小話:躑躅の花咲くころに
鳳仙花の君が嫁を取った。
それも、冴えない年増を。
その噂は、千里どころか万里を駆けた。
「紅、あんた、鳳仙花の君と再婚するって本当かい?」
井戸端で洗濯物を濯いでいた映紅は、噂好きの旧友に声をかけられた。
「さあ。あたしも、何がなんだか――」
ぎゅっと布を絞りながら苦笑する。ぽってりとした太りじしの年増だが、目元のほくろが妙に婀娜っぽい。
「いいじゃないか、鳳仙花の君と再婚できるなら、あたしも出戻りたいってもんだ!」
嫁して十年。
亭主が死んで出戻ったばかりの映紅に、まんざら冗談でもなさそうに言う友人との間に、ぬっと人影が割って入った。
「姐姐」
「……小仙」
噂をすれば。
友人はぽかんと口を開けて固まっている。
「姐姐、戻れるか。媒酌を連れて、挨拶に来たんだ」
洗濯場には似つかわしくない、整った身なりの官吏は、
言いながら持っていた紙包みを開いていく。
――餅菓子だ。
ここらではまずお目にかかれないような、雅な意匠が凝らされている。
「先だっては慌てて、手ぶらで来てしまったから……。貴女にも、どうぞ。おひとつ」
友人にまで如才なく差し出せば、「……鳳仙花の君……」と消え入るような声が答えた。
そのまま別れて、家路を向かう。あとできっと、根掘り葉掘り聞かれることだろう。
あれはまだ、ほんの数日前のことだ。
十年ぶりの生家の門道をくぐり、映紅は肩から下げていた竹籠をそっと足元に置いた。
親に言われるまま嫁ぎ、子の無きまま死に別れた。
嫡妻であったので婚家に居座ることもできたが、妾のほうには子があったのだ。
いずれ肩身の狭い思いをするよりは、いっそ商売でもして気ままに暮らそうか。
そう思って、実家に身を寄せることにしたのだった。
「さあ……。どうしようかね」
さてどんな顔で戸を開けようか。
家族のいる正房の前で思案していると、
バンッ!
と大きな音を立て、背後の大門が内側に押し開かれた。
厚板の扉が壁にぶつかり、鈍い音を響かせて跳ね返る。
砂埃の向こうには、まるで絵巻から抜け出したような佳人が、息を切らせてそこにいた。
「……姐姐」
はて、こんな美男に姐姐と呼ばれる道理はあったかと頭を巡らすと、
記憶の彼方に甘い躑躅の花が香った。
「まさか……。小仙なのかい?」
嫁に行く前、少しの間家で預かっていた、あの小さな男の子。
「謝仙だよ、姐姐。私ももういい年なんだ。小仙はやめてくれ」
見上げるばかりの美丈夫は、嬉しそうに頷いた。そうするとあの少年の面影がないこともない。
「久しぶりだね、姐姐。……いや、映紅」
男の長い指が、ぽってりとした映紅の手を取る。
「早速だが、私の……嫁になってはくれないか」
謝仙は、騒ぎに気付いて出てきた映紅の父にも、開口一番結婚を願った。
出戻り娘は、どこの家でも悩みの種だ。
それが、旅装も解かぬうちに次の婿がねが現れた。
しかも顔良し、身分良し、世間良しの三方良しに加えて、昔馴染みの謝仙だとくれば、
父も諸手を上げて喜んで、とんとん拍子に縁組は調ってしまった。
――本当に、何がなんだか。
帝の覚えもめでたき、今をときめく若き官吏が、
年増の出戻りに求婚だなんて。
「まったく、なにが鳳仙花の君だよ。こっちはあんたが花の蜜吸ってたころから知ってんだ」
映紅がくさしても、男は気分を害した様子もない。
「――そうだ、新居には躑躅を植えよう。とびきり蜜の甘いのを」
映紅が抱えた洗濯桶を取り上げながら、謝仙――鳳仙花の君は
いっそ毒になるほどの甘い笑みを滴らせた。
納采、納徴、請期と、結婚の段取りが慌ただしく進められ、
