おやゆび姫
とある大きな海の上に、一つの島が存在していた。
五角形にも似た形をしたその島は、自然が豊かで島の半分以上が木々に覆われていた。しかしその一方で、文明は発展し、人々は自然と共生しながら自分たちの生活を豊かにしてきた。そしてその島全体が、王様は民を、民は王様を尊重するような政治の元で人々が楽しく暮らしている、夢のような国だった。
島の中央辺りにある小高い丘の上には、この国で一番大きなレンガ造りの建物――国王の城が建っている。最上階からは国を全て見渡すことができるほど大きな城で、壁は白く、屋根は赤く塗られていた。そのてっぺんには、国に生息する巨大な鳥が描かれた国旗が風になびいている。そしてその周りには、堅牢な城壁が城を守るように構えられていた。城の周囲には賑やかな城下町が広がり、更にその外側には畑や牧場が点在していた。
その牧場の中でも一際広い牧場では、何代も前の王様の時代から王族御用達の牧場として、牧場主が毎週チーズを国王の城へ運んでいた。あの牧場で作られるチーズは栄養が豊富でおいしいと、街中で評判だった。
その牧場で、一人の青年が働いていた。いや、一人の青年しか働いていなかったと表現するべきかもしれない。この青年の母は青年を生んだ時に死別し、父は四年前の流行病で息を引き取っていた。それ以来、青年は一人でこの大きな牧場を牧場主として管理していた。まじめでひたむきな青年は、父親を亡くしてからも熱心に家畜の世話をし、王家や周りの牧場からの援助もあって、あの牧場のチーズは質が良くなったと、ますます評判になっていた。
毎日忙しくも充実した、そんなある日。青年はいつものように城へチーズを届けた後、すっかり顔なじみになった厨房の料理長から勧められ、城の従者が利用する休憩室で軽食代わりにと紅茶と山ブドウのジャムが載せられたクッキーを食べていた。
「このジャム、すごくおいしいですね。どこで採れたものなんですか?」
「このブドウかい?これはほら、あそこに見える山で採れたものだよ」
そう言って、料理長は窓から町の向こうに見える紅く色付き始めた山を指差した。
所々紅く染まった山を眺めながらクッキーを齧っていると、コンコンと二回ノックした後、ドアを開けて一人の女性が休憩室へ入ってきた。
「何か、お飲み物を頂けますか?」
そう言って部屋に一歩入ってきた女性は、青年を見るなりひどく驚いた様子で勢いよくドアを閉めると、つかつかと慌てた足音を鳴らしながら去っていった。その後を、すみません、と一礼して料理長が慌てて追っていく。
青年は、女性が立ち去った後も、ぼうっとドアを見つめていた。驚いたわけではない。青年は、その美しさに見惚れてしまっていたのだった。
青年の目にその女性の姿が映りこんだのはほんの一瞬だったが、その美しさは十分に理解することができた。腰まで伸びたきらめくような金髪が特徴的で、質素な作りでありながら高貴なものと一目で分かる白いドレスと手袋が、彼女の美しさを一層引き立てていた。
しばらくすると、料理長が部屋へ戻ってきた。紅茶を淹れてクッキーを勧めてくれた時とは違い、愛想笑いをして居心地悪く目を合わせようとはしない。
「あの方はいったい誰ですか?」
「いやあ……ははは…………」
青年の質問に料理長は答えず、より一層愛想笑いを強めただけだった。暗に聞かないでくれ、と言っていることは青年も理解していたが、あの美しさがどうしても忘れられなかった。何度も聞き出そうとするも料理長はどうしても口を割らず、とうとう日が暮れてしまった。
それから、青年はずっとあの女性の事を考えていた。あの女性はいったい誰なのだろうか、と。
初めは、この国の王女様なのではと考えた。しかし、この国の王女様は青年がまだ赤ん坊の頃、王女様が出産の時に母子共々亡くなっているということを思い出し、それはあり得ないと考え直した。
それでは、あの城で働く女性だろうか。いや、あの城で働く女性は、皆決まった仕事着を着ることが義務づけられている。あの女性は、仕事着とはおよそかけ離れたドレスを着ていた。
ならば、あの女性は今の国王様の妻――この国の女王様になる方なのではないか。この国の王家は古くから血筋にとらわれず、自分の望む者と結婚することを義務付けてきた。自ら町へと赴き、自分と生涯を共にする者を決める。なので、この国では全ての国民に王族となる機会が与えられている。
