(後)
抜けるような空だ。
雲ひとつない青を背に、五爪の龍が描かれた旗が四方にはためき、
太和殿前の広場には、豪奢な彫刻を施した擂台が設えられている。
姚黄の胸の高さほどもあるそれには緋色の絨毯が敷かれ、その上で戦う漢たちをたくましく飾った。
「どうだ」
黄色の天蓋の下でその様子を眺めながら、景明は鼻高々だ。
「比武大会であれば、国中の勇が集まる。ひとりずつ吟味するより効率的だ」
帝の覚えめでたくば褒章はもちろん、官位を授かる好機である。漢たちの熱気は凄まじく、湯気が目に見えるようだ。
見物も多く、勝敗がつけば彼方此方から華やかな声が上がっている。
「さようでございますわね」
四つで後宮に上がった姚黄は、武人というものをあまり見たことがない。
もろ肌脱いで汗をぬぐう男から、姚黄は戸惑いがちに目を逸らした。
逸らした先で目に入るのは、汗ばむ陽気の下でも淡月のように儚げな貴人。
姚黄は手にした扇でゆらゆらと風をつくる。
「……むさくるしいですわね」
景明の、白妙の如き唇がむ、と言う前に、此度の勝者が景明の御前に進み出た。
帝から直々に褒辞の言葉を賜り、名刀と美酒を下賜された武人が座を辞すと、景明は姚黄に向き直った。
「――どうだ。優美とは言い難いが、あのような者なら心身頑健で、末永く其方を守れるであろう」
「末永く、でございますか」
姚黄は思案するように小首をかしげた。
「あの方が先程、敗けた者を嘲笑っているのを見ました。女の身分は兎角弱きもの。そのような方が末永く妻を守ってくださるのか――。
いささか、心許のうございますわね」
夕刻の気配を孕んだ風が吹き抜けた。
「あら、陛下、お咳が――。すこし、冷えてまいりましたわね」
その風は昼の陽気が嘘のように、すうと景明を芯から冷やした。
***
「鷹狩りとは、斯くも退屈なものなのですね」
ぷつ、と糸じまいをして、出来上がった人形を傍らに置く。
鷹狩りと言っても、姚黄が自ら狩りをするわけもない。
狩人達が戻るまでのひととき、姚黄は縫物をして過ごしていた。
景明と姚黄のいる歩障の外では、狩りをせぬものの為にも様々な趣向が凝らされている。
外に目をやれば、敷物の上で碁を打つもの、
池のほとりで釣り糸を垂らすもの、
蹴鞠に興じるもの、
馳走に舌鼓を打つもの――。
皆が思い思いの時間を楽しんでいる。
それらに交じるでも眺めるでもなく、錦に包まれた小さな世界で、姚黄はせっせと針を動かしている。
「見事なものだ」
帝は、五色の布で人目を遮った歩障の内、交椅に腰かけてその様子を眺めていた。
「ほんの手慰みでございますわ。これは武官。これは女官。……ほら、犬もございますのよ」
掌に収まるほどの人形が、列を作っていく。
差し出されたそれを、梢のような繊指がひとつ摘まんだ。
「其方は昔から人形が好きであったな。初めて入宮したときも、赤子の人形を抱いていた」
景明が在りし日を思い出してくすりと笑った。
「……子供の頃にござります」
「何を言う、まだ子供ではないか」
姚黄が頬を染めて咎めるも、景明の昔語りは止まらない。
「そうそう、余が蹴鞠に使ったら、目が溶けるほど泣いて――」
「陛下……っ!」
懐古を遮る声は、しかしそこで止まった。慌てて立ち上がった姚黄の膝から、ぽろぽろと布製の臣下が転がる。
「お疲れになりましたか。お顔の色が悪うございますわ」
淡雪のように白い景明の頬にそっと触れて、熱をたしかめる。
「大事ない。まだ狩りに出た者が戻らぬではないか。其方に相応しき男が、いるやもしれぬのに」
