小話:書痴と算木
麗香は十八で嫁に行った。
豪商の娘だ。
父をして「これが男子であれば、家は三倍栄えたであろう」と言わしめるほどの商才があったが、
女だてらに金勘定が好きとあっては、釣り合いの家には煙たがられ、
半ば押し付けるようにして縁談が調ったのであった。
夫となるのは史儒生。
面立ちは悪くはないが、血の気の薄い、目の下に隈の染み込んだ貧相な官吏だ。
実家は既に長男が継ぎ、自らは直舎で書に埋もれて暮らしている。
学問に耽溺しすぎて金がなく、新居の掛かりも嫁の実家が持つとあっては、
宮中で悪し様に言われているのも知っている。
しかし麗香は満更でもなかった。
なぜなら、あれは顔合わせの席のことだ。
「夫君は、妻が商売することをどう思われますか」
たまらず聞いた麗香に、
「……別に、好きにすればいい」
儒生はそれだけ答えた。
しかし、それでじゅうぶんだ。
麗香は袖で隠した頬でにまりと笑った。
書痴と算木。
あまり似合いの夫婦とはいえぬが、恙無く親迎は執り行われた。
*
父の用意した四合院は、瞬く間にひと部屋が書で埋まった。
諳んじることができるのなら所有せずともよいのでは、とも思ったが、
夫を立てて何も言わなかった。
そんなことより、まずは茶だ。
麗香は父から、なるたけ高値な茶を買い求め、貞淑な妻のふりをして、宮中で夫の知己に付け届けた。
そのうち、金に糸目を付けぬ者からぽつりぽつりと注文が舞い込んだ。
高値な品は利幅も大きい。
父は豪商ではあったが、宮中までは手が伸びていなかった。
麗香は宮仕えの夫を利用して、富裕層へと販路を拓いた。
*
――長雨だ。
降り続く雨に道はぬかるみ、乾かぬ衣類がぷんと嫌なにおいを放つ。
湿気った書を読む儒生の指も、心なしかめくりにくそうだ。
「雨ですわ」
「――そうだな。それがどうした」
麗香は気が気ではなかった。
「雨が続けば、茶が湿気ります」
ここぞと仕入れた特級の焙茶が、刻一刻と値を下げていく。
「茶は、どのようにしてある」
儒生は書から目も上げず聞いた。
「……紙で包んで、陶器の甕へ」
浮かぬ顔の麗香は答えた。ごく当たり前の貯蔵法だ。
「では、塩と米を炒って巾着に入れ、茶の側に置きなさい」
言いながら、ぺらり。また頁を繰った。
「傍に乾いたものがあれば、そちらが先に湿気を吸おう」
だっ、と麗香がはしたなく駆けだした。
厨で米の爆ぜる音が聞こえる。
しばらく後、戻ってきた麗香が端切れで巾着を拵え始めると、儒生は重ねて言った。
「こまめに確認し、中身が湿っていたら、また炒るのがよい」
麗香は素直に頷いた。
この程度の手間なら、駄目で元々だ。
「……しかし、既に湿気てしまったものはどう致しましょう。復焙しても落ちた香りは完全には戻らず、二級の茶となってしまいます」
縫いながら、麗香は夫に伺いを立てた。
ふむ、と儒生はやっと書を閉じ、ずらりと並んだ書の中から、迷いなく一冊を取り出した。
「最近、西域から取り寄せた書だ。あちらでは窨茶という、乾いた茶葉と生花を交互に重ね、花の香を移した茶が嗜まれるとか」
それを麗香に差し出しながら、儒生は当たり前のように言い放った。
「香りが足りぬなら、足せばよい」
――ああ、そうか。
この頭には本当に、部屋から溢れるほどの書物が詰まっている。
いつも湿気た顔で書に鼻を突っ込んでいる夫と、天才と呼び声高き官吏とが、麗香のなかでやっとひとつに重なった。
「しかし旦那様、その手法では手がかかり、高値になりすぎます」
費用が嵩めば、利益が出ない。言うと夫はつまらなそうに、また書を読み始める。
「香りが付くなら、なんでも良いではないか。干した果実でも、梅汁でも、薄荷の葉でもーー」
どれも薬種としてなら、麗香も馴染みのあるものだ。
だが嗜好品として嗜むなど、今まで考えたこともない。
麗香の脳裏で、凄まじい速さで算木が動き始めた。
「旦那様、家が軋むまで本をお買いなさいませ。その頭の中、わたくしが銭に変えて差し上げます」
ぱちん。
頭の中の算木が弾けた。
「さあ――稼ぎますわよ」
*
麗香が満を持して売り出した「香茶」は飛ぶように売れた。
細かく刻んだ干棗を茶葉に混ぜた棗茶は、ほんのり甘い香がよく、流通のしやすさからも広く親しまれた。
客の目の前で淹れた茶に梅汁を垂らす梅茶や、目に鮮やかな薄荷を浮かべる薄荷茶は、
やんごとなき茶会の席で重用され、汗ばむ季節を彩った。
麗香は女商人として不動の地位を得、益々精力的に飛び回った。
儒生は変わらず本ばかり読んでいた。
その日、麗香が遅くに家へ戻ると、既に良い匂いがした。
大門から前庭へ回り、厨を覗くと、夫が片手で書を読みながら、竈の前でふいごを
吹いていた。
「まあ、旦那様が作ってくださったのですか」
麗香が鍋の蓋を取ると、鶏肉の粥がぐつぐつと滾っていた。
「食経なら読んだことがあった」
儒生は誇るでもなく、相も変わらずつまらなそうな顔だ。
「あったが、今まで形にしたことはなかった。お前が私の言を茶に変えるのを見て、知識は蓄えるだけが全てではないと思ったのだ」
ふいごを手に竈に向き直った夫は、煮炊きの熱のせいか耳の端が少し赤らんでいる。
「まあ、それで――。棗茶の用意まで」
傍らには干した棗が、儒生らしく几帳面な大きさに切り揃えられている。
「棗は気と血を補い、孕婦の滋養にも良い」
「えっ」
麗香が目を丸くすると、隈の染みついた目がちろりと向いた。
「――なんだ、違うのか」
「いえ……」
言い当てられて、麗香の耳も少し赤らむ。
ふたりの間に、ふいごを吹く音だけが響いた。
「産まれれば、書を読む暇もなくなるやもしれませんよ」
「――それもまた、天命だろう」
儒生はそれだけ言って、ふいごをぷうと吹いた。
書痴と算木。
あまり夫婦らしくはないふたりだが、
算木が手に馴染むように、そのうち似合いになるだろう。
これでシリーズは最後となります。
お読みいただきありがとうございました。
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