この国の女王様は既に亡くなってしまっているので、このままでは王家の繋がりが途絶えてしまう。なので、次の女王にあの女性が選ばれた。そう考えると、とても納得がいった。
しかし、もしこのままあの女性が女王様になってしまったら、平民である自分には一生会う機会は訪れないだろう。そう危惧した青年は、あの女性が次の女王様だと世間に公表される前に、もう一度彼女に会おうと決心した。
それから青年は、城へチーズを届けるたびにそれとなく城の中を見渡して、あの女性の姿を窺った。いくら信頼されている牧場主だとは言っても国の中枢で怪しいことをするわけにはいかず、少しずつ、少しずつ、怪しまれないように城の中を探っていった。
青年が女性を探し始めてから三か月が経った頃。青年は、ついに彼女を発見した。
城の最上階の、一番北にある部屋に女性が入っていく。その姿を見つけると青年は後を追い、辺りに人がいないか十分に注意を払いながら、その中をそっと覗き見た。
女性は本を読んでいるようだった。大きな安楽椅子に腰かけて膝の上に本を置き、左手で背表紙を支えて右手でページをめくっている。その手には、以前見た時と同じ手袋が嵌められていた。
美しい。改めて青年はそう感じた。そして、再び彼女の美しさを目の当たりにした青年の中には、彼女と正面から向き合って話をしたいという思いが強く湧き上がっていた。
その日の夜。城の廊下には誰一人おらず、しんと静まり返っていた。
青年はあろうことか、夜中を待って城へと忍び込んだのだった。女性を探している時に見つけた、城壁に開いた小さな穴を利用して。
廊下の両側の燭台に取り付けられたろうそくの炎が、少し動くたびにゆらりと揺れ、青年の影を生み出す。その廊下を一歩一歩慎重に、誰にも見つからないように静かに歩いていく。
そして、青年は長い階段を上り、最上階の一番北の部屋――あの女性の部屋の前まで到着した。
今ならまだ引き返すことができる。もしかしたら、すぐにこの城の兵士を呼ばれて捕まってしまうかもしれない。そうなれば、城への侵入はいかなる理由があろうとも大罪とするこの国では、青年は死刑に処されるだろう。そんな不安が、青年を襲った。しかし、女性への思いが恐怖に打ち勝ち、青年はその部屋のドアを開くと中へと一歩踏み込んだ。
その部屋で、女性は窓際で外を眺めていた。国を一望できるその城から、彼女が何を見ているのかは分からない。青年に理解できたのは、月明かりに照らされた女性が、これまで見てきた彼女の中で一番美しいということだけだった。
扉が開く音に気づいて女性がはっと振り向くと、困惑した表情で青年を見据えた。
「だ、誰ですか……?」
恐怖からか、女性の声は少し上ずっていた。
「僕は、この城にチーズを運んでいる牧場の者です。信じていただけるかどうかは分かりませんが、怪しい者ではありません。……そして、あなたに危害を加えるつもりもありません」
女性は警戒を緩めないまま、一歩前に出ると青年に尋ねた。
「それでは、なぜ私の部屋に?」
「それは……」
女性の当然とも思える問いに、青年は精一杯の勇気を振り絞り、女性を見つめて口を開いた。
「それは、あなたにもう一度会いたいと思ったからです。あなたが、女王になる前に」
「え?」
女性が驚き、今度は不思議そうな顔で青年に問いかけた。
「なぜ、私が女王になると思ったのですか?」
「それは……この国の女王様はもう亡くなってしまっています。それならば、国を継ぐ人間を生むために、新しい女王様が必要になるではありませんか」
女性は少し俯き考える仕草をした後、青年に向き直った。
「――なるほど、あなたの考えは分かりました。しかし、それは大きな間違いです」
「あの方は、今でも妻を愛しています。そして、その妻も夫を愛していました。それは、死などでは覆ることは決してありません。なので、あの方が別の誰かを妻に迎えるなどということはありえないでしょう」
予想をしていなかった答えに、青年は困惑した。ならば、この目の前にいる女性は誰なのだろうか、と。
「なら、あなたは一体――」
「私は亡霊です。十七年前に死んだ、この国の女王から産み落とされた」
そう言って、女性は青年の前まで来ると、両手をだらりと下げて軽く揺らした。すると、両手に着けていた、腕まで覆っていた手袋がするりと抜け落ち、その両腕が露になった。