姚黄は制止の言葉も介さず手を叩いて侍女を呼び、撤収の指示を出し始める。
長閑な野原を、絢爛たる馬車が去って行く。
残された者たちの交わす囁きは、漣のように広がって行った。
***
窓を開けると、笙の音が飛び込んできた。
御苑で開かれている園遊会の調べを、風が運んできたのだ。
「……風雅な音色」
姚黄が思わず息を漏らすと、景明は陶枕に預けていた頭を上げて身を起こした。
「亮氏だな。笙のみならず、画にも秀でている。どうだ、姚黄」
「いやですわ、陛下。亮氏様は宦官ではございませんか」
姚黄は景明の肩にそっと衣をかけてやる。
はは、と乾いた笑いを漏らして、景明は重ねた。
「行かぬのか、姚黄。御苑にゆけば亮氏に限らず、いずれ劣らぬ雅な男たちもおろうに」
「――いいえ。わたくしは、ここに」
姚黄は景明の寝台に腰かけ、また人形を拵えている。
「ーー姚黄、婚約を破棄してくれ」
それを見守る景明の眼差しは、言葉とは裏腹だ。
「陛下、お約束くださったではないですか。そうなさりたければ、代わりの殿方をご用意くださいませ」
ぷつり、と糸を切る。
「望みの男を見つけよう。どのような者がよいのだ」
姚黄はまた、新たな布を手に取った。
「美しい方がよろしいですわね。女人と見紛うほどに嫋やかで、鼻筋がすっと通っていて。歳は近い方がよろしいわ。あとは……そうね、わたくしを大切にしてくださる方。己が身よりもわたくしを案じて、袖を濡らしてくださるような」
「姚黄、聞き分けてくれ。――時間がないのだ」
景明の黒曜のような瞳が、姚黄をひたと捉えた。
白蝋の頬は痩け、眼窩は昏く落ち窪み。
――それでもなお、夢のように美しいのだ。
「余が斃れれば、叔父上はきっと、前にもまして盛大な葬儀をしよう。多くの命が供犠される。臣下達も、贄にされてはかなわぬと、余から距離を置き始めた」
枯れ枝のような指が姚黄の髪を、頬を、唇を、そっと撫でた。
「皇后だった母上は、生きたまま、死んだ男と同じ棺に入れられた。まだ、たった十九であったのに」
唇の上で、その指は震えていた。
「姚黄、頼む。
――婚約を、破棄してくれ」
姚黄は笑みを浮かべたまま、縫いさしの布を横に置く。
「わたくしも憶えておりますわ。恐れ多くも、妃殿下はお気の毒だと存じておりました」
「ならば、」
「――だって」
景明の声を遮って、姚黄は艶やかに笑った。その名の通り、落ちる刹那の牡丹のように。
「だって、供犠百人となど無粋なこと……。
わたくしなら愛する方とは、ふたりきりでいきとうございます」
ほと、と雫が落ちる。
「皆ひとしく、いつかは土に還るのです。
ほんのひととき、生き延びて、いずれ知らぬ男の墓に埋まる。
それになんの意味がありましょう」
姚黄は痩けた頬を手のひらでそっと包んだ。
「ですから、ね。景明さま」
薄い胸に頬を寄せても、景明は何も言わなかった。
「――お傍に、置いてくださいませ」
降り注ぐ雫が、少女の肩をしとどに濡らし続けた。
***
皇帝は、齢十五でその生涯を閉じた。
五つにして即位し、十五で親政を始めた帝が先ずおこなったのは、殉葬の廃止であった。
その廟には彼と彼の妃だけが入り、後を追うものを厳に戒めた。
代わりに臣下を象った掌ほどの俑が数多並べられたという。
わずか三月の治世に関する史料は乏しく、今となっては墓所の在り処も定かではない。
-完-
お読みいただきありがとうございました。
活動報告に、イラストを置いてありますので
よろしければそちらもご覧ください。




