寿桂尼物語 第2章 散りゆく命、生まれる命 第一話 理と情と
本作は、石田源志による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
一
婚礼から三日が過ぎた。
駿府の町は日常を取り戻し、桂子もまた御台所としての日々を歩み始めていた。
だが、都の娘から武家の妻へ――その変化は、まだ桂子自身の中で完全には馴染んでいなかった。
春まだ浅い駿府の空に、淡い霞がかかっていた。
婚儀の喧騒がようやく過ぎ、城下の人々は新たな御台所の話に沸いている。桂子はその噂の中心にありながら、まだこの地の風に馴染みきれずにいた。
都で育った彼女にとって、駿河の空気は重く、静かすぎた。
香を焚いても、どこか湿った土の匂いが残る。朝、目を覚ますと聞こえてくるのは、都の雅な音ではなく、遠くの鍛冶の音、馬の嘶き、兵たちの掛け声だった。
その違いが、ここが"政治の場"であることを、日々思い知らせる。
御所の窓から外を見ると、庭師が松の手入れをしていた。その所作は丁寧だが、都の庭師とは違う。実用を重んじる武家の美意識がそこにあった。
深雪が朝餉の支度を終え、傍に寄った。
「姫さま、いえ、御台所様。お顔の色が優れませぬが」
「いいえ、大丈夫です」
桂子は微笑んだ。
「ただ、まだ慣れぬだけです」
志乃が外から戻ってきた。薙刀を背に、いつもの警護の装いだ。
「御台所様、今日は政所へのお召しがございます」
桂子の胸が、わずかに高鳴った。
二
この日、桂子は初めて政所に招かれた。
氏親が執務する場――すなわち、駿河の心臓である。
志乃に案内され、廊下を進む。板の軋む音が響き、途中で何人もの家臣とすれ違った。彼らは皆、深く頭を下げる。その視線には、好奇と期待が混じっている。
障子を開けると、墨の香と紙の音。
筆を走らせる家臣たちの間を、氏親が静かに歩いていた。年は二十代半ば。若き守護大名は、清廉な面差しに理の光を宿している。
桂子が入ると、氏親が顔を上げた。
「桂子殿、よう来られた」
「お召しいただき、恐れ入ります」
桂子は深く頭を下げた。
氏親は手で席を示し、桂子を上座に座らせた。そこから政所全体を見渡せる。家臣たちが書状を整理し、算盤を弾き、地図を広げている。
「遠江の年貢、今年は例年より早めに徴したいとの訴えがございます」
側近が進言すると、氏親は小さく頷き、「理を立てよ。情に流されれば秩序が乱れる」と短く答えた。
その声は冷たくなく、むしろ柔らかい。
だが、どこかに"理で国を治める"という確かな意志があった。桂子は、その響きに京では感じ得ぬ「現」の匂いを嗅ぎ取った。
都の政治は形式と儀礼に満ちていた。だがここでは、すべてが実務だった。年貢、軍備、領民の暮らし。その一つ一つが、国の命運を左右する。
三
そのとき、政所の入口に控えの声がかかった。
「葛山氏広殿、弟君・菊寿丸殿、御入来にございます」
氏親が顔を上げる。
「よい、通せ」
障子が開くと、黒衣に身を包んだ青年が一礼した。
葛山氏広――年は二十一。理を旨とする清冽な瞳の持ち主である。その立ち姿には、武人の凛々しさと学者の知性が共にあった。
氏親の顔に、わずかな笑みが浮かんだ。
「氏広か。久しいな」
「はい。御無沙汰しております」
氏広は礼を崩さぬまま、しかし目には親しみを宿して答えた。二人は従兄弟であり、幼い頃から共に育った仲だった。桂子はその微妙な距離感に、公の場での節度と私的な絆の両方を感じ取った。
その後ろに、小柄な僧形の少年が従っていた。
十五にして、白衣の襟を正す所作が妙に美しい。顔立ちはまだ幼さを残しているが、その目には年齢に似合わぬ深さがあった。
「父・宗瑞に随い、駿府に参りました菊寿丸にございます」
少年はまだ声変わりの途中で、透くような声だった。
桂子は息を呑んだ。
宗瑞――伊勢盛時のことだ。婚礼の夜に庭で言葉を交わした、あの老将の息子。その少年が、今ここにいる。
「そなたが菊寿丸か」
氏親は微笑を浮かべた。