新雪のような白い腕。その先には柔らかそうな両手の平。さらにその先には、細くしなやかな指。
しかし、その指は両手で二本。双方の親指しか生えていなかった。
「これは…………」
青年はその両手を見つめたまま、言葉を失ってしまった。
「気持ち悪いでしょう?おぞましいでしょう?ただでさえこの有様なのに、母の死体と指の無い化け物を同時に見せつけられた父には同情します。国王という立場を持つ父でなくとも、こんな姿の人間を自分の娘として人の目に晒そうとは思わないでしょう。しかし父は、最愛の女性の忘れ形見である私を殺すことはできなかった。以来、私はずっとこの城の中で生かされ続けているのです」
そう言うと、女性は落とした手袋を親指と手の平で挟むようにして拾い、青年に見せつけた。
「普段の生活をしている時は、この手袋を嵌めているのです。親指以外の指の部分にはコルクが詰められていて、外からは分からなかったでしょう?この城で働いてくれている人たちのお目汚しにならないようにしているのです」
「………………」
青年は、何も言うことができなかった。その様子を見て女性がふう、とため息をつく。
「理解していただけたのなら、今すぐこの部屋から立ち去り、今後私に関らないでください。それと、私の存在は他言無用でお願いします。特に、この城に住んでいる人以外には。あなたが城へ侵入したことは秘密にしておきますので、それでお互いに手を打ちましょう」
静かに、それでも青年に返事をさせないような凄みを持った声で女性が言う。その迫力に、青年はその場から下がり、何も言わずにドアを開けて出ていくしかなかった。
「また、あなたですか……」
青年が女性の元を訪れてから、一月ほどが経ったある夜。ノックされたドアから入ってきた人物を見て、女性はうんざりしたようにそう呟いた。
「私には関わらないでくださいと言ったはずですが」
部屋の入り口には青年が立っていた。青年は女性の言葉に耳を貸さずにずんずんと部屋の中を進んでいくと、女性の前で立ち止まった。急に近づいてきた青年に、女性は何もできずたじろぐばかりだった。
「以前お会いしたとき、言えなかったことがあるのです」
そう言って青年は女性の右手を取った。そして女性が反応するよりも早く、青年はその右手に嵌められている手袋を外し、彼女の右手を露にした。
「あなたは何をしたいのですか?」
自らの汚点を覆い隠す手袋を取られ、明らかに不機嫌な声色で女性が問いかけた。
「あなたは、僕にこの手を見せてくれました。その時、『気持ち悪いでしょう?』と言いました」
「……ええ」
青年は女性の左の手も取ると、右手と同じように手袋を外した。
「あなたは化け物でも、気持ち悪くもありません。しかし、あの時僕は驚いて何も言うことができませんでした。今日は、あの時の答えを言いに来たのです」
青年が、その露わになった女性の両手を力強く握り締める。
「あなたは、とても美しい。それは、この程度のことで崩れ去るものでは決してありません。あなたは何も恥じることはなく、もっと自分のことを信じてください――これが、僕の答えです」
そう言って一礼すると、「それでは」と青年は女性に背を向けた。その一言を言うためだけに、この日青年は危険を冒してまでこの城にやってきたのだった。
「…………お待ちください」
女性が、青年の背中に向かって声を掛けた。その声に応えるように、青年は再び女性に向き直った。
「今まで、この手を見てから私に対して普通に接してくれる人はいませんでした。この城で働く人たちでさえ、私に良くしてくれてはいますが、心の底では私のこの手を避けようとしていることが伝わってきます。しかし、あなたは私のこの両手に、私に向き合ってくれた。……感謝します」
「……いえ」
「もし宜しければ、また、ここへいらしてください。もちろん、無理強いなど致しませんが」
青年は、前回と同じく何も言わずに部屋を出て行った。しかし、前回とは違う気持ちが青年の中に芽生えていた。
今日は、城下町で春を迎えるお祭りが開催されました。町の皆さんが、道端に花をたくさん飾り、春の訪れを祝うのです。
先日、僕の牧場で品評会が開かれました。そこで、僕の作ったチーズが表彰されたのですよ。
今年の秋はかぼちゃがおいしいと評判です。料理長にかぼちゃ料理を作ってもらってはいかかですか?
