしても出来ない。
「怒ってないよ」
優しく答え、艶やかな髪を撫でる。
真白は縋るような眼差しで俺を見上げ、唇を小さく開く。
「紅はどこにも行かないでね」
一体どういう意味だろう。
急にわけがわからなくなり、俺は途方に暮れた。
どうやら心変わりというわけではなさそうだ。
決断しきれず、中途半端に浮いていた考えが、心に定着する。
格好悪いとか体面を気にしてる場合じゃない。
真白の約束の相手を確かめないと、気が済まなくなっていた。
25日当日。
車を出すよう言いつけ、学院へ行くと決めた経緯を水沢に話すと、彼はこれみよがしな溜息をついてきた。
「真白様を疑うのですか?」
「そういうわけじゃない」
「では、どういうわけで学院へ行かれるのです」
「……ちょっと覗くだけだ」
返事代わりの、大きな溜息がひとつ。
わかってるよ、馬鹿げてるって!
苛々しながら車に乗り込み、むすっと口を引き結ぶ。
運転席におさまった水沢は「紅様がふられるとしたら、理由は過干渉で間違いないですね」と憎まれ口を叩いてきた。
自分でも同じことを思っていただけに言い返せない。
車に乗る時は降っていなかった雪が、ちらちらと舞い始める。
朝から空は曇天。いつ降り出してもおかしくなかった。
傘を手に車を降り、正門入口の受付を通る。名簿には、真白の名前もあった。一人分であることを確認し、敷地に入る。
彼女がどこにいるか分からないので、とりあえず大聖堂に向かうことにした。
後から思えば、カフェのある露草館から見て回るのが妥当だったが、クリスマスだという頭があったのか。それとも虫の知らせだったのか。
締め切られた大聖堂の中央階段に、真白はひとり、ポツンと腰掛けていた。
他には誰もいない。
待ち合わせている雰囲気でもない。
ただ一人、真白は冷たい階段に座り込み、目を閉じて小声で何かを歌っていた。
足音を殺し、そっと近づく。
彼女の歌う曲が「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」だと分かったのと、真白が目を開いたのは同時だった。
「紺ちゃん?」
真白は膝においていた鞄が転げ落ちるのも構わず立ち上がり、俺を視界に捉えた。
「――――紅」
待ち人ではなかったようで、真白は絶望をその瞳に刷いた。
それは鮮やかな、くっきりとした変化だった。
とっさに謝罪が口をついて出る。
「違う。……ちがうよ。謝らないで」
真白の瞳からは、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「もういない人を、待ってしまってごめんなさい。私の方こそ、ごめんなさい」
ボロボロ泣きながら、真白はただひらすら謝ってくる。
傘をさしかけ、冷え切った肩を抱き寄せることしか出来なかった。
圧倒的な孤独が、彼女の傍らに寄り添っているのが分かった。
俺にはどうにもできない穴が、真白には空いている。
いつ空いたのか。
誰に空けられたのか。
知りたいとは何故か思わなかった。
お前にどんなことがあったんだとしても、俺だけは最後まで傍にいる。
彼女の耳元に囁きかけ、震える身体を抱きしめる。
真白は泣きながら、俺の名前を繰り返し呼んだ。