全てが恙無く執り行われていく。
娘の嫁ぎ先は親が決めるものだ。
自分で口を挟めるものではない。
とはいえ映紅の父なら、本気で拒めば話は聞いてくれるだろう。
だが、映紅は自分が嫌がればいいのかどうかすらよくわからない。
人も羨む縁談なのに、
ただ、映紅の心だけが取り残されていた。
親迎も間近に控えたある日、映紅は謝仙に手を引かれ、新居を訪れた。
既に親を亡くした謝仙の四合院は、しんと静かだ。
そのまま、院子と呼ばれる中庭に引き込まれる。
――躑躅だ。
謝仙は本当に躑躅の苗を手に入れたようだ。
春は近いが、植えたばかりの躑躅は今年は花が咲きそうもない。
青いばかりの躑躅の前に、謝仙がしゃがみこんだ。
「姐姐は、気が進まない?」
長い指が、葉を弄ぶ。
「――こんな若造では、頼りないか」
気付かれていた。
急に、気恥ずかしくなった。
誰も今まで聞きもしなかった。
こんな年増が、こんな良縁にけちをつけるはずがない。
分かっているから口にしそびれて、ずっと身中で燻ぶっていた。
「そんなんじゃないけど……。なんで、あたしなんだい」
「姐姐がいいんだ」
しゃがんだまま映紅を見上げる上目遣いに、
あの春が、映紅の胸に蘇った。
「姐姐、あの春を覚えている? 私の祖父が亡くなった」
「……ああ」
映紅は頷いた。
ひどい年だった。誰もかれもが儚くなった。
謝仙の祖父が死病に罹り、看病で子守の手が足りぬというので、謝仙は伝手を辿って映紅の家に預けられた。
嫡子であるので、万一の備えもあったのかもしれない。事実、謝仙の母も流行り病で命を落とした。
「あのとき、姐姐が蜜の吸い方を教えてくれた」
そうだ。
「あんた、花弁をかじっていたね。ほんのり甘い香がするってさ」
渋い顔をして吐き出したまろい頬が浮かんで、つい映紅の頬も緩む。
「叔叔も阿姨もいい人だった。
ただ、知らぬ家で気兼ねして、落ち着かなくて、飯も喉を通らなくてさ。
あげく小腹が減って、躑躅の蜜を吸おうとして」
覚えている。
花弁をかじる小仙が、可愛くて、可笑しくて、
年上ぶってこう言ったんだ。
――見ておいで、小仙。躑躅はね、こうやって吸うのよ――
気がつくと、謝仙がじっとこちらを見ていた。
「あのときから、ずっと好きだった」
知っている男が、知らない顔で。
「姐姐が嫁に出されたときは、冠礼も前で、手も足も出なかった。だから、姐姐が帰ってくると聞いたときには、気づいたら走り出していた。もう、遅れるわけにはいかないから」
謝仙が家にいたのは、三月にも満たぬほど。
恋多き佳人が取っておくには、あまりにもささやかな、須臾の一夢だ。
「吃驚したろう? こんなになっててさ」
映紅は自分のふくよかな身体を指して笑う。
人に言われずとも知っている。あまりにも不釣り合いだ。
「ああ。驚いた。――あんまり綺麗で」
――馬鹿をお言いでないよ。
――それはこっちの台詞だよ。
啖呵はどれも、抱きすくめられた拍子に消えてしまった。
「きっとあの春がなくても、同じように願ったに違いないよ」
蜜を吸うように、初恋のひとの耳元に唇を寄せる。
「好きだよ、映紅。――私の、嫁になってはくれないか」
万里を駆けた噂も鳴りを潜め、
鳳仙花の華やかな恋も、とんと音沙汰なくなった。
次に躑躅の花が咲くころには、中庭に嬰の泣き声が響くだろう。
活動報告に挿絵を載せております。
よろしければそちらにもお運びくださいませ。
※以前は子どもたちの良きおやつとなっていた躑躅の蜜ですが、
今では多くの種類に毒性があることが分かっております。
郷愁に駆られて口になさらぬようお願いいたします。