青年は、数日に一度は夜中に必ず女性の部屋へと足を運んだ。その度に女性は青年を歓迎し、彼の土産話を聞きながら、まだ見ぬ城下町に思いを馳せ、楽しそうに外の世界を空想するのだった。
そんな夜の秘密の会合を始めて、もうすぐ一年が経とうとしていたある日。その日は今年初めての雪が降り、国全体がうっすらと白く染まった夜だった。
「いたぞ!そっちだ!」
荘厳な武具で武装した屈強な男が、夜の闇を切り裂くような鋭い声で周りの男たちに指示を出す。その指示に従い、銃を構えた男たちが一人の男を追っていた。
「く…………」
城の中にある植え込みに身を隠し、その男――青年は息を整えながら、女性のいる城の最上階を見上げていた。
「どうすれば……」
この日、いつものように城を訪れた青年は、いつものように壁に開いた穴から城壁の内部へ侵入し、女性の元へと向かっていた。
しかし、いつものようにでは警戒が足りなかった。雪に残った足跡が見回りをしていた城の兵士に見つかり、そこから応援で呼ばれた大勢の兵士に追い掛け回されてしまっていた。
城への侵入は、いかなる理由であろうとも死刑。それは、王家へ貢献している青年でも変わらない。青年はどうにか、この絶体絶命の状況を打破する方法を必死になって考えていた。
一つは、女性の部屋へ逃げ込んでしまう方法だ。青年と女性の関係は誰にも知られていないはずなので、誰も女性の部屋まで探しに来ることはないだろうという考えだった。しかし、問題は少なくない。見つかってしまった場合、女性への迷惑は多大なものとなるだろう。それに、もし女性が口利きなどをして運良く死刑を免れるようなことがあったとしても、二度と彼女と会うチャンスは訪れないだろう。
二つ目は、この城から早く逃げ出してしまうことだ。こちらはまだ現実的な案で、この暗がりでは顔も見られてない可能性が高いので、城の外にさえ出ることができればその後は簡単に逃げられるだろう。しかも、いつも出入りに使っている城壁の穴は、今隠れている茂みからそう遠くない所にある。唯一気がかりなのは、女性と会う約束を破ってしまうという点だった。
次の月の初めの晩、また会いに来ます。それが、前回女性と別れた時に言った言葉だった。それに対し女性は、ただ一言「待っています」と答えた。その言葉通り、女性は青年のことを待っているのだろう。あの、月にも届きそうな高い城の一室で。
「……よし」
青年は覚悟を決め、見つからないように静かに茂みを飛び出し、そして――
城壁の穴とは反対の方へ、城の入口へと走り始めた。
青年が右腕に違和感を覚えたのは、茂みを飛び出してから四歩目の左足を出す直前だった。上げた左足が前に進まず、右腕が引っ張られているように体全体が右側に倒れていく。そして青年は、頭が焼き切れそうなほどの轟音を聞いた。体が完全に横倒しになる。倒れた体を起こそうとして右手を地面につけようとするが、自分の体ではないかのように力が入らなかった。そのまま雪が薄ら積もった地面に身を任せていると、城の兵士たちが青年を取り囲んで何か話しているのが分かる。しかし、青年にその声が届くことはなかった。
「ん……」
青年が目を開けると、そこには渦のようなものが広がっていた。世界の不和が一堂に会して渦巻いているような、そんな薄気味悪い渦だった。
「やあ、調子はどうだい?」
すぐ近くから、男の声が聞こえてきた。目だけ動かしてその方向へ向けると、よれよれの白衣を着た男が、見るものを不快にさせるような不気味な笑顔を顔に貼り付けたまま、壁に立っているように見えた。そこでようやく、青年は自分が横たわっているのだと自覚した。あの薄気味悪い渦は、ただの天井の染みが模様のように渦巻いているだけだった。