「父上には幾度も世話になっておる。氏広からも噂は聞いていた。若くして修行に励むと聞くが、いかなる学を好む」
菊寿丸は、少し息を整えてから答えた。
「学は理を知る道なれど、理を立てて人を見失えば、それもまた愚にございます」
氏親の眉が、わずかに動いた。
桂子も、その一言に胸を突かれた。
十五の少年の口から出たには、あまりに深い言葉だった。理だけでは人は治められない。情を理解しなければ、ただの冷酷な支配者になる。その真理を、この少年は既に理解している。
四
「菊寿丸は、学よりも"人の理"を求めております」
兄・氏広が言葉を添える。
「父が申すには、『血よりも理を選べ』とのこと」
氏親は静かに笑った。
「血に理を添えられるなら、それが最もよい」
その言葉に、桂子は深く頷いた。
血筋だけでも、理だけでもない。その両方を兼ね備えることが、真の治世なのだ。桂子自身、都の血を持ちながら、この武家の地で理を学ぼうとしている。その意味で、氏親の言葉は胸に響いた。
そのやり取りのあいだ、桂子は菊寿丸を見つめていた。
まだ幼さを残した横顔。けれど、眼の奥に光るものは、ただの学僧のそれではなかった。理を信じ、情を恐れぬ光――その芯の強さに、桂子は不思議な既視を覚える。
まるで、鏡を見ているようだった。
都を離れ、この地で生きようとする自分の姿が、この少年に重なる。血筋を持ちながら、理を学び、新しい場所で根を張ろうとしている。
菊寿丸がふと、桂子のほうを見た。
互いに目が合い、菊寿丸が深く頭を下げる。
「御台所様のご平安、駿河の吉兆にございますように」
桂子は、静かにうなずいた。
「その言葉、胸にとどめます。……駿府の春も、ようやく芽吹きのころですもの」
氏親が笑みを浮かべる。
「では、明日は皆で香積寺に参ろう。四人でな」
氏広と菊寿丸が頷いた。
五
その夜、桂子は御所で菊寿丸との出会いを反芻していた。
深雪が茶を淹れ、志乃が外を見回っている。いつもの静かな夜だった。
「御台所様、今日はいかがでしたか」
深雪が尋ねた。
「不思議な少年に会いました」
桂子は窓の外を見つめた。
「十五にして、理と情を語る。まるで、ずっと前からこの世を見ているような」
「菊寿丸様のことでございますね」
志乃が振り返った。
「評判を聞いております。伊勢宗瑞様の息子で、幼い頃から学問に励んでいると」
「ええ」
桂子は頷いた。
「あの少年は、きっとこの国にとって大切な存在になる」
その予感は、根拠のないものではなかった。菊寿丸の目に宿る光、その言葉の重み。それは、ただの少年のものではなかった。
外で風が吹き、松の葉が揺れた。
桂子は目を閉じ、明日の香積寺参りを思った。
――理と情、血と縁。そのすべてがまだ柔らかに結ばれようとしていた。
だが、この日の出会いが、後の駿府の命運を変えるとは、まだ誰も知らなかった。
桂子は立ち上がり、庭に出た。
夜気が頬を撫で、星が瞬いている。駿府の夜は、都よりも静かで、深かった。
だがその静けさの中に、確かな生命の息吹があった。
桂子は深く息を吸い、胸に駿河の風を刻んだ。
ここで生きる。
この国を、氏親と共に支える。
そして、菊寿丸のような若者たちと共に、新しい時代を作っていく。
その決意が、静かに胸に満ちていった。
※菊寿丸・・・のちの北条幻庵
第二話へ続く
本作は、石田源志(DaidaraHand)による戦国歴史小説
『寿桂尼物語 ― 今川を支えた都の姫君』の連載版です。
この物語は、公家出身の女性・寿桂尼の視点から、
今川氏親・義元の時代と「地方の都・駿府」を描いています。
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設定資料・人物解説・シリーズ全体の情報は、
「農福学物語 公式サイト(BASE)」にまとめています。
本作はAIとの共創(構成・整理・推敲補助)を取り入れつつ、最終的な表現と判断は著者が行っています。
書籍版(Kindle)では、構成と加筆を行った決定稿をお読みいただけます。