右手を支えにして上半身を起こす。青年が横たわっていたのは、いかにも清潔そうな真っ白なベッドだった。適度に柔らかいマットも、今まで頭を乗せていた枕も、体にかけられているシーツも、全てが真っ白だった。その中で、唯一異彩を放つ黒い塊が見えた。
それは、たった今体を起こすために使った、青年の右手だった。
「なんだ……これ……」
青年が、自分の体に起こっている変化に頭を混乱させていると、男が再び口を開いた。
「ああ、それかい?それはね、君の体の一部なんだよ」
男が青年に近づき、胸のポケットから取り出したペンで青年の右手の甲を軽く叩いた。すると、コン、という鉄板を叩いたような軽い音が鳴った。叩かれた感覚は一切なかった。
「残念ながら君の元来の右腕は、銃か何かで撃たれたみたいにボロボロで使い物にならなくなっていたんだ。申し訳ないけれど、勝手ながらこれに交換させてもらったよ」
男は、自らを医者だと名乗った。そして、ここが男の診療所だとも。
お金を持っていない旨を青年が告げると
「いやいや、僕の治療は半ば趣味みたいなものだからね。お代なんて頂かないよ」
と、不気味な笑顔のまま首を横に振った。
青年はその事実を確かめるように、右手で開いたり閉じたりを繰り返した。肩から先にあるその黒い塊は、以前と変わらないような自然さで、さも生まれた時からこれが青年の右手だったかのような動きをした。
「どうだい?それほど悪くないだろう?」
「……はい」
「実は、その腕にはもっとすごい力があるんだよ」
おいで、と医者は部屋を出て、青年を外へ連れ出した。
「試しに、この木を叩いてごらん」
医者は、診療所の庭に生えていた、樹齢百年以上はありそうな大木の下まで来ると、青年にそう促した。言われた通りに、青年は木を右手で軽く叩く。木と金属がぶつかった音だけが、辺りに小さく響いた。
「じゃあ次は、この木を倒そうという思いを込めて木を叩いてみてくれ。強さはさっきと同じくらいで構わない」
そう言われ、青年はもう一度木を叩く。すると、先ほどと変わらない強さで叩いたにも関わらず、その大木は小枝でも折るように簡単に中央から二つに裂け、めりめりと音を立てて倒れてしまった。その衝撃で、辺りに飛び上がりそうになるほどの地響きが起こる。
「すごいだろう?」
青年が何も言えずにいると、医者は変わらぬ笑顔でそう尋ねてきた。青年は、ただ驚くままに頷くしかなかった。
「経過も順調みたいだし、このままここを出ても問題なさそうだね」
そう言うと医者は、診療所の前にある木のうっそうと生い茂った暗い森の中を指差した。
「少し大変かもしれないけど、あの森を抜ければきっと君のよく知る場所に着くはずさ」
医者は、相変わらずの笑顔でそう言った。
「さ、行ってらっしゃい」
その森の中を歩いていると、青年はいつの間にか自分の牧場の前に立っていた。森を抜けたという気もしていなかったのに、と驚いて後ろを振り返ると、そこには何もなく、ただ城下町への道が広がっているだけだった。
そこで青年は、一つ重大なことに気が付いた。どこにも雪が積もっていないのだ。そして、冬とは思えないほどとてつもなく暑い。青年は冬用の防寒着を着ていたが、そんなものは直ぐに脱ぎ捨ててしまいたいほどだった。治療のためか右腕の部分は切り取られ露出していたが、それ以外は全身蒸し焼きになってしまいそうだ。
青年がふと空を見上げると、そこには満天の星空が広がっていた。数えることも出来ないような星の数々が、群れを成して瞬いている。そこで青年が見たのは、毎年凍えそうになりながら見ていた冬の星座ではなく、真夏の夜に輝く星座だった。
「じゃあ、今は夏なのか……?」
自分は、半年もの間眠ってしまっていたのか。そのことに気がついた時、目の前にある牧場の様子が急に気がかりになった。なにせ、半年間全く手を付けていなかったのだ。青年しか世話をする人間がいない牧場では、牛たちが死んでしまっているかもしれない。早く中に入って確認したい。そんな気持ちが青年の中にふつふつと湧き上がっていた。
しかし、そんな彼の足が牧場へ向けられることはなく、青年は一目散にこの国で一番大きな建物である国王の城へと向かったのだった。
牧場よりも何よりも、自分はあの女性のことを一番に思っているのだと、青年は走りながら気が付いた。
ただでさえ暑苦しい夜であるのに、それに加えて防寒着を着て走ったのだ。城の前に着いた頃には、青年は息も絶え絶えで歩くのにさえ苦労するような有様だった。
それでも、女性への思いのみを原動力として、青年は城への侵入を開始する。
残念ながら、以前使っていた城壁の穴は埋められてしまっていた。恐らく、以前の騒動で見つかってしまったのだろう。しかし、青年にはあの右手があった。闇夜に紛れるような手を壁に当て、ノックでもするように軽く叩く。壊れろ、と心の中で思いながら。
結果は失敗だった。
青年が思いを込めて城壁を叩いた瞬間、城をぐるりと取り囲んでいた城壁全てが、音を立てて崩れ去ってしまったのだ。その異常事態に気づかぬわけもなく、見回りをしていた兵士は何事かと城を飛び出し、眠っていた兵士でさえ飛び起きてその異常事態に対処することになった。
しかしそれでも、青年は臆することなく城の中へと向かっていく。ずっと待ちわびているであろう、彼女の元へと駆けつけるために。
「ここに来たことがある人間はそれなりにいるが、二度も来た人間は君が初めてだな」
医者は、少し呆れたようにそう言った。青年はいつの間にか、再びあの診療所のベッドの上に寝かされていた。見覚えのある薄気味悪い模様が、青年の前で渦巻いている。
今度は、右足と腹部が右腕と同じ黒い塊に置き換わっていた。
「そりゃあ、その右腕は頑丈に作られているから、銃やそこらじゃ傷一つ付かないけどさ」
そう言って、医者は机の上に置いてあったメスを掴み、青年へ近づいた。
「それ以外の場所は元のままだって、理解できていないわけではないだろう?」
医者が、手に持ったメスを青年の右の頬に軽く当て、そこから一気に引いた。青年の頬に赤い一筋の線が生まれる。ほらね、と医者はいつものような笑顔のまま、血の付いたメスを机の上に戻した。
「いったい何が、君をそこまでさせるんだい?」
「…………助けたい人がいるんです」
青年が、閉じていた口を静かに開いた。
「その人は、生まれてからずっと閉じ込められていました。一度も、外の世界を見たことがないと」
「ほう……」
「僕は、その人に外の世界を教えてあげました。町の様子、人々の営み、季節の移ろい。そんな話をすると、その人は必ず笑顔で僕の言葉に耳を傾け、話を聞いてくれました。しかし、その後彼女は決まって悲しそうな表情をするのです」
「何故だか聞いてみたのかい?」
「いえ。本人に直接聞いたことはありません。でも僕には、彼女がどんな思いをしているのかすぐに分かりました。外に出たい。彼女は僕の話を聞くたび、そんな苦しみに囚われていたのです」
そして、青年は少し俯いて医者から視線を逸らした。
「彼女がそんな苦しい思いをしたのは、僕が安易に外の世界を教えたからです。僕が彼女にそんな話をしなければ、彼女は外の世界を知らないけれど、苦しむこともなかった……。全て、僕の責任なんです」
「だから、君自身の手でその人を外へ連れ出そうとしたのかい?」
「……はい」
「なるほど……」
医者はその顔から珍しく笑顔を潜ませると、腕を組んでしばしの間考え込むような態度をとった。
「君には悪いが、それは不可能な話だ」
医者は、険しい表情で青年を見据える。
「君が二度もあんな怪我を負わせられた相手なんだろう?それならよほど巨大な力を持った組織だと考えられる。もし首尾よくその人を外に連れ出すことができたとしても、いつかは見つかって連れ戻されてしまうだろう」
「それでも!……僕は、彼女を解放してあげたいんです」
「そうか……君は、そんなにもその人のことを考えているのか。…………だったら、一つだけ方法がある」
医者の顔には、いつの間にか不気味なほどの笑顔が戻っていた。
目が覚めた青年は、自分の体がどこにあるのかが分からなかった。自分は立っているのか、座っているのか、もしくは横たわっているのか、。自分の体の感覚を理解することができなかった。
「気分はどうかな?実はこの処置するのは初めてだから、失敗しやしないかと少し心配していたんだが」
医者の声が、洞窟の中で反響するように頭の中に響いた。振り向くと、見慣れた笑顔の医者が立っていた。その傍らには、医者よりも少し背の高い姿見が置かれている。
鏡の中を覗きこむと、その中に青年の姿は存在せず、黒い塊だけが存在していた。人の形をした、ただの黒い塊。
それが、今の青年の姿だった。
「体を動かして、おかしなところがあれば今のうちに言っておいてくれ」
そう言われ、青年は軽く体を動かした。右腕の時と同じように、自分の思った通りに体は動いていた。鏡を見ると、黒い塊がぎこちないダンスをしているようだった。
「うん、これでもう大丈夫だ」
医者は満足げに頷くと、青年の肩に軽く手を置いた。
「これで、君の目的を達成させることができる。さあ、外へ出ようじゃないか」
荷物だらけの埃っぽい廊下を通り、二人は外へ出た。以前倒した大木が、ぼろぼろ腐っているのが目に入った。
「そうそう、餞別としてこれを渡しておこう」
そう言うと、医者は懐のポケットから白い塊を取り出した。青年の体とは正反対の色をしているのにも関わらず、青年にはそれが自分の体と同じ材質で作られていることを悟った。
単純に表現してしまえば、L字型をした白い塊だった。医者はそれを右手で持ち、長い方の先を腐った大木へ向けた。そして
「ま、銃の一種と考えてもらっていいか……な!」
引き金に右手の人差し指を掛け、そのまま軽く力を込めて引いた。
次の瞬間、大木は跡形もなく消滅していた。更に、地面は抉れ、診療所の壁さえも吹き飛び、辺りは戦争跡地のような惨状だった。それほどの変化をもたらしたのにも関わらず、その白い塊からは衝撃や音は一切発せられなかった。
「うーん、もう少し的を絞れるようにしないといけないか……」
驚いて医者の方を振り向くと、医者の右腕が吹き飛んでいた。ぐしゃぐしゃになった断面が露わになり、そこからイチゴジャムのような血と肉の混ざりものがぼたぼたと垂れている。そんなことも気にも留めず、医者は地面に落ちた白い塊を拾い、青年に手渡した。
「どうだい?君の体に引けを取らないほどだろう?」
相変らずの笑顔のまま、医者は誇らしげにそう言った。
「…………」
青年は少し考えた後、その白い塊を医者へ投げ返した。医者は慌てて左手だけでそれを掴む。
「こんなものには頼らないって?まあ、あの方法なら今の君なら体一つでも充分だろうけどね」
医者は、少し残念そうな表情で懐にその白い塊を仕舞った。
「ま、無事を祈るよ」
青年は、再び森の中を歩いていた。その途中、何度も医者から言われた言葉を思い出しながら。
『君がその閉じ込められている人を外へ連れ出したいのならば、閉じ込めている組織自体をなくしてしまえばいい。そうすれば、あとは悠々とその人を外へ連れ出して、どこへでも好きな所へ行けるはずさ。――そのための力を君に与えようじゃないか』
森を抜けると、そこには牧場があるものだと思っていたが、目の前に現れたのは立派な城門だった。城壁もろとも破壊したはずなのに、いつの間にか全て元通りに修復されていた。
城門の前には、二人の兵士が門番として立っていた。仕事がないのか、暇そうにあくびを噛み殺している。
手始めに、右に立っている兵士に向かって右腕を軽く振った。兵士は、何の前触れもなく粉々に砕けた。左にいた兵士が何事かと驚き、そこでようやく青年の姿を捉えたようだった。
今度は、少し強めに左腕を振るった。すると今度は、後ろの城門ごと兵士が吹き飛んだ。もちろん、吹き飛ぶ前に肉塊になってしまっていたが。
もはや瓦礫の山となった城門を通り、青年は中へ侵入していく。思えば、これだけ堂々と城の中へ入ったのは仕事でチーズを届けて以来だった。
庭では、数人の女性たちが逃げ惑っていた。洗濯物が放置されていたので、どうやら物干しの最中だったらしい。その背中を追いかけることもなく、青年は女性たちに向けて軽く腕を振るうと城の中へ入っていった。
奥へと進むと、兵士が次々と現れた。鎧を身に着けた兵士たちは皆、槍や銃、剣で武装していた。その武器のどれもが、青年の体に届くことはなかった。
青年は、迷わず上の階へと進んで行く。途中で、見知った顔がいくつかあったようにも思えたが、青年が一歩歩くだけでそれは人間ではないものへと姿を変え、その命を終わらせた。
そうして青年は、最上階の一番北側の部屋へと到着した。
青年はドアノブに触れ、静かに開――こうとした。しかし青年の体が触れる前に、ドアは今まで存在していなかったかのように消滅してしまった。
一歩、二歩と、少し懐かしさの感じる部屋へと青年は足を踏み入れた。
「ひっ……」
部屋の中では、いつものように女性が待ってくれていた。美しいドレスを身にまとい、その両手を隠す美しい手袋を両手に嵌めていた。いつもと違うのは、いつもは笑顔で迎えてくれる彼女が、今日は外聞も気にせずぼろぼろと涙を流しているということだった。
――泣かないでください。僕は、あなたを助けに来ました。
そう言った。言ったつもりだった。
青年の耳には、不気味な金属の擦れ合う音しか聞こえなかった。
女性がその音で腰を抜かし、這いつくばるように青年から距離を取ろうとする。それを追うように、青年は女性に近づいた。歩くたび、足元の絨毯が絨毯でなくなってしまうのは気にしなかった。
部屋の端まで追い詰められると、女性は狂ったように体を震わせ、目の前にあったクローゼットを開けた。中には、たくさんの美しい衣装が所狭しと並んでいた。
――怖がらなくてもいいんですよ。もう、あなたをここへ縛り付けるものはありません。
そんな青年の言葉は、気持ちの悪い金属の擦れる音と変わり、女性へ伝わるわけもなかった。
ならばせめて、彼女の震える体を止めようと、青年は右腕を彼女に向けて伸ばした。
その時。
青年の右腕の肘から先が、いつの間にかなくなっていた。つい一瞬前までは、確かに存在していたはずだ。
おかしいと思い、青年は一度右腕を引っ込めた。すると、今度は足がもつれて転んでしまった。痛くはないが頭を床にしたたかにぶつけ、その場所にクレーターのような大穴が開いた。
やはりおかしいな、と思い下半身を見ると、今度は右足がなくなっていた。その断面は、何かで吹き飛ばされたかのように歪なものだった。
自分の体も心配だが、青年は女性のことが気がかりになった。女性に何か危険が及んでいないか、顔を上げ、女性の方を向いた。
女性には、怪我や傷などは一切なかった。しかし。
その両手には、見覚えのある白い塊が握られていた。震える肩を必死に落ち着かせ、泣き腫らした両目で必死に青年を睨みつけている。
彼女の手袋は、残念ながら吹き飛んでしまっていたようだった。手袋に覆われていた両手が露わになっている。
その彼女の両手は、白い柔肌などではなく、青年と同じ黒い塊に置き換わっていた。
女性が、その黒い人差し指を軽く引いた。今度は、左の肩口から先が消滅した。続けて二度引き金を引くと、青年の首から下はすっかりなくなってしまった。
――ガ、ギ、ギ…………。
青年の言葉は、やはり届かない。恐怖と絶望で溢れる涙を拭うこともなく、女性は最後にもう一度引き金を引いた。